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ごあいさつ
1月14日号-第四十九回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(6)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
歴史修正主義と私の立場
 自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 歴史実証主義の立場である私は、歴史修正主義の手法とはきちんと対応する立場です。

井沢元彦氏の手法に付き合って6回目
忠臣蔵錯覚に洗脳されない新鮮な話は、いつ聞けるのですか?
厳密に見たという史料はいつ出されるのですか?
 井沢元彦氏の手法に付き合うのが今回で6回目です。
 小説家ならいざ知らず、井沢氏は歴史学者の「松島氏も忠臣蔵錯覚に洗脳されていた」と非難・中傷したり、「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」と説教しています。自称歴史家なんでしょう。
 忠臣蔵錯覚に洗脳されていない新鮮な話が聞けると思いきや、証拠もなく忠臣蔵の定説を貶める得意の手法を披露しています。
 厳密に史料を見たというのでどんな史料が用意されているのかなというと、定説になっている史料を一部をつまみ食いしたり、都合の悪い史料を出さないという井沢氏独特の手法を使って、世論を巧に誘導します。その出された結論が噴飯物で、本当に気分が悪くなります。
 私の大学時代の友人や知人の研究者に聞くと、井沢元彦氏を「歴史の専門家」として最初から相手にしていないことが分ります。学者はそれで済みますが、この手法の行き着く先を考えると寒気がします。「蟷螂の斧」であってもキチンと対応していなければ、大変だと思うのは杞憂でしょうか。

井沢元彦氏の今回の手法
井沢氏は「大石は浅野内匠頭の乱心を知っていた」と断言
その証拠として四つの理由を提示
それでも大石の討入り理由が分らないと自問自答
 井沢氏は、「その大石が誰が見ても”傷害事件”としか見えないものを、”喧嘩”だったと断定しているのである」(42P)と刃傷事件を矮小化しています。
 さらに、内匠家来口上の一部をつまみ食いして、「おわかりだろうか」という催眠商法的言辞を弄し、「あの大石内蔵助でさえ、吉良の”イジメ”について証拠をつかんではいないのだ」(43P)と世論を催眠にかけます。
 以上は、「書評忠臣蔵第47回『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)」で詳しく指摘しています。
 ここでは、一気に飛躍して、井沢氏は「大石内蔵助は浅野内匠頭の乱心を知っていた」と断言します。
 井沢氏は、「大石は主君浅野内匠頭長矩が”乱心”したと認識していたのだろうか?
 私は知っていたと思う」(76P)とびっくりするような仮説を立てます。なるほど、フィクション作家らしい手法です。
(1)第一の理由として、井沢氏は「主君が切腹に処せられたことは当然」(家来口上書)という意味の言葉がある。
(2)第二の理由として、近親者である叔父に「乱心」して同じような犯行をなした者がいる。ここで、井沢氏は「統合失調症を江戸時代は乱心と呼んだ」としています。これは、医学に詳しいある人は「この井沢氏の規定は明らかな間違いである」と指摘しています。
(3)第三の理由として、浅野の家臣は、主君を乱心と見て、「徹底抗戦派」がゼロだった。
(4)第四の理由として、当時の老中(定員5人)の内3人までが「浅野は乱心でないか」と見ていた(82P)。
 この4つの理由から井沢氏は、「浅野乱心説」の方が「遺恨(正気)説」よりはるかに説得力があることがわかって頂けたと思う。
 「しかし、そのように考えてくると、なぜ大石は討入りしたのか、その理由が不明確になる」として、井沢氏は色々悩んだそうだ。

井沢氏の「大石は浅野内匠頭の乱心を知っていた」は基本的に間違っている
プロの研究者が井沢氏を相手にしない理由
「もうお分かりでしょう」
 文章で飯を食っているだけ、騙しの手口もプロ級です。そういう点では感心(いな、寒心)です。
*解説1:「浅野内匠家来口上」は、文治政治と忠臣蔵4(書評忠臣蔵第47回)に全文掲載しています。これは主君が吉良上野介と殿中で喧嘩したので、切腹も当然だと言っているのです。家来が乱心を認めた証拠にできるという人は、史料を厳密に見ている(?)井沢氏しかいないでしょう。
*解説2:近親者に乱心で処罰された者がいたことは事実です。井沢氏が認めているように、「家を存続させるために、乱心を偽装することもあった」ことも事実です。そのことをもって乱心だったと断定したい井沢氏の気持も分らないでもありません。井沢氏の冤罪事件の骨格が崩れてしまいますものね。
*解説3:徹底抗戦がゼロだから、家臣は主君を乱心と見ていた?。大名の断絶で徹底抗戦した藩がありますか。
*解説4:「浅野は乱心でないか」と見ていた老中が3人もいたとは初耳です。ならば、どうして喧嘩両成敗という原案を作成したのでしょうか。是非、その史料が見たいものです。 
 私でもこの論理の組み立てに開いた口がふさがらない。ましてや、プロの研究者が井沢氏を相手にしないことがよく分ります。これは学問・研究以前の段階です。

忠臣蔵錯覚に洗脳されていない井沢氏の説がついに登場
(1)「同じ乱心なのに相続人の扱いが不公平だった」
(2)「将軍徳川綱吉が乱心を正気にしてしまった」
(3)「大石内蔵助はここに怒ったのだ」
これは大発見で、新説です!!
どの新聞・雑誌・週刊誌も取り上げない理由を「もうお分りでしょう」
 もう少しお付き合い下さい。
 井沢氏は、誰も気がついていない「大石の討入りの動機」を発見した(85P)と大喜びをするのである。
 その結論を発表する(89P)。その間、47ページも割いている。
 「内藤忠勝は刃傷で相手を殺した。浅野長矩は傷つけただけである。そして2人は”死刑”になった。
 だが弟の扱いはまるで違う。
 内藤忠勝の弟忠知は…御家は続いた。しかし、浅野長矩の弟長広は…本家預かり…浅野家は断絶させられた。浅野が乱心であったとすれば、長広に対する処置は不公平ということになる。
 大石はここに怒ったのだ」(89P
 「実際は”乱心”に見えたのに将軍の意向で”正気”ということにさせられてしまった。つまり真実は逆である可能性さえも大いにあるのだ」(94P
*解説5:井沢氏の口癖を真似ると「もうお分かりだろう」、井沢氏の手法が…。浅野を乱心に仕立て上げ、弟に対する不公平なお裁きが、大石を討入りに向かわせたのだと。
 この井沢氏の論文は、忠臣蔵の定説を覆す「大発見」で、「新説」です。しかし、どの新聞も取り上げていません。井沢氏が掲載してもらっている週刊ポストすら無視です。井沢氏が世話になっている小学館発行のどの発行物でもその大発見に一行も割いていません。「もうお分かりでしょう」、それほどの作り話(フィクション)なのです。

井沢氏の「長年の疑問が氷解した」という史料の紹介です
誰もが知っている『寛政重修諸家譜』でした
(1)「内藤忠勝の刃傷事件、幕府は”乱心”として処理」
(2)「浅野内匠頭の刃傷事件、幕府は”宿意あり”として処理」
それだけだったということが「これで分ったでしょう」
 次は、井沢氏が発見したという史料(寛政)です。
 以下は、井沢氏でなく、私の「内藤家と浅野家の要約」です。
(1)内藤忠政の次男が忠勝で、1673(延宝元)年、忠勝の弟忠知に2000石を分地しています。
 1680(延宝8)年、4代将軍の徳川家綱が亡くなった時、忠勝(26歳)は、増上寺の警備を命じられました。この時、仲の悪かった永井尚長(27歳)が連絡を怠って、忠勝に恥をかかせたということがありました。そこで、忠勝はこれを恨んで尚長を殺害しました。これを芝増上寺の刃傷事件といい、幕府の記録では、「乱心」となっています。
 しかし、内藤本家は断絶しましたが、分地していた内藤忠知には累が及びませんでした。
(2)浅野長友の嫡子が長矩で、1679(延宝七)年、長矩の弟長広に3000石を聞知しています。
 1701(元禄14)年、5代将軍の徳川綱吉が勅使接待をしている時、長矩(35歳)は、勅使接待を命じられました。この時、長矩は「遺恨あり」とて、吉良義央(61歳)に刃傷に及びました。松の廊下の刃傷事件といい、幕府の記録では、「宿意あり」となっています。
 この時、長矩の母方のおじ(舅父)にあたる内藤忠知は、松の廊下の刃傷事件で、出仕は一時留められましたが、その後許されています。
 しかし、長矩の弟長広は、閉門となり、城地も没収となりました。その後、閉門は許されましたが、本家の浅野広島にお預けとなり、浅野家の再興はなりませんでした。
*解説6:幕府の記録では、内藤忠勝は乱心です。浅野内匠頭は「宿意」であり、乱心でありません。それだけであり、それだけで十分です。
 井沢氏は、長矩の母の兄(内藤忠勝)が乱心であったことを証明するために、下記に(1)〜(4)の史料を提示しました。そして、精神科医の中島静雄氏の「精神鑑定」を長々と引用し、「特に精神医学界の方々に新しい”浅野長矩の研究”をお願いしたい」と主張しています。
 さらには、井沢氏は、乱心説には否定的な赤穂大石神社の飯尾精宮司(故人)までを大石慎三郎氏の同調者に捏造するという卑劣な手法を使っています(71P)。これが忠臣蔵錯覚に洗脳されない人のすることなら、私は忠臣蔵錯覚者でありたい。
 しかし、井沢氏が提出していない史料の(5)は、吉良上野介を治療した栗崎道有の記録ですが、幕府の規定では喧嘩となります(詳しくは「書評忠臣蔵第47号『文治政治と忠臣蔵の謎』(4)」をご覧下さい)。
 史料の(6)は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭に対して出した幕府の処分書です。ここでは、幕府は乱心でなく、意趣があって刃傷に及んだという内匠頭の証言を採用しています。つまり喧嘩だったことを認めているのです。
 内匠頭は、乱心だったと言えば、石高は減っても赤穂浅野家は救われる、しかし、乱心を否定しました。つまり、赤穂浅野家をつぶしてでも恨みを晴らしたいことがあったのです。この心情があったからこそ、大石らは討ち入ったのです。
 このような定説化された史料を排除した井沢氏の結論は、直ぐに、しかも目前で破綻するのです。

内藤忠勝と浅野長矩の関係を示す系図
内藤忠政 忠次
忠勝
忠知
波知
‖━ 長矩
浅野長直 長友 長広

井沢氏が提示した史料『寛政重修諸家譜』の内容
(1)「忠勝乱心し信濃守尚長を殺す。死をたまふ」
(2)「内藤忠知、長矩が事に坐して、出仕をとゞめらる、ゆるさる」、つまり御家存続
(3)「浅野長矩、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ、死をたまふ」
(4)「浅野長広、綱長が封地におもむく」、つまり御家断絶
史料
(1)内藤忠勝
「延宝元年九月十一日遺跡を継、二千石を弟虎之助忠知に分ち与ふ。(中略)八年六月二十六日増上寺にをいて厳有院殿の御法会行はるゝの時、永井信濃尚長遠山主殿頭頼直とゝもに、かの山に勤番せるのところ、忠勝乱心し信濃守尚長を殺す。このむね上聴に達し、二十七日芝の青龍寺にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(2)内藤忠知
「元禄十四年五月六日さきに姪浅野内匠頭長矩が事に坐して、出仕をとゞめらるゝのところ赦免ありて、なほ拝謁をはゞかり、六月二十五日ゆるさる」(『寛政重修諸家譜』)
(3)浅野長矩
「(延宝)七年八月二十一日弟大学長広に私墾田三千石をわかちあたふ。十四年三月十四日勅使饗応の事をうけたまはりて登営するのところ、遺恨ありとてにはかに自刃をふるひ吉良上野介義央に傷けしにより、田村右京大夫建顕にめしあづけらる。時に長矩、私の宿意ありとてをりからをも弁へず、営中にして卒爾に刃傷にをよびし事、其罪かろからずとて、即日建顕が第にをいて死をたまふ」(『寛政重修諸家譜』)
(4)浅野長広
「十四年三月十五日長矩が事に坐して閉門せしめられ、宗家の領地を収公せらるゝにをよびて長広が采地もをさめらる。十五年七月十八日閉門をゆるされ、厳命によりて松平安芸守綱長が封地におもむく」(『寛政重修諸家譜』)

井沢氏が提示しなかった史料『幕府の諸文書』の内容
(5)「浅野内匠、意趣有之由にて、殿中理不尽に切付、これにより切腹」
史料
(5)『栗崎道有記録』
(史料1)「先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之」
(史料2)「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由」
(6)「左之通被 仰付之
              浅野内匠
 吉良上野介江意趣有之由にて折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段重々不届至極に被 思召依之切腹被 仰付者也
   巳三月十四日
 右之段書付大目付庄田下総守(安利)江相模守相渡之(略)」

以前からあった乱心による御家安泰説
正常でも、御家安泰のため乱心を捏造したか、鳥羽内藤家?
綱吉の時代まで乱心事件は15件、すべて御家安泰
乱心にして、御家安泰を図ったというのが本音
 次の史料は、『大名廃絶録』から抜粋して作成しました。詳しくは忠臣蔵新聞第39号をご覧下さい。
 浅野長矩の乱心説は、母の兄(叔父)の乱心を事実という前提に成り立っています。
 江戸時代、乱心はどのように扱われていたのでしょうか。乱心が原因で大名が処罰を受けたのは、3代将軍の徳川家光になってからです。5代将軍の徳川綱吉の時代までを数えると、15件ありました。処分結果は全て除封、つまり土地は減らされても、大名家は維持するという内容です。
将軍 西暦 元号 乱心大名 藩名 結果
家光の時代 01 1644年 正保1年 松下 長綱 陸奥三春 除封
02 1645年 正保2年 池田 輝興 播磨赤穂 除封
03 1648年 慶安1年 稲葉 紀通 丹波福知山 除封
家綱の時代 04 1667年 寛文7年 水野 元知 上野安中 除封
05 1679年 延宝7年 土屋 直樹 上総久留里 除封
06 1679年 延宝7年 堀 通周 常陸玉取 除封
07 1680年 延宝8年 内藤 忠勝 志摩鳥羽 除封
綱吉の時代 08 1686年 貞享3年 松平 綱昌 越前福井 除封
09 1687年 貞享4年 溝口 政親 越後沢海 除封
10 1693年 元禄6年 本多 政利 陸奥岩瀬 除封
11 1693年 元禄6年 松平 忠之 下総古河 除封
12 1695年 元禄8年 織田 信武 大和松山 除封
13 1698年 元禄11年 伊丹 勝守 甲斐徳美 除封
1701年 元禄14年 浅野内匠頭の刃傷事件
14 1702年 元禄15年 松平 忠充 伊勢長島 除封
15 1705年 宝永2年 井伊 直朝 遠江掛川 除封
 次に、乱心と称して、御家騒動を無事解決して、御家安泰にした例はあるのでしょうか。
 浅野内匠頭の刃傷事件以前、13件中の8件が殺人事件などを起こして、乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
 刃傷事件以後、綱吉の時代には2件中1件が暴政を乱心とされ、除封されたが、御家は安泰となっています。
 統計で見る限り、本当に乱心であったのか、乱心として、御家安泰を図ったのかは、不明としか言えません。
 浅野内匠頭の叔父(内藤忠勝)の場合も、乱心であったかどうか、不明と言うのが正しいのではないでしょうか。そのことから、浅野内匠頭の乱心説は、根拠がないと言えるのではないでしょうか。
 井沢元彦氏が「主君押込」(英明な主君を、”幕府ににらまれては何にもならない”という観点から家臣が結束して、拘束し隠居させる)を紹介していました(79P)。
 正常な考えの井沢氏が、忠臣蔵になると正常な物差しをお忘れになる。これは「お分かりになりません」なー。
次回は、「吉良邸に討ち入った四十七士に死者、重傷者が一人も出なかったのはなぜか」の予定です。

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