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ワーグナー |
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年 |
年齢 |
事 項 |
1813 |
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ワーグナー(1歳)がライプツィヒで生まれました。 |
1833 |
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ワーグナー(34歳)は、ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となりました。 |
1836 |
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ワーグナー(37歳)は、女優のミンナ・プラーナーと結婚しました。 |
1838 |
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ワーグナー(39歳)は、歌劇『最後の護民官リエンツィ』を作曲しました。 |
1839 |
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ワーグナー(40歳)は、パリに移りました。 |
1841 |
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ワーグナー(42歳)は、『さまよえるオランダ人』を作曲しました。しかし、パリでワーグ
ナーが認められることはありませんでした。 |
1842 |
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失意のワーグナー(43歳)は、ドイツに帰り、ドレスデンで『リエンツィ』・『さまよえるオ
ランダ人』を上演し、注目されるようになりました。 |
1843 |
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ワーグナー(44歳)は、ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命されました。
ワーグナーは、『タンホイザー』を作曲しました。 |
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ルートヴィヒ2世 |
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年 |
年齢 |
事 項 |
1845 |
0歳 |
バイエルンのニュフエンブルク城で生まれました。父はマクシミリアン2世、母はプロイ
セン王女・マリーでした。 |
ワーグナー(46歳)は、『タンホイザー』を上演し、好評を博しました。 |
1846 |
1歳 |
ワーグナー(47歳)は、『ローエングリン』を作曲しました。 |
1848 |
3歳 |
ルートヴィヒに、弟のオットー1世が生まれました。 |
祖父・ルートヴィヒ1世が退位して、父が即位しました。ルートヴィヒは皇太子となりまし
た。皇太子は、ゲルマン神話や騎士伝説などが好きな子供でした。 |
ワーグナー(49歳)は、『ローエングリン』を上演し、好評を博しました。 |
1949 |
4歳 |
ワーグナー(50歳)は、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加しまし
た。しかし、革命運動は失敗し、リストを頼ってスイスへ逃れました。 |
1851 |
6歳 |
ワーグナー(52歳)は、『ニーベルングの指輪(ジークフリート)』を作曲しました。 |
1853 |
8歳 |
ワーグナー(54歳)は、『ニーベルングの指輪(ラインの黄金)』を作曲しました。 |
1854 |
9歳 |
ワーグナー(55歳)は、『ニーベルングの指輪(ワルキューレ)』を作曲しました。 |
1857 |
12歳 |
ワーグナー(58歳)は、『トリスタンとイゾルデ』を作曲しました。 |
1858 |
13歳 |
ルートヴィヒは、ローエングリン』・『タンホイザー』の台本を読んだといいます。 |
1861 |
16歳 |
ルートヴィヒは、『ローエングリン』を観劇したといいます。 |
1863 |
18歳 |
ルートヴィヒは、『ニーベルングの指輪』を読んだといいます。 |
1864 |
19歳 |
父・マクシミリアン2世が亡くなりました。ルートヴィヒが即位して、2世となりました。 |
ルートヴィヒ2世は、負債で逃亡中の革命家・ワーグナーを探し出すよう命じます。 |
ルートヴィヒ2世は、小さい頃から憧れていたワーグナーを宮廷に招待しました。
しかし、当時のワーグナーは芸術家にありがちな奔放な生活により、経済的に
困窮していました。そこで、家臣の多くは、ワーグナーの招待を歓迎しなかったとい
います。 |
1865 |
20歳 |
宮廷劇場で『トリスタンとイゾルテ』が上演されました。 |
ルートヴィヒ2世は、家臣の反対を受け入れ、ワーグナーを宮廷から追い出しました。
その背景として、ワーグナーに不快な重臣が、「ワーグナーはリストの娘で指揮者ハ
ンス・フォン・ビューローの妻のコジマと不倫している」「ワーグナーから負債20万グ
ルデン(20億円)を要求されている」などと密告したとされています。 |
ワーグナー(66歳)は、スイスに逃亡し、ルツェルン郊外のトリープシェンの邸宅に移
り住みました。 |
1866 |
21歳 |
ルートヴィヒ2世は、スイスのワーグナーを訪ねました。 |
プロシア=オーストリア(普墺)戦争が勃発しました。バイエルンは、オーストリア側で
参戦しました。戦争を嫌うルートヴィヒは、議会の要求どおり動員令に署名しました。
戦争に敗れたバイエルンは、プロシアに多額の賠償金を支払うことになりました。 |
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オーストリア皇后エリーザベト |
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年 |
年齢 |
事 項 |
1867 |
22歳 |
ルートヴィヒ2世は、パリ万国博に参列し、また、ヴェルサイユ宮殿を見て感激しま
した。 |
ルートヴィヒ2世は、オーストリア皇后エリーザベトに心を寄せていました。しかし、2人
はバイエルンの名門ヴィッテルスバッハ家の出です。
しかし、エリーザベト皇后は、自分の妹・ゾフィーを王妃として推薦しました。そこで、
ルートヴィヒ2世は、ゾフィーと婚約しました。しかし、エリーザベト皇后を忘れることの
できないルートヴィヒ2世は、ゾフィーと婚約を解消しました。つらい体験をします。 |
フリーデリケ |
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┏ |
エリーザベト |
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‖ |
━ |
ルートヴィカ |
┫ |
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マクシミリアン1世 |
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┗ |
ゾフィー |
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‖ |
━ |
ルートヴィヒ1世 |
━ |
マクシミリアン1世 |
━ |
ルートヴィヒ2世 |
ヴィルヘルミーネ |
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ワーグナー(68歳)は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を作曲しました。 |
1868 |
23歳 |
宮廷劇場での『ニュルンベルクのマイスタージンガー』初演に向け没頭していた
ルートヴィヒ2世を女優のリラが誘惑しようとします。 |
1869 |
24歳 |
ワーグナー(70歳)は、『ニーベルングの指輪(神々の黄昏)』を作曲しました。 |
宮廷劇場で『ラインの黄金』が初演されました。 |
ルートヴィヒ2世は、騎士伝説を実現しようと、中世風のノイシュヴァンシュタイン
城の建設に取り掛かりました。 |
ワーグナーは、自分の第3子にジークフリートという名前を付けました。これが原
因で、ルートヴィヒ2世は、ワーグナーと絶交します。 |
1870 |
25歳 |
宮廷劇場で『ヴァルキューレ』が初演されました。 |
プロシア=フランス(普仏)戦争が勃発しました。バイエルンは、プロシア側で参
戦しました。
ルートヴィヒ2世の弟オットー1世が精神に異常をきたしました。衝撃を受けた
ルートヴィヒは現実逃避の自分の世界に没頭するようになります。 |
ワーグナー(71歳)は、リストの娘コジマ(指揮者ハンス・フォン・ビューローの前
妻)と結婚しました。ルートヴィヒ2世には衝撃だったようです。 |
1871 |
26歳 |
プロシアのホーエンツォレルン朝のドイツ帝国が成立し、ヴィルヘルム1世が即位しま
した。バイエルンは、王国は維持したまま、帝国の一領邦となりました。 |
1872 |
27歳 |
ワーグナー(73歳)は、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、バ
イロイト祝祭劇場の建築を始めました。 |
1874 |
29歳 |
ワーグナー(75歳)は、『ニーベルングの指環』を完成しました。 |
1876 |
31歳 |
完成したバイロイト祝祭劇場で『ニーベルングの指輪』が上演されました。 |
1877 |
32歳 |
ワーグナー(78歳)は、ニュルンベルクを訪れました。しかし、ワーグナーは、ハ
ンス・ザックスの聖地に建つシナゴーグ(ユダヤ教会)の「傲慢な成金主義」の光
景に不快感を露骨に表わしたといいます。 |
1878 |
33歳 |
ルートヴィヒ2世は、ルイ14世を敬愛し、ヴェルサイユ宮殿を模したヘーレンキーム
ゼー城の建設に取り掛かりました。 |
ワーグナー(79歳)は、『パルジファル』を作曲しました。 |
ミュンヘン宮廷劇場で『ニーベルングの指輪』全曲が上演されました。 |
1879 |
34歳 |
ルートヴィヒ2世は、ルイ14世を敬愛し、トリアノン宮殿を模したリンダーホフ城の
建設に取り掛かりました。 |
1880 |
35歳 |
ワーグナー(81歳)は、『パルジファル』前奏曲を指揮しました。
ルートヴィヒ2世は、ワーグナーと対面しました。これが2人の最後の対面となりました。 |
1883 |
38歳 |
ワーグナー(84歳)は、ヴェネチアで亡くなりましたが、葬儀はバイロイトでした。 |
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ベルク城(映画『ルートヴィヒ』より) |
シュタンベルク湖(十字架が標識) |
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年 |
年齢 |
事 項 |
1886 |
41歳 |
バイエルンは、普墺戦争・普仏戦争に敗北して多額の負債を抱えていました。さらに
ルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設で非常な財政難に見舞われていました。
6月12日、総理大臣ルッツらは、フォン・グッテンら4人の医師にルートヴィヒ2世を診
断させました。その結果、精神病と認定され、議会から、廃位を宣告されます。
ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『ルートヴィヒ』では、当時の民衆は議会より国王
を認める傾向があり、「『クーデタを防止せよ』と軍隊に命令せよ」と指揮官に迫られる
場面がありました。しかし、ノイシュヴァンシュタイン城からミュンヘンに帰ることを嫌った
国王は逮捕され、ベルク城に移されるように映画ではなっていました。 |
翌日、シュタンベルク湖畔で医師のフォン・グッデンと共に水死体で発見されました。
映画では国王に同情したフォン・グッテンがルートヴィヒ2世とシュタンベルク湖で心
中したように描いています。
知らせを聞いたエリーザベト皇后は、精神病を否定して、「ただ夢を見ていただけで
した」と語ったといいます。 |
1918 |
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第一次世界大戦で敗北したドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は、オランダ亡命し、
ドイツ帝国は崩壊しました。バイエルン王国も、国王ルートヴィヒ3世が亡命して、終
焉をむかえました。 |
1927 |
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ヒトラーは、ニュルンベルグで第3回党全国大会を開催しました。
夜、フルトヴェングラーは、『マイスターマイスタージンガー』の「目覚めよ!」合唱を指
揮しました。
上演後、ヒトラーは、「われわれの本当の民族オペラである、この『ニュルンベルクの
マイスタージンガー』を心からお祝いします」と演説しました。
第3回党全国大会は、『ニーベルンゲン・マーチ』と『リエンツィ序曲』で締めくくられました。 |
「彼(ヒトラー)は、かなり音楽的才能があった。例えば驚くべきことに彼は100回以上
聴いたという『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を鼻歌や口笛によって実際に再
現することができた」「『トリスタンとイゾルデ』は小節ごとに全て思い出せると自ら語っ
ている」「『マイスターマイスタージンガー』の「目覚めよ!」の合唱からは、「目覚めよド
イツ」というという鬨の声をつくりだした」とも言われています。
ニュルンベルクは、ナチスの聖地であり、バイロイトと並んでワグナーの聖地だという
ことが分かります。
しかし、ワグナーの長女フリーデリンデは、母コジマのナチスへの協力を嫌って、ア
メリカへ亡命しました(このことが戦後、バイロイトやフルトヴェングラーの復活にな
ったのでしょうか)。 |
1938 |
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ヒトラーは、ワグナーが不快感を表明したシナゴーグ(ユダヤ教会)の破壊を命令しま
した。 |
1945 |
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第二次世界大戦後、ワグナーの長男ジークフリートの夫人ヴィニフレートがナチスとの
協力の責任を問われ、バイロイト祝祭劇場への関与を禁止されました。
バイロイト祝祭劇場も、アメリカ軍に接収されました。 |
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バイロイト祝祭劇場 |
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1951 |
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フルトヴェングラーは、第九を指揮して、バイロイト音楽祭が再開されました。
ワグナーの長男ジークフリートとその妻ヴィニフレートの間に生まれたヴィーラントは、
戦後のバイロイト祝祭劇場で多くを演出したことで知られています。 |