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ごあいさつ

第五回は鈴木悦道著『新版吉良上野介』

吉良領には塩田はなかった
衝撃的な事実にびっくり
 まずは原文を紹介しよう
 「当時の新しい製塩抜術である入り浜式塩田技法は播州赤穂を中心とする瀬戸内海沿岸で発達したものであ る。吉良でも大規模な企業としての製塩を行うためには是非、入り浜式塩田の抜術導入が必要だったのである。そこで先進地への抜術導入を求める。
 実はここでいろいろの伝説が生じた。」(いわゆる塩田スパイ説である。)「吉良上野介が浅野内匠頭を怨み、内匠頭も技術を盗まれたことを怨みに思ったのが、刃傷事件の原因の一つであるというのである。
 吉良の塩は「饗庭塩」と名付けられ、船で江戸へ運ばれて江戸の台所を賄い、一部は矢作川を遡って塩の路を通り、信州方面へも広く出荷された。ところで、最近の町史研究により、町内の塩田(白浜・吉田)は小牧に陣屋を置く上総(千葉県)大多喜藩(大河内松平氏)領であることが判明、また吉良氏領富好新田に塩田のあった形跡が年貢記録に見られない。吉良氏と塩の話は残念なが ら、あくまで伝説に過ぎないようである。」
情報は東西あって
確実な情報と確定

 私の学生時代は大学紛争が始まりだした頃で、授業の始まる前の数分間は学生運動家のアジ演説に接したものだった。価値観も多様化し、自分を見失う傾向も徐々に出てきていた。
 そうした騒然とした雰囲気の中、ゼミの教授は次のような話をしてくれました。「川下から見たら右でも、川上から見れば左になる。しかし、東は川下から見ても、川上から見ても東である。」
 つまり東はいつ、どこで、誰が見ても東である。つまり学問は左右で成り立つのでなく、東西のような客観的な事実で成り立つことを伝授されたのである。この考えは今も私の座右の銘として生き続けている。
 忠臣蔵の場合もやはり赤穂と吉良の情報の内、客観的な史料をつきあわせてはじめて真実の忠臣蔵となることを教えられた一冊であった。
その他重要な情報が満載
 黄金堤や富好新田、赤馬伝説など史料によって記述されている。私も吉良町(ここをクリックして下さい)を訪問し、華蔵寺の吉良上野介の木像を見たが、とても温厚な顔立ちであった。だいたい幕府と朝廷を結ぶ重要な役に悪顔では務まらない。
 どうして吉良家が徳川幕府の高家として採用されたかなども詳細に記されている。

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