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ごあいさつ
第四十一回は文春新書
岳 真也著『吉良上野介を弁護する』(8)

「上野介を弁護する」ような本もあっていい
「最初からシナリオありき」の本があってもいい
その前提は、左右でなく、東西(客観)的な史料の提供
はたして、岳弁護士は勝訴できるか
私が、検事役で検証しました
 私は、岳 真也氏の『吉良の言い分 上・下』を読みました。これは小説(作り話)なので、特に感想はありませんでした。『言い分の日本史-アンチ・ヒーローたちの真相-』では、18ページを割いて「吉良上野介」が取り上げられていました。
 政治評論家の三宅久之氏がTV番組で「専門以外のことは、そうかと聞いてしまう」と言われていました。私も同感で、岳氏が取り上げた田沼意次について、「本当はこれが真相だ」と言われても、「ああそうですか」と受身になっています。
 しかし、忠臣蔵に関しては、かなり史料を読んでいますので、これが真実だと言われても、反論することが出来ます。18ページを使って、岳氏は上野介を弁護されていました。しかし、使っている史料も雑ですから、出てくる結論も「独りよがり」でした。
 そんなわけで、『吉良上野介を弁護する』も読むだけ徒労と思い、置い読(おいとく)の書籍扱いでした。
 所が、私のホームページを見たという方(テレビ朝日『ビートたけしの悪役のススメ』のスタッフ)からメールが入り、かなりの間メールのやり取りがあり、2004年12月末に放映がありました。そこで、岳氏を知り、メールを送ったところ、詳細は、『吉良上野介を弁護する』に書いているということだったので、今回、精読することにしました。第六章まであり、一章ごとに検証する計画ですが、変更するかもしれません。お付き合い下さい。
今回は「討ち入りの真相ー上野介は”戦って”死んだ」(最終回)です
史料を多用した「上野介を弁護する」弁護士役の岳氏
史料を多用して検証する検事役の私
「模擬法定のはじまり、はじまり」
 事実関係は、標準のフォントで記述します。
 弁護士のコメントはピンク色で表示します。
 検事のコメントはブルー色で表示します。
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弁護士が、吉良家や上野介の膨大な史料を提出
 岳弁護士は、「膨大な史料や書籍から上野介の人となりを紹介します」と言って、物証を提示しました。
 検事は、「膨大な史料に基づいて、弁護されることに敬意を表します」と述べました。
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弁護人は、「討ち入りは逆恨みであり、『吉良日記』を盗んだのは暴挙」と赤穂浪士を断罪
検事は、盗んだという根拠を追求し、「これは名誉毀損だ」と主張
(1)「此宗偏へ大高源五町人ニ作り弟子ニいたし候て会日ヲも自然と承候、先日在之候へ共、御成日故致遠慮今日会在之付明日打込申事二候」。2日の討ち入りは、徳川綱吉が柳沢吉保邸にお成りになったので、14日に延期になりました。
(2)「打込候ハヽ男女之無差別一人も不洩様ニ何も心懸専要ニ存候」(『心覚書』)。討ち入ったなら、男女の差別なく打ち漏らさないように心がける。
(3)「意趣を含み罷りあり候」「右喧嘩の節」「家来ども麓憤をさしはさみ候」「君父の讐ともに天を戴くべからざるの儀黙止がたく」(『口上書』)。
 岳弁護人は、「赤穂浪士は用意周到に準備し、討ち入りました。討ち入りの口上書を見ると、逆恨みが全て集約されています。吉良側の茶会前後の文書類は、すべて消失しています。代々の当主の『吉良家日記」が後世、赤穂で発見されています。許しがたい暴挙である」と、ここぞと口を極めて、主張しました。
 検事は、「弁護人は、証拠178ページでは『赤穂で発見されている』と断定しています。しかし、証拠84ページでは『この日記類が最初に赤穂で見つかったという話がある』」と伝聞を紹介しています。弁護人は、赤穂にあるということを確認しましたか」と、その矛盾を追及しました。
 岳弁護人は、「……」でした。
 検事は、「私は、赤穂市の責任ある地位の方から確認しました。きっぱりとその事実は否定されました。事実でない伝聞を断定的証拠にすり替え、自説に有利に導こうという魂胆は、名誉毀損に当ります。裁判長は、その点、しっかりと記憶にとどめて頂きたい」と主張しました。
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弁護人は、「吉良側家でも戦っている人は戦っています」と主張しました。
検事は、「同感です」と同調しました。
(1)「きのふふりたる雪の上に暁の霜置、氷りて足もとも能、火のあかり世問をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも、有明の月さえて道まかふへくもなくて、敵の屋敷の辻迄押詰、爰より東西へ廿三人ツヽ二手にわかれて取かけ、屋根より乗込申候」(『小野寺十内書状』)。
(2)「親子一方ヘハ向ハぬ事にて我等ハ西へ懸り幸右衛門ハ東へむかひ候、源吾・幸右衛門其外弐三人彼是四五人一度に屋根を一番に乗屋根の上より飛下りさまに高声に名乗て直に玄関にかゝり、戸を蹴やふり押込、番人三人広間に寝て居たるか起て立むかふ」(『小野寺十内書状』)。
(3)「清水逸学(一学)、御両人様一上野介と左兵衛一御供仕須藤・鳥井討死之節、少々戦ひ討死」(『大熊弥一右衛門見聞書』)
(4)「小屋より出而御門半戸口ヘ参候処被搦取上野か居所案内せよと申候得共、平八儀下々に而存不申と申候へは、下々か絹の衣類成者かと其侭首討取られ候由首見不申候」(『大熊弥一右衛門見聞書』)。
(4)「長屋より上野様家老小林平八と申者出合内匠様家来え両人手負せ候へ共、右平八太刀折しに付玄関前にて被討候由」(『桑名藩所伝覚書』)
(5)「小屋より飛出可申と見申候得共鎗に而待懸候故立帰り脇差斗に而竹塀を飛越へ御門半戸口をけはかし内へ入候ヘハ、敵三人に而戦一人は池之内へ切伏一人ハゑんきわに而切伏候処を後より鎗に而突候処をしらはとりよけ候処へ又一人参り」(『大熊弥一右衛門見聞書』)
(6)「鬢先より口之わき迄切付られ倒れ暫置き又おき上り左兵衛様御寝間へ参り候へ共一人も居不申故、奥へ入候処ニ又二人罷出戦ひ御寝間之横の座敷に而倒れ申候由検使ニ御出之衆も御褒披之由、御知行処と御言之由、脇差なとハさゝらの如くの由」(『大熊弥一右衛門見聞書』)
  弁護人は、「吉良家でも戦っている人は戦っています」と、述べました。
 検事は、「同感です」と同調しました。 
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弁護人は、「裸同然の吉良邸を襲い、中学生を殺害した」と残虐さを強調しました。
検事は、「長屋に120人雇って裸同然はないでしょう」と反論しました。
(1)「総人数百五六拾人有り、尤着到ニハ四拾七人と見へ候得共、又もの并加勢有之由責道具ハ鑓廿弍挺、長刀四振、刀・長刀二振、弓七八挺右之内半弓有、空穂征矢持也、装束ハ火消の出立なり、武具着候者弐人、靹甲・鎖かたびら・同袴・嬬当・いと鞋其上に革羽織、同頭巾着白布にてたすき懸」(『本所敵討』)。
(2)「これも亦無ふんと本所の検使言い」(『川柳』)。
(3)「火事装束ニ見へ押込申候」 (『吉良本所屋敷検使一件』)。
(4)「夜討乱入埼もなき様子ニ御座候」(『野本忠左衛門見聞書』)。
(5)「十三四の小坊主ふとんのかふり臥て居候処、敵三人来夫突と申鑓ニ而突わきの下かすりツキニ突、息をころし居候ヘハ仕留タルト申通」(『本所敵計』)
 弁護人は、「裸同然の吉良邸に、赤穂浪士は武装して多数で押しかけてきて、中学生の子どもがふとんをかぶり、息をころして伏せているところを槍で突いて仕留めています。”赤穂浪士礼賛者”は、その種の残虐行為をどう思っているのでしょう。亡主への忠義・忠誠のまえでは、見すごしてもかまわないのでしょうか」と赤穂浪士の非道振りを取り上げました。
 検事は、「吉良邸の長屋には120人も雇っています。それで裸同然はないでしょう。”私は中学生ですから殺さないで下さい”と書いていてもその場におれば、戦力とみなされるでしょう。今の視点で当時を判断するのは、間違っています」と反論しました。
弁護人は、「柳沢吉保の謀略である」と自論を展開しました。
検事は、「将軍・側用人・高家筆頭のトライアングルへの反発ではないですか」と反論しました。
(1)「御となり土屋采女様御屋敷殊外さわき揚てうちんなと用意御人数御出し候様ニ見及候故、塀こしニ御断申上候、斯之通之仕形ニて押かけ申候、若御人数なと御出し夜中御けかなと有之候ヘハ迷惑仕候、火用心ハ稠敷仕候、少も御構不被成様ニと申候、御返答ハ無御座候へ共御静被成候」(『浅野浪人敵討聞書』)。
(2)「道々辻番所にて咎メ町にては木戸を打なと致し通し申間敷と申所も御座候由、其節は次第を申通り候、聞届ぬ所ニ而は鑓をふりむけ勢を見セ候得は相違なく通候由」(『義士実録』)。
(3)「井伊掃部頭様辻番所前通り候得は番人両人罷出是は何と致したる事にて何方江御通り候やと申候得は、其時何れも是は浅野内匠頭家来とも亡君之敵を討通り候と申候得は両人の番人其通ニ而辻番江戻り候得は、追付番人四人茶碗二十斗り持やくわん二ツに茶を入れ四十六人の衆を追懸本望御達し被成抑々御手柄に御坐候、嘸々御疲れ可被成と存候間御茶をあかり候て御通り被成候得とて何れもへ茶を振廻申候由」(『義士実録』)。
 弁護人は、「吉良邸の隣の旗本や辻番も見て見ぬ振りをしています。引揚げの時には、大名までが赤穂浪士に湯茶まで振る舞っています。これは柳沢吉保の吉良上野介を貶める策略ではないでしょうか」と自論を展開しました。
 検事は、「名君吉良上野介も、隣家の旗本にまで見放されている証拠で七位ですか。討ち入りを応援していた江戸の庶民、辻番の姿ではないですか。大名が湯茶で接待するとは、将軍徳川綱吉と側用人柳沢吉保と高家筆頭吉良上野介のトライアングルへの反発ではないですか。徒党は大罪です。にも拘らず、多くの人々が討ち入りを支援しています。それを考えてことがおありでしょうか」と反論しました。
弁護人は、「大怪我までした吉良義周を処罰するのは不当である」と指摘しました。
検事は、「父を見殺しにして、自分だけ逃げたんでは処罰は当然ですよ」と、くだけて反論しました。
(1)「乱入候者ハ手負たる斗にて討留不申候、拙者方江切込申候二付当家之家来側にふせり居甲候者防申候、拙者ハ長刀二而防申候処にニケ所手負申候而其節眼へ血も入気も遠くなり暫く候而正気附、上野介儀無心許存居問へ罷越見候得は最早上野介ハ被討申候」(吉良義周の幕府への『口上書』)。
(2)「須藤与一右衛門、山吉新八事、左兵衛様へ立ち塞がり戦い申し候故、左兵衛様御命恙なくと申すことに御座候」(『塩井家文書』)。
(3)「御評定所にて、左兵衛様御疵は、武林唯七に御座候由、唯七才覚申す段、もっとも長刀をもって御懸念、賢き御働きぶりに候と申す段、御後ろの疵も逃疵にはこれなく、前後左右より取囲み、四方八面切立申す故御後ろにも疵これある由」(『塩井家文書』)。
 弁護人は、「吉良義周は、赤穂浪士と戦い、大怪我をしたにも関わらず、シナリオ通りに、敵を目前にしながら、戦おうとしなかったことを理由に処罰されている」と主張しました。
 検事は、「弁護人は、吉良義周の処罰の理由を”戦おうとしなかったからだ”と主張していますが、弁護側の証拠によると『当夜の仕方不届き至極』となっています。つまり、”父を見殺しにして、自分だけ逃げたこと”を処罰の対象にしているのです。誰だってこれはいけませんよ」と、弁護人の主張に、くだけた口調で、反論しました。
弁護人は、「上野介夫婦の不仲説はありえない。襲撃におびえることに辟易し、油断」と指摘
検事は、「ある時は、油断し、ある時は、噂におびえ、最後は大きな油断で命を落す。どれが名君?」と反論
(1)「右之通り上野介殿隠居所吟味仕り候へ共、相い見へ申さず候に付、或は二階、或は押込、又は長持等に至る迄さがし候へ共、相い見へ申さず候に付、小時相い待ち、夜明けに及び、縁の下、長屋までさがし見申す可き旨申し合せ候処、台所口左の方炭部屋これ有り、三尺戸たてこれ有るを見つけ、戸たたき破り候へ其、内くらく候故、鎗の先に蟷燭をさし、見分け仕り」(『寺坂信行私記』)。炭部屋の中は暗かったので槍の先に蝋燭を付けて、見分けることが出来ました。
(2)「猶又矢四五本射込み候間に、内より色々の物をなげ出し、其の紛に侍壱人逃出し候、台所前に固め候者共討留め候、其の跡に壱人相い見へ候に付、間重次郎鎗付け申し候、尤武林唯七その外居合せ候者、切り申し候て死体引出し見候所」(『寺坂信行私記』)。@間重次郎が槍を突き刺し、武林唯七らが切りつけ死体を引き出した
(3)「三人居り申し、皿、又ハ、茶碗炭なとニ而投打をいたし候ゆへ、間十次郎其まゝ鑓つけ申候、上野介殿前に両人立ふさかり防き申者殊外働き申候、両人共ニ打果申候、上野介殿も脇さしをぬきふり廻り被申候処を重次郎鑓つけ」(『堀内伝右衛門筆記』)。A上野介殿も脇差を抜いて振り回すので、間重次郎が槍を突き刺した。
(4)「内二人三人も有之と相見へ、内よりむさと仕たる物をなげ打ニいたし防申候処、きび敷セり詰申候付両人両度ニ外江切出申候而少々働申侯を討留申候、残り之者を間十次郎一鎗突申候所、脇指抜あハせ申候を武林只七一刀切とめ申候」(『富森助右衛門筆記』)。残りの者を間十次郎が槍で一突きし、B脇指を抜いたので、武林只七が一刀のもとに切切り殺した。
(5)「上野介首不見候、死骸斗有之候、手疵両の手之内ニ壱ケ所充左の股に一ケ所右之膝頭二ケ所。右足こふらに同人刀無銘長サ弐尺三寸柄に切込有所々に血付脇指不見」(『検使調書』)。C両の手に1ヶ所、右の膝頭に2ヶ所負傷している。2尺3寸の刀の柄に血がついている
(6)「御手疵数ケ所」「上野介様御首打取候而御むくろ斗差置罷帰申候、随分御働被遊候御様子ニ、段々相知申候、向之者ニも手を為御負被成候事」(『野本忠左衛門見聞書』)。D負傷は数ヶ所で、上野介様は随分お働らきようで、赤穂浪士にも怪我をさせた
(7)「脇指に血付こぼれ、柄口に切込之由」(『江赤見聞記』)。E脇差に血がついて刃こぼれしていた
(8)「大石内蔵助口上之趣、上野介殿寝間見申候ヘハ小袖はかり有之居不申付、方々尋候処ニ灰部屋ニ居被申候、白小袖を着候者上野介殿ニ可有之と存鑓にて突申候、上野介殿脇差を抜刃向被申候付、脇ニ居候者弐人ことの外働申を、是も討留候」(『本所敵討』)。大石内蔵助口上に、F上野介殿は脇差を抜いて刃向かってきたとある。
 弁護人は、「吉良上野介義央が大石内蔵助のまえに土下座して、”生命ばかりはお助けを”という場面は、けっしてなかった。それは、彼が浅野内匠頭をいじめぬいたという話が眉つばであったのと、基本的におなじことだ。上野介とて、精一杯に戦い、浪士たちの理不尽な”逆恨み”に対し、頑なにあらがったすえに果てたのです」と上野介を必死に最後の弁論を行いました。
 検事は、「弁護人は、大石内蔵助の”武士の情け”の口上をそのまま信用して、上野介が武士らしく戦ったと思いたい気持ちはよく分かります。しかし、弁護人の証拠@〜Fを吟味すると、身の危険を振り払うために脇差は抜くだろうし、刃向かいもするし、刃こぼれもするでしょう。しかし、それで、武士として堂々と立ち向かったということにはなりません」と厳しく指摘し、「上野介が土下座して命乞いしたのはフィクションの世界であり、浅野内匠頭の遺恨と同列に論ずる最終弁論は破綻をしています」と手厳しく反論しました。
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『吉良上野介を弁護する』を終わって
 1冊の本で、これだけ熱く燃えたことはなかっただけに、この機会を与えて頂いた岳真也氏に感謝致します。
 史料を提示せず、憶測だけの推論では、こうも熱くはならなかったでしょう。
 同じ史料でも、解釈の違いで、評価が違うことも知りました。是非、ここに提示した史料を読解され、多くの方の論戦を歓迎します。
 憎まれ役の吉良上野介を弁護したい人はいません。その点、岳真也氏は、貧乏くじを敢て引いた勇気には拍手を送りたいと思います。
 しかし、弁護をするというのが結論にあるため、論点がずれています。
(1)浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだのは逆恨みである。
(2)吉良上野介は名君で、他人から恨まれるような人ではない。
(3)討ち入りを可能にしたのは、吉良上野介を嫉んだ柳沢吉保の陰謀である。
(4)多数の武装集団が無防備な吉良邸を襲撃した。
(5)吉良上野介は、武士らしく戦って死んだ。
 私の反論です。
(1)史料からは、刃傷事件の背景は分かりません。刃傷事件があったという事実だけです。
(2)名君のお側衆から重大な情報が漏洩しています。不思議な名君です。
(3)討ち入りを可能にしたのは、幕府政治に不満を持つ庶民・旗本・大名が、赤穂浪士を支持したからです。
(4)無防備な吉良邸になぜ、常時、150人もの侍がいたのでしょうか。
(5)吉良上野介が武士ならば、刃傷事件の時に、逃げ惑うことなく、立ち向かっていたはずです。それが当時の武士道だったのです。吉良上野介の傷については、11の史料がありますが、一級史料といえるのは7史料です。その内の上杉家史料2点が上野介が華々しく活躍したとあります。上杉家・吉良家史料2点は二ヶ所から数ヶ所の傷です。その他の史料2点は二ヶ所の傷です。間十次郎の槍で刺され、武林唯七に切られ、脇差を振り回しているうちに、あちこちかすり傷を負ったというのが本当です。詳しくは、私の忠臣蔵新聞222号を参照してください
 最後に…
 ずーっと昔、ポール=ニューマン扮する飲んだくれ弁護士が医療事故に立ち向かう「判決」(?)という映画を見ました。ある証人が原告に有利な証言をすると、原告(病院側)の弁護士がその証人の破廉恥な過去を暴き、陪審員にその証人の証拠能力がないことを立証しました。組織的な抵抗にも屈せず、闘っているうちに、飲んだくれからも脱皮するという物語でした。
 岳真也氏は、「『吉良日記』が赤穂市にある、しかも赤穂浪士かその関係者が犯人であろう」と断定しています。
 私は、岳真也氏に対して、『吉良日記』について、「伝聞を断定した根拠は何ですか?赤穂市に確認されましたか?」という内容で、期限付きメールを出しました。
 前回は丁寧なメールを頂きましたが、この件に関しては、期限付きメールの月日が過ぎてもメールをもらっていません。岳真也氏からメールが届き次第、後報でお伝えします。

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