print home

エピソード

302_05

日本国憲法制定60年
 日本国憲法は、1946(昭和21)年11月3日に公布され、6ヶ月間の準備期間をおいて、1947(昭和22)年5月3日に施行されました。2007(平成19)年5月3日は、ちょうど施行されて60年になります。
 安倍晋三首相の強い意志で、2007年4月13日、衆議院本会議で、自民党・公明党の賛成多数で国民投票法案が可決されました。参議院でも多数を占める自公両党の賛成多数で、可決成立の見込みとされています。
 国民投票法案とは、国民投票を実施するための細則です。
 この国民投票法案が改憲への第一歩と言われる理由は、憲法96条に「この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」という規定があるからです。
 つまり、国民投票又は国会が定める選挙の投票の規定がなかったので、いくら「改憲・改憲」と叫んでも、具体的な改憲へのコースになっていなかったのです。
 国民投票法案が可決され、憲法改正案が国会に提案された場合でも、憲法96条は「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」という規定があります。衆議院は、定数が480人で、自民党は307人、公明党は31人です。70.4%ですから、3分の2以上になります。参議院は、定数が242人で、自民党は110人、公明党は24人です。55.3%ですから、3分の2以上に僅か足りません。
 2007年の参議院選挙が重視されるのは、この点にあります。
 改憲派は、この憲法は外国から押し付けられたからと主張します。護憲派は、押し付けであっても、当時の国民の圧倒的支持を得ていたと主張します。
 その間の経過については、別項の「日本国憲法の制定」(268-01)を参照してください。
 ここでは、法律のもつ意味を考えたいと思います。
 江戸時代、徳川綱吉は、生類憐みの令を施行しました。詳細は別項の『忠臣蔵新聞』「エスカレートする憐みの令」を参照してください。概略は、病んだり、老いたりした牛馬を捨てると死刑になったり、犬を傷つけると八丈島送りになりました。将軍の側に奉公する者は、獣だけでなく、魚介類・玉子を食べず、蚤・虱・蚊・蝿も殺さないと誓紙を出し、ボウフラを殺さないために下水を打たなくなったといいます。
 これは、自分が法律が作り(立法)、それを実施し(行政)、その法律に違反した者を処分(司法)した結果、こういう恐怖政治が行われたのです。三権分立の必要性がよく理解できます。
 大岡越前守忠相のことが映画やTVで取り上げられ、人気を得ています。内容は、全くの作り話(フィクション)ですが、どうして人気があるのでしょうか。
 暴れん坊将軍徳川吉宗の時、大岡忠相は、町奉行として『公事方御定書』と『御定書百箇条』を編集しました。これは、過去の罪と罰を調査し、江戸時代の法体系を確立したことに意味があります。その結果、専制君主といえでも、気まぐれに、処分できなくなりました。
 この法律があれば、吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭の一方的な処分もなかったわけです。江戸時代の人は、この罪と罰を設けて、暴君の権力を抑止することに、拍手喝采してことが理解できます。これが、人気の秘密です。
 1875(明治8)年2月、立志社の呼びかけで、大阪に全国の有志の政社である愛国社を設立しました。
 4月、h長藩閥政府は、漸次立憲政体樹立の詔を発表しました。
 6月20日、第一回地方官会議が開かれ、河野広中らは、公選民会を主張し、「日新真事誌」などの新聞がそれを支持しました。
 6月28日、h長藩閥政府は、讒謗律・新聞紙条例を発布して、この動きを弾圧しました。その内容は、自分たちが作った刑律を批判する者は、「禁獄1カ月以上1年以下、罰金5円以上100円以下を科す」というものです。
 9月、h長藩閥政府は、1869(明治2)年に出されていた出版条例を改正しました。その内容は、出版物は、許可された者がある程度自由に発行できましたが、これを改正(?)して、内容を事前に届け出るというものです。政府に不都合な出版物は発行できなくなりました。
 1877(明治10)年1月、西南戦争がおこりました。武力による反抗は終焉しました。
 1880(明治13)年3月、愛国社第四回大会が大阪で開かれ、2府22県27政社と35未加盟政社が参加しました。
 4月、h長藩閥政府は、集会条例を公布しました。その内容は、「政治集会・結社は、3日前に届け出て、警察署の事前の許可を必要とする」というものでした。
 11月、2府22県の13万人を代表する同盟委員64人が参加し、国会期成同盟を大日本国会期成有志公会と改称しました。
 12月、h長藩閥政府は、集会条例を改正し、警視庁官・地方長官に、政治結社解散権および1年間演説禁止権を与えました。
 1886(明治19)年9月、外務大臣井上馨が提出した外国人判事・検事の任用を各国が了承しました。
 1887(明治20)年7月、農商務大臣の谷干城は、井上馨の裁判管轄条約案に反対して、辞職しました。
 10月、後藤象二郎・星亨らは、「小異を捨て大同につく」という大同団結運動を提唱しました。
 10月、片岡健吉らは、三大事件建白書を元老院に提出しました。
 12月15日、2府18県の代表も、三大事件の建白事項の処理を元老院に申し込みました。
 12月26日、民権運動の盛り上がりに、明治政府は、保安条例を公布しました。その内容は、「民権派を3年間、皇居外3里の地に追放する」というもので、、尾崎行雄・片岡健吉・中江兆民・星亨ら570人が東京から追放されました。
 1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法が公布されました。
 明治初年から大日本帝国憲法までの間、権力者が法律をどのように活用してきたかを見ました。
 大日本帝国憲法は、アジアで最初という意義は持つものの、成立過程を見ると、権力者の都合のいいように仕組まれていたことも事実です。
 敗戦後、日本人は、体験から、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げる日本国憲法を温かく迎え、見守ってきました。法律は、権力者から弱者を守るという意味を理解したからです。
憲法9条と全体主義・軍国主義
 最近、象徴的なTV発言がありました。
 現代史家の秦郁彦氏は、「日本の戦争中の状況は、今の北朝鮮と同じで、専軍政治である」と指摘していました(2007年5月6日フジTVの『報道2001』)。
 私も、北朝鮮の報道を見る度に、「これって、戦前の日本と同じだ」と思っていたからです。
(1)一糸乱れぬ軍隊の行進です。戦争を体験した人は、10人で行進しても捧げ銃を真横から見て、1本に重なっていたといいます。1人でも下がったり、上がったりしていると、連帯責任で、徹底した暴力を振るわれたといいます。
(2)スパイです。隣組では、徹底して監視を行い、違反した場合、配給を停止したり、密告制度を奨励していました。
(3)思想統制です。「日本で検閲を受けた新聞は、釜山で再度、検閲を受けた。問題の箇所が見つかると、10万部以上出ていた新聞の発送が許可されず」「検閲にひっかかるようなことは一切書けなかった」(2007年5月8日付け『朝日新聞』「新聞と戦争」)。
 思想統制の最初は、共産党員やその新派、やがて、自由主義者、そして、全員への適用に拡大します。小林多喜二が虐殺され、河上肇が獄死したことはよく知られていることです。
(4)独裁者崇拝です。戦前、天皇に拝謁した人は、まともに見ることも出来なかったと言いますし、教室の御真影を火事で焼失した校長は自害しました。
 次に、2007年5月6日読売TVの『そこまで言っていいんかい』の発言です。
 コラムニストの勝谷誠彦氏が次のような発言をしました。
 「日本のマスコミはそういうことをうすっぺらく決め付けるんだけど、戦前のことを全体主義と決めつけている。日本は全体主義ではないですよ。立派な民主主義国家で、戦争直前の総選挙では、左翼政党が票をのばしているわけですから。ちゃんと民主主義は機能していましたね」
*解説1(勝谷氏は、中国や北朝鮮を全体主義と規定しているので、戦前の日本が全体主義と規定されるのを極度に警戒していることがわかります。現在の左翼勢力を毛嫌いしていながら、左翼政党が票をのばしていることを民主主義が機能と表現する。典型的な二枚舌(double-tongue)である)
 それに対して評論家の三宅久之氏が次の様に反論しました。
 「勝谷さん、あなたは戦後に生まれたんでしょ。知らないことは我々じじいに聞いた方がいい。昭和15年以降戦前までは全体主義・軍国主義ですよ。私が小学生の時、電車の中で将校の軍刀に触れただけで、”ぶった切るぞ”と言われたことがある。一番苦痛だったのは教練ですよ。鉄砲かついで富士の裾野に行って、13〜14の子どもが38歩兵銃を撃ったりさせられるんだから。肉体的に苦痛以外の何ものでもなかった」
*解説2(勝谷氏は日本のマスコミをうすぺらいと決め付けていましたが、逆に三宅氏から勝谷氏の戦前の評価がうすぺらいと決め付けられました。産経新聞の論客の三宅氏でも満州事変以降を全体主義・軍国主義と認めざるを得ません。同時に、全体主義・軍国主義の他国への進出は侵略ですから、三宅氏は自衛戦争でなく、侵略戦争を認めたことになります)
 京都産業大学の所功氏は、産経新聞の論客で靖国神社崇敬者総代でもあり、元文部省教科書調査官だった人です。所氏は「戦前を1くくりにして全体主義というのは間違いだ。ある時期において、憲法の問題なり、政治のあり方で非常に極端に行ってしまった時期があるということだろうと思います」と発言しています。
*解説3(所氏でさは、表現は全体主義・軍国主義とはなっていませんが、非常に極端に行ってしまったという表現はそのことを意味します)
 秦郁彦氏や三宅久之氏・所功氏は産経新聞の論客です。そういう人が、日本の戦前の体制を「専軍政治」とか「全体主義・軍国主義」と規定しています。
 そのことを知っているはずの勝谷誠彦氏、勉強不足の小林よしのり氏らは、反共という立場で、小泉劇場式に大声で反対論者を「あいつら」と罵倒し、同調論者には催眠商法式の「そうだ」「うんうん」と同調して、その場の視聴者を一定の方向に誘導しています。
 学者や評論家、コラムニストや漫画家も、権力者から弱者を守るのが使命だろうに、その立場を放棄している言論人が、論壇を跋扈しています。満州事変直前の日本の言論状況に酷似していると感じるのは私だけでしょうか。
 1945(昭和20)年10月4日、GHQは、特高ら4000人を罷免・解雇しました。
 10月10日以降、GHQは、治安維持法で逮捕されていた政治犯2465人を釈放しました。
*解説4(この時、すでに194人が拷問で死亡し、1503人が獄中で病死していました。サン=スー=チー女史が軟禁されていることを皆さんはよく知っています。フランス革命の発端はバスティーユに投獄されていた政治犯の釈放を求める運動から起こったことも知っています。しかし、日本には数字だけで4162人もが、考えが違うだけで、投獄されていたことになります。大日本帝国憲法の成立の過程が、この結果を招いたといえます)
 作家の雨宮処凛氏は、アルバイトでギリギリの生活をしている若者の一部が戦争を待ち望む発言を平気でするようになったと感じています。31歳のフリータの男子は「戦争の向こうに希望があるのではなくて、戦争で名誉的なものを感じながら死ぬ方がましだ」と発言していました。
 それに対して、雨宮氏は「自殺願望と戦争待望が一緒になっている」「こんな社会は嫌だと言う異議申し立てで、右のポーズをとっている」と指摘します(2007年5月7日NHK『クローズアップ現代』「9条を語れ 憲法は今」)。
 「貧すれば鈍する」という諺があります。その鬱憤をはらすために、攻撃的で差別的な言動をします。今のブログを見ると、若者の追いつめられた心情が吐露されています。彼らは、そこから脱皮する具体的な方法を模索せず、空想の世界で自分を英雄視しています。
 アジアの人から、「靖国神社に参拝したり、教科書で侵略を進出と訂正させると、再び日本は侵略するのではないかと心配だ」と指摘された町村信孝元外相は、「日本には憲法9条があり、侵略はしません。大丈夫です」と反論していました。
 じゃ、憲法9条を改正した、正式な軍隊を持った場合、侵略するということでしょうか。
 多くの人は、「戦争に勝つことは、より多くの敵を殺すことである」という定義を認めるでしょう。
 明治時代、与謝野晶子は『君死に賜うことなかれ』で「親は刃をにぎらせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 廿四までを育てしや」と詠んでいます。
 憲法9条は、戦争による多くの犠牲の上に誕生したものです。権力者から人の命を守るために作られたものです。爆笑問題の太田光氏と中沢新一氏は「憲法9条を世界遺産に」と主張しています。全く同感です。
 憲法9条を改正し、交戦権を認めたい人もいるでしょう。同時に、それに賛成した人は、率先して軍隊に入り、戦地に行くことを義務化する法律も作ってもらいたいと思います。
 憲法9条は改正するが、戦争に行くのは嫌だというのでは、辻褄があいません。
 最近(2007年5月2日)、朝日新聞は、憲法9条について世論調査結果を発表しました。
(1)「安倍政権での憲法改正」について、賛成が40%、改正に反対が42%です。
(2)「憲法9条は、日本の平和に役立ってきたか」については、役立ってきたが78%、そう思わないが15%でした。
(3)「憲法9条は、東アジアの平和と安定に役立ってきたか」については、役立ってきたが58%、そう思わないが27%でした。
(4)憲法9条について、「変える方がよい」が33%、「変えない方がよい」が49%でした。
(5)20代の若者は、改憲必要が78%ですが、その殆どがその理由を「新しい権利や制度を盛り込むべきだ」と考え、憲法9条改正を推進したい安倍首相との間に距離感があります。
 私は、オーストリアの軍隊を見る機会がありました。市民と溶け合っている姿です。
 しかし、日本人の体質として、オーストリアのようなフランクな関係ができるのでしょうか。あるいは、アメリカのように勤務中と私生活とを分離できるのでしょうか。スポーツの世界では、日常的に体罰・暴力が「愛のムチ」として横行しています。24時間会社人間で、上下の序列が厳しく、暴力的な日本人に、憲法9条が改正されたことを想像できますか。 
 アメリカ映画で、1970年に制作された『パットン将軍』というのがあります。1943年、アメリカ第7軍の指揮官パットンは、イギリス第8軍の指揮官モントゴメリーとの間でシチリア島上陸の先陣争いをします。この時、パットン将軍は、野戦病院を見舞いました。ところが、重傷者の中に無傷の若い兵士を見つけて、「臆病者!」と殴りつけました。しかし、その若い兵士は、砲弾の猛爆撃で重度の精神異常(シェル=ショック)になっていたのでした。これを目撃した医者が上部に報告し、アメリカの新聞が報道しました。その結果、連合軍司令官のアイゼンハワーは、パットンから前線指揮官の地位を剥奪し、その上、殴打した若い兵士とその場にいた人たちにも謝罪することを求めました。パットンはその言葉を受け入れ、多くの兵士の前で謝罪を行ったのです。
 これは実話を映画化したものです。アメリカ社会では暴力の意味が、日本とは基本的に異なっていることを知りました

index print home