平成20(2008)年2月14日(第262号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第2巻)

事件の背景(1)
*産業スパイ説という伝聞

入浜塩田による製塩方法です(TV映画より)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
尋問不足により遺恨を究明できす
その結果、さまざまな伝聞・憶測の流布
 浅野内匠頭が吉良上野介に対して「この間の遺恨覚えたるか」と発したことは事実です。
 内匠頭は、上野介に対して「この間からずーっと意趣があった」と何度も繰り返したことも事実です。
 幕府の役人は、浅野内匠頭に対して「どうして場所を考えずに上野介さんに切りつけたか」と尋問しました。しかし、内匠頭は、その質問に答えず、「一己の宿意により刃傷に及んだ。討ち損じたのが残念だ!!」と答えました。
 内匠頭への尋問は、ここで終わっています。明らかに、尋問不足です。
 幕府役人は、吉良上野介に対して「何の恨みがあって、内匠頭から切りつけられたのか」さんを尋問しました。しかし、上野介は、「私は何の恨みも受ける覚はありません。全ては内匠頭の乱心である」と答えました。
 内匠頭への尋問は、ここで終わっています。明らかに、尋問不足です。

産業スパイ説という伝聞・憶測
 この尋問不足の結果、「遺恨」「意趣」「宿意」を勝手に解釈して、色々な憶測・伝聞が流布しました。
(1)産業スパイ説があります。
**浅野内匠頭(赤穂塩)が塩の製法を吉良上野介(饗庭塩)に教えなかった。
*解説1:吉良町史編纂委員長の鈴木悦道氏(吉良花岳寺住職)は「吉良良には塩田はなかった」と証言しています(『新版吉良上野介』中日新聞社)。

**1683(天和3)年、仙台藩の佐藤三右衛門らは、藩の許可を得て、赤穂にやってきて、入浜塩田を学んだということです。この時の仙台藩の藩主は伊達綱村(在位1660〜1703年)で、赤穂藩の藩主は浅野(在位1675〜1701年)です。
*解説2:別にスパイを潜入させなくても、技術は公開されていたのです。
詳細は忠臣蔵新聞第26号を!!
詳しくは、「忠臣蔵新聞第26号」をご覧下さい
 イジメの本当の原因はわかりません。イジメについても、全て伝聞と憶測です。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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