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孫に伝える小説忠臣蔵

第二章
【012回】刃傷松の廊下(3)浅野内匠頭の吉良上野介への恨みとは?

産業スパイ説について→あり得ない
(1)「塩田技術はすでに公開されていた(仙台藩)」
(2)「赤穂は入浜・毛管現象、吉良は揚げ浜」
(3)「産業スパイ説は、元通産官僚・堺屋太一氏のフィクション」
入浜で毛管現象による赤穂塩田(『大石神社と赤穂城』)
 3人の女子中学生がやってきました。前回出していた宿題をやって来たのか、自信満々という顔でした。
 湖南土井瑠「いい顔をしているね。宿題には自信がありそうだね」
 3人「はい!!」
 土井瑠「前回は、幕府の取り調べ役人に対して、浅野内匠頭は『吉良上野介への我慢が出来ない恨みがあった』と証言し、吉良上野介は『恨みを受ける覚えはない』と否定したんだったね」
 大野蛍子「それだのに、その『恨み』の有無やその内容を調査せず、浅野内匠頭だけを一方的に死刑にしたんですね」
 木村葉月「ひどーい話ですね」
 土井瑠「そうだね。その『恨み』が究明されなかったので、色々な推測や伝聞が飛び交っているんだね。まず、最初は?」
 蛍子「産業スパイ説があります。”赤穂の塩は良質で、江戸でも評判が良かった。上野介の吉良領でも塩を作っている。吉良上野介が塩の製法を聞いたが、内匠頭は教えなかった”というんですよね」
 土井瑠「さすが、塩田を開発した大野九郎兵衛の子孫だけのことはあるね」
 湖南あこな「それは本当なんですね」
 土井瑠「天保3(1683)年、仙台藩のお殿様である伊達綱村が塩の製法を浅野内匠頭に依頼して、仙台藩の佐藤三右衛門らは、入浜塩田を学んでいるんだよ。以前、仙台に行った時、仙台塩が出されて、その話で盛り上がったんだよ」
 蛍子「産業スパイ説は成立しないということですか」
 土井瑠「そうだね。さらに、吉良町史編纂委員長の鈴木悦道氏は、『新版吉良上野介』という本の中で、”吉良良には塩田はなかった”と証言しているよ」
 葉月「これで、決定的ですね」
 土井瑠「さらに、まだあるんだよ」
 あこな「まだあるんですか」
 土井瑠「あるんだよ。以前、吉良町の博物館へ行った時、塩田の復元を見たが、吉良の塩田は揚げ浜塩田なんだ。赤穂の塩田は、入浜式の毛管現象式なんだ」
 蛍子「つまり、”産業スパイ説はフィクションだった”ということなんですね」
 土井瑠「産業スパイ説の根拠は、通産省の役人で、後に経済企画庁長官になった堺屋太一氏のMHK大河ドラマ・『峠の群像』なんだよ。赤穂も塩、吉良も塩という単純は発想から、時代を繁栄した産業スパイ説が登場したんだ」
 葉月「忠臣蔵を勉強するんでも、色々なことを知らないといけないんですね」
 土井瑠「一つのことを徹底的にやると、枝葉も必要になるという話があるからね」
第007回赤穂浅野家の誕生(2)━築城で大野九郎兵衛登場←クリック

賄賂として贈った鰹節説について→あり得ない
(1)「当時の社会は先例と慣習が重視される時代」
(2)「勅使饗応役を経験・妻の実家から情報を入手の内蔵助」
浅野内匠頭が賄賂として贈った(?)鰹節(挿絵:寺田幸さん
 あこな「浅野内匠頭は吉良上野介に鰹節を贈ったので、松の廊下で、上野介から「赤穂の武士道は、武士道でも、”かつおぶしどう”とののしられたので、刃傷に及んだと書いた本がありました」
 土井瑠「熊田葦城氏の『赤穂義士』には、”院使接待役の伊達左京亮は、加賀絹数巻、黄金百枚、狩野探幽の双幅を贈った”とあるよ」
 蛍子「それと比較すると、鰹節ではあまりに貧弱ですね」  
 土井瑠「周囲の家臣もそう進言すると、内匠頭は、”私と吉良上野介とは、同じ公務をつかさどっている。個人的な阿諛(お追従)はすべきでない」と言った”という本もあるんだよ」
 葉月「なんという本ですか」
 土井瑠「突っ込みが激しいな。赤穂事件を見聞した室鳩巣という人で、本の名は『赤穂義人録』というんだよ」
 あこな「それで、結局、鰹節の件のどうなったんですか」
 土井瑠「そうそう、そうだったね。当時は先例と慣習が支配する時代だったんだ。浅野内匠頭は、まだ17歳だったが、天和3(1683)年に、勅使饗応指南役を勤めているんだ」
 蛍子「ということは、その時の様子をノートにしていますよね」
 土井瑠「当然そうだね。さらに、内匠頭は、元禄9(1696)年に妻アグリの実家が勅使饗応役を勤めた時の記録を借りてもいるんだよ」
 あこな「当然、内匠頭は、その記録を見て、どんな贈り物をしたらよいか、分かっているということですね」
 土井瑠「勿論、そういうことだね」

衣装・墨精・進料理について→あり得ない
(1)「当時の社会は先例と慣習が重視される時代」
(2)「勅使饗応役を経験・妻の実家から情報を入手の内蔵助」
 葉月「吉良上野介は、浅野内匠頭に対して、”当日のは衣装に長上下である”と指図したが、本当は、烏帽子素袍で、恥をかかせてというのもありますが‥‥」
 土井瑠「これも、先例と慣習を重視する時代で、内匠頭は、過去の記録も調べているから、あり得ない話だな」
 蛍子「どのようなことですか」
 土井瑠「『徳川制度史料』を見ると、3月14日の勅答日の服装は長袴で上下同色、大紋(大きな家紋入り)、風折烏帽子、下着には熨斗目(練り糸、緯を生糸で織った小袖)ということに決まっていたんだよ」
 あこな「ふーん、そうなんだ。吉良上野介が伝奏屋敷を検分した時、墨絵が目につき、”勅使の御座敷に墨絵の屏風とは礼を欠く”と指摘して、衝立を激しく引き倒す場面があります。これも記録をみれば、あり得ない話ですね」
 土井瑠「そうだね。『戸田家記録』には、勅使を接待した伝奏屋敷から引き取った品物の中に”金六枚屏風 一隻半”とあるんだね」
 蛍子「吉良上野介の使いが”3月11日は、勅使の御精進日になっているので、魚鳥を用いぬように”と伝言を伝えました。浅野内匠頭は、精進料理を作りました。同時に、念のために、伊達家に聞くと、魚鳥の料理を準備しているという。そこで、浅野家では、両方の用意をして事なきを得たという話があります。これも、あり得ないことですね」
 土井瑠「そうだね。みんなもだんだん分かってきたようだね」

増上寺の畳替え(挿絵:寺田幸さん
増上寺の畳替えについて→あり得ない
(1)「当時の社会は先例と慣習が重視される時代」
(2)「勅使饗応役を経験・妻の実家から情報を入手の内蔵助」
(3)「勅使の休憩は15日、14日の夜に畳替え??」
 葉月「”吉良上野介は、浅野内匠頭には勅使の休憩所の畳替えは必要ないと命じていました。しかし、夕刻、伊達左京亮には院使の休憩所の畳替えを命じていたことを知りました。そこで、堀部安兵衛ら家臣一同が大慌てで、江戸中の畳屋に頭を下げて、無事、増上寺の畳の総替えを成し遂げる”という映画を見て、涙を流しました。これはどうなんですか」
 土井瑠「これもよくできた作り話(フィクション)なんだ」
 あこな・蛍子「先例と慣習によればですか」
 土井瑠「それもあるんだが、もっと決定的的な事は、勅使が増上寺で休憩するのが15日の予定なんだよ」
 葉月「えーっ。だとすると、畳替えの大騒動が14日の夜ということになりますね。しかし、14日の夜には、内匠頭は切腹しているじゃありませんか」
 土井瑠「どうしてこういう話ができたのか、それを考えることも、民衆の心理を知る上で大切なことなんだよ」

内藤忠政 忠次
忠勝
忠知
波知
‖━ 内匠頭長矩
浅野長直 長友 大学長広
浅野家と内藤家の系図
乱心説について→痞(つかえ)説と伯父の乱心説を検証する
(1)「痞えとは”胸・腹にかたまりのようなものがつかえること”」
(2)「主君が乱心の場合、除封されたが、全ての大名家は存続」
 土井瑠「浅野内匠頭は、乱心により、上野介に切り付けたという話は聞いたことがあるかい?」
 3人「ありません」
 土井瑠「みんなが小さいからと、避けたのかな? 理解できるとどうかは別として、事実は事実として、とりあげるよ。浅野内匠頭は、「痞」(つかえ)という胸や腹にかたまりがつかえる病気を持っていたんだ。それを拡大解釈して、刃傷事件をおこしたというひともいるんだ」
 蛍子「それは、本当なんですか」
 土井瑠「痞だけで刃傷事件を起こしたんだったら、痞の人はたくさんいるから、間違っていると断定できるよ」
 あこな「乱心というのは何ですか」
 土井瑠「乱心とは、読んで字のごとく、心を乱して、正常な判断ができないことなんだ」
 葉月「内匠頭もそうだったんですか」
 土井瑠「上の系図を見ると、内匠頭の母である波知の兄が内藤忠勝となっているね。その忠勝(26歳)は、仲の悪かった永井尚長(27歳)が連絡を怠って、忠勝に恥をかかせたということで、これを恨んで尚長を殺害したんだ。これを芝増上寺の刃傷事件というんだよ」
 蛍子「松の廊下の刃傷事件と同じですね」
 土井瑠「結論は、いそいではいけないよ」
 あこな「どうしてですか」
 土井瑠「幕府の記録(『寛政重修諸家譜』)では、忠勝を乱心として、内藤本家を断絶にしましたが、分地していた忠勝の弟・内藤忠知には、そのまま家督を相続させています」
 葉月「乱心の場合、お家は領地をへらされても、安泰なんですね」
 土井瑠「下の統計を見てごらん。将軍徳川家光以来綱吉まで、乱心が原因で大名が処罰を受けた例は15件あるね。しかし、処分結果は全て除封、つまり土地は減らされても、大名家は維持するという内容だということが分かるね」
 3人「本当だ!!」
 土井瑠「15件の内容をさらに調べると、松の廊下の刃傷事件以前、13件中の8件が大名による殺人事件なんだ。しかし、乱心とされ、除封されたが、御家は安泰なんだよ」
 あこな「つまり、お家を安泰にするため、家臣が主君を乱心としたということですか」
 土井瑠「そういうことも十分あり得るね」
 蛍子「内藤忠勝の場合も、お家を安泰にするため、乱心を装ったこともあるということですか」
 土井瑠「そうだね」
 あこな「では、大石内蔵助らが乱心を主張しなかったのは、お家安泰を考えず、主君の恨みを重んじたということですか」
 葉月「だとすると、余程、恨みは大きかったということになりますね」
 土井瑠「そこまで考えることには、少し、飛躍があるよ」
 蛍子「色々な説をきっちり見ていくには、下の表(乱心=15件と結果=全て除封)のような地道な研究が必要ですね」
 土井瑠「そういうことだね。みんなは中学生なんだから、先入観にとらわれず、若い感覚で見直すことが期待されているよ」
 さいごに、湖南土井瑠は「若い人が支持しない文化は衰退するというからね」と3人に語りかけました。

乱心(15件)と結果(全て除封)
将軍 西暦 元号 乱心大名 藩名 結果
家光の時代 01 1644年 正保1年 松下 長綱 陸奥三春 除封
02 1645年 正保2年 池田 輝興 播磨赤穂 除封
03 1648年 慶安1年 稲葉 紀通 丹波福知山 除封
家綱の時代 04 1667年 寛文7年 水野 元知 上野安中 除封
05 1679年 延宝7年 土屋 直樹 上総久留里 除封
06 1679年 延宝7年 堀 通周 常陸玉取 除封
07 1680年 延宝8年 内藤 忠勝 志摩鳥羽 除封
綱吉の時代 08 1686年 貞享3年 松平 綱昌 越前福井 除封
09 1687年 貞享4年 溝口 政親 越後沢海 除封
10 1693年 元禄6年 本多 政利 陸奥岩瀬 除封
11 1693年 元禄6年 松平 忠之 下総古河 除封
12 1695年 元禄8年 織田 信武 大和松山 除封
13 1698年 元禄11年 伊丹 勝守 甲斐徳美 除封
1701年 元禄14年 浅野内匠頭の刃傷事件
14 1702年 元禄15年 松平 忠充 伊勢長島 除封
15 1705年 宝永2年 井伊 直朝 遠江掛川 除封

浅野内匠の釜井と吉良上野介について(幕府の公文書)
(1)「諸大名が賄賂を贈るほど上野介は権力を持っていた」
(2)「内匠頭は賄賂を贈らなかったので憎まれた」
(3)「イジメがあったので、刃傷に及んだ」
 蛍子「浅野内匠頭と吉良上野介のことが分かる史料はないんですか」
 土井瑠「将軍・徳川綱吉の時代の幕府の公式記録である『常憲院殿御実紀』があるよ」
 あこな「そこにはどんなことが書かれているんですか」
 葉月「私も知りたい」
 土井瑠「要点をまとめると次のようになる」
(1)諸大名が賄賂を贈るほど上野介は権力を持っていた
(2)内匠頭は賄賂を贈らなかったので憎まれた
(3)イジメがあったので、刃傷に及んだ
現 代 語 訳
 『常憲院殿御実紀』の「元禄一四年三月一四日条」
 「世に伝えられている所(世間の噂)では、吉良上野介さんは、歴代に天皇に対して高家職にあり、長年朝廷に儀式に関係してきたので、公(朝廷)(幕府)武の礼節典故を熟知精錬している人は、上野介さんの右に出る者はいません。
 そこで、名門や大大名の家でも、自分の考えを曲げたり、折ったりして、上野介さんの機嫌をとり、従って、その都度、教えを受けたりしています。そうなると、自然に、上野介さんは賄賂をむさぼったりして、吉良家は巨万の富を重ねているといいます。
 しかし、長矩さんは、機嫌をとったり、へつらうことをせず、この度、ご馳走役を任命されても、義央さんに財貨(金品)を贈らなかったので、義央さんは密かにこれを憎んで何事も長矩さんには教えなかったこともあって、長矩さんは時刻を間違ったり、礼節を失うことが多かったということがあったので、これを恨んで、かかること(刃傷)に及んだということである」
史  料
 世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて積年朝儀にあづかるにより公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし、よて名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し毎事その教を受たり、されば賄賂をむさぼり其家巨万をかさねしとぞ、長矩は阿諛せず、こたび館伴奉りても義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて何事も長矩にはつげしらせざりしほどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみかゝることに及びしとぞ

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