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ごあいさつ

第九回は海音寺潮五郎著『赤穂義士』

一流の小説家の意味を知る

 私がこの本を手にしたのは今から30年ほど前
のことである。
 同じ史料を使っても、海音寺潮五郎氏ほど読
みの深い解釈をほどこしている小説家はいなか
った。凡人には伺い知れないこの「読みの深さ」
が一流といえる所以だとつくづく感じたものであ
る。
 私が持っている『赤穂義士』の解説を見ると、
初出は原題「大石良雄」で昭和19年3月刊。戦
後、改訂改題昭和49年11月文庫となっている。
 つまりこの本は戦前の制限された中での史料
を検証して発売されたことになる。その後大幅
に改訂されているが、小説としては現在にも通
用する質の高い内容を維持している。
構成

 内容は「民族の大ロマン」、「元禄時代」、「元
禄男」、「江戸の巻」、「赤穂の巻」、「山科の巻」、
「また江戸の巻」などからなっている。
 
 
戦争中の忠臣蔵
「軍部は小義として弾圧」とは驚き
 そのうち「民族の大ロマン」の中で”戦争中の昭和十八年、ぼくは「サンデー毎日」に「赤穂浪士
伝」を連載したが、途中、当局の命によって執筆を中止せざるを得なくなった。編集者に呼び出さ
れて、「小義武士道の物語である赤穂浪士伝などをなぜ連載するのか」と、叱りつけられたので
ある”と書いている。小義とは殿様に対する忠義の道をいう。大義は皇室に対する忠誠の道をいう
視点から出た軍部の考え方をいう。
 地元赤穂では花岳寺の釣鐘が戦争中に供出を免れたことを以って、赤穂事件を軍国主義的
思想と一致するとして、受け入れない風潮が一部にある。しかし、事実はそうではなかった。
敗戦後の忠臣蔵
「占領軍は封建的奴隷道徳の賛美として弾圧」は周知の事実

海音寺氏は「日本人が持っている大ロマン」と指摘
その理由は「そこから多数の小説や演劇が誕生」した事実
 続いて忠臣蔵が復讐鼓吹の物語などの理由で上演を長い間禁止したなど誰もが周知の事実で
あることを述べた後、「しかし、僕は思うのだ。赤穂義士のことは、日本人が歴史上に持っている大
ロマンだと」と書き、だから「これらの中から数え切れないほど多数の小説や演劇が出来た」と指摘
している。
読みの深さ
将軍の通達がない段階で、札座の処置を命令
将軍の方針が漏れたのかも知れない
 寺坂吉右衛門の役割など史料の制約から十分描ききれていない部分もある。
 元禄15(1701)年3月19日に浅野内匠頭の弟大学より書状が届く。その尚々書に「札座」のこと
が書かれていた。そのことを海音寺氏はこの段階で内匠頭の切腹については「将軍からは・・検視
の役人も任命されているのだが、それはまだどこにも通達されていないのである」「それだけでなく、
相手方の吉良への処置が非常に寛大なので、浅野家への処分もかなり寛大であるだろうと予期さ
れていたのではないかと思われる」
 その他にも刃傷の背景、不公平な裁定の理由、内蔵助の人となりなど「うーん、なるほど」とうなら
ざるを得ない部分もあった。

謙虚さ
「外交文書として最上級に巧妙」と激賞
「原文の妙を伝え得ない」と自分を恥ず

3月29日嘆願書の史料原文

 「上野介様へ御仕置を願い奉ると申し上げる儀にては、御座無く侯、御両所様の御働を以て、家
中納得仕るべく筋御立て下され候はば有り難く奉るべくと存じ候、当表へ御上着の上、書上仕り候
ては城御受取り成られ候滞にも罷り成り候
               浅野内匠頭家来
                        大石内蔵助
 三月廿九日
   荒木十左衛門様
   榊原采女様」

海音寺氏の口語訳

  「上野介様へ御仕置を願いたてまつるというのではございませんが、御両所様の御尽力をもって、
家中の者共が納得するような筋を御立てくださらばありがたく存じます。当地へ御到着の上で言上
いたしましてはお城お受取りのお邪魔になりますからそれもいかがと存じて、かくの如く唯今言上い
たすわけでございます。以上」
 その後、氏は「この口語訳が、原文の妙を伝え得ないことを筆者は恥じている。・・これくらい強い
鋭い要求をしながら、これくらい婉曲で礼を失せぬように書きまわされた文章を、僕は見たことがな
い。外交文書として、最上級の巧妙なものである」と記している。 

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