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ごあいさつ
第四十四回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(1)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
専門家の前では平身低頭する井沢元彦氏
 井沢元彦氏は『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)で、東大史料編纂所に長らく勤めていた松島栄一早稲田大学教授と対談しています。
■松島栄一「井沢さんには僕の本のこともいろいろ書いていただいたようだね(笑)」
●井沢元彦「忠臣蔵研究にはやはり、松島先生のお書きなった 『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)が定本になりますから。なにぶん小説の上での推理、ご無礼の段はお許しください」
■松島栄一「いえいえ、気にしていませんよ」
*解説(忠臣蔵の専門家の前では、自分の忠臣蔵論は「小説の上での推理」であると弁解しています。プロのノンフィクション(歴史)学者に、私はフィクションの小説家であることを主張しています)

井沢氏は「老人と後から不意打ち」持論を展開
松島氏は「前から斬ったという史料もあり、後からとは断定できない」と反論
井沢氏は「そうですか」とあっさり持論を撤収
●井沢元彦「主君の無念を晴らすために集団で討ち入るということはそれまでに例がないんです。多少は危ないと思っても、前例がないわけですから用心はしていなかったでしょう。この赤穂事件、いわゆる忠臣蔵に関しては、善玉と悪玉がはっきりわかるように美談にしてしまったフィクション作成者の罪は大きいと思います。その美談が一般常識として刷り込まれたわけですから。だから、討ち入りを起こすに至った殿中での刃傷事件にしても、ドラマでは浅野内匠頭が吉良上野介に「この間の遺恨、覚えたか」と言って正面から斬りかかりますけど、本当は後ろからなんですよね。それについては、事件現場に居合わせ、浅野内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛の『梶川筆記』にはっきり書いてあるんです。つまり、老人を不意打ちしているわけ」
■松島栄一「僕も『梶川筆記』が一番信頼できる資料ではあると思うけど、当時の資料を使って一九世紀に入ってから書かれた『徳川実紀』によると、前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです。前と後ろに二カ所傷があるからね」
●井沢元彦「そうですか。ただ、言い切れないのを吉良上野介を悪人にした物語に仕立て上げるために言い切ってしまったことに問題があるんです。そうしてみると、刃傷の原因についても塩の問題、賄賂の問題と諸説ありますが、歴史学の上で言うとどうなんでしょうか。
■松島栄一「これもいろいろ説があって、決定的な原因と言えるものはないんです」
*解説(井沢元彦氏は、「浅野内匠頭は、老人である吉良上野介を後から不意打ちしている」と持論を展開します。しかし、松島栄一氏は、史料に基づいて、「前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです」とあっさり井沢持論を否定します。それを井沢氏は「そうですか」と引き下がっており、簡単に決着となりました)

井沢氏は「吉良上野介は、評判よく、強欲でなかった」
松島氏「そうとも言い切れませんと」反論されシュン
●井沢元彦「僕は吉良の領内に行って評判を聞いてみたんですけど、すごくいいんです。ただ、僕も昔ジャーナリストをやってましたから一応疑いの目で見ましてですね、あまりの悪人にされた反動じゃないかとも思ったんですけど。農民のために堤を作ったりした事実は残っていますので、仮に倹約家だったとしても、それはいわゆる強欲だったんではない、と僕は思うんです」
■松島栄一「だけど、僕は、吉良が悪人″ではなかったとは、必ずしも言い切れないと思うんです」
●井沢元彦「そうお信じになる根拠は何ですか。ドラマで言われているような畳替えとか、精進料理とかにまつわるいじめを信じていらっしゃるわけではありませんよね。
■松島栄一「そういう説は信じていませんけど、やはり「遺恨あり」と言って斬りかかったわけですから、何かあったのではないか……と」
*解説(井沢氏は「吉良町に行ったら、吉良上野介の評判はいいんです」とか「強欲ではなかった」と指摘すると、松島氏は「吉良が悪人でないとは言い切れない」と反論されます。強欲でなくて、評判がよければ、14日の在宅情報を儒学や茶道の家庭教師が、敵の大石内蔵助に漏らすことはありません。「14日に在宅している」という個人情報を漏らすことは、殺して下さいと密告しているのと同じわけです)

井沢氏「泉岳寺で自殺しなかったことに疑義あり」
松島氏「幕府が喧嘩と認めるか、暴力と認めるか、それが内蔵助の賭け」と反論されシュポッ
◆皆川博子「刃傷のはっきりした原因がわからないとしたら、大石内蔵助たちの討ち入りの目的は何だったのでしょうか」
●井沢元彦「僕は人を殺す度胸なんかないけど、刃傷に及んだあの事件はその原因が何にせよ、浅野内匠頭が吉良上野介を殺せなかったという失敗が、大きかったと思うんです」
■松島栄一「恐らくそうでしょう。大石内蔵助たち家老の考えの中には、殿様は吉良を殺しそこなっている、このままでは浅野家に汚名が残ってしまう。家来である自分たちはそれを承服できない。だから、吉良上野介を倒して汚名をそそがなければならない。つまり、一人の未熟な殿様のために四七人プラスアルファーが苦労したという、誠に残酷な封建時代の物語であったわけです。
●井沢元彦「だから、大石内蔵助は確かに主君のし残したことをしたんですが、それが果たして正義だったかということはわからないわけです。つまり、最後まで遺恨あり≠フ原因ははっきりしないわけですから。もし、本当の意味で主君の汚名を晴らすなら、討ち入りを終えて吉良邸を立ち去る時に残していった、『浅野内匠頭家来口上書』の中に付記されてなければならないのに、触れてないわけですから。ただ、一つわからないのは、大石たちは討ち入りを終えた後、なぜすぐに腹を切らなかったのですか」
■松島栄一「幕府の裁きを見つめたいという気持ちが浪人たちにあったと思うんですよ。一つには、浅野家が断絶になったわけだから、吉良家をどうするか、つまり義周をどう裁くかを見つめる必要があったのだと思います」
◆皆川博子「ただ、吉良側には裁かれるという欠点はなかったと思うんですが」
●井沢元彦「なかったんですよ」
■松島栄一「そう、なかったんですけど、義周をどう裁くか、そして自分たちをどう裁くかというのは、遺恨がありこれは喧嘩であったと幕府が認めるか認めないかということになるわけですから、大石たちにとって重大なことだったわけです。先程、皆川さんが討ち入りは暴力だとおっしゃいましたけど、暴徒として断罪すべきだという説も一方にあったわけですから。まあ、結果は主君に対する忠義の家臣として切腹を言い渡されるのですが、二カ月もの間、幕府は判決を迷ったんです」
*解説(井沢氏は、「討入り後、泉岳寺で切腹しなかった大石内蔵助らに不信を持っている」と持論を展開します。松島氏はこれも「幕府が喧嘩と認めるか、暴力と認めるか、内蔵助にとっては重大な賭けをしたのです」と反論されてしまいます)

松島氏が亡くなる
井沢氏は「松島氏も忠臣蔵錯覚に洗脳されていた」と非難・中傷
 2002(平成14)年12月12日、私に転機を与えてくれた松島栄一氏が亡くなりました。
 松島栄一氏の死の悲しむ者がいる反面、松島氏の呪縛から解放された人物がいます。井沢元彦氏です。

 井沢氏は『文治政治と忠臣蔵の謎』(小学館)の中で次の様に書いています。
 「歴史学者として綿密な考証で赤穂事件を書いた、松島栄一氏の『忠臣蔵』(岩波書店刊)では刃傷事件の直後を次のように描いている。

  午後、綱吉は老中たちを集めて、浅野に対する裁決を相談した。綱吉の怒りはまだ収ってい
 なかった。即日、切腹を申し渡す、というのが綱吉から出た意向であった。老中のうち稲葉丹
 後守は、浅野は乱心の態に見うけられろからといって、最後的な処分の猶予を願った
。秋元但
 馬守も、土屋相模守も、ほぼ同意見であったといわれている。このような即決をはばかる(浅
 野に同情的な)老中たちの意見が多いのを知って、まだ怒っていた綱吉は、座を立って奥に入
 り、その後で、月番老中の土屋を呼んで、浅野の切腹を命じたのである。  (傍線引用者)

 事件直後の展開については、「松の廊下」と違って大勢の目撃者もおり、何より幕府の公務として話が進んだから、経過は割合明確である。
 実は、当時の老中(定員5人)のうち三人までが「浅野は乱心」ではないかと見ていたのである。ここのところ「忠臣蔵(という虚構)」では「例の目立ちたがり屋」の目付、多門伝八郎が浅野に「さだめし乱心であろうな」と問いかけ、浅野にそれを認めさせようとしたのに、浅野は意地を張って「乱心ではござらぬ、遺恨でござる」と馬鹿正直に答えたために、伝八郎の心遣いが無駄になるという「名場面」がある。
 そのシーンが「忠臣蔵錯覚」となって人々の頭に刷り込まれているので、ここのところ多くの人々が(実は著者の松島氏さえも)老中の多くも「浅野に同情的」だった、と読んで、しまっている
 しかし、ここでそういう先入観を捨てて考えてみよう。彼等は見たままを言っているのではないか。つまり「乱心に見えたから(同情ではなく)乱心と言った」だけのことではないか。「同情的」という「考え方」の中には「これは一方的な刃傷ではなく喧嘩」であり「浅野は吉良にイジメられていた」、だから「可愛想だ」という「見方」がある。だがそれは「忠臣蔵錯覚」なのである。それを排除して考えれば、つまり「誰が見ても浅野はヘンだった」ということではないのか。
 これが前節からの流れで言えば、「浅野乱心説」の理由の第四番目である。「浅野乱心説」の方が「遺恨(正気)説」よりはるかに説得力があることがわかって頂けたと思う。
*解説(井沢氏は、歴史の専門家の松島栄一氏の前では、「私は小説家で、その推理は小説家の推理です」と予防線をはり、悉く反論されても、傷を最小限に防ぎとめる策を取りました。しかし、松島氏が亡くなると、松島氏の説を忠臣蔵錯覚に犯された歴史家だと断定しているのです。まさに、歴史修正主義者の正体丸出しです。)

次回から「歴史修正主義者井沢元彦を斬る」に挑戦
 私は、講演会、ホームページの忠臣蔵新聞(ヤフーでは約79万件の内の2番目)・高校日本史(ヤフーでは約509万件の3番目)・相生市の伝説と昔話(グーグルで約29万件の内の2番目)など、超多忙を極めていますが、このような歴史修正主義者の忠臣蔵像には、キチンと対応する必要があります。
 次回から、時間を見つけて、井沢元彦氏の「忠臣蔵はデタラメだらけだ」のデタラメさを検証していきます。

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