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ごあいさつ
第四十三回はPHP文庫
中江克己著『忠臣蔵の収支決算』(2)

 身長200センチの人から見れば身長が170センチの
人は小さく見えます。身長150センチの初人から見れば身長が170センチの人は大きく見えます。
 また、「多い」「少ない」といっても基準が曖昧な場合、受け取る側の主観となり、共通の土俵で論議できない。程度の副詞的用語を使わずに、科学的・客観的な記述が必要です。
 私は、『兵庫史学研究』(兵庫県歴史学会)に、「数量的史料による日本史授業の展開」と題した論文を、第26号(1980年)・第27号(1981年)・第28号(1982年)の3回にわたって発表しました。その一部を紹介します。
 生類隣みの令の期間は1685年から綱吉の死んだ1709年までおよぶ。1695年大久保に2万5000坪、中野に16万坪の犬小屋をたてて野犬を飼養した。その工費は銀2314貫(金4万6280両)であった。
 中野屋敷だけで常時10万頭、総数30万頭に及んだ。犬1匹に対する1日の献立は白米3合、味噌50匁、干鰯1合などを与えた。30万頭に対する1日の費用は銀60貫、年2万1900貫(金43万8000両)におよぶ。この御犬様費用として、1696年8月関東の直轄領に対して高100石に付1石の税と江戸の町人に小間(間口1間又は20坪付金3分の上納を命令した。
 生類隣みの令による重罪人は、江戸だけでが6737人でその内死刑が328人もいる。将軍家宣の大赦で釈放きれた数は全国で8831人に達している。
 生類隣みの令がどんな法律だったかが分かります。
江戸から赤穂までの駕籠代はいくら?
 早水藤左衛門と萱野三平は、3月14日七ツ半(午後5時)、江戸鉄砲州の浅野家上屋敷を出発しました。江戸から赤穂までの距離155里(約620キロ)を早駕籠で4日半で走破しました。
 江戸の辻駕籠の運賃は金2朱で、1両の8分の1になります。1両20万円とすると、2万5000円になります。
 駕籠を4人で担ぐ場合、1分になります。1分は1両の4分の1です。5万円になります。
 1日5万円×4.5日=22万5000円となります。今は、新幹線の時代です。当時はベラボウに高かったのですね。
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藩札発行900貫、在庫700貫、その差200貫が不足
 大石内蔵助と大野九郎兵衛は、札座勘定奉行の岡嶋八十衛門に藩札引き換えの調査を命じました。
 1701(元禄14)年3月の時点で、900貫の藩札を発行していました。1貫は1000匁です。金1両が銀60匁です。
金に換算すると、1万5000両で、今のお金にすると30億円となります。
 岡嶋八十衛門の調査によると、赤穂藩の在庫は銀700貫でした。発行は900貫ですから、200貫が不足です。
 そこで、大石内蔵助は、広島の浅野本家に300貫の借銀を申し入れました。しかし、応対した留守居役の沖権太夫は「一存では何との致しがたい」と回答しました。
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藩札6割で交換し、藩の債務は帳消しに
 大石内蔵助は、大野九郎兵衛と協議し、3月20日から「額面の6割」で藩札の引き換えを行いました。藩が取り潰しの場合、4割か5割が交換比率です。6割という交換比率は、藩札史上でも最高といわれています。
 浅野内匠頭の妻の実家も、三次藩内で流通していた赤穂の藩札を肩代わりしました。
 こうして、藩の債務はゼロになりました。
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退職金は高禄には薄く、小禄には厚くの方針
現実は大石内蔵助には2400万円、足軽には100万円
 藩(会社)が改易(倒産)になりました。浪人(元従業員)には退職金を支払う必要があります。
 藩札900貫の6割とは540貫です。在庫700貫から540貫を引けば、160貫が手元に残っています。その分配をめぐって、大石内蔵助と大野九郎兵衛とが対立しました。大石内蔵助は「高禄の者は、武具や家具を売れば、3年は食っていける。小禄も者はそれができないので、多く配分したい」と主張しました。他方大野九郎兵衛は「高禄の者はそれだけ費用がかさむ。禄高に応じて配分すべきだ」と反対しました。
 その結果、折衷案が決定しました。基礎支給額を決め、これを元に高禄の者ほど減額するというのである。禄高100石に付き18両を基礎額として、100石増すごとに2両ずつ減額する。500石以上は100石につき10両ずつ減額する。
 禄高200石の場合、基礎額@100石の18両、A(100石=18両)−2両=16両、@+A=34両となります。1両=20万円とすると、480万円の退職金ということになります。
 禄高300石の場合、基礎額@100石の18両、A(100石=18両)−2両=16両、B16両−2両=14両、@+AB=48両となります。1両=20万円とすると、960万円の退職金ということになります。
 禄高1000石の場合、120両=2400万円となります。大石内蔵助の場合は1500石で170両=2400万円です。
 小禄の者を見ると、中小姓組14両、徒歩組10両、並役人7両、小役人5両、持筒足軽・水手は米3石、槍持足軽は米2石などとなっています。
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浅野家再興運動費として約900万円を投入
 大石内蔵助は、浅野家再興のために、遠林寺住職の祐海を派遣しました。その費用には44両1分を計上しています。今のお金にすると、885万円になります。相手は僧隆光だったり柳沢吉保といわれています。
 しかし、再興には失敗しました。
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公金690両から、花岳寺などへ永代供養料を納める
 1683(天和3)年、三次藩主浅野長治の次女阿久利(17歳)が赤穂浅野藩主の浅野内匠頭の妻となりました。この時持参した化粧料を塩田業者に化し付け、その利子を阿久利に諸費用にしていました。
 赤穂藩が取り潰しにあったとき、阿久利の塩田業者への貸付金は利子を含め5470両になっていました。塩田業者からの回収金570両とあわせると、大石内蔵助の手元に集まった公金は690両になりました。
 その中から、大石内蔵助は、各寺院に永代供養料を支出しました。
 浅野家の菩提寺である花岳寺へ 田地3町5反1畝6歩
 初代藩主浅野長直夫人の墓がある高光寺へ 田地5反2畝9歩
 二代藩主浅野長友夫人の墓がある大蓮寺へ 団地4反6畝4歩
 浅野家の祈願所である遠林寺へ 金50両
 高野山へ永代供養料を寄進し、奥の院に浅野内匠頭の供養塔を建立しました。
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生活費節約のためのあった、内蔵助の妻子との別れ
 6月25日、大石内蔵助は赤穂の新浜港を出て、6月28日、大坂から京都山科に着きました。旧赤穂藩物頭の進藤源四郎が身元保証人となり、大石内蔵助は、1800坪(5940平方メートル)の土地を300両(6000万円)で購入しました。退職金は2400万円でしたから、武具・家財道具などを売ったお金で工面したのでしょう。
 大石内蔵助は、長男の大石主税を残し、妻と次男・長女・次女を妻の実家である豊岡に帰しました。経済的な理由もあったのでしょう。
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島原太夫は一晩で127万円、大石内蔵助が通ったのは一晩約5万円の「鹿恋」か?
 島原には300人の遊女がいて、太夫は13人でした。江戸の吉原には2900人の遊女がいて、太夫は5人でした。
 島原の太夫の揚げ代は銀76匁(25万4000円)でした。それ以外にも、茶屋や揚屋への代金、酒食のお金などを入れると、一晩で127万円になります。
 井原西鶴は『好色一代女』で「有銀500貫目より上のふりまわしの人、太夫にも逢ふべし」と書いています。銀500貫とは今の16億6000万円です。
 大石内蔵助にはそれだけのお金がありません。当然、映画やTVのような盛大な遊びの場面はありません。大石内蔵助が行ったのは、伏見の撞木町です。ここには、娼家が7軒、揚屋が5軒ありました。内蔵助が通ったのは、笹屋という揚屋でした。浮橋や夕霧は太夫でなく、次位の「天神」と呼ばれる遊女だったといわれています。
 天神は銀30匁で、金にして2分(1両の2分の1)ですから、今の10万円です。
 大石内蔵助は、天神を度々相手にできないので、天神の次位の「鹿恋(かこい)」という遊女を相手にしていたといいます。「鹿恋」は銀18匁なので、4万8000円で買えたといいます。
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可留(18歳)を息女にする
 大石内蔵助の遊女通いが激しいので、叔父の小山源五右衛門や進藤源四郎(内蔵助の叔母の夫)らが諌めました。しかし、聞き入れないので、可留を妾にすることを勧めました。
 可留は、京都二条にある一文字屋の娘で、当時18歳でした。可留は、5人の旦那に囲われ、1人から1か月5両をもらっていました。
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井沢元彦氏は「公金を横領して遊興す」と主張
中江克己氏は「”軍資金”には手をつけず、すべて自分の金で遊んだ」と反論
 井沢元彦氏は、鬼の首でも取ったように、風評以外の珍説を紹介して話題を作る名人です。「大石内蔵助は公金を押領している」と主張しているのも井沢氏です。
 中江氏は、公金とは、阿久利の化粧料と塩田業者からの回収金の690両といって、軍資金と表現しています。
 また、中江氏は、「内蔵助は”軍資金”には手をつけず、すべて自分の金で遊んだ」と記述しています。

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