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ごあいさつ

第七回は江下博彦著『七人の吉右衛門』

著者との初めての出会い

今から2年前である。帰宅の準備をしていた
夕方6時ころ、「九州から電話です」とのこと。
電話に出ると「九州帝国大学医学部を卒業し
て、今は大野九郎兵衛を調べている。あなた
のホームページにとても関心がある」とのこと
であった。
 色々と手紙のやりとりをしている間に「七人
の吉右衛門」という403ページにもなる本格的
な著作物を送っていただいた。帯にあるように
吉右衛門を足で探り、今は九郎兵衛に研究の
対象が進んでいるということなんだと理解した。
 本の末尾によると、内科クリニックを息子さん
に譲り、文筆活動に専念しているとある。
構成

 内容は「七人の吉右衛門」、「もう一つの忠臣
蔵」、「まぼろしの義士」からなっている。そのう
ち関心をもったのは「七人の吉右衛門」の中の
『序章 種瓢(たねふくべ)』である。
 
同じ医者として、寺井玄渓の心理に迫る
 「玄渓が自分も討入りに参加すると言って張って大石を手古摺らせた。
 その書簡の日付は(元禄15年)8月6日で、これは丁度大石が京を発つ四カ月前である。
 この頃脱落者が続出している。
 玄渓は医者である。
 いかに頑健とは言え八十を越えた自分のような老体が、京都から江戸まで行き討入りに参
加しても、同志の足手纏いにこそなれ役二立つことは出来ないことぐらい本人自身が一番よ
く知っていた筈である。
 これは大石と示し合わせた脱落者防止のための書簡ではないか。・・
 堀部安兵衛など・・急進派たちに、大石の東下りが愈々近いと想わせ軽率な暴走の抑止に
もなる」
寺坂吉右衛門の離脱論争に参加
 「身の軽き生まれつきなり種瓢 赤穂 進歩」(元禄9年、芭蕉1周忌追善の撰集『俳諧翁
艸』)の進歩を誰かという議論が以前からあった。当時の川柳を史料として、江下氏は推論す
る。
 「身はかるく寺坂重い忠義なり」(討入り後の川柳)から、150石の早水藤左衛門ではないと
断定する。
 「竹平、進歩と申候の門弟ニ而御座候。是は赤穂より書通にて門人に加わり候故、面は不
存候。両人とも此度四十七人の内也」(榎本其角の梅津半右衛門宛の書簡の一部)から討入
りに不参加の橋本平左衛門ではないと断定し、進歩を寺坂吉右衛門と推測する。
 「春帆、竹平も同じ道みて候。進歩のみ気の毒、涓泉は御存のごとくに候」(大高源吾が師
沾徳宛てに討入り本懐を遂げた時の書簡の一部)の「気の毒」を討入り後離脱と解釈する。
 念のために記すと、春帆は冨森助右衛門、竹平は神崎与五郎、涓泉は萱野三平である。
寺坂討入りは間接証言か
 『寺坂信行筆記』によると「忠左衛門殿申され候は、隠居屋裏門の内にて候」とある。吉田忠
左衛門らを世話した堀内伝右衛門の『筆記』によると「吉田忠左衛門申され侯は、拙者ハ此
度裏門より打入申候、大方隠居と申ものハ奥座敷裏ノ方ニ建申事世ノ常」とある。この史料を
を冷静に読むと、忠左衛門と吉右衛門は同じ現場に居たことが証明できる。
 また、『寺坂信行筆記』 は「夫より新大橋へ掛り、八丁堀より築地通、泉岳寺へ参られ候」と
記している。実際に通ったのは永大橋なのに、ここでは「新大橋」とある。忠左衛門は泉岳寺
には行かず、大目付仙石邸に自訴している。この記述から、吉右衛門は討入り後引き上げの
早い段階で姿を消していることが分かる。
 江下氏は「寺坂が討入ったという直接の証言が一つもなく、いくつかの供述から間接的に『だ
から討入ったのである』というものばかりである」と述べて、既にある史料を黙過して、別な証拠
から寺坂討入り後離脱説を証明している。私にとっては思わぬ副産物のいうべきである。
 最近出版される『忠臣蔵』関係の本の多くは、状況証拠から大胆な仮説でなく、結論付ける
内容が多い。しかし、江下氏はあくまで史料実証主義を採用され、独自の立場で論を展開さ
れている。歓迎すべき姿勢といえる。大野九郎兵衛の新説も伺いたいものである。

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