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エピソード

262_06

特攻隊の真実1(小林よしのり『靖国論』)
 死者の霊を慰めるお盆が終わりました。今年(2010年)は、戦後65年と関係はあるのか、特に熱かった墓参りでした。
 特攻隊員の霊を慰める一番いい方法は、彼らの声を聞き、その時代を理解し、次の世代にその意味を継承し、加害者にも被害者にもならない決意をすることです。歴史とは、今を知るために、過去を学び、今を理解して、次代の指針にすることです。
 先日、読売TV『たかじんのそこまで言って委員会』(2010年8月8日放映)で、 勝谷誠彦氏が「国民の遺書 『泣かずにほめて下さい』靖國の言乃葉(ことのは)100選」(産経新聞出版)を紹介していました。この放送は、関西習慣視聴率ベスト20(神戸新聞2010年8月10日付け)によると、14.6%で20位に入る人気番組です。その影響力の大きさが分かります。いずれこの本も読みます。
 特攻隊員の遺書に関しては、それ以前に、小林よしのり著『靖国論』(2005年、幻冬社)を読了していました。色々と夢を持った若者が死んでいった現実には涙を流しました。しかし、小林氏が紹介した遺書の表現と敗戦後自決した特攻隊員の遺書の表現がとても違っていました。
 特攻隊員のことについては、全く視点のことなる林えいだい著『陸軍特攻・振武寮━生還者の収容施設』(2007年、東方出版)を読了していました。これが原作として、昨年、NHKTVは『特攻生存━振武寮』を放映しました(2009年10月21日放映)。特攻隊員は死んだとばかり思っていたので、非常に衝撃でした。
 この「エピソード日本史」では、もっと時間を懸けて、史料を集めてからと思っていましたが、最近、NHKTVが若者を対象にした特集を組みました。
 その一つが『色つきの悪夢・カラーでよみがえる!第二次世界大戦の記憶・これが戦争の現実だ・若者こそ見て欲しい』(2010年8月13日放映)でした。その中で、俳優の斎藤工(28歳)さんが「撮影などの仕事を通じて仲良くやっているが、韓国の俳優は”戦争中、日本はヒトラーがやった以上の悪いことをしてきた”と教育を受けている。日本が韓国でやって来たことを知った上で仲よくすることと、知らずに仲よくすることとでは全く違う。お互いの歴史を正しく知ることは、仲よくする上で、必要な事だ」というような発言をしていました。

 もう一つは『日韓の若者が徹底討論━韓国併合から百年の今はたして歴史認識の溝は埋められるのか・・?』(2010年8月14日放映)でした。
 その中で、韓国では近現代の歴史教育は盛んであるが、日本では受験勉強で、縄文時代は詳しく取り扱っても、テストに出題されない近現代はやらないという初眼が続きました。
 「一応歴史学科卒」と自己紹介した日本人のWebデザイナー(27歳)は「韓国と日本は大日本帝国の一員だった。一緒に米英と戦った戦友であった。その事実がスポンと抜け落ち、戦後、日韓が戦争したという歴史観がある。同じ日本人だったわけだから、一緒に謝るのが筋ではないか」と発言しました。
 映画監督の崔洋一氏(父が在日朝鮮人、母は日本人である在日韓国人)から「歴史を語る資格がない」と面罵されました。京大の准教授は若者を擁護していましたが、私は崔監督に賛成です。理解を示してそのまま進行すれば、この若者の発言が黙認されます。明らかに間違っていることは、間違っていると言う勇気が必要です。
 最後に、日韓で活躍するユン=ソナさんは「日本人が歴史をもっと学んでいれば、韓国人がなんでこんなに熱くなったり、悲しんでいることが理解できると思う」と語っていました。

 今以上にアジアの隣人と付き合う必然性が増える若者たちと一緒に、歴史認識を学ぶことが、私の務めだと自覚した次第です。
 まず、『靖国論』(「英霊の言之葉集」より)に掲載されている特攻隊員の遺書の要点を紹介します。
(01)絶筆 海軍少尉 斎藤幸雄命(20歳)
 何も思ひ残すことはありません。ただ、万歳あるのみです。
 お母さん、きつと楼咲く靖圃神社に来て下さいね。
 いつまでも、元気でゐて下さい。
(02)遺書 陸軍少尉 高野丈夫命(21歳)
 たしかに私は御父母様より先に此の身を滅しました。しかし、それで私の一切が終りを告げたのではありません。私は今ちゃんと護園の神として靖園の御社にとこしへに生きて居ります。
 御父様、御母橡の後には常に僕が居ります。・・私は何の思ひ残すことなく心ゆくまで戦って、天皇陛下の弥栄を念じつつ、目を閉ぢることを得ました。
 今迄は私が時々帰省して楽しくお話をし、食事をしてゐました。今度はどうか御両親棟も時々靖国の社
頭に来て下さいませ。
(03)陸軍兵長 志水正義命(35歳)
 地球上に生を得て、一度は苑なねばならぬお互だ。御国為に戦死致し、神として靖国神社に祭られ同胞より拝しられるとはなんたる幸福であらう。
 願くは志水政子となった以上、可愛い子供の養育に務め成長するのを楽しみに志水家を立派に立ててくれる様に願ひたい。
(04)陸軍歩兵曹長 久保田武命(33歳)
 和子よ、父は君国のため喜んで戦場の露と消えました。父は笑って死にました。父がこの世に残す思ひは、唯々お前のことだけなのですよ。父なき後は、母の教へに従ひ、立派な女性となり、若くしてその夫を失へる不幸な母を、幸福にして上げなければいけません。
 父の肉体はすでに無く、父の顔は永遠に見られぬけれど、父の霊魂は九段坂の上から、いつまでもいつまでもお前とお前の母の幸福を祈って守ってをります。
(05)絶筆 海軍少佐 富澤幸光命(23歳)
 靖園神社ではまた甲叔士官でもして大いに簸切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖園で待ってゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。
(06)陸軍伍長 鈴木三郎命( )
 チヅ子、オマへの父ハ、イマ、ヤスクニジンジヤデ、チヅ子ノゲンキナスガタヲ、ミテヨロコンデヰル。
 シッカリペンキヤウシテ、オトウサンヲ、ヨロコバセテクダサイ。
 オトウサンニアイタクバ、ヤスクニジンジヤへキナサイ。
(07)海軍中尉 小川清命(24歳)
 清は埼圃神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮してをリます。
 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。
(08)海軍二等兵曹 大田暁命(19歳)
 私はお先に参りますが、ただ一つ残念なことは孝養の一端も果たし得ずしてお別れする事が何より残念でなりません。どうかお許し下さい。
 あ・・再び帰ることのない懐かしい故郷の歌声が聞えて来るやうです。
 あの山、あの川、あの小道、なつかしい想ひ出ばかりです。
 暁も日本帝国海軍軍人として、立派に最後を飾る所存です。
 御安心下さい。
 何れ靖国神社のお社でお会ひ出来ることを楽しみに致してをります。
(09)遺書 陸軍技術上等兵 牧元生命(33歳)
 かねてより申し開かせし如く、夫たるべき我は最も皇国に生をうけし男子の花と散りたるぞ。泪は、そらのほこりの泪たれ。心静かに我がすがたを見られ度し。我が子のすがたを見られたし。靖国の父は影の如く付き安泰を守らむ。
 強さ母、清さ母として、和代、昌栄、芙登里の母として強く強く生きぬかれよ。和代は生来神経質なれば特に育成に配慮あれ。昌栄は少しオテンバなれば親元にて教育され度し。芙登里は未だ年少なれば充分に気を付け本人に力あれば智を付けるも良し。
 和代、昌栄、美登里、お母さんのよい子になりなさいよ。そして靖国の社へ会ひに来なさい。幾度も幾度も。
 はぎよ強く生きぬきなさい。良さ母として、良さ母として。
(10)鉄血動皇隊 豊里陳雄命(15歳)
 お母さん、首里の都もとうとう戦の庭と化しまして、自分等も鉄血動皇隊として軍服姿に身を固め、英米撃滅に邁逢したのであります。
 小生を御国の為に働かして下さい。自分も良さ死場所を見つけて、御国に御奉公するつもりです。
 お母さん、自分の働きぶりを見て下さい。
 九段の御社で、母上棟さやうなら。
 散るべきときに散ってこそ
 男と生まれし甲斐はありけり
 (01)〜(10)を読んで、胸が熱くなります。しかし、小林よしのり氏とは全く違う意味において・・。
 小林氏は『靖国論』で、特攻隊員を「七生報国(七回生まれて変わっても国を護る)と言い残した英霊」と表現します。「戦前の若い将兵の遺書を見ると文面の純粋さに胸を打たれる」「戦後のふしだらで未熟な大人たちが、この戦前の若者たちの遺書から放たれる秀徹した精神の輝きを正視できるのだろうか?」
 小林氏が紹介した10人の絶筆・遺書には全て靖国神社(または九段社など)が入っています。私には、とても素直な心情吐露とは思えないのです。そのことに、悲しみを覚えるのです。特に15歳の少年が「小生を御国の為に働かして下さい。自分も良さ死場所を見つけて、御国に御奉公するつもりです」という表現の裏に秘められた15歳としての少年の夢や楽しみを想像するのです。「もっと本を読みたかったであろう」「もっと旅をしたかったであろう」「もっと恋をしたかったであろう」。

 次は、『靖国論』で紹介された敗戦後に自決した特攻隊の遺書を紹介します。
(01)陸軍少尉 谷藤徹夫(自決日:1945年8月19日)
 谷藤少尉は、結婚間もない新妻(朝子夫人)を後ろに乗せて特攻したのである。(東京都世田谷区:世田谷観音寺の)碑文にはこうある。「国破れて山河なし 生きてかひなき命なら 死して護国の鬼たらむ」
(02)陸軍憲兵軍曹 近藤巌(自決日:1945年8月19日)
 靖国神社の社頭で自決しました。以下がその遺書の内容です。
 謹みて御両親様に申し上げます。
 本日復員の命下り、帰郷の余儀なきに至りました。真に無念に存じます。多くの戦友に先立たれ、軍人の本分を完ふせず、今更何んで帰られませう。巖の胸中、お察し下され。
 武人として、又、自己の信念の大道を進むべく、此処に死を決します。お許し下され。
 生を受けてより此の方、二十四余年余。此の間の御両親様の御辛労、深く深く感謝致します。後に残りし弟二人、立派に御薫陶の上、皇国護持の為に尽さしめられたくお願ひ申し上げます。折角御自重遊されなく。
10 (03)陸軍技術中尉 藤田正雄(自決日:1945年8月27日)
 アメリカ兵が進駐してくる前日、勤務先で自決しました。
 壁には、「七生報国」と大書されていました。
 以下がその遺書の内容です。
 遂に帝国の最後が参りました。正雄は軍人として、此の聖戦に生命をかけてきました。
 いまさら何を見苦しき未練の振舞いをしませうや。
 光輝ある帝国の歴史を米兵の足下にふみにじられては、がまんがなりません。
 聖戦と運命を共にするを自らの誇りとして、虚なる世に別かれます。
 純愛を物語る数々の思ひ出も、今は無き夢となりました。
 先立つ不忠不孝をお許し下さい。
 御両親様
(04)海軍少尉 森崎湊(自決日:1945年8月16日)
 降伏は受け入れられない。しかし、それでは、降伏を決断された天皇陛下の意志に背くことになると、自決を選らびました。
 以下がその遺書の内容です。
 返すがえすの親不孝何卒御許し下さい。
 御国の御役にも立たず、何の手柄も立てず
申し訳ありません。死んで護国の鬼となります。
 私は生きて降伏する事は出来ません。
 私は行き長らへていたら必ず何か策動などして、恐れ乍ら、和平の大詔に背き奉り、君には不忠、親には不幸と相成る事、目に見えるやうです。
 アメリカが来たら、御傍離れず御護り致します。
11 (05)海軍大尉 細田春中(自決日:1945年8月23日)
 細田大尉は東京外国語学校卒のインテリです。
 以下がその遺書の内容です(一部補足しています)。
 正義の戦と確信し最後の勝利を確信した私の信念も、終に破れました。
 しかし斯くも無慙な、斯くも悲痛な敗戦の幕を閉ぢやうとは信じられない現実です。が、吾等は最善をつくしました。今更、戦争の指導者も、戦争財閥も恨みますまい。要は科学兵器に対して精神力兵器が敗れたのです。井中の蛙大海をしらずを、如実に物語つて居ります。
 とは云へ
 天皇陛下に対し奉りては、無情の恐懼を感じ、その職責の重大を痛感する者でありまして、おめおめ生還するが如き男子の本懐とせざる所であります。故に私は上官または同僚の忠告を排除し、自己の良心の命ずるまま自決を以て、陛下にお詫びする決意を致しました。
 千思万考なほ且つ私の決意を翻し、私の意思を曲げることが出来ないのです。不孝の罪は甘んじて受けます。
 元より私は一点の濁りもない崇高な気持ちで昇天の精神を以て、従容死に着くのでありますから、一掬の泪で満足致します。
 ではお父さん、お母さん、永々の御薫陶を万謝致しますと共に天寿を全うせられ、幼き弟妹を立派に御訓育くださいますやう、切に切に御願ひ致します。
 ではこれでお訣れと致します。
(06)陸軍少佐 晴気誠(自決日:1945年8月17日)
 陸軍大学校を卒業して、大本営参謀(作戦班)を勤めました。敗戦後、大本営参謀として国軍の悲境を招いた責任を自ら負い、同期生の益田兼利少佐に介錯を依頼して割腹自決しました。
 以下がその遺書の内容です。
 戦いは遠からず終わることと思う。而して、それが如何なる形に於て実現するにせよ、予はこの世を去らねばならぬ。地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。
 サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
 武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
 而して、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。魂はあく迄皇国を護持せんのみ
12  (01)〜(06)は、敗戦後の自決者の遺書です。
(01)について、小林よしのり氏は「生き延びようと思えばできたはずなのになぜ?」とし、しかし、彼らは「終戦自決者」として靖国神社に合祀されているとしています。私からすると、「陛下からお預かりした飛行機に妻を載せる」ことは当時の軍神と矛盾しないのでしょうか。不思議です。また「国破れて山河あり」が普通の意識です。徹底的に精神的打撃を受けても、心を癒し再生させるのが故郷であり、故郷の自然です。「国破れて山河なし」とは頽廃的で貧弱な精神教育だったとしか思えせん。七生報国思想とは相容れません。
(03)について、小林よしのり氏は「当時の日本人には、こうまですさまじいアメリカに対する”意地”というものがあったのに、今となっては”親米””アメリカは友人”の大合掌。なんという変節だろう」と書いています。戊辰戦争の時、新政府軍に敗れた榎本武揚と大鳥圭介は、武士として自害の道もありました。しかし、新政府軍の黒田清隆に説得され、生きて降伏しました。「君らこそ明治日本の指針になる人物だ」と説得されて・・。「生きて、日本のために尽くす」という哲学のなんたる変節だろう!!
(04)について、小林よしのり氏は「近代合理主義に毒された者はこう言うだろう。”無駄死にだ!””犬死だ!””戦闘も終わってから、敵に一矢を報いるでもなく一人で死んで何になる?”」と書いています。
(05)について、小林よしのり氏は「自ら死に臨んだ者たちの心が、千思万考を越え、一つの結論に落ち着いたことが窺える」と書いています。インテリらしく「私は一点の濁りもない崇高な気持ちで昇天の精神を以て、従容死に着く」とあります。しかし、この文章から形容詞的無意味な表現を削除すると、何が残るでしょうか。「一点の濁りもない崇高な気持ち」とはどんな気持ちでしょうか。現実にはありません。「昇天の精神」とはどういう精神でしょうか。意味のない美辞麗句に酔わせる戦前の国語教育に洗脳されたインテリの苦悩が聞こえてきます。
(06)について、小林よしのり氏は「負けた戦争だからこそもはや、命を捨ててしか守れないものがあると彼ら(晴気誠氏ら599人)は信じた」と書いています。生きて、行きぬいて、闘って、闘い抜いて、守ろうという教え・行き方という選択はなかったのでしょうか。残念!無念! 合掌!!
13  敗戦後自決した軍人の遺書には「生きてかひなき命なら」「武人として、又、自己の信念の大道を進むべく、此処に死を決します」という表現がたくさんあります。
 楠木正成の「七生報国」も有名ですが、「櫻井の別れ」も有名です。特攻精神には「七生報国」のみが強調され、「櫻井の別れ」は無視されたのでしょうか。命を簡単に捨てる日本人には、「櫻井の別れ」こそ銘記すべきだと思います。
 そこで、『太平記』(岩波古典文学大系)から「櫻井の別れ」の部分を詳述します。
 「戦を京都の外で決するので、敵:足利尊氏を滅ぼすことは雑作もないことなので、すぐに楠木正成は兵庫に下れ」と命令が出されました。そこで、正成は「これ以上の異議は言ってもしかたがない」と思って、5月16日(1336年)に京都を立って500余騎を率いて兵庫の湊川に下って行きました。
 正成はこれが自分に取って最期の合戦と思ったので、長男で11歳の正行を同行していましたが、思うことがあって、桜井の宿より河内に返そうと、家訓(庭訓)を持たしたのは、次のような理由からです。
 「ライオンは子を産んでから3日目で、数千丈の岸壁から崖下に蹴落とす。その子にライオンの資質があれば、教えられなくても、跳ね返って死ぬことはないと言う。いわんやお前はすでに10歳を過ぎている。私の言うことを一言でも耳に残っておれば、私の教えに違うことはない。今度の合戦は天下の安否を決める戦いなので、生きてお前の顔を見ることは今だけである。正成が討ち死にしたならば、天下は必ず将軍:足利尊氏のものとなるであろう」
 「そうだと言っても、その場の命を助かろうとして、今までの忠義を失って、降伏することはいけない。一族の内、もし1人でも生き残ったならば、金剛山の辺に引きこもって、敵が寄せて来たならば、中国の英雄:養由のように矢を使い、儀は中国の忠臣・紀信の忠にまけないようにせよ。これがお前の第一の孝行である」と泣く泣く言い含めて、正成は西に、正行は東に分かれて行きました。
 楠木正成は、敵軍が京都に西に近づいたと聞いて、国が必滅することを嘆いて、子どもの正行の活かして、自分が死んだ後の義まで貫こうと考えていました。中国の忠臣(養由や紀信)、日本の忠臣(楠木正成)のことを、千年を過ぎても、昔も今の優れた人も一致して、忠臣というであろう。
湊川の戦い(足利尊氏 VS 楠木正成・新田義貞)←クリック
史料
14  然レバ只戦ヲ帝都ノ外ニ決シテ、敵ヲ鉄鍼(ふえつ)ノ下ニ滅サン事何ノ子細力有ル可キナレバ、只時ヲ替へズ、楠罷下ルべシ」トゾ仰セ出サレケル。正成、「此上ハサノミ異儀ヲ申ニ及バズ」トテ、五月十六日ニ都ヲ立テ五百餘騎ニテ兵庫へゾ下ケル。
 正成是ヲ最期ノ合戦ト思ケレバ、嫡子正行ガ今年十一歳ニテ供シタリケルヲ、思フ様有トテ櫻井ノ宿ヨリ河内へ返シ遣ストテ、庭訓ヲ残シケルハ、「獅子子ヲ産デ三日ヲ経ル時、数千丈ノ石壁ヨリ是ヲ擲(なぐ)。其子、獅子ノ機分アレバ、教へザルニ中ヨリ駁(はね)返リテ、死スル事ヲ得ズトイヘリ。況ヤ汝已ニ十歳ニ餘リヌ。一言耳ニ留ラバ、我教誠ニ違フ事ナカレ。今度ノ合戦天下ノ安否ト思フ間、今生(こんじょう)ニテ汝ガ顔ヲ見ン事是ヲ限リト思フ也。正成已ニ討死スト聞(きき)ナバ、天下ハ必ズ将軍ノ代ニ成ヌト心得べシ。
 然リト云共、一旦ノ身命ヲ助ラン為ニ、多年ノ忠烈ヲ失テ、降人ニ出ル事有べカラズ。一族若當ノ一人モ死残テアラン程ハ、金剛山ノ邊ニ引籠テ、敵寄來ラバ命ヲ養由ガ矢サキニ懸テ、義ヲ紀信ガ忠ニ比スベシ。是ヲ汝ガ第一ノ孝行ナランズル」ト、泣々申含メテ各東西へ別ニケリ。
 ・・今ノ楠判官ハ、敵軍都ノ西ニ近付ト聞シヨリ、國必滅ン事ヲ愁テ、其子正行ヲ留テ、無跡迄ノ義ヲ進ム。異国ノ良粥、是ハ吾朝ノ忠臣、時千載ヲ隔ツトイへ共、前聖後監一揆ニシテ、有難カリシ賢佐ナリ。

15  『靖国論』を検討すると、以下の事が分かりました。
 敗戦前の特攻隊の遺言には「靖国で会おう」という文言がほとんど出てきます。
 他方、敗戦後に自決した軍人の遺書には、ほとんどありません。内容や表現が幅があります。
 言論を重視する小林のしのり氏からすると、言葉狩りにあったような文章は忌避すべき表現でしょう。
 美しい花にはトゲがあります。美しい言葉には裏があります。勇ましい言葉には危機を含んでいます。美談の裏には秘話があります。正義の裏には別の正義があります。
 セールスマンは笑顔でやって来ます。このことも一番知っているのは小林よしのり氏でしょう。
 戦前、異論・反論したり、国家の枠に入らない人物を「非国民」(アウトサイダー)というレッテルを貼って、排除し、「物言わぬ人間」を育成してきました。小林よしのり氏は枠内に収まる人物でしょうか。私にはそうは思えませんが・・。
 私は北朝鮮などのマスゲーム(集団演技など)や自由意思を抑圧する強制的な手法には嫌悪感を持っています。演じている彼らが悪いのでなく、演じさせている指導者に反感を持つ人物です。だから、選択の幅が少ない体制に反対しているのです。
16  塩野七生氏の本は読んだことはありませんが、朝日新聞の書評欄では佐々木俊尚氏が『日本人へ リーダー論』(文春新書)を取り上げ、面白いことを書いていました。
 著者は「誰でも納得できる客観的な基準にもとづいた大義が存在するならば、人類はとうの昔に戦争と
いう悪から解放されていたはずである。そうでないのは、もともとからして大義なるものが存在しないからだ」とばっさり。そうして著者は、ローマの時代から戦争はたくさんあったが「そのうちの一つとして、客観的な大義に立って行われた戦争はない」と言う。大義なんていうものは後から勝者が唱えるだけのもの、というわけだ。
 大義なんてないからこそ、冷徹に国益を考え、論理的に行動していくことが重要になる。しかし日本では、どこにも存在しない空虚な理想に依拠し、情緒的に政治や社会を爵る風潮が蔓延している。
 この本は買って読んでみよう!!。
小林よしのり氏の特攻論の行先は?
 小林よしのり氏の『靖国論』を読破しました。
 靖国で会うことを信じて死んでいった特攻隊員には靖国は特別な場所です。それは理解できます。
 しかし、現実は、そうなっていません。嘆かわしいことであることも理解できます。
 天皇のために死に、家族とは靖国で会うことを約束したのに、その天皇の参拝がないのです。その原因を小林氏は、「首相が私的参拝をしたため、私的性質のない天皇に参拝の道を閉ざした」と指摘します。
 A級戦犯の合祀については、「1953年8月遺族援護法が改定され、旧敵国の軍事裁判で有罪とされた人は、日本の国内法では罪人とみなさないという判断基準が明確に示され、遺族に年金と弔慰金が支給されることになった」と書き、A級戦犯が靖国神社に合祀されることに問題はないとしています。
 さらに、小林氏は「A級戦犯を合祀して理由として、サンフランシスコ平和条約第11条の受諾の意味は、敗戦国としてやむなく刑の執行を約束したにすぎず、東京裁判そのものを認めているわけではない。だから、彼らは戦犯ではなく、他の戦死者と同じ、戦争による公務死であるとしています」という靖国神社の主張を紹介しています。
 1966年2月、靖国神社法案提出という政治的な背景で、A級戦犯の合祀はなりませんでした。
 1975年4月、三木武夫首相は、初めて靖国神社に参拝した時、私的を強調しました。
 1975年8月、昭和天皇は、靖国神社に参拝しました。これが天皇として最後の参拝になります。
 1978年10月、福田内閣の時代、靖国神社は、A級戦犯14人を、密かに、昭和受難者として合祀しました。靖国神社は、援護法改正で戦犯刑死者も復権したことを理由にしましたが、厚生省は復権とは関係ないと言っています。
 1979年4月、朝日新聞によりA級戦犯合祀が明らかとなりました。大平正芳首相が靖国神社に参拝しました。この時は、中国からの抗議はありませんでした。
 1985年8月、中曽根康弘首相は、靖国神社に公式参拝しました。
  9月20日、中国は、周恩来首相の中国国民への説明と矛盾するとして、首相の参拝に抗議しました。
 1986年8月、後藤田正晴官房長官は、「靖国神社がA級戦犯を合祀していること等もあって、首相の公式参拝は差し控えることとした」との談話を発表しました。
  9月3日、中曽根首相は、「靖国公式参拝はA級戦犯をほめたたえることになる」と語りました。
  9月18日、中曽根首相は、衆院内閣委員会で、「サンフランシスコ平和条約第11条によって極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しております」と答弁しました。
 2006年7月、宮内庁の富田朝彦元長官の昭和天皇のメモが報道されました。それは次の通りです。
 「私は 或る時に、A級(A級戦犯)が合祀され その上 松岡(松岡洋右元外相)、白取(白鳥敏夫元駐伊大使)までもが 筑波(筑波藤麿靖国神社宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平(松平慶民靖国神社宮司)の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」
 7月、陸軍大臣東条英機名で出された「陸密第二九五三号靖国神社合祀者調査及上申内則」(1944年7月付け)も公表されました。それは陸軍秘密文書扱いで、靖国神社合祀基準を「戦役勤務に直接起因」して死亡した軍人・軍属に限ると通達していました。この通達によれば、東条英機元首相らA級戦犯は明らかに「合祀の対象外」となります。
 8月、東条英機元首相の二男・東条輝雄氏は「父も戦後、自分が合祀されるとは思ってもいなかったはずだ」(共同通信より)
 2007年4月、晩年の昭和天皇と香淳皇后に仕えた卜部亮吾侍従が32年間欠かさずつけていた日記を公表しました。そこには、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と書かれていました(朝日新聞)。
 2010年8月、菅首相は6月の参院本会議で、「A級戦犯が合祀されている問題などから、首相や閣僚の(靖国)公式参拝には問題がある。首相在任中に参拝するつもりはない」と明言した。
 昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。これを受け、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を釈放した。刑死・獄死した戦犯の遺族にも年金が支給された。旧厚生省から靖国神社に送られる祭神名票にも戦犯が加えられ、合祀されたのである。
 靖国神社には、246万余柱の戦死者の霊がまつられている。このうち、213万余は先の大戦の死者の霊だ。国のために尊い命を捧(ささ)げた人たちに対し、国家の最高指導者が哀悼の意を表すことは当たり前なのである。それができないのは異様としかいえない(産経新聞:主張)。
靖国神社の戦後←クリック
2006年、靖国神社とA級戦犯合祀←クリック
 小林よしのり氏の主張は、靖国神社や産経新聞の主張に沿っていることが分かります。しかし、これだけでは天皇の8月15日の靖国参拝への具体策が示されていない。
 他方、公表された富田朝彦元長官や卜部亮吾侍従には、天皇が靖国神社への参拝を拒否している理由が明確です。さらに「陸密第二九五三号靖国神社合祀者調査及上申内則」によると、A級戦犯の合祀は通達違反ということになります。
 特攻隊員の純真無垢な死が政治対立により、宙に浮いています。
 「特攻隊員の死を厳粛に受け止める」ということは、小林氏と同感です。
 しかし、特攻隊員の純真な遺書をそのまま利用して、同じような純真な若者を育成することには異論があります。
 天皇が参拝できてこそ、国に殉じた若者の精神に報いることになりませんか。
 選択の道があり、その道を自由に選べる選択権が必要です。今の若者に一本道しか与えないことには反対です。若者に戦前と同じような運命を辿らせないことを考えることが大切だと思います。
 300年前の赤穂事件(忠臣蔵)が今も人気を保っているのは、選択の道があったからです。討入りには、家族のためとか健康上の理由をもっともらしく述べて脱盟しています。大石内蔵助と考えが違うと言って脱盟しています。脱盟されては困るとして刺客を送ったこともありません。脱盟しても、討入りを密告した者もいません。このような日本人の選択の歴史を学んだり、実践することも大切ではないでしょうか。
 小林よしのり氏は、「わしは民主主義が嫌いなのだ。だから坂本龍馬より西郷隆盛の方が好きなのだ」と書いています。民主主義が嫌いと西郷隆盛が好きとは全く関係がありません。それを自由に書いたり述べたり出来るのは、民主主義社会だからですよ。民主主義の前提は個人主義と自由主義です。
 つまり、個人主義と自由主義(民主主義)を一番謳歌しているのは小林氏であります。そのことを御存知でしょうか。
 戦前、小林氏のような正統皇国史観によらない自由な発言はどうなったとお思いでしょうか。
 戦前に身をおいて千思万考されてはいかがでしょうか。
 小林のしのり氏は、伝統的な保守を標榜するために、特攻隊の純真無垢な遺書を紹介しています。しかし、先に指摘したように、洗脳された、選択の余地のない、形容詞の羅列的文言であることに一番気が付いているのは、小林氏でしょう。豊かな想像力を働かされれば、どういう過程でそのような遺書を書いたのか簡単に理解できるはずです、小林氏ならば・・。
 しかし、人命を軽視する立場からは、米軍による無差別攻撃や原爆投下を批判できるでしょうか。
 TVのドキュメンタリー番組で「アメリカ人やイギリス人が簡単に降伏して捕虜になる心理が分からない」という証言を多く聞きました。日本では『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱を受けず」という教育を徹底的に受けました。
 しかし、以前は、日本には捕虜に対する全く違った考え方がありました。1917年〜1920年までの3年間、徳島県鳴門市の板東俘虜収容所に、約1,000人のドイツ人兵士が収容されていました。松江豊寿所長は、国際規約により捕虜たちの自主活動を認めました。地元の住民との交流では、パンやバターの作り方などドイツ文化が紹介されました。1918年6月1日、収容所内の講堂で開かれた演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第9番が全曲演奏されました。これがアジアにおける初演とされています。
 兵庫県にも捕虜と仲よく記念写真に収まっている村人がいました。
 第二次大戦中、映画「戦場にかける橋」・「戦場のメリークリスマス」などで捕虜虐待の場面が出てきます。あの弱い立場の者を慈しむ武士道精神(軍人精神)はどこに行ってしまったのでしょうか。
 私は、子どもの頃、戦争体験者から話を聞くのが好きでした。そのなかで、最も衝撃を受けたのが、軍隊では3日あれば、性根をたたきなおせる(感情を制御して上官の言うことに全く従う)というのです。但し、その指導が厳しすぎるので、交戦中に、上官に対して「弾は前からばかり飛んでくるとは思うなよ」という声が飛んできたそうです。人命や人権を無視する日本軍隊は、内部から腐っていたという話でした。「暴力で日本人の精神を抑圧した日本軍にはアジアを解放する思想は無かった」。
 「戦争に負けてよかった」「戦争に負けていてよかった」というのがほとんどの戦争体験者の公約数でした(今も、大相撲だけでなく、会社やスポーツの世界に、戦前に通ずる上下関係が温存されています)
 特攻隊創設の精神も捕虜虐待の精神も人権軽視が原因です。

 小林よしのり氏は反米保守を主張して「新しい歴史教科書をつくる会」から退会しました。小林よしのり氏は自主防衛論者です。反米自主防衛という理想はあっても、現実は戦前の日本の姿です。国家予算に占める軍事費の割合をみると、1925年が約30%です。小林さんが理想とする1940年代は約80%です。国民生活を完全に破壊して、反米自主防衛というのが小林さんの描く理想国家でした。
 会社での人間関係、結婚、子どもをつくったり、近所付き合いは、高校で習ったでしょうか。声高に高校で習わなかったと言う人はいないでしょう。関心・必要があれば、自分で勉強するものです。
 では、日本史の近現代史はどうでしょうか。この場合は、声高に「高校で習わなかった」といいます。
 しかし、本当にそうでしょうか。Z会によるセンターテストの配分を見てみましょう。
 テーマ史(1題・12点)、古代(1題・18点)、中世(1題・18点)、近世(1題・17点)、近・現代(2題・計35点)となっています。何と近現代史は35%を占めています。どの科目も70%以上が合格最低点ですから、近現代史の抜いて日本史対策はあり得ません。
 Z会も「全範囲から出題されるため満遍なく学習が必要であるが、配点の高い近現代の対策は重要」と指摘しています。
 「近代史は高校で習わなかった」ということは、責任転嫁でしかありません。
 「必要な近現代史は習わなかった」という意見も一応もっともらしく聞こえますが、「子づり」と同じ議論で、関心・必要があれば、自力で勉強すべきものです。自分の非力を他人に転嫁しても基本的な解決にはなりません。
 自分の無知・度量不足を他に転嫁する安全圏対策から脱皮して、成長したいものです。
 NHKTV『爆笑問題の戦争入門』(2010年8月12日放映)で、芸人・品川祐氏(38歳)が「学校ではあまり教えてくれなかった」と発言すると、俳優・神山繁氏(終戦時16歳)は「教えてくれないからって言ってないで、自分で学ばなきゃだめだ」と厳しく指摘していました。
 ここでも自分の非力を非力と自覚しない若者と、他人に転嫁するだけでは解決しないと指摘する大人という構図です。
 ブログなどで確認すると、ほとんどが神山氏の発言を支持していました。

 こういう構図を受けない若者も、こういう構図を体験した若者も、自力で本を読んで、読解して、自分にしかできない表現をしてほしいものです。読解力+表現力=個性なんですよ。

 以下は参考資料です。
 1970年11月25日、作家・三島由紀夫(45歳)は、東京都新宿区市ケ谷の陸上自衛隊で決起の演説をしましたが、受け入れられないと、東部方面総監部の総監室において割腹自殺しました。
 三島由紀夫を介錯したのは森田必勝(25歳)でした。
 東部方面を訪れたのは「今回の例會に於いて表彰する學生を御紹介したい」と言うものでした。三島由紀夫と言う有名な作家の申し入れに疑念を入れなかった總監・益田兼利陸將は快く迎へ入れました。澤本泰治三等陸佐に案内されて、三島らは二階の總監室に入りました。
 2、3分の雑談後、益田陸將は三島の日本刀を褒め、三島はその刀を手渡しました。それを会図に、總監の背後に廻り込んだ学生は總監を縛り上げ、机や椅子などで部屋の入口を塞ぎました。時間は午前11時10分でした。
 三島由紀夫は、総監の部屋の外にいた幕僚らに、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させました。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫しました。有名な小説家が本気であることを知った幕僚副長・由松秀信一佐は、要求を受け入れました。由松秀信一佐は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意しました。 
 正午直前に、三島は総監室の外のバルコニーに姿を現わした。彼は定刻になるのを待って歩き回り、一方、森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。十二時きっかりに、三島は足下に集まった隊員たちと、ふくれ上がってきた報道陣に顔を向けた。隊員たちに向ってマイク無しの肉声で、興奮した身ぶりをまじえつつ、真の「国軍」として目覚め、われわれの決起に参加せよ、と訴えた。
 私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ・・・。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の・・・。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から・・・。
 静聴せよ、静聴。静聴せい
 自衛隊が日本の・・・の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
 以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが・・。
 静聴せい。静聴せい
 それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。
 静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい
 それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。
 なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。
 治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が・・・。
 諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
 去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか
 それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の・・・アメリカからしかこないんだ。
 シビリアン・コントロール・・・シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。
 ・・・そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。・・・そうした自衛隊の・・・最後の三十分に、最後の三十分に・・・待ってるんだよ。
 諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。
 諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。
 そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ
 抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
 一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命・・・。
 それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!
 まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
*凡例1:・・・(聞き取り不能)
*凡例2:赤字(原稿にない三島の呼びかけ)
*凡例3:黄字(自衛隊員のヤジ)
 演説の大半は、ヘリコプターの爆音にかき消され、聞きとれた言葉には、自衛隊員たちがヤジをとばしました。戦力放棄を謳った憲法を否定し、共に起ち、義のために死のうと呼びかけた檄文がバルコニーからばら撒かれました。しかし、だれも賛同する自衛隊員はいませんでした。30分予定されていた演説は、有名人を自負する三島由紀夫の予想に反して7分で終わりました。覚悟した三島は短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方か後方のどちらかに傾いた。森田は二太刀打ち下ろしたがうまく切れず、森田より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離れた。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れない。
 ついで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らなかった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。後に残った三人の会員は、このとき涙を流していたが、総監の縄を解き、胴体と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられた。
10  この記事(7、8、9)はホームページ「三島由紀夫割腹余話」を参考にしました。感謝申します。
 特攻隊の記事と三島事件とは、関連があるのです。実は、三島事件の時の東部方面総監・益田兼利陸將は、晴気誠陸軍少佐を介錯した益田兼利少佐だったのです。

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