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ごあいさつ
第四十八回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(5)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
専門家の前では平身低頭する井沢元彦氏
 井沢元彦氏は『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社黄金文庫)で、東大史料編纂所に長らく勤めていた松島栄一早稲田大学教授と対談しています。
■松島栄一「井沢さんには僕の本のこともいろいろ書いていただいたようだね(笑)」
●井沢元彦「忠臣蔵研究にはやはり、松島先生のお書きなった 『忠臣蔵−その成立と展開』(岩波新書)が定本になりますから。なにぶん小説の上での推理、ご無礼の段はお許しください」
■松島栄一「いえいえ、気にしていませんよ」
*解説(忠臣蔵の専門家の前では、自分の忠臣蔵論は「小説の上での推理」であると弁解しています。プロのノンフィクション(歴史)学者に、私はフィクションの小説家であることを主張しています)

歴史修正主義と私の立場
 自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 歴史実証主義の立場である私は、歴史修正主義の手法とはきちんと対応する立場です。

井沢氏は、「浅野内匠頭は乱心だった」という結論を持っています
そのため都合のいい部分の史料をつまみ食いします
多くの人も、伝聞で「乱心説」を支持
 井沢氏への書評(3)で、「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」「浅野内匠頭は卑怯でドジな男であった!!」という井沢説のデタラメさを指摘しました。
 この前提が崩れた以上、次の説はないのですが、井沢氏は「乱心を遺恨としたことで、浅野家を取り潰した幕府に怒って、吉良邸に討ち入った」という井沢説のデタラメさを指摘を井沢氏への書評(4)で行いました。
 今回(5)は、大石慎三郎氏の話を引用して、乱心説を主張する井沢説のデタラメさを指摘します。

井沢氏は、歴史学者の大石慎三郎氏の説を味方にします
 井沢氏は、「”浅野内匠頭(長矩)が一時的に発症したという説”は事実である可能性が高い」という自分の結論を裏付けるために、次の説を紹介しています。
 歴史学者の大石慎三郎氏の『将軍と側用人の政治』(講談社)です。
「一番説得力があるのは、浅野内匠頭が一時的に発狂したという説だと、私は考えている。烏帽子(鉄の輪が入っている)をかぶっているのを知らない人はいないはずだから、小刀で上から二度も斬りつけるという行為は明らかにおかしい。殺すつもりなら、刺せばいいのである。」

井沢氏の見事な手法(!?)
乱心説に否定的な赤穂大石神社の飯尾精氏(故人)を
大石慎三郎氏の同調者に仕立て上げる
 大石神社の飯尾精氏の『元禄忠臣蔵』(大石神社社務所発行)です。これも周知の事実でが、まず、飯尾氏は、浅野内匠頭の持病である痞(つかえ)を解説し、「それが連日あれこれと手違いなんかもあって神経をすり減らし、加えてこの痞が段々と昂進して、肉体的にも参ってきているところへ、当日も玄関式台で勅使を出迎えることについて面罵され、統いて松の廊下で、梶川与惣兵衛と上野介がやりとりしていた言葉が耳に入ったので、途端にカッとしていっぺんに爆発したのではなかろうか」と書いています。
 それを井沢氏は、飯尾氏の文章を言葉にすれば大石慎三郎氏の「一時的に発狂した」という説に極めて近くなると主張しています。
 飯尾精氏は、『忠臣蔵の真相』(新人物往来社)で、乱心説をきっぱりと否定しています。
(1)札幌の精神科医の主張を批判し、最後に「何か新説を唱えなければならないという気持は分らないでもないが…ちょっと納得いかない」と書いています(50P)。
(2)「栗作道有日記」の史料原文を紹介して、「これによっても長矩は乱心でなかったことは明白である」(64P)。
 一部の文言をつまみ食いして、自説の補強にする手法は、誰の目に見ても、破廉恥に、簡単に破綻します。

歴史学者の大石慎三郎氏は、史料を提示せず、
一時的に発狂したとか、内匠頭に冷静なプロの殺し屋を要求
江戸時代研究の権威者も「忠臣蔵」研究では素人?
ブランドは自分の舌に合ってこそブランドである
 さすがは、文章で飯を食っているプロの小説家である。そのレトリックは巧妙である。一見して、井沢氏の術中に陥る人が出てくるかもしれない。
 しかし、井沢氏が使っていない史料とか、根拠を冷静に分析すると、彼の結論が破綻します。これを検証しましょう。
 歴史学者の大石慎三郎氏は、日本近世史の専門家です。私も『元禄時代』(岩波新書)・『大岡越前守忠相』(岩波新書)・『日本近世社会の市場構造』(岩波書店)・『田沼意次の時代』(岩波書店年)・『徳川吉宗と江戸の改革』 (岩波書店)・『享保改革の商業政策』(吉川弘文館)などの本を読んでおり、江戸時代の研究には欠かせない学者の1人です。
 「鉄の輪が入っている烏帽子をかぶっている」とか「小刀で上から二度も斬りつけるという行為」を根拠に、発狂説を主張したとすれば、事実誤認です。井沢氏が認めているように、最初は背後から斬りつけているのです。
 発狂せず、「殺すつもりなら、刺せばいいのである」という説も、前科があり、計画的で冷静なプロの殺し屋なら大石教授の言うとおりでしょう。乱心だから「討ち果たせなかった」というならば、乱心でなかったら「討ち果たした」ということになります。しかし、内藤忠勝は乱心で「討ち果たした」。大石教授の論法は崩壊します。
 井沢氏が排除している部分が『将軍と側用人の政治』にはあります。参考資料として引用します。
解説*1(大石教授は、将軍綱吉の片落ち裁定を「筋の通った結末」と断定しています。「老中の喧嘩両成敗」という史料をご存知ないと見えます)
解説*2(大石教授は、赤穂浪士の吉良邸討入り後、「全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる」と断定していますが、「評定所一座存寄書」(大目付4人、寺社奉行3人、町奉行3人、勘定奉行4人、都合14人による討議決定)という史料をご存じないと見えます。上杉家の所領は没収せよ、赤穂浪士の行為は徒党にあたらず、4藩にお預けという内容になっています)
解説*3(大石教授の最大の不徳の致すところは、世間が「なぜだか」悪い方に同情を寄せたという無責任な理由で、権力者である幕府が、侃々諤々の議論の議論を始めたという論旨です。その「なぜだか」を究明するのが学者ではありませんか。その責任を放棄するのは「如何なもの」でしょうか)
 これでは、井沢氏の「浅野内匠頭(長矩)が一時的に発症したという説」の補強にはなりません
解説*4(吉兆やミシュランの三ツ星というブラントだけで、ありがたがる風潮があります。美味しいか不味いかは、人それぞれです。自分の舌に合う料理がブランドなのです。自分の専門分野では立派な仕事をしても、専門分野外に手を出し空論を弄ぶ人もいます。その空論を、ブランド名で、ありがたがる風潮もあります。困ったものです)
参考資料
 浅野長矩と吉良義央の場合も、吉良は刀を抜かずに走って逃げただけなので、おとがめなし。一方的に浅野の方が悪いため、長矩は即日切腹、浅野家はお家断絶という、筋の通った結末となったのである。
 これで事件は終わったはずが、厄介なことに一年後の元禄十五年十二月十四日、旧赤穂藩の浪士四十七人が吉良義央の屋敷に討ち入りをかけ、義央の首を取ってしまう。これはどう考えでも、赤穂浪士の側が一方的に悪い。幕府も彼らを夜盗のような者だとみなして、全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる
 ところが世間が、なぜだか悪い方に同情を寄せ始めたため、処理が難しくなり、幕府内で侃々諤々の議論となった。こうした中で、元禄の大好況以来、バブル崩壊後も武士が浮わついているのを快しとしない幕府首脳部が、この討ち入り事件を利用してやろうと考える。そして、「武士らしく振る舞った」四十七士には、打ち首でなく、武士としての面目が保てるような処分(切腹)が行われたのである。これが、いわゆる「忠臣蔵」の実体であった。

吉良上野介の治療に立ち会った栗崎道有の記録こそ貴重な第一次史料
これを知らない人を無知といいます
これを意図的に排除した人を悪意といいます
 次に、井沢氏が排除した史料に、浅野内匠頭が乱心であったか、乱心でなかったかを示す重要な第一次史料があります。吉良上野介の怪我を治療した医者の栗崎道有の記録です。この史料を知らない人は無知であり、意図的に排除しているならば悪意としか考えられません。
 下記に重要な部分の全文を紹介します。
  刃傷事件の最初のうち、老中は「浅野内匠頭が乱心して、吉良上野介に切りつけた」と解釈し、公傷扱いで上野介を治療しすることになりました。しかし、公家衆の指示した役人(内科の津軽意三、外科の坂本養慶)なので上野介の血も止まらず、元気も弱く見えました。
 そこで道有を呼んで治療するようにという指図が大目付の仙石伯耆守にありました。そこで私が治療している最中のことでした。内匠頭の口上の意図をお聞きになった所、「乱心ではない。何とも堪忍できない手合わせ故に、勅使接待という場を穢し、迷惑をかけたお掛けしたことは申し上げようもありません」という訳でした。とても乱心とは見えませんでした
 他方、吉良上野介に「内匠頭から意旨を受ける覚はあるか」と尋問すると、上野介は「そのような覚はない」と答えました。
 幕府(大目付仙石伯耆守)は、この両者の尋問聴取から「乱心ではない」ので、「乱気による処置」、すなわち公傷による治療をうち切ると私に伝えてきました。
 さっきは、幕府(大目付仙石伯耆守)より私たちに「吉良上野介を治要せよ」と命じられましたが、今度は「治療する必要は及ばない」と命じられました。
 傍らにいた高家衆の1人である畠山上総守は、「しかし、上野介ならびに高家の同役衆は、栗崎道有がやって来て元気も回復し血も止めてくれたことでもあるので、上野介の願いもあり、高家衆も栗崎道有に治療を継続してお願いしたい」と申し出ました。大目付の仙石伯耆守は、「幕府の御典医ではあるが、その旨老中にもお伝えしよう」ということになりました。
 刃傷事件の4時間後(午後3時)、吉良上野介は、本宅に帰って行きました。
仕合(=手合せ。相手になって勝負をすること、勝敗を争うこと) 
史料
『栗崎道有記録』
 「手負初ノ内ハ御老中方ニてハ内匠頭乱心ニて吉良ヲ切ルノ沙汰、依之療治之儀吉良ハ 公家衆へ何角指行ノ役人ナレハ血モ不止元気モヨハク見ル、然ハ道有ヲ呼上ケ療治被 仰付之沙汰ト相聞ヘ、然所ニ其中ケ場ヘナリテ内匠口上之趣ヲ御聞被成候所ニ、乱心ニアラス即座ニ何トモカンニンノ不成仕合故 御座席ヲ穢カシ無調法ノ段可申上様無之ノ訳ケニテ中々乱気ニ見ヘス、扨吉良へ御尋有之ハ兼而意旨覚有之カトノ事、吉良ハ曽而意旨覚無之トノ事ナリ、依之テ乱気ノ沙汰ニ不及ニ付」(中略)

 先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之処ニ、只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由、併上野介并ニ同役衆幸道有罷出元気ヲモツヨメ血モ止メ置タル事ナレハ、病人ノ願同役中道有外治ニモ被致度トノ事ニ候ハゝ其段御老中へも可申上候

 其刻限早八半過七前ニ…吉良ノ本宅へ罷帰ル(後略)」

井沢氏は入門書の決定版『正史赤穂義士』を読んだのでしょうか
読まれた方は、井沢説が簡単に破綻したことをお分かりなったでしょう
 ここに入門書の決定版ともいうべき書物があります。東京大学史料編纂官として長年在職していた渡辺世祐氏が心血を注ぎ、10年の歳月をかけて完成した『正史赤穂義士』(光和堂、1975年刊)という書物です。
 そこには次のような重要な記述があります。
 「幕府では…刃傷の場合一方が乱心であった時には、負傷したものの治療は幕府が責任を持たなければならぬ。また乱心でなく、両方意趣があって刃傷に及んだ場合には相対的の手落であるから、負傷者は自分勝手にその手
当をすべきであるとの昔からの定がある」
 この規定によれば、幕府は治療から手を引いている訳だから、この刃傷事件を「乱心でなく相対的な手落ち」と裁定していることが分ります。
 ここまで読んでこられた方は、井沢説が簡単に破綻したことをお分かりなったでしょう。

次回も、井沢氏の乱心説のデタラメさを検証します
 浅野内匠頭は痞(つかえ)という持病を持っていました。あるのは、母の兄(内藤忠勝)が乱心で、殿中で刃傷事件を起こしたという事実です。
 井沢氏は、「家を存続させるために、乱心を偽装することもあった」と証言しています。
 これを内藤家にあてはめると、内藤家を存続させるため乱心を偽装したこともありうるわけで、母の兄の血の関係は断たれてしまいますね。皆さんはどうお考えになりますか。

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