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ごあいさつ
第三十九回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(6)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は「”城明け渡し”以後-内蔵助の迷いと吉良邸移転の謎」です
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と言って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。検事の記録(忠臣蔵新聞)でも掲載していますが、弁護人の吉良家の歴史を聞きます。
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弁護人は、「あだ討ちは逆恨みである」と強調
検事は、「吉良上野介は、将軍綱吉と側用人柳沢吉保と権力の三角同盟」と反論
 刃傷事件の報が播州赤穂に伝えられ、藩札代えを領民のために行います。藩論は、籠城作戦から、殉死嘆願に変わり、さらには書状による公儀への哀訴に落ち着きます(恭順して城を明渡す)。それから、大石内蔵助らはあだ討に向けて苦悶の日々が始まります。
 岳弁護人は、「突然”乱心者”に斬りつけられて、怪我をした被害者は上野介のほうです。それを”喧嘩”とみて復讐を期するのは勝手な思いこみというものであり、”逆恨み”以外のなにものでもない」と、述べました。
 検事は、「上野介個人に焦点を合わせれば、そういう結論になるかもしれません。しかし、吉良上野介は、高家筆頭という江戸幕府の重要な組織の長でもあります。喧嘩両成敗であるべきを、寛大な処置という恩恵を被ったのは、権力機構の一部に身を置いていたからです。このことを抹殺してはいけません」と反論しました。
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弁護人は、「譜代の大石内蔵助と、新参者の堀部安兵衛の立場の差」を強調
検事は、「推論は、法廷にはなじまない」と反論
 大石内蔵助の家は、相応の名家であり、浅野家にあっては代々家老の要職にありました。
 堀部安兵衛は、元越後新発田藩の中山弥次右衛門の長男で、堀部弥兵衛に請われて娘婿になりました。義父の弥兵衛は浅野長直・長友・長矩の三代にわたり勤仕した譜代だったが、堀部安兵衛は、浅野長矩に召し抱えられた新参者です。
  弁護人は、「譜代の内蔵助の頭には”浅野家は内匠頭ひとりものではない”という考えが根づよくあったはずである。新参者の安兵衛は、当然主君とする人は長矩一人という気持ちが大きかったであろう」と、述べました。
 検事は、「重要な論点を、”…はずである”とか”…であろう”という推論で述べるのは、法廷にはなじみません。弁護人の証人が述べた、堀部弥兵衛は、内蔵助と同じ三代にわたる譜代ですが、過激なあだ討派です。弁護人の推論は、すでに破綻をしている」と厳しく追求しました。 
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弁護人は、「内蔵助は大学様御安否一点張り、安兵衛はあだ討ち一点張り」と指摘
検事は、「凡人には、内蔵助の真意は忖度できない」と応酬
(1)「此儘ニアラハ諸人ニ面ヲサラシ生前ノ恥タルヘシ、一刻モ早ク罷登可然ト相定四月五日江戸表発足ス」(『堀部武庸筆記』)
(2)「同十四日戌上刻赤穂へ着ス、直ニ大石内蔵助宅へ落着内蔵助モ書院へ出向対面ス」(『堀部武庸筆記』)
(3)「ヨロスノ言葉ナク早速一儀申談ス、三人申分上野介今以存生ニ侯ヘハ当城離散致シ何方へ面ヲ向ケ可申様無之候、唯城ヲ枕ニシテ果ルノ外他事ナキ儀卜色々談候」(『堀部武庸筆記』)
(4)「籠城仕侯テモ後日ノ沙汰偏ニ大学殿指図ノ様ニ罷成侯ヘハ、大学殿御身上滅亡ニ及ヒナン欺、然ラハ浅野ノ名跡マテ失候ハン事不忠タルヘシ、此度ノ籠城相止大学殿一分立候様ニ可罷成欺安否ノ程暫ク可見届儀連城無滞引渡候ニ相極候」「先此度ハ内蔵助ニ任セ候へ、是限ニハ不可限以後ノ含モ有之候」(『堀部武庸筆記』)
(5)安兵衛は、「既に七十近き上野介殿之事、万一病死もあらば千悔すれども不可帰」(『江赤見聞記』)
(6)それに対して、内蔵助は「上野殿病死もあらば息左兵衛殿を可討」(『江赤見聞記』)
(7)3月21日、大石内蔵助は、山科近辺の土地を探しています。主君が自害した3日後です(検事側証人)
 弁護人は、「内蔵助は”大学様御安否”の一点張りです。安兵衛は”上野介へ鬱憤ヲ散申”という気持ちがやたらと目につきます。一日でもはやく”あだ討ち”がしたいという気持ちがよく出ています」と、内蔵助と安兵衛の違いを述べました。
 検事は、「弁護人は、内蔵助の”大学様御安否”を文字通り解釈しています。しかし、内蔵助の真意を私のような凡人には、文字通り理解できません。逆に、安兵衛の言葉は、ストレートで、私でも分かます。安兵衛は、ある時は、江戸の家老を担ぎ出し、次は、内蔵助の親戚を首領にしようとし、また、内蔵助を離れて討ち入ろうと画策して、ことごとく失敗に終わっています。内蔵助の指揮官としての器と安兵衛の切り込み隊長としての器の差を理解しなければ、私たちは、本質を見誤ることにまります」と諭しました。
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弁護人は、「内蔵助は、女好きだし、討ち入り失敗を恐れていた」と主張
検事は、「今の視点で歴史を見るは、愚かである」と反論
(1)「内蔵助事全活気成生付故、於京都遊山見物等之事に付不宜行跡も有之、金銀等もおしまず遣捨申候、此事を古風成源四郎源五右衛門など、つよくきのどくがり、異見等も切々申候」(『江赤見聞記』)
(2)「内蔵助此不行跡故、上野介殿より之かくし目付共も、中々あれにては此方へ意趣など含申候事有之まじくと、京都より追々上に引取候由、風説仕候也」(『江赤見聞記』)
(3)「…これより妻をも出し、親族にもはなれ、京山科のほとりに閑居し、いさゝかも武を講ずるさまはなさず、日夜侶家に出入し酒に沈酔し、ひたすら無頼の淫行をあらはし、報讐の志などあるべくもなくふるまひしかば、吉良が方にも初こそあれ、この風説を聞つたえ、さては・い安しと、戒心もをのづからおこたりしとなり」(『常憲院殿御実紀』)
(4)「御家来ノ身トシテ主君ノ敵ヲ見遁シ御分知ノ大学様ヲ大切ト申事偏二銘々大学様へ事寄セ命ヲカハヒ候様二相聞問敷候哉」(『堀部武庸筆記』)
(5))元禄15(1702)年2月、「今少見届不申只今中途ニ事ヲ仕候ヘテハ却テ死後ノ人口モ口ヲシキ儀」(『堀部武庸筆記』。検事側証人)
(6)元禄15(1702)年4月、大石内蔵助は、妻子を但馬の実家に帰しています。(検事側証人)
 弁護人は、「内蔵助は、本気で遊んでおり、そのため、間近になるまで、”あだ討ち”の決行を迷っていたのではないでしょうか。また、あだ討ち(「討ち入り」)などして、成功すればよいが、失敗すれば泰平の世をみだすばかりか、後世にまでも恥をさらすこととなる。そういう懸念が内蔵助の決断をにぶらせていたとは言えるでしょう」と主張しました。
 検事は、「日本では、昭和20年前までは、妾をたくさん持つことが男の甲斐性と思われてきました。江戸時代は、家を存続させるために、妻妾は制度化されていました。それは、あだ討ちとは関係ありません」と一笑し、「ただ、弁護人が”内蔵助は迷っている”と言っている時期に、妻子を但馬の実家に帰しています。凡人には理解できない行動ではないですか」と逆質問しました。
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弁護人は、「義周の家督相続から、義周の初出仕の空白を利用して、本所に強制移転」と推論
検事は、「辞令と初出勤は二面性の一面で、別問題」と一笑
(1)「元禄十四巳の三月廿七日、上野介役義被召上、小普請組に仰付られ、其後上野隠居家督の領地四千五百石、同姓左兵衛にこれを被下」(『忠誠後鑑録』)
(2)「而て後上野郭中の屋敷召上られ、其代りとして本所におゐて疎かなる屋鋪左兵衛に玉ひしなり、上野郭中の屋鋪に住居の時は用心きびしく、上杉方よりも堅固に之を守る、況んや本所の疎屋におゐては、猶以て昼夜警衛し、門戸の出入甚だ是を改め、往々迄かくの如く用心怠らずんば、容易く討たるまじきに」(『忠誠後鑑録』)
(3)「巳(元禄十四年)の八月十九日、吉良左兵衛殿被為召、梶橋(鍛冶橋)之内上野介殿居屋敷、依御願被召上、為替松平愛之助殿本所之上り屋敷(空き家)被下之」(『江赤見聞記』)
(4)「同暮十二月十三日、上野介殿如御願御隠居、御家督佐一左一兵衛殿へ無相違被仰付之」(『江赤見聞記』)
(5)「同七月十二日、吉良左兵衛殿月並(常勤)之御出仕如御願被仰渡、去る朔日(一日)より御出仕被成候由」
(『江赤見聞記』)
(6)「鍛冶橋之内之屋敷隣蜂須賀飛騨守殿御手寄之御老中へ被得御内意候、若及騒動候はゾ如何可仕哉と御尋候時、御返答に、上野介方に騒動候共、一切構有之問敷侯、屋敷之内堅固に可被相守由御差図有之由也」「一切構有之間敷侯」(『江赤見聞記』)
 弁護人は、「『忠誠後鑑録』の証言を誤りだと否定し、元禄14(1701)年12月、上野介は、辞職願いを認められ、家督は左兵衛に継がせられました。元禄15(1702)年3月、上野介は退職金をもらいました。7月、吉良義周は、初出仕しました。辞職から、初出仕までの空白を利用して、江戸城郭外の本所に、上野介を移転させた黒幕がいる」と主張しました。
 検事は、「確かに、堀部安兵衛らは、上野介の本所移転を”幕府が上野介を討てと言っているようなものである”と受け取っていたことは事実です。しかし、家督を相続するということと、初出仕とは別問題です。辞令をもらった日と、最初の出勤日が異なることはよくあることです。無理な解釈ではないでしょうか」と反論しました。
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弁護人は、「柳沢吉保が、謀略として、吉良上野介を本所に強制移転」と主張
検事は、「本所は、旗本の屋敷地であり、謀略説には、根拠がない」と反論
(1)「(元禄十四年)霜月廿六日、柳沢出羽守宅へ御成、出羽守へ御名菱享被下・父子三人ニ松平御名字を被下
 柳沢出羽守保春(明)を松平美濃守吉保ニ成 惣領柳沢越前守を松平伊勢守…」(戸田茂睡著『御当代記』)
(2)「彼(五代将軍・綱吉)の治世のあいだに諸大名家の除封・減封した件数は、46件161万石余にも及んでいる。これはもちろん徳川幕府の草創期に行なわれた除封・減封にくらべると少ないが、そのほかの時代のなかでは、とくに目立って多い件数である。(中略)綱吉時代の除封・減封のほとんどが、諸大名にたいする処罰的なものとなっている」大石慎三郎著『元禄時代』)
(3)「忠臣蔵の根底は柳沢と吉良の政治闘争であったというのが、岳氏の史観であり、私観である」(立松和平著『吉良の言い分』文庫本解説)
 弁護人は、「上野介邸を本所に強制移転させたのは、柳沢吉保だと指摘します。その理由を、”出る杭”は打てと表現します。吉良上野介は、上杉氏と結びついた足利流の名家で、天下の”儀礼道”の頂点にも立っています。喧嘩両成敗とせず、不公平な裁きをすれば、当然討入りが起こります。そうなると、赤穂浅野家の本家である広島浅野家にも、上野介の実子である上杉家にも咎を及ぼすこと(改易=取り潰し)が出来る。それが、将軍綱吉の意を汲んだ柳沢の、上野介邸移転の背景である。そんなことがなかったともまた、言い切れないのである」とびっくりする発言をしました。
 検事は、「弁護人が述べたように、本所の吉良邸の西は、確かに、無縁寺(回向院)です。しかし、吉良邸の北側は旗本の土屋主税邸と本多本多孫太郎邸です。本多孫太郎は、越前福井の城主である松平昌明の家老です。東側は旗本の牧野一学邸です。吉良邸の東北の位置には、鳥居邸があります。弁護人が述べるほど、本所は特別な土地ではありません」と指摘し、さらに「上野介の辞職を認めたことは、息子の上杉邸に隠居するか、米沢に引き籠る可能性のほうが大きくなり、討入りには不利な裁定になります。弁護人の発言は、まったく、結果論から推測する、根拠のない弁護です」と反論しました。
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次回は、「討ち入りの真相ー上野介は”戦って”死んだ」
 最近は、ホームページによって、地方にいても、ほとんどの情報を入手することが出来ます。
 以前は、東京とか京都のような中央にいなければ、史料などの情報を手に入れることが出来ませんでした。そのため、情報は、大学教授や小説家や評論家など一部の占有物でした。井沢元彦氏のような、つまみ食い作家が跋扈できた背景がここにあります。
 しかし、兵庫県の片隅にある相生市に住んでいても、徳川綱吉時代の改易(除封・減封)一覧表が手に入ります。岳氏が指摘する、柳沢吉保の改易政策が正しいか、直ぐに検証できます。ありがたいことです。まさにこれがIT革命です。
 岳氏が指摘する柳沢吉保が権力を握ったのは、元禄9(1696)年です。それ以前の改易は、45件のうちの35件になります。全体の78%です。吉保が権力を握ってからの12件(22%)を見ると、無嗣が5件、浅野内匠頭の刃傷を入れて乱心は4件、残り3件は不行跡・争論・家中内訌となっています。政争を利用しての改易は、皆無です。
 岳氏の持論が、なんら根拠のない推論であるかがわかります。
廃絶大名一覧表(綱吉時代)←ここをクリックして下さい

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