homebacknext

ごあいさつ

第八回は神門酔生著『忠臣蔵なんてなかった』

いわゆる忠臣蔵ファンには
ショッキングなタイトル

 異質な出版で知られる晩聲社から忠臣蔵フ
ァンにとってはびっくり仰天する名前の本が出
された。ずばり『忠臣蔵なんてなかった』で、今
から13年前の1989年の作品である。著者は
大正5(1916)年の生まれで、辻番に詰めて
いた「オッサン」から色々と聞いていると言って
いる。
ノンフィクションを装いながら
実はフィクション

 ノンフィクションを装いながら実はフィクション
なので、私の書評忠臣蔵の対象にならないの
であるが、この傾向の書物が今も手を変え品を
変えして出版されているので、一定の支持を
受けているのであろう。フィクションならこれほど
面白く、売れるテーマはないんだが・・。
 そこで、史料を扱っているように見せて、実は
作者の狭量の推測による出版に対して、私な
りに考えを述べる必要があると思っている。

構成

 内容は「1 番所と肝煎」、「2 綱吉が仕掛け
る」、「4 吉良は武生へ」、「5 芝居だった討ち
入り」、「6 手際よすぎる後始末」、「7 内蔵助
はアホでっせ」などである。
 
網の目の辻番の目をかい潜って吉良邸を襲うなんてありえないと断言
本多家が支配下の武家に対して「黙って通せ」と命令
だから『忠臣蔵なんてなかった』んだ
 「赤穂浪士が両国橋を渡ったとしましょう・・両国橋を渡ると、武生(越前府中)藩主・本多家の辻番があ
り・・辻番の方は一晩中、どんどん火を焚いている。」「網の目のように張り巡らされた辻番、番屋の目をか
い潜って吉良邸を襲うなんてことは到底ありえない」
 「”忠臣蔵なんてなかった”というのは・・」本多家が「支配下の武家に対して”あれは仇討ということにな
っておるんだ。・・黙って通せ”・・と申し渡していたんです」「・・本多家が指揮を取って忠臣蔵なるものを
演出したわけだ」
 今まで幕府が黙認していたという説が流布していたことはあるが、地方大名の権限で討入りを成功させ
たという説には、仰天して読んだものである。
冒頭でフィクションの仮面が露出
 まず両国橋を渡って吉良邸に討ち入ったという前提に無理がある。
 次に大名火消しの制定は享保2(1717)年であるが、越前藩士の『続片聾記』(1633年の記録)に「御
手當火消 上野宮様 ・・細川越中守様・・本多内蔵助、松本阿波守様」とあるから、1702年の討入りの
際には火の見櫓があったと史料を引用している。しかし、家臣が自分の主君を記述するときは一文字空
白を空ける位敬意を払うのに、この引用史料は呼び捨てにしている。
 最初から色褪せて読む気も萎えたが、我慢して読み続けることにした。

本多家の役割は「そんなふうなやり取りがあったに違いない」が根拠
 「綱吉は、風呂場で・・”町人の間では評判が悪い悪い、生類憐みの令では憐憫の情を誤っておるし、
松の廊下事件では・・なぜ浅野が即日切腹で吉良はお構いなしなのか”といったようなことを、年寄りの
男が申し上げる。風呂場にいた年寄りの男とは「隠密の最長老格であります」
 ・・綱吉は・・”何か、打つ手はないか”と聞き返す。そこで”じゃあ、御老中の稲葉様と相談してやって
みます”と、そんなふうなやり取りがあったに違いない。」
根拠の史料は直接指示とは無関係
この先、何か「あるに違いない」ことを信じて、耐えに耐えて読み進む
 「幕閣が顔を集めて、忠臣蔵を仕組もうと大筋で決まったある日、大目付仙石伯耆守久尚から」呼出
状が届いた。「将軍綱吉は・・御国使者として越前藩士の滝木工太夫を呼び出した」という。
 しかしそこで提示された史料は越前藩の『家老状留』で、その内容は「(延宝八)壬八月一四日将軍宣
下ノ御祝儀ニ付木工太夫御使者相勤干鯛二十枚入箱首尾能上リ・・都合八十日斗ノ相勤ナリ」というも
のである。どこにも将軍の使者となったいう根拠は無い。
 神門氏自身も『本多家記録』にも「将軍綱吉のころのことが三ツに二ツは欠落している。・・この呼び出し
については一行も半行も出ていない」と書いている。出ないはずである。綱吉とは関係ないのだから・・。
しかし神門氏はそう解釈せずに、「何かを、意図的に消そうとした跡がはっきりとうかがえます」と読めるら
しい。
 ユニークな出版社なので、この先ドラマチックな展開が「あるに違いない」ことを信じて、耐えに耐えて
読み進むことにする。

討入り後の幕府事情聴取に、本多家は「火事のようだったが、そのうち静かになった」と
神門氏「乱闘して一七人が死ぬような大騒動だったら、・・こんな訳にはいかん」 
 次に出くくる史料は116ページに飛んで、12月15日の討入り後の事情聴取に対して、本多家家来の
真柄勘太夫が「昨夜七ツ時前物騒がしく候に付き罷り出候ところ、吉良左兵衛殿屋敷夥しき騒ぎ、火事
出来の体に候えども、様子知れ申さず、その内鳴りも静まり申し候」と言ったものである。周知の史料で
ある。神門氏はこれを「乱闘して一七人が死ぬような大騒動だったら、・・こんな訳にはいかん」と解釈す
る。
同じ史料をどう解釈するか
その人の学識を忖度する物差し
 同じ史料を前にどう解釈するかで、その人の学識や体験を知識化したかが忖度できるよい例である。
私だけでなく、当時の江戸の庶民の雰囲気を知っている者ならば、討入りを支援している大名や旗本が
討入りを知っていて、黙認したとなれば、幕府から厳しいお咎めがくることは自明の理である。だから知ら
ん振りを決め込んだ史料である。隣の土屋主税も「火事装束の体に相見え申し候・・聢と認め申さず候」
と神門氏は書いてある。土屋主税もも本多家と同じ心理だったのである。
 ここまで来たら最後までとことん付き合うことにする。私もえらい赤穂事件のお陰で我慢強くなったもので
ある。

「内蔵助はアホでっせ」の根拠
女遊びで昼行灯
遊びとボケは大物の証拠
 新しいアイデアは遊びの中から生まれる。これは真理である。どうでもいいことにボケることが出来るの
は、大小が見分けられるからである。何に対してもカリカリして余裕のない状態からはいい解決策は出て
こない。私は遊ぶことができて、ボケることが出来た大石内蔵助だから、46人の処分を将軍綱吉に委ね
て、その器を図ることができたと思っている。内蔵助が想像したとおり、将軍綱吉は苦悩し、その結果は
喧嘩両成敗という裁定であった。神門氏が言うようなシナリオならば、将軍綱吉は何も苦悩することはな
かったのである。「忠臣蔵なんてなかった」というようなことは「なかった」のである。 
ノンフィクションを装ったフィクションはこれを最後にして欲しいものだ
「しょうもう」ないことに二度とエネルギーは「消耗」したくない

indexhome