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エピソード

104_01

織田信長の尾張統一
 1451(宝徳3)年頃、尾張の守護は、斯波氏でした。その守護代織田氏は、織田伊勢守常松織田天和守常竹が対立し、尾張8郡を手に入れようと争いました。その後、織田伊勢守常松が尾張上4郡、織田天和守常竹が尾張下4郡を分け合って支配することで、和議が成立しました。
 1516(永正13)年、織田天和守達勝の3奉行が、織田因幡守織田藤左衛門織田信定といわれる武将でした。織田信定の子が織田信秀で、織田信長の父です。織田信長の本家は、織田天和守達勝で、織田信長は織田天和守達勝の分家という立場になります。
 1534(天文3)年、織田信秀に嫡子織田信長が誕生しました。母は土田御前です。幼名は吉法師です。
 1546(天文15)年、吉法師(13歳)は、古渡城で元服して、織田三郎信長と名を改めました。
 1547(天文16)年、織田信秀は、美濃の斉藤道三と戦い、大敗しました。
 これを見た織田本家の織田大和守信友は、守護の斯波義統清洲城に招き、斎藤道三とも連絡を取って、織田信秀を滅ぼそうと、画策しました。
 この頃、織田信長(14歳)は、百姓を集めて、相撲をとったり、戦さ遊びにほうけていました。
  1547(天文16)年、岡崎松平広忠は、嫡子松平竹千代(後の徳川家康。6歳)を人質として、駿府の今川義元に差し出すことにしました。しかし、護送の警護をしていた田原城主の戸田康光が、織田方に寝返り、松平竹千代を塩見坂で奪い取り、織田家に送り届けました。
 織田信秀は、松平竹千代を人質にして、岡崎松平家を織田方に付けようとしましたが、松平広忠は、これを拒否しました。織田信秀は、松平竹千代を殺害しようとしましたが、織田信長は、竹千代の助命を嘆願しました。
 織田信長は、松平竹千代を「三河の弟」といって可愛がったといいます。
 1548(天文17)年、末森城に移った織田信秀は、織田大和守信友の画策を封ずるために、美濃の斎藤道三と講和し、その娘濃姫を織田信長の 室に迎えることにしました。斉藤道三も、その政略結婚を承知しました。
 1549(天文18)年、今川義元は、太原雪齋に命じて、三河安祥城を攻撃しました。三河安祥城は、松平家の城でしたが、織田家に奪われ、今は、織田信長の庶腹の兄織田信広が守護していました。
 太原雪齋は、三河安祥城を攻略し、織田信広と 東條城主の吉良上野介義安を捕えて、松平竹千代(8歳)との人質交換を要求しました。織田信秀は、尾張笠寺で松平竹千代と織田信広の人質交換を了承しました。
 1550(天文19)年、織田信秀は、末森城を織田勘十郎信行(織田信長の弟)に与え、柴田權六勝家佐久間次右衞門信盛を後見人としました。織田信長の母土田御前も、野卑な織田信長より、礼儀正しい織田信行を後継者と考えていました。
 1551(天文20)年1月。織田信長は、前田犬千代(後の前田利家)ら8人だけで、織田本家の織田大和守信友のいる清洲城に火をかけて、引き上げました。
 織田本家の反撃を恐れた柴田勝家ら重臣は、連署して、織田勘十郎信行を後継者にするよう、織田信秀に嘆願しました。織田信長の生母の実家である土田下総守や信長の姉婿である神保安芸守らも署名していました。犬山城織田信清も添え状を提出しました。
 この混乱を利用して、犬山城の織田信清が、末森城を攻めました。その最中に、卒中で、織田信秀が亡くなりました。時に42歳でした。
 3月、織田信秀の葬儀は、万松寺で行われました。しかし、焼香の時間になっても、織田信長は姿を見せませんでした。仕方がないので、弟の織田勘十郎信行を先に焼香させようとしていた時、荒馬に乗った織田信長がやって来ました。服はミニ着物、頭は茶筅髷、帯は神社の注連縄で結んでいました。そして、抹香をつ掴むと、「喝」と叫んで、位牌に投げつけ、再び荒馬に乗って、出て行ってしまいました。
 1553(天文22)年1月、織田信長のもり役平手政秀は、 織田信長を諌めて自害しました。織田信長は、末森城を弟織田信行に譲り、自分は古渡城に移りました。
 4月、織田信長は、斎藤道三と尾張の正徳寺で会見しました。この個所の詳細は、エピソード斉藤道三を参照してください。
 1555(弘治元)年、織田信長(古渡城主)は、守山城織田信光(織田信秀の弟で、織田信長の叔父)を追放し、織田信光の弟織田信次に与えました。
 他方、織田大和守信友(清洲城主)は、織田大和守信友の重臣坂井大膳、織田信長の弟織田勘十郎信行(末森城主)とその重臣柴田勝家らを招いて、斉藤道三の嫡子斉藤義竜や今川義元と連絡をすることを決めました。織田信長に追放された織田信光(守山城主)を迎え入れ、反織田信長戦線は、拡大するばかりでした。
 織田信長は、今川義元に攻められている水野下野守緒川城主)の援軍と称し、弟織田信次を替え玉にして、出陣させました。これを知った織田大和守信友は、保護している織田信光の屋敷を訪れましたが、殺害されました。留守の清洲城は、織田信長自身が攻略し、入城しました。織田信光には、那古野城を与えました。叔父追放は、織田信長の計略だったのです。
10  清洲を追われた坂井大膳は、今川義元を頼りました。その坂井大膳は、織田信光の重臣坂井孫八郎に密使を送りました。坂井孫八郎は、尾張の1城を与えるという条件で、主君の織田信光を殺害しました。織田信長陣営の一角が崩されました。
 そこで、織田信長が打った手は、織田勘十郎信行(末森城主)の重臣で、柴田勝家と共に、反織田信長派の林佐渡を城代を一気に越えて、那古野城主にすることでした。
 6月、織田信次(守山城主)の警固の家臣が、誤って織田勘十郎信行(末森城主)が寵愛していた弟織田秀孝を射殺しました。激怒した織田勘十郎信行は、守山城下に火を放ちました。
 11月、斎藤義竜は、父斎藤道三の重臣と通じて、稲葉山城を陥落させました。斉藤道三は、鷺山城に逃れました。翌年、斉藤道三は、討ち死にしました。
11  1556(弘治2)年、織田勘十郎信行の重臣佐久間大学盛重は、織田信長と会見し、織田信長の器の大きさを知りました。そこで、佐久間大学盛重は、織田信行や柴田勝家や林佐渡の弟林美作が勧めている織田信長暗殺計画を漏らしました。
 織田信長の指示で、佐久間大学盛重は、砦を築きました。佐久間大学盛重が信長に寝返ったことを知った織田信行・林勝家・林美作は、佐久間大学盛重の籠る砦を襲撃しました。神出鬼没の織田信長は、逆に、この3人が率いる軍を包囲し、林美作のみを、首謀者として殺害しました。
 はじめて、織田信長の偉大さを知った柴田勝家らは、織田信長の母(土田御前。香林院)を先導にして、織田勘十郎信行とその重臣佐々蔵人を連れて、清洲城の織田信長に侘びを入れました。その後、織田信行は、柴田勝家を避け、佐々蔵人と相談し、刺客をやとい、織田信長を襲撃させました。織田信長が瀕死の重傷だという噂が、届きました。
 そこで、織田信行は、母香林院を先導にして、兄織田信長を病気見舞いとして、暗殺を計画しました。しかし、すべてを察知している織田信長は、逆に、織田信行を殺害し、自害したと公表しました。
12  1559(永禄2)年、織田信長は、織田信賢岩倉城主)を攻め滅ぼしました。この結果、長く続いた織田家の内紛も終わり、尾張は、ここの織田信長の手によって、統一されました。
13  この項は、山岡荘八著『織田信長』などを参考にしました。
大うつけ信長の作戦
 弱小国尾張の守護代家の分家筋の織田信長は、西の今川義元、東のは斎藤道三に挟まれて、生き残り作戦として、大うつけをよそおったといいます。
 子どもの頃は、百姓を相手に相撲をとったり、長い竹鎗と短い竹鎗と持たせて、戦さ遊びをしたなどの話が残っています。
 父信秀のを葬式の時、焼香時間を大幅に遅れて、しかも、荒馬にのり、服装は、メチャクチャだったといいます。今風に言うと、マフラーを外したナナハンの単車にのり、服は真っ黒な革ジャン、頭はリーゼントか茶髪、アフロヘアーという格好でしょうか。
 私も色々な葬式に出ていますが、髪は急に染められないので、黄色であったりしましたが、服装は黒の喪服で、式に遅れてくる例はありませんでした。その点で言うと、信長は、非常識極まりないとレッテルを貼られても仕方がないでしょう。
 将棋の世界に置き換えて、信長を考えて見ます。私は、小学生の低学年より、父の将棋の相手をさせられてきました。小学生の誰を相手にしても、負けることはありません。相手の作戦が、手に取るように、見えるのです。子供の将棋を見ていた大人が、「この子は、なかなかすごい手を打つな」というのを聞くのが楽しみでした。
 信長のような偉大な人物は、同等かそれ以上の人物でなければ、評価できないということです。信長からすると、相手は小学生の将棋くらいのレベルだったのでしょう。
系図の見方(今回登場した織田氏)
織田敏信 土田政久娘
織田敏宗 ‖━ 織田信長
   ‖ 織田信行
   ‖ 織田信包
織田信定 織   田   信   秀 織田信治
   ‖ ‖━ 織田信広 織田信興
   ‖   娘 ‖━ 織田秀成
   ‖ 側室 織田長益
‖━ 織田長利
織田良頼娘 お市
織田秀敏 織田信康 織田信清
‖━ 織田興康
  娘
織田信光
‖━ 織田信成
  娘
織田信實
織田信次
織田信正

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