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ごあいさつ
第三十七回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(4)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は「両者の出会いー”エリート”vs”おぼっちゃま”」
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、次の史料に基づいて吉良上野介の出自と名君であることを述べました。
 『吉良上野介日記』・『吉良家日記』・『吉良氏系図』・『徳川実紀』・『甲陽軍艦』・『難太平記』・『五山文学新集』・『岡崎東泉記』・『石川正西聞見集』・『易水連挟録』『考証・赤穂事件』・『吉良上野介の正体・真説元禄事件』・『吉良義央と元禄事件』。『元禄事件の虚と実・吉良義央の人間像』。『偽られた忠臣蔵』・『吉良上野介随談』・『吉良上野介の忠臣蔵・文化摩擦が起した史上最大の仇討ち事件』・『吉良の首・忠臣蔵とイマジネーション』・一『吉良氏の研究』・『吉良町史』
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と言って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。検事の記録(忠臣蔵新聞)でも掲載していますが、弁護人の吉良家の歴史を聞きます。
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弁護人は、「吉良上野介はエリート中のエリート」と強調
 「…応仁よりこのかたは、幕府また乱逆のちまたとなりぬれば、礼儀の沙汰もなし、こたびの儀は其絶たるをつき、廃れしをおこされ、鎌倉室町の儀注を勘酌して、一代の典礼をおこさせ給ひしものなるべし」(『徳川実記』)
 これが「高家」職が誕生する胚胎ともいうべきものである。
 家康の時代には、高家の数は6家だったが、綱吉の頃には、26家になっている(『新版・吉良上野介』)。
 1683(天和3)年、高家職のトップである高家肝煎というが、最初に任命されたのは、大沢基恒、畠山義里、吉良上野介義央となっている(『寛政重修諸家譜』)。
 高家に任ぜられた者は、従五位下侍従に叙任された。侍従になれるのは、従四位下以上という慣例からすると、特別待遇といえる。老中や大大名でも従四位下侍従、一般の大名は従五位上であった。
 1657(明暦3)年、吉良上野介義央は、17歳で、従四位下侍従に任ぜられている。
 1680(延宝8)年、吉良上野介義央は、40歳の時に、少々に叙されている。
 岳弁護人は、「吉良上野介は、”エリート中のエリート”だったのです」と強調しました。
 検事は、「エリート中のエリート故の問題点をあります」と反論しました。
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弁護人は、「吉良家には歴史的な書籍があるが、一部を赤穂浪士が盗んだ」と発言
検事は、「根拠はあるのか」と問い糾す
弁護人は、「赤穂の浪士か、その関係者である疑いが濃くなる」と曖昧答弁
 高家の主たる役務は、江戸に下向してきた勅使・院使などの接待がある。また、将軍の名代として上洛して朝廷の重要な儀式に参列することなどがある。公武の要として、あるいはパイプ役として、それだけの人格や教養がなければ務まらない。種々の儀礼や有職故実に通じていることが必要である。
 吉良家が「高家」として厚遇された背景には、その儀礼などに関する口伝や書物が、遠く室町の世から代々ひきつがれてきたという歴史と実績である。吉良家に伝わる『吉良流礼法故実書』は160冊、『吉良家日記』は27冊、上野介が著した『禁中式目』・『吉良懐中抄』・『吉良流躾之書』・『吉良書』・『吉良家諸礼秘書』・『吉良諸礼一書』・『古良流献立之書』などがある。
  弁護人は、「吉良家には、国の重要文化財の後柏原天皇の宸翰が残っています。しかし、吉良義弥から義央まで3代書き継がれた『吉良家日記』が見当たりません。赤穂で見つかったと言う話がある。討入り時に、赤穂の浪士たちが持ち去った可能性が大だからだ」と赤穂浪士を泥棒扱いする発言をしました。
 検事は、「赤穂で見つかったと言う話があるという伝聞だけで、弁護人は、赤穂浪士を誹謗・中傷しています。弁護人は、事実を確認して発言しているのでしょうね」と問い糾しました。
 弁護人は、「犯人は、赤穂の浪士か、その関係者である疑いが濃くなる」と発言を、はぐらかしました。
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弁護人は、浅野家の歴史と内匠頭のお坊ちゃん性を詳述
検事は、「9歳がお坊ちゃん大名というのなら、5歳の将軍は何という?」と反論
 岳弁護人は、『赤穂市史』『浅野内匠頭分限牒』『 冷光君御伝記』などを参照して、浅野内匠頭の人物像を描き出しました。
 浅野家の先祖は、豊臣家の五奉行筆頭の浅野長政である。長政夫人良々は、秀吉の正室である寧々(北政所)の妹でした。
 関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、長政は常陸真壁6万石を与えれる。江戸幕府開設後、長政の嫡男の幸長は、安芸広島42万6500石を与えられた。長政の二男長晟は、備後三次5万石(内匠頭の室・阿久利の実家)、三男長重は常陸笠間5万石を相続しました。長重の嫡男の長直は、正保二(1645)年に播州赤穂5万3000石に入封した。
 「正保二年六月十三日、常陸国笠間城御転之播磨国赤穂へ御本高を以御所替被蒙」(『浅野赤穂分家済美録』)
 この長直はなかなかの大人物だったといわれ、山鹿素行をあつく遇したり、赤穂城の築城や新田の開発なども行った。
 弁護人は、「長直の孫である内匠頭長矩は、父の長友が早世したので、わずか9歳で赤穂浅野家の当主となった」と長矩のお坊ちゃん性を強調しました。
 検事は、「9歳で藩主になったらお坊ちゃん大名というのなら、5歳で7代将軍になった徳川家継は、何というのですか。年齢は関係ありません」と反論しました。
弁護人は、「家老まかせの、お坊ちゃん大名には大役は務まらない」と誹謗
検事は、弁護人の不誠実な取り上げ方を裁判長に注意
続いて、検事は「お坊ちゃん将軍や大名には後見人がいる」と反論
 上野介の傷の手当をした栗崎道有は、「惣シテ内匠頭ハ気ミシカナル兼而人ノ由」と記録している。
 伊勢貞丈は、弟大学が語った言葉として、「内匠頭は性甚だ急なる人にて有りしとぞ」(『四十六士論評』)と記録している。
 内匠頭は、ふいに胸のふさがる発作をもたらす「痞」という持病を持っていた。
 「これは内匠頭がきわめて短気な瘤癩もち、瞬問的に激怒する生格で、ヒステリックに、発作的にはげしく逆上する人物であったという肉親の証言」(泉秀樹『忠臣蔵百科』)だけに、かなり的を射ているといえよう。
 随筆の『秋の田面』には、「内匠頭は短慮にして吝琶だった」と書かれている。
 『土芥寇讎記』には、「比類のないほどの色好みで、ちょっといい女を見つけて差しだせば、立身出世できる。内匠頭は昼夜をわかたず閨事にたわむら、政道のほうは幼少時から変わらず、ずっと家老まかせである」とある。
 弁護人は、「好色については他では聞かないが、藩の政治は家老まかせであったことは確かである。そんな者が饗応の大役に任ぜられたのだから、たいへんである」と主張しました。
 検事は、「弁護人は、上野介に対しては、ことさら美点を取り上げ、内匠頭に対しては、いたずらに欠点をあげつらう。裁判長は、その点、注意して頂きたい」と弁護側の不誠実さを指摘しました。
 ついで、「5歳で7代将軍になった徳川家継には新井白石がおり、11歳で4代将軍になった徳川家綱には保科正之がおりました。お坊ちゃん大名でいいんです」と反論しました。
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弁護人は、裁判長の注意も無視して、「内匠頭は暴君である」と誹謗
検事は、「自説を有利にするために史料を恣意的に使っている」と指摘
検事は、重ねて「その手法では常識ある人からは支持されません」と痛烈に批判
 浅野家が入封後、築城に新田開発、塩田の拡張と三つの大事業が開始され、すべての負担が赤穂の領民にのしかかった。「築城工事は十三年間続き、天守台はできたものの天守閣は遂にできずじまいであった。築城工事は打ち切られたものの、他の二つの事業は強引に押し進められ、領民は泣かされ通しであった」(祖田浩一『なぞ解き忠臣蔵』)。
 「又ある人曰赤穂の政務大野氏上席にして時を得て万をはからひしほどに民其聚斂に堪ず然る間事起りて城を除せらるゝに及びしかば民大きに喜び餅など掲て賑はひしに」(文化3三(1806)年。伴資芳の『閑田次筆』)
 大川良平なる「赤穂の人」から聞いた話「亡国弊政、赤穂国除の前つかた、大野某政を執り、蠧弊はなはだ多く、大石よりより諌をいるれとも用ひられず、閉門逼塞など、年に両三度にくたらざりしに、国除せられけるを、国人はかへりて、其弊政のやまんことぞとおもひて悦びしとなり」(文政10(1827)年に没した菅茶山は、『筆のすさび』)
 「大石氏出て事を謀り近来不時に借とられし金銀などみなそれぞれに返辮せられしかば大きに驚きて此城中にかやうのはからひする人もありしにやと面を改めしとかや」(伴資芳の『閑田次筆』)
 「これまで大石氏は一向用られず一とせの間には六七度もさしひかへなどやうの罪を蒙りしとなん凡世に人なきにはあらず用る人なければ千里の駿馬樋に伏て終るを大石氏は雪霜の報にあひて松柏の節を顕はせる成べし」(伴資芳の『閑田次筆』)
  弁護人は、「内匠頭は、大石内蔵助を1年間に6度も7度も謹慎にしたり、大石内蔵助を”昼行灯”とよんで侮り、遠ざけた」と内匠頭の暴君ぶりを描き出しました。
 検事は、「弁護人は、裁判長に注意していただいたのに、百年も後の伝聞を用いて、いたずらに内匠頭の誹謗中傷にエネルギーを注いでいます。ある教科書を作る会が、日本の優秀性を示すために、仁徳天皇陵より2000年も前のクフ王のピラミッドを持ち出したり、仁徳天皇陵と始皇帝陵と比較せずに、始皇帝の墳墓と比較するという手法(自説を有利にするために恣意的に基準を変更)と同じです。これでは、常識ある人からは支持されません」と痛烈に批判しました。
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弁護人は、「上野介を名君で、エリート中のエリートである」と弁護
次いで、弁護人は、「暗愚なお坊ちゃま大名」とこき下ろす
検事は、「そのような人のために、どうして討入りをしたのですか?」とズバリ直球
次いで、検事は、「内匠頭の領地でも、庶民を大切にした証拠」を紹介
 「今の内匠殿には格別の御情にハあつからす候へとも、代々御主人くるめて百年の報恩またハ身ふせうにても一そく日本国に多く候二、ケ様の時にうろつきてハ家のきす一門のつらよこしもめんもくなく候ゆゑ、節にいたらハいさきよく死ぬへしとたしかに思ひ極申候」(小野寺十内の妻にあてた書状)
 同様の便りを、大高源五も母親あてに書いた。
 千馬三郎兵衛にいたっては、内匠頭の怒りを買い、藩を去ろうと荷づくりをしている最中に主の凶報に接し、意をひるがえしたという(海音寺潮五郎『赤穂義士』)
  弁護人は、「以上見てきたように、家臣を見る目のない内匠頭の愚昧さ、”暗愚の殿さま”のイメージにほかならない。少なくとも、まつりごとが下手で、部下のあしらいもうまくない”おぼっちゃま君”ではあった。他方、木像で見るかぎり、上野介はいかにも温厚そうな顔立ちをしており、その領地では内匠頭とは逆に「名君」と呼ばれる人物である」と述べて、今回の弁護を打ち切りました。
 検事は、「そんなふうに主君の内匠頭をとくに慕っているわけでもない、嫌われていた節さえみられる面々が、なぜ”あだ討ち”などをしたのですか。浅野内匠頭の領地(兵庫県相生市矢野町)では、元禄13年(刃傷・切腹の1年前)に、内匠頭は大池を開削し、新田を開発したという石碑があります。今でも地元に人から、大池は愛され、利用され、風光明媚な観光地になっています。史跡忠臣蔵でも紹介しています」と、冷静に、しかも、急所を指摘しました。
次回は、「遺恨の実体ー諸説の真偽を検証する」
 私は、「忠臣蔵のふるさとへようこそ」というホームページを主催しています。その中で、吉良上野介義央を「華麗な一族」と紹介しています。他方、浅野内匠頭長矩を「短気なお坊ちゃま大名」を紹介しています。
 両方の史料をバランスよく、利用しています。自説に都合が悪い史料であっても、紹介しています。それを上回る解釈をして、より全体像を把握したいためです。
 逆に、恣意的に、自説に都合の悪い史料は捨て、都合のいい部分だけをつまみ食いしては、正しい歴史には、ならないからです。このような歴史観は、一時は面白いかもしれません。しかし、アンバランスな歴史観は、常識ある人から見放され、人を不幸に導きます。こんなことをつくづく感じました。

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