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ごあいさつ
第四十七回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
専門家の前では平身低頭する井沢元彦氏
 井沢元彦氏は『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)で、東大史料編纂所に長らく勤めていた松島栄一早稲田大学教授と対談しています。
■松島栄一「井沢さんには僕の本のこともいろいろ書いていただいたようだね(笑)」
●井沢元彦「忠臣蔵研究にはやはり、松島先生のお書きなった 『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)が定本になりますから。なにぶん小説の上での推理、ご無礼の段はお許しください」
■松島栄一「いえいえ、気にしていませんよ」
*解説(忠臣蔵の専門家の前では、自分の忠臣蔵論は「小説の上での推理」であると弁解しています。プロのノンフィクション(歴史)学者に、私はフィクションの小説家であることを主張しています)

歴史修正主義と私の立場
 自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 歴史実証主義の立場である私は、歴史修正主義の手法とはきちんと対応する立場です。

井沢氏は1つの史料から、浅野内匠頭を「ドジでダメなヤツ」と断定)
他の4つの史料は、背後説であったり、眉間説であったり
断定出来ないのが、今の定説
 井沢元彦氏は、卑怯でドジな浅野内匠頭を描くために、「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」という史料をつまみ食いします。
 そして、次のような結論を読者に誘導します。そして、さらなる結論へ向かわせます。
 「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
 上記の文章は、前回(3)に紹介した井沢氏の冒頭に書かれた結論部分です。実は、『梶川氏筆記』以外にも、証言者がいたのです。
(1)の史料は、治療した外科医の栗崎道有は、初太刀はまず盾間であって、あとで背中を切った証言していることを明らかにしています。
(2)の史料は眉間が先か、背中が先かについては明らかにしていません。
(3)の史料は眉間説を採用しています。
(4)の史料は背後説を採用しています。
*解説(前回、背後か眉間かより、遺恨があったかどうかが重要だということを紹介しました。今回は、背後説・眉間説に言及してみました。色々な史料には色々な説があり、井沢氏のように断定できないということが分ります。つまり、「ドジでダメなヤツ」という井沢氏の大前提が崩れてしまったので、井沢氏に付き合う必要もないわけです。
 しかし、井沢氏が、どこまで、歴史修正主義的手法を駆使するのか、読者の皆さんに、「そのデタラメさ」を解明するのも、実証主義的帰納法論者である私の義務でもあります)
史料
(1)「吉良ヲ見付テチイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル、ヱボシニアタリヱボシノフチマデニテ切止ル、時ニ吉良横ウッムキニナル所ヲ二ノタチニて背ヲ切ル」(『栗崎道有記録』)
(2)「上野介唯今之雑言覚え候歟と御声を被レ為毎御小刀を御抜、御二太刀御切付被レ成候処上野介殿御倒レ」
(『浅野長矩伝』)
(3)「小サ刀ヲ抜打ニ義央力烏帽子カケテ髪先ヲ切付ル、吉良動転シテ、逃退所ヲ二ノ太刀ニ後口ヨリ烏帽子ニ切付、切先外レニ首筋ヨリ肩脇背ニ切込、然トモ迯退所故、切先外レニ当ル」(『誠尽忠臣記』)
(4)「上野介覚へ候歟と御言葉を被レ掛、肩先へ御切付被レ成、烏帽子へあたり、あまり顔へ一太刀当り候」(『家秘抄』)

井沢氏は、「内蔵助もイジメの証拠をつかまず」と断定
当然でしょ、「尋問不足で究明されず」が定説
鬼の首を取ったように騒ぐこと、恥ずかしい!?
 いよいよ今回の本題に入ります。
 井沢氏は、「大石内蔵助さえ主君・浅野への吉良の”イジメ”の証拠はつかんでいない」というご大そうな小見出しを付けて、その証拠に、「浅野内匠家来口上」を提示します。これは、討入りの時に、吉良邸の門前に突き立てた討ち入り蹶起書です。井沢氏に従って、読み下し文(前半)を紹介します。
 その中で、井沢氏が注目したのが、「当座忍び難き儀ご座候か」(原文は「座候歟」)という史料です。
 井沢氏は、自分の「ドジでダメなヤツ」という結論に合わせて、次の様に断定します。
 この「欺(か)」が極めて重要である。これがあるということは疑問形だからだ。すなわち「当日何かガマンできないことがあったのだろうか?」ということになる。
 おわかりだろうか、あの大石内蔵助でさえ、吉良の「イジメ」について証拠をつかんではいないのだ。
 …仮に「義士崇拝者の言い分」をすべて認めたとしても、吉良の「イジメ」の事実はまったく証明できないし、大石すら把握していなかったということなのだ。…しかも、生命を賭けた文書の中で、である。
 これはどう考えても、吉良のイジメなるものは初めから無かったと考えるのが、最も論理的な結論ではないか。
 …やはり「遺恨」はあったとしても「イジメ」はなかったのだ。
*解説(井沢氏が引用した『梶川氏筆記』には「此間の遺恨覚たるか」という記述があります。また井沢氏が排除した『梶川氏筆記』にも「此間中意趣有之候」と書かれています。井沢氏が認めるように、遺恨・意趣があった事は事実です。「井沢さん、遺恨を認めると、あなたの論理は破綻するのではないですか」。
 しかし、取調べにあたった役人の尋問不足から、遺恨・意趣の内容は、つまり、どんなイジメがあったのかは、当時も不明だし、現在の史料でも未解明なのです。だからイジメはなかったとは断定できないのです。
 それを鬼の首を取ったようにはしゃぎまわる井沢氏の感覚が理解できません)
史料
浅野内匠家来口上(前半)
「浅野内匠家来口上 
 去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀に付、吉良上野介殿へ意趣を含み罷在り候処、殿中に於て、当座忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候、時節場所を弁えざる働、無調法至極に付切腹仰せつけらる、城地赤穂城召し上げられ候儀、家来共迄畏入存じ奉り候、上使の御下知を受け、城地差し上げ、家中早速離散仕り候」

井沢氏は、60頁を割いて、大石内蔵助の「喧嘩」を考える
長くて、無意味な駄文
その結末は、独りよがりの、意味不明
 次は、「浅野内匠家来口上」の読み下し文(後半)を紹介します。
 井沢氏が認める「一級史料」には、「喧嘩」という表現があります。「ドジでダメなヤツ」という結論を持つ井沢氏にはこれがどうも気に入りません。そこで、次の様に話を展開します。
 大石が、誰が見ても「傷害事件」としか見えないものを、「喧嘩」だったと断定しているのである(42P)。…ところが、大石は自信をもって「喧嘩」だと言い切っている。…では、その根拠は?
 …あの大石内蔵助でさえ、吉良の「イジメ」について証拠をつかんではいないのだ。
 …大石はなぜ「ケンカ」すなわち「双方の争い」であると断言出来るのか?
 それは、主君である浅野内匠頭長矩が今回の刃傷の動機は吉良に対する恨みによるものだ」と、「自供」しているからなのである。
史料
浅野内匠家来口上(後半)
右喧嘩の節、御同席に御差留の御方これ有り、上野介殿討留め申さず候、内匠頭末期残念の心底、家来共忍び難き仕合にご座候。高家御歴々に対し、家来共鬱憤を挟み候段、憚に存じ奉り候えども、君父の讐は共に天を戴かざるの儀、黙止難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぐの志迄にご座候。私共死後、もし御見分の御方ご座候わば、御披見を願い奉り、是の如くにご座候、以上
  元禄十五年十二月 日
浅野内匠頭長短家来  大石内蔵助
                                    以下四十七名」
 大石らが言っているのは「本当の主君である浅野が、やり残したことがある」「それは恨みのある吉良を殺そうとして失敗したことだ」だから「吉良の殺害」を主君に代わって実行する、といっているのである。
 これが「仇討」と呼べるかどうか?(59P
 …暴走族「アコーズ」のサブリーダー大石が捕まった。容疑は無抵抗の老人をよってたかって「なぶり殺し」にした、というものだ。警察の「なぜそんなことをしたのか?」という取調べに対して、その男は次のように答える。
 「あのジジイはもともとウチの頭の浅野が狙ってたんだ。あのジジイが気に入らないんで、油断しているところを後ろから鉄パイプでぶち殺そうと思ったら、運良く助かりやがって、頭の方は捕まってムショに入れられて、この間死んじまった。さぞかし無念だったと思うよ。だからオレたちはみんなで頚が出来なかったことをやってやろうと思ったのさ」(66P
 …「乱心」の殿様のやったことを「引き継ぐ」ことが武士道から見て正しい行為と言えるだろうか。浅野が「正気」という前提においてすら、荻生徂徠ら一部の儒学者は浅野の「邪志」を継ぐことは不義だと批判しているのである。これが「乱心」なら仇討の正当な理由が無くなってしまう。…(74P)。
 …日本人の多くは、大石たちは幕府の「不公平な裁き」に怒りをぶつけたのが「討ち入り」だと思っているが、彼等は決してそうは言っていない。
 もっともこれはあくまで表向きであって、大石は「乱心の殿はともかく長広様への裁きはおかしい」と思っていただろう。しかし、そうは書けないのである。それでは御家再興をつぶしてしまう。また「乱心だったから長広には罪は及ばないはずだ」とも書けない。それは、差別的な感覚ではあるが、「亡君の恥」であり家老としては声高に主張すべきことではないからだ。
 まあ、こういう立場になったら「無口」を通すしかないだろうな、と私は思う。大石の人間像というのは、それを基本に考えるべきなのだろう(102P)。

長くて、無意味な駄文の意味を考える
60頁中味は9つの小見出し
つまり、週刊誌の連載の9回分か?
 60頁の小見出しの内容を検討してみましよう。
(1)「バカ殿の中のバカ殿」浅野を「名君」にしたのは「赤穂義士崇拝者」の世論誘導だ
 ここでは、史料を使っていないので、お勝手にどうぞ。
(2)最も基本的な史料とされる浅野内匠頭の「辞世」すら最初から無かった
 ここでは、浅野内匠頭の刃傷から切腹まで立ち会った人の『多門伝八郎筆記』を引用しています。井沢氏が指摘するまでもなく、事実と虚構が書かれているので、留意して活用する必要があります。
(3)浅野が手討ちではなく切腹になった背景には将軍綱吉の「服忌令」がある
 井沢氏は、こんな史料も知っているのだぞと、自慢したいのだろうが、何も「服忌令」を持ち出さなくても、手討ちの理由は十分にあります。
(4)荻生徂徠の「四十七士論」が知れ渡っていたら「忠臣蔵」そのものがなかった!?
 ここでは、井沢氏は、荻生徂徠の「邪志」論を紹介しています。自分に都合のいい史料をつまみ食いして、不都合な史料は排除しています。いずれ、この排除している史料を使って、反論します。
(5)「浅野は統合失調症だった」--精神医学が明らかにした殿中刃傷事件の真相
 ここでは、井沢氏は、精神科医の中島静雄氏の精神鑑定を紹介しています。いずれ、吉良上野介の手当てをした栗崎道有医師の診断書を添えて、反論します。
(6)浅野切腹の原因は「乱心」と知りながらそれでも藩士が「殉死」を決意した理由
 ここでは、史料を使っていないので、「お勝手にどうぞ」ということなのですが、いずれ、吉良上野介の手当てをした栗崎道有医師の診断書を添えて、反論します。
(7)邪志を貫くわけにはいかないと悩んでいた大石が討入りを決行した「理由」
 ここでは、『寛政重修諸家譜』を扱っているので、今回(4)、その「デタラメさ」を取り上げます。
(8)吉良邸に討ち入った四十七士に死者、重傷者が一人もでなかったのはなぜか
 ここでは、「忠臣蔵錯覚」の最大のものを仇討でないのに仇討と思わされているということだとしています。史料を使っていないので、「お勝手にどうぞ」ということなのですが、いずれ、その「デタラメさ」に反論します。
(9)討入り後に提起された林大学頭の四十七士助命論はなぜ退けられたのか
 ここでは、林信篤の意見書を使っています。いずれ、それへの反論をします。
 ともかく、ダラダラとページ稼ぎをしているというのが率直な感想です。駄文に付き合うのにとても疲れました。

井沢氏の目の付け所
長矩の母方のおじ(舅父)内藤忠知は奉公が許可される
長矩の弟浅野長広はお預け、赤穂浅野家の再興ならず
大石内蔵助の怒りの原因はこれだ!!
 大石内蔵助は「傷害事件」を、自信をもって「喧嘩」だと言い切っている(42P)。その根拠を探して、私たちをあちこち連れまわって、やっと(89P)、ここにたどり着きました。
 井沢氏は、浅野内匠頭の喧嘩説がよほどお気に召さないのか、乱心説のご執心です。ここで説明すると、話が拡散しますので、このテーマは次回にします。

井沢氏の手法の破綻
井沢氏は『浅野内匠家家来口上』のみから自分の結論に世論誘導
『栗崎道有筆記』には「乱心でなく喧嘩」
これって「忠臣蔵錯覚」!?
 読者の皆さんは、この手法に、コロッと行くかも知れませんね。
 しかし、井沢氏が仕掛けたトリックに気が着く方もいますね。
 井沢氏は、”大石が、誰が見ても「傷害事件」としか見えないものを、「喧嘩」だったと断定しているのである(42P)”と強調しています。
 ここで重要なことは、「傷害事件」だったのか、「喧嘩」だったのかということです。
 井沢氏が故意に排除したのであれば「悪意」であり、知らなかったのであれば、「忠臣蔵を語る資格なし」といえる重要な第一次史料があります。吉良上野介を治療した外科医の栗崎道有です。彼のカルテには貴重な情報が記録されています。
 刃傷事件の最初のうち、老中は「浅野内匠頭が乱心して、吉良上野介に切りつけた」と解釈し、公傷扱いで上野介を治療しするように私に申しました(史料1)。
 その後、幕府は「内匠頭は、乱気でなかった」と結論づけ、「乱気による処置」、すなわち公傷による治療をうち切りると、私にその旨を伝えてきました(史料2)。
*解説(浅野内匠頭が乱心、つまり狂気の場合、一方的に内匠頭が悪く、上野介は被害者であるから、公傷として幕府の責任で、上野介の治療を行う。
 浅野内匠頭が乱心でない、つまり正気の場合、内匠頭の上野介への意趣・遺恨、つまり喧嘩が成立し、私傷としての扱いとなる。
 最初は、幕府の責任で栗崎道有に治療をさせたから、幕府は、浅野内匠頭の乱心を認めていたことになります。
 しかし、その後、幕府は、栗崎道有に幕府は治療から手を引くと通告しています。つまり、幕府は、乱心でなく、喧嘩と認定したことになります。
 長々と駄文を弄することなく、『栗崎道有筆記』を早々に引用しておれば、週刊誌の連載も1回で終了したでしょう)
史料
『栗崎道有記録』
史料1)「先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之」
史料2)「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由」

井沢氏の巧みに囲い込む大道芸には感心
しかし、カネ儲けに堕する手法には魂が感じられず
 「忠臣蔵錯覚」という表現が何回出てきたことでしょう。
 「おわかりだろうか」という表現が何回出てきたことでしょう。
 「おわかりだろう」という表現が何回出てきたことでしょう。
 「この逆説シリーズの読者はご存知だろう」という表現が何回出てきたことでしょう。
 さすがは、カネを取って小説を書いているだけのことはあります。表現力が巧みです。井沢フィールドに囲い込んでいます。昔、大道芸で、「この中にスリがいる。慌ててこの場を去ろうとする者がスリだ」と言って、客に禁足令をかけるのを聞いたことがあるが、その論法に似ていると思いました。
 そして、最後に、このような「決め台詞」をのたまうのです。
 「忠臣蔵」という「虚構」がいかに事実に反しているか、ひどいものかということはおわかり頂けただろうか?

 しかし、残念なことに、井沢氏には魂がありません。自分の結論に都合のいい史料だけをつまみ食いするという手法です。いわゆる歴史修正主義の手法です。
 定説化している史料を使えば、そのような虚構は、いかに事実に反しているか、ひどいものかということはすぐ露見するはずなのに、カネのために、大道芸を披露するのです。大道芸人もえらい迷惑です。

追記(2007年12月12日)
『サライ』(2007年12月発売)で、竹内誠氏(江戸東京博物館館長)が重大発言
「覚えたるか」といいながら斬りかかるのが作法
 竹内誠氏は、映画監督の篠田正浩氏との対談で、次のようは発言をしています。
 刃傷の理由として突然逆上説や持病説もありますが、「遺恨覚えたるか」と叫びながら吉良に切りかかっている。当時、仇討ちをする際は、大声をあげて「覚えたるか」といいながら斬りかかるのが作法でした。浅野は立派にこの作法通りに行動していますから、突然に”切れた”とは考えにくいですね。

次回は、浅野内匠頭乱心説でなく、浅野内匠頭喧嘩説を証明します。

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