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ごあいさつ
第四十回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(7)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は「討ち入りの真相ー上野介は”戦って”死んだ」(1)です
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と言って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。検事の記録(忠臣蔵新聞)でも掲載していますが、弁護人の吉良家の歴史を聞きます。
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弁護人は、「浅野大学処分以後は、討ち入り前夜の様相」と分析
検事は、「討ち入り前夜の様相だったんですね」と確認
(1)「大学殿御事は浅野左兵衛様御同道にて評定所へ被為召、閉門御免、安芸守様え妻子共に御引取被成候筈候」(『江赤見聞記』)。大石内蔵助が待っていた公約が否定されました(浅野大学の処分決定)。
(2)「上野介屋鋪の用心も、いつとなく怠り申候間、門の出入も次第にゆるかせに成申候故、前原伊助神崎与五郎は、彼屋鋪の側に商ひ見せを出し、上野介家来にしたしみ、屋敷の内えも致出入、諸事致見分申由に候」(『赤穂鍾秀記』)。前原伊助や神崎与五郎らは、吉良邸の側で店を開いたり、出入りもしています。
(3)「其外赤穂浪人共他所浪人と申触し、本庄辺に大勢居申、其者共と申談候也」(『江赤見聞記』)。赤穂浪人は他所の浪人だといって、吉良邸に大勢集まってきました。
 岳弁護人は、「浅野大学処分以後、赤穂浪士らの周辺は”討ち入り前夜”の様相でした」と、述べました。
 検事は、「赤穂浪士らの周辺は、”討ち入り前夜の様相”だったのですね」と確認しました。
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弁護人は、「吉良側は、油断も油断、隙だらけ」を分析
検事は、「油断も油断、隙だらけだったんですね」と確認
(1)「上杉方よりも堅固に之を守る、況んや本所の疎屋におゐては、猶以て昼夜警衛し、門戸の出入甚た是を改め…」 (『忠誠後鑑録』)。本所に屋敷替えがの後も、吉良方ではきびしく昼夜も警衛していました。
(2)「弾正大弼殿午の夏頃より御病気にて、冬に至り候ても御大切之御様躰に御座候間、上野介殿昼夜弾正殿に御座候由相聞、又は茶之湯御好にて、其会に御忍び候て脇々へも御越、御手前へも御客切々御座候て、とかく能首尾無之候」(『江赤見聞記』)。上野介は、しばしば、本所から養子になっている上杉邸に通っています。
(3)「上州或は上杉の館に停留し、又或時は左兵衛方に住せしむ」(『忠誠後鑑録)。上野介は、上杉邸に泊まったりもしています。
(4)「上野介には折々本庄之屋敷御子息左兵衛佐様に御見舞として御越、二三日程づゝ屋敷に御逗留にて又上杉弾正様屋敷へ御戻り候由」(『桑名藩所伝覚書』)。討ち入り後の記録にも、上野介は、上杉邸に2〜3日泊まっていたとあります。
  弁護人は、「内匠頭の一周忌のころにも、何事も起こらずにすんだ。そのあたりから、吉良方の警戒はだいぶゆるんだようだ。浅野大学の処分決定は吉良方にとっても大事件で、その後しばらくはまた警戒をきびしくしていたようである。その証拠に何度も上杉邸へ往復しています。吉良側としては、油断も油断、隙だらけ」と、述べました。
 検事は、「”吉良側は、油断も油断、隙だらけ”だったのですね」と確認しました。 
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弁護人は、「上野介夫婦の不仲説はありえない。襲撃におびえることに辟易し、油断」と指摘
検事は、「ある時は、油断し、ある時は、噂におびえ、最後は大きな油断で命を落す。どれが名君?」と反論
(1)「上野介殿は常は上杉弾正様に御夫婦共に御座候由、依之上野介御妻女は弾正様御屋敷に御座候由」(『桑名藩所伝覚書』)。上野介夫妻は、常に上杉邸にいて、それで、妻の富子は上杉邸いる。
(2)「先遣内人以碑妾、往依上杉氏、或日、義央予慮有変、自去年使夫人避居上杉氏、蓋風聞良雄等候己、外託養病実以避之也」(『赤穂義人録』)。大石内蔵助らの討ち入りという風聞があり、病気養生を口実に、妻富子を、実家の上杉邸に難を逃れさせました。
(3)「夫人は赤穂家の断絶より其一門及び家中の嘆いかばかりなるべき、御身一人の所行によりし事なれば、此報なきことはあらじ、早く御腹を召して万人の怨恨を散じ、子孫のために御家の長久を謀られ候へと、度々諌言ありしが、義央は此諌言を心憂き事に思ひ、いたく夫人を疎むやうになり、対面さへ厭ひ、後には不和になりしとも伝へたり」 (三田村鳶魚著『元禄快挙別録』)。「富子は、度々、夫の上野介に自害を勧めたので、不和になり、実家に帰った」というのが三田村鳶魚の説です。
 弁護人は、「別居をしているのは、夫婦仲が悪かったのではなく、赤穂浪士の討ち入りの噂が耐えなかったので、実家に帰らせた。噂は耳に入ったが、1年10ヶ月の間何も起こらなかった。上野介には、赤穂浪士に恨まれる覚えはない。襲撃におびえることに辟易していた。そこに大きな油断がしょうじたのだ」と上野介夫婦不和説を否定し、油断が生じた理由を分析しました。
 検事は、「上野介夫婦不和説を採用すると、上野介名君説が破綻します。不和説を否定するために、赤穂浪士の討ち入りを採用しなければいけない。ある時は、油断し、ある時は、噂におびえ、最後は大きな油断で命を落す。とても名君とは考えがたい」と反論しました。
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次回は、最終回の「討ち入りの真相ー上野介は”戦って”死んだ」
 岳氏は、色々な史料を出して、上野介を弁護します。非常に有り難いことです。同じ史料であっても、解釈の違いで、評価が分かれます。第三者も議論に入れます。史料抜きの議論は、議論するにも、同一の土俵がないので、意味がありません。最近はやりのブログや掲示板を見た時、根拠のない推論が顕著です。
 石町3丁目小山屋弥兵衛方裏に、東下りしてきた大石内蔵助をはじめ、大石主税・潮田又之丞・近松勘六・早水藤左衛門・菅谷半之丞・三村次郎左衛門・大石瀬左衛門・小野寺十内ら9人が同居します。
 江戸で最も有名は堀部安兵衛の家である本所林町5丁目には、東下りしてきた木村岡右衛門・倉橋伝助・横川勘平が同居します。
 大石内蔵助の動向は、スパイなら掴んでいるはずです。堀部安兵衛の家に3人も上方からやってくれば、だれでもピントきます。それも討ち入り1か月少し前の11月です。それを「襲撃におびえることに辟易」していても、いよいよと思うのが常識です。上野介には、その常識すら、失せていたのでしょうか。
 第六章を二回に分けました。最終回は、油断していたはずの吉良家に150人の侍がいた事実、戦うということは、どういうことかなどを論証します。

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