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ごあいさつ
第三十六回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(3)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は上野介は名君だったです
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、次の史料に基づいて吉良上野介の出自と名君であることを述べました。
 『吉良上野介日記』・『吉良家日記』・『吉良氏系図』・『徳川実紀』・『甲陽軍艦』・『難太平記』・『五山文学新集』・『岡崎東泉記』・『石川正西聞見集』・『易水連挟録』『考証・赤穂事件』・『吉良上野介の正体・真説元禄事件』・『吉良義央と元禄事件』。『元禄事件の虚と実・吉良義央の人間像』。『偽られた忠臣蔵』・『吉良上野介随談』・『吉良上野介の忠臣蔵・文化摩擦が起した史上最大の仇討ち事件』・『吉良の首・忠臣蔵とイマジネーション』・一『吉良氏の研究』・『吉良町史』
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と意って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。検事の記録(忠臣蔵新聞)でも掲載していますが、弁護人の吉良家の歴史を聞きます。
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弁護人は、吉良家のルーツを詳述
 1221(承久3)年、承久の乱の戦功により足利義氏は三河国の守護となります。義氏は、西尾、幡豆、碧海一円の吉良庄を領地とします。義氏の次男泰氏が足利庄を相続し、その4代後が足利高氏(尊氏)です。
 義氏の長男長氏が西条吉良(現在の愛知県西尾市)を相続します。次に、長氏の次男国氏が今川庄(幡豆郡)を相続し、これが今川氏のルーツになります。
 四男の義継が東条吉良(現在の吉良町)を相続します。この子孫は、関東管領として奥羽に赴任し、関東吉良のルーツになります。
 東条吉良が空き城になったので、西条吉良の満義・尊義父子が入り、東条吉良を再興します。これが吉良上野介のルーツです。
 岳弁護人は、「『甲陽軍艦』によると、「公方(将軍)絶ゆなば吉良が継ぎ、吉良絶ゆれば今川が継ぐ」といわれるように、吉良家は名門だったのです」と強調しました。
 検事は、「名門と名君は別ではありますが、吉良上野介の人となりを知る必要があるます。お先をどうぞ」と配慮します。
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弁護人は、家康と吉良家の接点を詳述
 今川義元も桶狭間で敗退しました。1573(天正元)年、織田信長によって足利氏は滅びました。
 吉良家では、上野介の4代前の義安が徳川家康の祖父清康の妹(家康の大叔母)を妻に迎えていました。義安の時、吉良家は滅びました。
 1579(天正7)年、徳川家康は、大叔母と対面し、義安の子義定を召抱えました。
  弁護人は、「家康が将軍に就くには、源氏か平氏でなければ…というと、義定は源氏である吉良家の系図を貸し与えたほどである」と証言しました。続いて、「家康が、将軍になると、諸式礼法をつかさどる高家を設け、吉良義定の子義弥を任命しました。その子が義冬で、その子が上野介義央ということになります」と発言しました。
 検事は、「吉良家は、家康が将軍になるにあたって、功績があったということを確認しました」と発言しました。
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弁護人は、上杉家と吉良家の接点を詳述
 1641(寛永18)年、上野介義央は、江戸城鍛冶橋の吉良邸で、生まれました。父は義冬、母は徳川家譜代の名門酒井氏の娘です。彼女の伯父酒井忠勝は将軍家光の時の大老です。
 1657(明暦3)年、上野介義央は、上杉綱勝(曾祖父が上杉謙信)の妹三姫(後の富子)を妻に迎えました。その後、長子三之助(後の上杉家の養子綱憲)が生まれました。
 1664(寛文4)年5月、上野介を妻の兄上杉綱勝(米沢30万石の藩主)が訪問しました。綱勝は、その7日後に急死しました。
 11月、会津藩主保科正之(将軍家光の弟)は、娘(春子)が急死した綱勝の妻だった関係で、機敏に動き、「上野介の長子三之助を養子とすることに決まっていた。手続きが遅れただけだ」と釈明し、15万石に減封されましたが、末期養子の禁による改易を免れました。このことから、上野介が綱勝を毒殺したという噂が流れました。 
 弁護人は、「毒殺説は、史料から見ても、損得勘定からみても、あり得ない。その証拠に、吉良家の養子に、三之助(上杉綱憲)の次男春千代を養子に迎えています。これが、吉良左兵衛義周です」と解説しました。
 検事は、「毒殺説は、状況証拠で、事実ではない点、弁護人と同じ意見です。ただ、上杉家を救った保科正之が山鹿素行を赤穂に流した事実を、記録にとどめた欲しいと思います」と対応しました。
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弁護人は、「吉良家の”わが世の春”」を演出
検事は、「それが刃傷事件の背景では?」と反論
 「上野介ら夫婦の長女鶴子は、上杉家の養女のかたちで九州の大大名、六十万石の島津綱貴の継室となり、二女あぐりは、弘前藩主・津軽政■に嫁している。三女菊子は、遠縁で摂関家につぐ家がら(清華家)の公卿、大炊御門経音のもとに輿入れする。さらに上野介の実の子にして、上杉家五代目当主の綱憲の室の為姫は、徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の出であり、吉良家は将軍家とさえもつながっていた。」
  弁護人は、「江戸城松の大廊下での思いもよらぬ事件が起こるまでは、それこそ”わが世の春”を地でいく状態だったのである。」と上野介の立場を説明しました。
 検事は、「その”わが世の春”という感覚が、逆に刃傷事件を呼び起こしたのではないですか」と反論しました。
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弁護人は、「赤馬(駄馬)にのる上野介の名君「を披露
検事の指摘で、弁護人は、「これは土地の伝承です」と訂正
 「上野介は、一般の民がもちいるのと同様の赤馬(駄馬)にまたがり、吉良の領内をこまめに視察してまわった。頷民たちの声に耳をかたむけ、彼らの嘆願を聞き入れて河川を修復・築堤し、道路を直し、新田を開発した。」
 検事は、「それは、何か史料がありますか」と質問をしました。
  弁護人は、「それらはどれも土地の伝承、ただの言い伝えでしかない。」と答えました。「しかし、上野介の領地支配から3百有余年をへた今日なお、彼の善政ぶりの跡をとどめるものが残され、当地の人びとに称賛されているというのは、どういうことなのか。それを今から述べたい」と話を展開しました。
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弁護人は、黄金堤を出して、初めて上野介の名君振りを披露
検事は、含みを持たせて、特に反論せず
  「吉良の領民大いに喜び、遠近を問わず、老若男女こぞって馳せ参じ、其の工事一夜に成ったという。吉良義央の恩を謝して、黄金堤と美称する。」(『吉良義央公概伝』)
 「今般広田川を改修して瀬門村黄金堤を横断し南吉田、保定両村の間を経て海に放流するの測量をせらるると聞
く。〔中略〕其水路の為めに各村の蒙る将来の害を推測するときは、殆と寝食も安せさるに至れり…」(『請願書の草稿』の冒頭部分)
  弁護人は、「上は、上野介が領民のために作った黄金堤の史料です。下は、明治30年代に新水路に反対して黄金堤を守ったときの請願書の原稿です。これは、上野介がその生前ばかりではなく、死後もなお旧領地の民びとたちに敬愛されてきた一つの証しと言えはしないだろうか。」と、上野介の名君振りを披露しました。
 検事は、含みを持たせて、特に、反論しませんでした。
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弁護人は、「富好新田」を出して、上野介の名君振りを披露
検事は、「それは高家としての職務怠慢では」と反論
弁護人は、「一度だけ領地入りしても、名君は身君だ」と強弁
  工事の開始は1688(元禄元)年、「東乙川の山麓の西側から西方にかけて堤防を延長し、西は小山田の南部から堤防を南へ延長し、両堤を結合して海を締め切り、干拓を進めた」(『新版・吉良上野介』)。
 完成は1697(元禄10)年で、90町歩(約90ヘクタール)、収穫高1000石の新田が生みだされました。
 元禄十年三月の項、「六日、高家畠山民部大輔基玄、大友近江守義孝、今よりのち吉良上野介義央が勤を見習ふべしと仰付らる」(『徳川実紀』の「常憲院殿御実紀」)
 華蔵寺(上野介は菩提寺)に現存する9通の1通に、「御入部」「御光臨」「(御先祖への)御対面」といった言葉が見られます。
  弁護人は、「この新田の開発は吉良夫人富子の回復がきっかけとなったのである。それにちなみ、領民たちはそこを「富好新田」と名づけたとされ、この地名はいまも当地に残っている。また土地の人びとは、富子が願かけをした身延山久遠寺から七面観音の分身を拝頷して、新田の”守り神”としたその像は、同新田わきに建つ七面山真正寺に本尊としてまつられている。」と熱く語りました。
 検事は、「高家筆頭の上野介に任務は、将軍と天皇とパイプ役であり、武士にマナーを指導することです。他の大名でも、国許の経営は国家老に任せて、当の大名は主軍への忠誠に励んでいました。今の話が事実だとすると、任務外に精励していたことになりませんか」と反論しました。
 弁護人は、「じつを言うと、いささか疑問に思われることもないではない。他の高家の見本になるべき上野介が領地経営にあまり力を割けなかったとも考えられるからです」と、正直に打ち明けました。しかし、「ひんぱんに現地に行かなかったからといって、彼か善政をなさない、”名君”ではなかったということにはならない。」と強弁しました。
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弁護人は、「上野介の妻富子の里帰りは、討入りから避難させる方便」と解釈
弁護側の証人は、「離婚は事実。華蔵寺にある富子の墓は不自然」と証言
  1701(元禄14)年12月、この頃、吉良上野介の妻富子が、本所の吉良邸から、芝・白金の上杉屋敷に戻っています。この事実から、上野介の不仲説をとなえる者もいる。
 弁護人は、「私は、上野介は、不逞のやからの襲撃を危惧して、愛妻を避難させるべく実家に帰した、というほうが当っている」と解釈しました。
 検事は、岳弁護人の証人である祖田浩一氏に質問しました。祖田浩一氏は「富子は、義央が討たれたあとの宝永元(1704)年、芝・白金の上杉屋敷において亡くなり、広尾の東北寺に葬られた。義央は、中野区の萬昌院功運寺にある吉良家代々の墓に眠っているので、離縁は確かです。…しかし、吉良町の吉良家の菩提寺・華蔵寺には、富子の巨大な碑が建っている。これはまた思いきって大きな石を使っている。とってつけたようで何か不自然な感じさえする」と証言しました。
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弁護人は、誤ってドイツ人医師ケンペルを証人に申請
検事は、証人の証言は「外観は立派だった言っているに過ぎない」と激しく反論
 1691(元禄4)年、「宿舎の前で、われわれは内裏から急いで帰る将軍の使者(吉良上野介義央)が通り過ぎるの
に出会った。彼は京都から江戸までを一週問以内に行けるように、一日の旅程を速くする命令を下していた。彼は立派な人物であった。共揃いは二挺の乗物、何人かの槍持ち、鞍を置いた一頭の愛馬、馬上の七人の家来と徒歩の従僕から成っていた」(ドイツ人医師ケンペル『江戸参府旅行日記』)。
 弁護人は、「ドイツ人医師ケンペルも、上野介は立派な人物であったと言っている」と、上野介を弁護しました。
 検事は、「ケンペルは、行列や荷物から判断して、立派な人物、つまり権威とお金がある人物だと言っているのであって、人格が立派だと言っているのではありません。弁護人は、外観でもって名君の定義にしようとしている」と激しく非難しました。
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弁護人は、「上野介の木像は、品のいい、優しい顔」と外観で、弁護
検事は、「詐欺師は、優しい紳士面をして、品よく、やって来ますよ」と反論(爆笑)
 鈴木悦道氏は「この像(華蔵寺御影堂)の生きる所は義央の生存中に造られていること」で、「そのまま実在した義央と見て差し支えはないと書いている」(『新版・吉良上野介』)。
 弁護人は、「文字で書かれた文献のみが史実を証すものではない。華蔵寺に現存する上野介の木像は、品のよい中年男の像であり、とても老檜にして底意地のわるい人物には見えない。」と上野介の温和を強調しました。
 検事は、「上野介が、幕府と朝廷の重要なパイプ役であることは認めます。意地の悪いイメージは、『忠臣蔵』の芝居なとで演じられる仇役のイメーシです。しかし、優しい外観と名君とは結びつきませんよ。詐欺師は優しい紳士面をして、品よく、やって来ますよ。これでは議論にもなりません」と切って捨てました。
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弁護人は、「木像や郷土玩具」から、名君説を主張
検事は、「上野介の国学・茶道の先生が、在宅情報が敵側に漏らした」ことから、名君説を否定
 なによりも、吉良でもっとも古く、また人びとに愛されてきた郷土玩具が「吉良の赤馬」として、いまにつたえられています。
 弁護人は、「そのことの意味するものは、けっして小さくはない。」と本日の法廷を発言を締めくくりました。
 検事は、「結局、弁護人が吉良上野介は名君であったという根拠は、木像であったり、今に残る郷土玩具であったり、状況証拠ばかりで、どの大名にも当てはまる物ばかりです。
 上野介の在宅情報がもたらされ、それによって大石内蔵助ら47人の赤穂浪士が討入りを果たしました。この情報を敵側にもたらすという裏切り行為をしたのは、誰かご存知ですか。上野介の国学の先生である羽倉斎です。上野介のお茶の先生である山田宗匠ですよ。名君がこんな失態を許しますか。許さないでしょう。
 以上から、私は、吉良上野介は、華麗なる閨閥に彩られた、敏腕な政治家は認めます。しかし、名君でなかったと断言できます」と、吉良名君説を否定しました。
次回は、「両者の出会い(エリート対おぼちゃま)」
 「率直な疑問・反論・感想をお寄せ下さい」と書いたところ、私のところに、さまざまなメールが届きます。
 (1)「吉良上野介=善人の被害者、浅野匠頭=精神不安定のバカ殿、赤穂浪士=世論に流されて逆恨み」
 (2)「皇国史観全盛の戦前は赤穂浪士の悪口を言うと非国民扱いされたそうだ」
 (3)「実際今裁判をやれば、吉良は無罪、浅野は殺人未遂で実刑判決が下るだろう。にもかかわらずその吉良を集団で殺した赤穂浪士を未だに手放しで礼賛する日本人には、テロリズムを非難する資格はない」
 (1)に対しては、「その根拠は、何ですか」と、メールしました。
 (2)に対しては、「今は皇国史観でも何でも時代です。でも、忠臣蔵に人気があるのはどうしてですか」とメールしました。
 (3)に対しては、「老中の決定は、喧嘩両成敗です。それを一方的に破棄したのが、将軍綱吉です。あなたは、不公平な裁きをされた時、何をしますか。訴えるでしょう。では、訴える制度もなく、仇討ちが美徳とされている時代、あなたは何をしますか」とメールしました。
 しかし、その多くが主観を展開するだけで、その根拠は難ですかとか、や今の「物差し」で歴史を裁くのは如何でしょうかと問うと、反論がありません。そういう点では、岳弁護士の「上野介を弁護する」は、根拠を示しているだけに、対応が出来ます。
 これにこりず、率直な疑問・反論・感想をお寄せ下さい。
徳川家康 秀忠 徳川家光 綱吉 鶴姫
徳川光貞 綱教
保科正之 春子 為姫
上杉謙信 (略) 上杉定勝 綱勝 -- 綱憲 吉憲
富子 義周
吉良義定 義弥 吉良義冬 綱憲

酒井忠利 忠勝 義央 鶴子
忠吉 ━━━女 あぐり
---- -- 義周
菊子
系図(『吉良上野介を弁護する』より)。色が登場人物

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