back back back

磐座神社(相生市矢野)は民俗学の宝庫(3)
磐座神社の学問的秘密にせまる
海の正倉院といわれる沖ノ島の沖津宮とは?
(精細画面3万8421バイト)
沖ノ島の沖津宮(写真提供:有賀泰三さん)
 福岡と対馬の間の海上に沖ノ島があります。沖ノ島には沖津宮があります。沖津宮と中津宮(大島村)と辺津宮(宗像市)を総称して宗像神社といいます。
 海の正倉院といわれる沖ノ島には、精霊崇拝を考える資料が残っています。
(1)4世紀後半〜5世紀中頃:神々が降臨する巨岩(岩座)の上に、石で区画した祭壇を設け、鏡・勾玉・刀・剣などを奉献しています。巨岩そのものが信仰の対象になっています。
(2)5世紀後半〜6世紀:巨岩の下の岩陰に、石で区画した祭壇を設け、神器などを奉献しています。巨岩の下の石で区画した祭壇が信仰の対象になっています。巨岩も信仰の対象になっています。
(3)7〜8世紀:半岩陰・半露天に、石で区画した祭壇を設け、神器などを奉献しています。巨岩から離れた半岩陰・半露天の石で区画された祭壇が信仰の対象になっています。巨岩と信仰との関係は薄くなっています。
(4)8〜9世紀:露天に、石で区画した祭壇を設け、神器などを奉献しています。露天に石で区画された祭壇が信仰の対象になっています。神社が独立した信仰の対象となり、巨岩と信仰との関係は見られなくなっています。
*解説1:独立した神社は、巨岩に比して、びっくりするほど小さい。海の正倉院を海のシルク=ロードのように理解されがちですが、神社の成立を知る貴重なこの遺跡は、世界遺産に指定して欲しいです。

日本三奇岩といわれる石の宝殿
(精細画面4万4060バイト)
石の宝殿(写真提供:有賀泰三さん)
 自然界には、常識では判断が出来ないことがたくさんあります。兵庫県高砂市に「石の宝殿」と言われる巨岩があります。高さ約5.7メートル、幅約6.5メートル、奥行き約7.2メートル、重さ推定約500トンもあり、日本三奇といわれる奇岩です。何度も見学しましたが、理解を超える存在でした。
 考古学者森浩一氏の「物部守屋の墓が未完成のまま放棄された」など諸説がありますが、目的や用途については、現代でも不明です。
 『生石神社略記』には、「神代の昔、二神は相談して、一夜のうち、国土を鎮めるために相応しい石の宮殿をに造ろうとしましたが、賊神反乱の鎮圧に時間をとられ、工事半ばで夜が明けてしまいました。そこで掘り出した宮殿を正面に起こすことが出来なかった」とあります。
 当時の人々は、理解できない自然現象を、神話を創造して解決していたことが分ります。

参考資料(1)
 神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に寵もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と構して居る所以である(『生石神社略記』)

アニミズム(精霊崇拝)と黄泉比良坂
 すべての事物(石・樹や生物)に霊魂が存在すると信じることを精霊崇拝とかアニミズムといいます。
 712年の誕生したといわれる『古事記』では、「大石」はどのように描かれているのでしょうか。
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、黄泉(よみ)の国(死の国)の住人となった妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を訪ねました。しかし、変わり果てた妻の姿を見た夫は、恐ろしくて逃げ帰ります。妻は、必死な形相で追いかけます。夫は、黄泉の国と現世の国の境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)に大石を置きました。それ以降、黄泉の国と現世の国との往来が出来なくなりました。
 当時の人々は、大石に大きな、不思議な力、つまり霊力を感じていたことが分ります。

参考資料(2)
 是欲相見其妹伊邪那美命。追往黄泉國。爾自殿騰戸出向之時。伊邪那岐命語詔之。愛我那迩妹 命。吾與汝所作之國未作竟。故可還。爾伊邪那美命答白。悔哉。不速來。吾者爲黄泉戸喫。然愛我那勢命【那勢二字以音。下效此】入來坐之事恐故。欲還。旦具與黄泉神相論。莫視我。如此白而。還入其殿内之間。甚久難待。故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而。燭一火。入見之時。宇士多加禮斗呂呂岐弖【此十字以音】於頭者大雷居。於胸者火雷居。於腹者黒雷居。於陰者拆雷居。於左手者若雷居。於右手者土雷居。於左足者鳴雷居。於右足者伏雷居。并八雷神成居。
 於是伊邪那岐命見畏而。逃還之時。其妹伊邪那美命言。令見辱吾。即遣豫子母都志許賣【此六字以音】令追。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄。乃生蒲子。是[才庶]食之間逃行猶追。亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引閉而投棄。乃生笋等。是拔食之間逃行。且後者。於其八雷神。副千五百之黄泉軍。令追。爾拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都【此四字以音】逃來。猶追。到黄泉比良【此二字以音】坂之坂本時。取在其坂本桃子三箇持撃者。悉逃返也。爾伊邪那岐命告桃子。汝如助吾。於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬而。患惚時。可助告。賜名号意富加牟豆美命【自意至美以 音】
 最後其妹伊邪那美命。身自追來焉。爾千引石。引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而。度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草。一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故号其伊邪那美神命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而。號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者。號道反大神。亦謂塞坐黄泉戸大神。故其所謂黄泉比良坂者。今謂出 雲國之伊賦夜坂也(『古事記』の原文です)。

参考資料(3)
 是に其の妹(いも)伊那那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸(とざしど)より出で向かへし時、伊那那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹(なにも)命、吾と汝と作れる 國、未だ作り竟(お)へず。故、環(かえ)るべしき」とのりたまひき。ここに伊那那美命答へ白(まを)ししく、「悔しきかも、速(と)く来ずて。吾は黄泉戸喫(よもつへぐひ)為(し)つ。然れども愛しき我が那勢(なせ)の命、入り来坐(きま)せる事恐(かしこ)し。故、還らむと欲ふを、且(しばら)く黄泉神と相論(あげつら)はむ。我をな視(み)たまひそ。」とまをしき。如此(かく)白して其の殿の内に入りし間、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御美豆良(みずら)に刺せる湯津津間櫛(つつつまぐし)の男柱(をばしら)一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火(び)燭(とも)して入り見たまひし時、宇士多加禮許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)、頭には大雷(おおいかづち)居(お)り、胸には火雷(ほのいかづち)居(お)り、腹に黒雷居り、陰(ほと)には拆(さき)雷居り、左の手には若雷居り、右の手には 土雷居り、左の足には鳴雷居 り、右の足には伏雷居り、并(あわ)せて八はしらの雷神成り居りき。
 ここに伊邪那岐命、見畏(かしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ」と言ひて、即ち豫母都志許賣(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。ここに伊邪那岐命、黒御■(くろみかずら)を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。これを■(ひろ)ひ食(は)む間に、逃げ行
くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむな)生りき。これを抜き食む間に、逃げ行きき。且後(またのち)には、其の八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。ここに御佩(はか)せる十拳(とつか)剣を抜きて、後手(うしろで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良(よもつひら)坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三筒を取りて、待ち撃てば、悉に迯(に)げ返りき。ここに伊邪那岐命、其の桃子に告りたまひしく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎(うつしき)青人草の、苦しき瀬に落ちて患ひ惚(なや)む時、助くべし」と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)と號(い)ひき。
 最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。ここに千引(ちびき)の石を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各(おのおの)対(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を度(わた)す時、伊邪那美命言ひしく、「愛しき我が那勢の命、如此(かく)為(せば)ば、汝の國の人草、一日に千頭(ちがしら)絞り殺さむ」といひき。ここに伊那那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為(しかせ)ば、吾一日に千五百の産屋立てむ」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊那那美命を號(なづけ)けて黄泉津大神(よもつおおかみ)と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷(みちしきの)大神と號くといふ。亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之(みちかえしの)大神と號け、亦塞り坐す黄泉戸(よみどの)大神とも謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲國の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ(『古事記』の読み下し文です)。

磐座神社と権現
(精細画面5万2006バイト)
権現山と天狗岩(兵庫県相生市)
 おそらく、初期の信仰の対象は権現山の天狗岩だったと思われます。今も、天狗岩は、矢野のどの位置からも見渡せる象徴的な存在です。龍王山から権現山へは、時間は約5分ですが、急勾配だし、左右は断崖絶壁です。信仰心と苦行が一致していた時代には、多くの人が参拝したでしょう。
 古老の話では、「朝な夕なに、神が降りたという天狗岩を拝んでいた」ということです。
 権現とは、人々を救うために、阿弥陀・菩薩(仏)が」(仮)に日本の神に姿をかえて「」れるという考えです。
 沖ノ島の沖津宮の初期と比較すると、同じ形態であることが分ります。

龍王山の龍王社
(精細画面4万2000バイト)
龍王山の龍王社(神社
 権現山の下にある龍王山には見上げるような巨岩があります。その巨岩の南側に小さい社殿があり、その中に龍王神像(水神)が安置されています。これが龍王社です。

龍王山の奥ノ院
(精細画面4万6000バイト)
龍王山の奥ノ院(寺院
 龍王山の見上げるような巨岩の東面に小さな厨子があり、その中に阿弥陀如来と両菩薩が安置されていました。ここを奥の院といいます。
 方向は違っても、1つの巨岩の下に、神仏が同居していました。まさに、権現神仏習合)の姿でした。
 沖ノ島の沖津宮の2期と比較すると、「龍王山の大岩の下の岩陰に、祭壇を設け、多くの人が参拝する」形態は同じであることが分ります。
 沖ノ島の3期で見るような、ここでは、「半岩陰・半露天に、石で区画した祭壇を設けた形跡」は見当たりません。

矢野町森の磐座神社
(精細画面5万6000バイト)
磐座神社(矢野町森)
 さらに、時代が下って、龍王山の麓の現在地に磐座神社を遷座しました。しかし、ここでは、巨岩との関係は残されています。沖ノ島の3期と4期の性格を合わせ持っています。
 このように見ると、相生の磐座神社は、権現山や龍王山を含め、民俗学的にも非常に貴重な存在だということが分ります。

index index back back