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ごあいさつ
第三十八回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(5)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は「”遺恨”の実体-諸説の真偽を検証する」です
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と言って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。検事の記録(忠臣蔵新聞)でも掲載していますが、弁護人の吉良家の歴史を聞きます。
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弁護人は、「賄賂説は、伝聞に過ぎない」と一笑
検事は、「人の噂も75日と言います。賄賂説が5年後、300年後の今も噂が継続している」と反論
 「遺恨」をめぐって、諸説あります。
(1)茶道具の譲渡をめぐって争った。(2)書画の鑑定眼のちがいによって対立があった。(3)浅野内匠頭が、謡曲を自慢のノドで披露して、満場が喝采した。吉良上野介がこれに不満をもった(以上は「忠臣蔵」なるほど百話」)
(4)「世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて積年朝儀にあづかるにより公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし。よて名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し毎事その教を受たり、されば賄賂をむさぼり其家巨万をかさねしとぞ、長矩は阿訣せず、こたび館伴奉りても義央に財貨をあたへざりしかは、義央ひそかにこれをにくみて何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみかゝることに及びしとぞ」(『常憲院殿御実紀』)
(5)「尤上野介殿慾ふかき人故、前々御勤被成候御衆前廉より御進物等度々有之由に付」「右上野介殿段々不宜御仕形等有之、内匠頭様御麓憤に被思召候事ども多相聞候」(『江赤見聞記』)
(6)「此意趣具に存たるものなし、併世上之風説には」「其年々に御馳走番被仰付候大名衆より、申合之為め賄賂を遣し手入有之由」(『浅吉一乱記』)
(7)「而前時共事者利其指授、則多行賄賂以誘之」(室鳩巣『赤穂義人録』)
 岳弁護人は、「遺恨については、賄賂説を取り上げているが、自分が耳にした噂だけで書いている」として、あたにならないと述べました。
 検事は、「普通、伝聞や噂は”75日”という諺があり、事実出なければ消滅するのが常識です」と反論しました。
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弁護人は、「賄賂は時代の風潮で、悪くはなかった」と上野介の賄賂政治を認める発言
続いて弁護人は、「内匠頭は、瘤癩もちで切れやすい、”おぼっちゃま君〃にくわえけちんぼ」と中傷
検事は、「いつの時代でも過ぎたる賄賂は悪である」と激しく反論
(1)「元禄の時代は賄賂の時代だ。賄賂を賄賂とせずして、賄賂が敬意の象徴、好意の示現として、受取られた時代だ口されば賄賂を怠りたる者は、其の反対に、敬意を欠き、好情を無にするものとして、認定せられたのは、寧ろ当然の事と云はねばならぬ」「要するに、義央は世問並の事を要求し、長矩は世問並の事を与へなかったと云ふ可きであらう」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)
(2)「慶長・宝永のころまでは諸大名が謀反することを恐れて、幕府の老中たちは少しで大名たちが金を使うよう仕向けたものである。このため幕府の老中など首脳部が、諸大名より金品を取ることはかえつて幕府にたいする御奉公だというので、少しも遠慮しなかったという」「幕閣の収賄は今日のそれと同日に談ずることはできない」(大石慎三郎 『元禄時代』)
(3)「一般に元禄の頃の社会通念としては、現代の営利会社の交際費程度に思われていた」(佐佐木杜太郎『吉良上野介の正体』)
(4)院使饗応役のほうの伊達左京亮は大枚のつけととけをしたのに、内匠頭は挨拶のおりの手土産にカツオ節を持参したのみだった。伊達家からの贈物は加賀絹数巻に黄金百枚、狩野探幽の双幅。浅野家が贈ったのは、巻絹1巻だった(『なぞ解き忠臣蔵』)
(5)赤穂藩の江戸家老が、めったなものを贈るのはかえって失礼だと言い、それに内匠頭が同意して儀礼だけですませた。
(6)指南役にはあらかじめ「馬代金」として金1枚を贈るのが通例なのに、「つつがのう事をすませたうえで祝儀としてお渡しするならよいが、さきに贈る必要はあるまい」そう言って、内匠頭は一顧だにしなかったともつたえられている。
(7)内匠頭は、5年前(元禄九年)におなじ御馳走人をつとめた夫人の生家、備後三次の浅野家から「内証帳」をかりだして、勅使饗応に要した経費や指南役への礼金などを子細にしらべている。
(8)五年の間に新たに改鋳された小判が流通しはじめたこともあり、諸物価が高騰していて、内匠頭が、「かような見積りで、いかがでござりましょう」と、上野介に指ししめした額は、ひどく現実とかけ離れたものであった。「上野介殿江御伺被成候処、段々不宜御仕形共有之御不快被思召候事共多有之」(『冷光君御伝記』)
(9)「なにを苦しんで、端金にすぎない賄賂をむさぼる必要があろう」「賄賂といってはわるいが、進物とか、贄とか、束脩(師に贈呈する進物)とかいえばわかる」(海音寺潮五郎『赤穂義士』)
(10)「上野介は、礼典作法を饗応役の大名たちに指南教授してその謝礼を得たのであって、これこれの役職に抜擢し、世話をするから、その反対給付としての賄賂をむさぼったというものではない。礼儀作法を知らない大名たちに役目の落度のないように指導して、その謝礼をうけとるのだから、その金品の多寡は別として、当然の慣習的儀礼の印をうけるばかりであって、これはいわば教授料の謝礼で不正な賄賂ではない」(佐佐木杜太郎『吉良上野介の正体』)
  弁護人は、「以上の話から、賄賂は時代の風潮で、寺子屋(学習塾)の月謝、もしくは医者の診察代(問診料)と似たようなもので、悪くはなかった。逆に、浅野内匠頭は、瘤癩もちで切れやすい、”おぼっちゃま君〃にくわえけちんぼ君でもあります。」と中傷発言を繰り返しました。
 検事は、「弁護側の証人である大石慎三郎氏は、慶長・宝永のころの風潮を指摘したのであって、元禄時代の風潮とは言っていません。平戸藩主である松浦静山は『甲子夜話』で”田沼氏の盛なりしときは諸家の贈遣さまざまに心に尽したることどもなりき”(役人の子はニギニギをよく覚え)と賄賂政治を批判しています。いつの時代でも目に余る賄賂を是とする風潮はないのです」と厳しく反論しました。 
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弁護人は、「怨恨説は事実ではない」と否定しました
検事は、「怨恨説は事実でない」と同意しました。
検事は、続けて「しかし、イジメ説は、討入りの翌年から出ている。これは重要である」と発言
(1)「或説に、勅使院使増上寺へ御参詣の刻、毎年の格にて、御馳走人の宿坊にて饗応有之候事に候、依之今度内匠頭より、宿坊の畳表など替可申哉の旨、上野介へ内談有之候へば、吉良被申候は、大形に宜候はゞ夫には不及申の由差図にて候」「畢竟内匠頭へ恥辱をあたへ可申」(討ち入りの翌年に書かれた『赤穂鐘秀記』)。
(2)刃傷事件のあった当日の礼服は烏帽子に大紋なのに、長峠といつわって教えた。
(3)伝奏屋敷で勅使に供する料理に関し嘘をついた、といったものだ。勅使の精進日なので精進料理にせよ、と告げたが、でまかせだった。
(4)「塩田説」(産業スパイ説)は、吉良は三河湾、赤穂は瀬戸内海どちらも太平洋側の湾岸にあって、ふるくからの塩の産地であった。上野介が、赤穂の製塩方法を、内匠頭に伝授するよう依頼したが、断られた。
(5)上野介が、内匠頭の奥方に横恋慕した(討ち入りの翌年に上演された『曽我の仇討』)。
 弁護人は、「以上のことは、すべて事実に反している」と遺恨説を否定しましたしました。
 検事は、「私もその点は弁護人と同意見です。しかし、弁護人は、以前、吉良上野介の悪役説は事件から47年後の『仮名手本忠臣蔵』にあると指摘されましたが、弁護人の証人から、討入り後の翌年にイジメ説が出されています。この事実を重く受け止めたいと思います」と発言しました。
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弁護人は、「刃傷事件は内匠頭の妄想(乱心)が原因」と断定謗
検事は、「妄想が原因なら、刃傷相手が何故上野介だったのか」と反論
(1)ありえそうもない説をつきつきと消し去ってゆくと、残るのはたたひとつ内匠頭の「乱心」説である。
(2)吉良邸討ち人りは、「呪術的…宗教的祭祀」であり、「この御霊信仰こそは忠臣蔵の本質であつた」。「わたしの考へ方では、あれはどう考へても納得のゆかない怒り、わけのわからない逆上、理由不明の取り乱し方だつたからこそ、かへつて逆に人々の畏怖の念を強めたのだつた。どうしてあんなことをしたのか、狐につままれたやうな思ひだつたからこそ、その怨霊は恐れるに足りたので、なぜ憤激したのかあつさりわかるのでは、荒人神としての凄味がきかなかつたらう」(丸谷才一『忠臣藏とは何か』)。
(3)浅野家が入封するまえの赤穂藩主は池田恒興だったが、発狂し、黒田長政の娘である妻と侍女二人を殺害している(『なぞ解き忠臣蔵』)。
(4)4代将軍家綱が亡くなり、その法要が例の増上寺でおこなわれた。法事のあった本堂で、志摩鳥羽藩主の内藤和泉守忠勝が乱心し、丹後宮津藩主の永井信濃守尚長を刺殺した。内藤忠勝は浅野内匠頭の叔父にあたる。
(5)内匠頭には癌の持病があって、心身が極度に衰弱し、もうろうとした状態にあった。
(6)上野介には、京からもどって勅吏挨拶の儀式のときまで、二週問ほとの時問しかなかった。
 弁護人は、「上野介は、内匠頭に意地悪をするどころか、ろくに顔を見る暇もなかった。内匠頭は焦った。おのれに自信がなければ、なおのことである。そこで、妄想もふくらみ刃傷事件が起こった」と主張しました。
 検事は、「弁護人の妄想による推理には感心しました」と皮肉り、「不安による妄想であれば、何故、刃傷に及んだ相手が吉良上野介だったのでしょうか。その場には、伊達左京亮もいたし、梶川与惣兵衛もいたのに…」と追求しました。
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次回は、「”城明け渡し”以後ー内蔵助の迷いと吉良邸移転の謎」
 弁護人は、一部の小説家や評論家と違い、本当によく史料に当っています。その点は、敬服します。
 しかし、結論的に吉良上野介を弁護する立場から、史料分析をしています。その点、不満が残ります。
 今回も、いきなり丸谷才一氏の『忠臣藏とは何か』が出てきました。劇作家としては著名な方ですので、ユニークな説を提唱されています。多くの小説家や評論家は、著名だという理由で、丸谷才一氏の提唱を受け入れています。
 原典主義という立場の私は、丸谷才一氏の劇作家という立場とは異なります。「わけのわからない逆上」「理由不明の取り乱し方」が畏怖の念を強め、「狐につままれたやうな思ひだつた」から怨霊は恐れた。憤激が分かれば、「荒人神としての凄味がきかなかつた」というのは、劇作家の思いであり、芝居上で演じられる世界です。
 私が求めているのは、演劇の世界でなく、史実の世界なのです。
 権威主義に弱い小説家や評論家を垣間見た思いです。

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