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ごあいさつ
第四十六回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(3)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
専門家の前では平身低頭する井沢元彦氏
 井沢元彦氏は『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)で、東大史料編纂所に長らく勤めていた松島栄一早稲田大学教授と対談しています。
■松島栄一「井沢さんには僕の本のこともいろいろ書いていただいたようだね(笑)」
●井沢元彦「忠臣蔵研究にはやはり、松島先生のお書きなった 『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)が定本になりますから。なにぶん小説の上での推理、ご無礼の段はお許しください」
■松島栄一「いえいえ、気にしていませんよ」
*解説(忠臣蔵の専門家の前では、自分の忠臣蔵論は「小説の上での推理」であると弁解しています。プロのノンフィクション(歴史)学者に、私はフィクションの小説家であることを主張しています)

歴史実証主義と私の立場
 井沢元彦氏の書評(1)(2)をSNSで紹介したところ、ある方から、色々と指摘がありました。
 私は、以前から、「社会科学も科学であるかぎり、定義をきちんとしていないと、意志の疎通を欠く」という原則を主張してきました。ここで、その原則を再度確認しておきたいと思います。
 社会科学で科学的方法とは、帰納法などを一般にいいます。たくさんの史料や事象から共通の真理を求めるのです。
 自然科学で科学的方法とは、演繹法などを一般にいいます。疑っても疑っても疑い得ない真理を総合し、真理の総合から真理を求めるのです。演繹法の代表的な手法に三段論法があります。また、数学は演繹法を用いて得られる真理のみを扱う学問です。
 私は、井沢氏を含め、批判をしたり、意見を言う相手を、「右翼だ」とか「左翼だ」とかレッテルをはるつもりはありません。川下から見れば「右」でも、川上から見れば「左」です。
 社会科学である歴史は、たくさんの史料を集め、実証主義的帰納法で、比較・検討し、共通する真理を探るものです。これが学問であり、研究の立場です。多くの史料から得た真理を、その人の体験・知識・感性などを総合して評価します。その結果、評価が違うことは当然です。自分の意見に合わなくても、その評価は尊重しなくてはいけません。これを歴史実証主義といい、私は、この立場に立っています。

歴史修正主義と私の立場
 他方、自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 つまみ食い主義という手法はあっても、地道な科学的な方法論はありません。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。これは学問・研究の立場でなく、団体の活動家の立場です。
 歴史修正主義や歴史修正主義者に対して、きっちりと、対応しないと、忠臣蔵の学問・研究の発展を阻害します。この手法にきちんと対応するというのが、私の立場です。
 フィクションに対しては、それは想像の創造物ですから、大いに尊重するというのが、私の立場です。

論証されていない井沢氏の結論(1999年)
(1)老人に後から不意打ちする卑怯な浅野内匠頭像
(2)地元では評判がよく、強欲ではない吉良上野介像
 まず、井沢元彦氏は2003年に『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)を発売しました。そこで、松島栄一氏との対談として、自分の結論を紹介しています。
(1)”浅野内匠頭が吉良上野介に「この間の遺恨、覚えたか」と言って正面から斬りかかりますけど、本当は後ろからなんですよね。それについては、事件現場に居合わせ、浅野内匠頭を抱き留めた梶川与惣兵衛の『梶川筆記』にははっきり書いてあるんです。つまり、老人を不意打ちしているわけ。”
(2)”僕は吉良の領内に行って評判を聞いてみたんですけど、すごくいいんです。…農民のために堤を作ったりした事実は残っていますので…強欲だったんではない、と僕は思うんです。
 『激論 歴史の嘘と真実』は、1999年に『日本史漫遊』(桜桃書房)として刊行されたものを改題したということですから、今(2007年)から8年前のこの結論を持っていたことになります。
 『逆説の日本史(14)─文治政治と忠臣蔵の謎』は2007年の発行ですが、週刊ポストに掲載された文章(2005年〜2007年)を単行本化したということですから、最近も同じ結論を維持していることが分ります。

井沢氏の史料(『梶川氏筆記』)の扱い方
都合のいい部分をつまみ食い、不利な部分は排除
 井沢氏は、1999年の結論より過激化して、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という結論を持っています。
 そこで、たくさんある史料より次のような史料を切り取ります(前回の45号で紹介した『梶川氏筆記』)
A「誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚たるかと声を懸@切付申候…上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候故我等方へ向きて逃げんとせられし處をB二太刀ほど切られ申候」
*解説(一般の人は、このような専門的な『梶川氏筆記』から、上記のような一次史料を提示されると、「さすがは井沢さんや」と思うでしょう。
 以前は、史料は、個人レベルでは、入手できず、一部の大学・専門家が情報(史料など)を独占していました。
 しかし、『梶川氏筆記』は『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)の収録されており、日本シエル出版から刊行されております。現在は、古書店でなければ入手できませんが、大きな図書館では誰でも閲覧できます。
 つまり、情報(史料など)が大衆化されたため、評価の競争化が進み、怠惰な専門家の牙城は崩壊しています。
 井沢氏の史料引用も、『梶川氏筆記』の前半部分の自分の結論に都合のいい部分をつまみ食いし、不都合な部分を排除していることが、簡単に分ります)

井沢氏はつまみ食いした史料を駆使
井沢氏が誘導した結論は?
「浅野内匠頭は卑怯でドジな男であった!!」
 井沢氏は、卑怯でドジな浅野内匠頭を描くために、「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」という史料をつまみ食いします。
 そして、次のような結論を読者に誘導します。そして、さらなる結論へ向かわせます。
B「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
 「この「卑怯でドジな男」を「善玉」にするには、どう「演出」すればいいか?…過去に「忠臣蔵(という虚構)」を演出してきた…浅野は正々堂々と「吉良待て」と声をかけてから、正面から一太刀浴びせるのである」
*解説(『梶川氏筆記』のAの史料から、多くの人は、「此間の遺恨覚たるか」という部分を重要視しています。
 しかし、井沢氏は、『梶川氏筆記』からBで見るように、浅野内匠頭が、老人の吉良上野介を卑怯にも後から不意打ちした、しかも4回も切りつけたということを指摘して、卑怯でダメでドジな浅野内匠頭を描き出します。
 私も含め、多くの人は、病気とはいえ、お城経営をおっぽり出した(敵前逃亡した)浅野内匠頭を短気で思慮浅い人物と思っても、善玉にしている人はいません。悪玉を善玉にしたいシナリオを描く井沢元彦氏の忠臣蔵錯覚なのでしょう)

井沢氏の手法の破綻
井沢氏は「老人を卑怯にも後から4回不意打ちした」ことに執着
研究者は「此間の遺恨覚たるか」に執着
『梶川氏筆記』は新旧2つあった!
 井沢氏の手法は、結論が偏見に基づいており、方法が非科学的なために、直ぐ破綻します。
 井沢氏は、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という史料が欲しいために、上記の史料の「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」の部分をつまみ食いしました。
 しかし、専門家の間では、井沢氏が無視した「此間の遺恨覚たるか」という内容を重視します。遺恨が事実なら、逆上して、後から切りつけることも想像できます。当時の社会では、「遺恨の内容によって、武士はどうあるべきか」という慣習が注目されるからです。
 そこで、専門家は、史料を実証的帰納法で比較・検討しました。その結果、最初の『梶川氏筆記』日記には、「吉良殿後より内匠殿声かけ切り付け申され候」と表現されていることが分りました。
 井沢氏が採用した史料は、正式には『梶川氏筆記丁未雑記』という標題で、事件より26年後の1727年に書かれたものです。そこには、確かに「吉良殿の後より此間の遺恨覚たるかと声を懸切付申候」とあります。
 「声かけ」と「此間の遺恨覚たるかと声を懸」では、大きな差があります。「声かけ」は、力仕事をするときの「ヤーッ」とか「エイッ」・「この野郎」などです。しかし、「此間の遺恨覚たるか」となると、「この前の恨みを覚えているか」ということで、上野介に対して恨みを晴らしたい一心だったことになります。

当時の生き方・考え方を知らずして、歴史上の人物を語るなかれ
「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」が当時の慣習
「死と堵する」のは恥辱を晴らす時
井沢氏の結論(卑怯でドジな浅野内匠頭)は破綻
 東京大学の史料編纂所教授の山本博文氏は、『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(中経出版)の中で「歴史上の人物の行動は、その時代の社会観念や道徳を下敷きにして見ていかなければならない」(174P)と書いて、今の資本主義社会の観念や道徳で歴史上の人物を評価してはいけないと、厳しく指摘しています。
 では、当時の武士の生き方・考え方とはどういうものだったのでしょうか。
 「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」は、山本常朝の言葉を集めた『葉隠』の一説です。山本常朝は万治2(1659)年に生まれ、享保4(1719)年に亡くなっています。浅野内匠頭は寛文7(1667)年に生まれ、元禄14(1701)年に亡くなっています。大石内蔵助は万治2(1659)年に生まれ、元禄16(1703)年に亡くなっています。この3人は江戸の同じ頃の空気を吸っていたといえます。
 当時、武士としての一番の屈辱は、「大義」を軽んじられたり、名誉を傷つけ、恥をかかされることです。この場合、武士は、死を賭して、大義や名誉の回復、恥辱を晴らすことが宿命だったのです。職を賭してと叫んだ者が、次の日には敵前逃亡(職場放棄)することとは、訳が違います。
 そこで、多くの研究者は、「声かけ」「此間の遺恨覚たるか」を必死で検証したのです。当然のことです。
 しかし、井沢氏は、後から、不意打ちに、しかも4回切りつけたら卑怯者であるという現在の「社会観念や道徳」をもとに浅野内匠頭を冷笑しているのです。とても真摯な実証主義者のする立場ではありません。
 こうして、井沢氏の「卑怯でドジな浅野内匠頭」という結論は破綻したのです。

井沢氏、『梶川氏筆記』を利用
しかし、同じ『梶川氏筆記』で、井沢氏は墓穴
歴史修正主義者である井沢氏の面目躍如
 そういう意味で、研究者が注目し、井沢氏が排除している『梶川氏筆記』があります。
 井沢氏が採用した『梶川氏筆記』は、『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)の275Pを引用しています。
 前半は、上記の史料です。
 その後半には、C「内匠殿をハ大広間の後の方へ何も大勢にて取かこみ参り申候、其節内匠殿被申候は、上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候、其節の事にてせき被申候故殊の外大音にて有之候、高家衆はしめ取かこみ参候中最早事済候間たまり被申候へ、余り高声にていかゝと被申候へハ其後は不被申候」とあります。
 幕府の役人が、尋問不足で、刃傷の背景を解きほぐしていません。しかし、井沢氏が浅野内匠頭を卑怯者として引用した『梶川氏筆記』には、「意趣有之候」という記述があったのです。
 井沢氏も引用している野口武彦氏の『忠臣蔵−赤穂事件・史実の肉声』では、「(丁未とは1727年である)後者は事件のだいぶあとになってから、梶川氏が自分の記憶を整理するかっこうでつづったものではないか」「梶川が改筆の段階で内匠頭の一言を明瞭に思い出したか、意味不明の怒号だったが後で思えばこう言っていたにちがいないと確信したかのどちらかである。拉致される内匠頭はそればかりを叫び続けていたのだから」と書かれています。
 つまり、梶川与惣兵衛が吉良上野介と話し合っているときに、上野介の背後から「わめき声」をあげて、切りかかった者がいた。誰かと見れば、浅野内匠頭であった。
(1)その後、梶川は、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言っていたのを、はっきりと思い出して、改定した。
(2)その後、梶川は、よく考えてみると、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言ったに違いないと、確信して改定した。
*解説(『梶川氏筆記』だけを信ずれば、浅野内匠頭は吉良上野介に恨みを抱いていたことになります。恨みの内容は不明ですが、当時の社会観念からすれば、辱めを受けた場合、死を賭して、それを晴らすのが武士道だったのです。しかし、死を賭したにも関わらず、目的を達することが出来なかった浅野内匠頭は、「ドジな男」と非難されても仕方がありません。
 同時に、切りかかられて、逃げて生き延びた吉良上野介は、腰抜けと見られて嘲笑の対象となったのも事実です。
 武断政治から文治政治への移行期に起きた悲劇だったかも知れません。
 井沢氏が指摘するように、悪玉を善玉にする逆説は、残念ながら、全く必要がなかったのです)
*注:野口武彦氏は「(丁未とは1727年である)…」としてます。
 これは、向山誠斎の書いた「丁未雑記」に載っている「梶川氏筆記」のことだとすれば、向山誠斎の「丁未」とは弘化4(1847)年のことです。文庫本化にあたり訂正されるでしょう。
 一応、野口氏の文章を引用していますので、ここでは、注記を設けました。

次回は、本当に「バカ殿の中のバカ殿」浅野を「名君」にしたのは「赤穂義士崇拝者」の世論誘導だ
 今回は、『梶川氏筆記』を引用する井沢氏の墓穴を掘るの巻に紙数を割いてしまいました。
 次回は、本当に、「赤穂義士崇拝者」は世論誘導だです。お楽しみにして頂きたいと思います。

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