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エピソード

304_01

全国学力調査と日教組
 以前にも書きましたが、「歴史は、現在を知るために過去を学ぶ。現在を知って、来るべき未来に対応する。それが歴史だ」というのが私の持論です。教養としての歴史の面白いですが、実学としての歴史に意味があります。
 時々過激な発言をするので、政治教育ではないかと、批判する方もいます。しかし、新しい教育基本法(平成18年12月22日法律第120号)でも、次の様に規定されています。
「第十四条
 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」
 つまり、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育ではなく、良識ある公民として必要な政治的教養という立場を堅持しています。ですから、尊重されなければならないのです。
 学力テストの歴史を再度振り返ってみます。
 1956(昭和31)年、全国の小中学生・高校生の一部を対象に始まりました。
 1961(昭和36)年、中学2・3年生全員が対象となりました。これを全国学力テストといいます。
 1962(昭和37)年、高校生では中止となりました。
 1965(昭和40)年、学校間・地域間の競争が異常なほど激化し、日教組などの反対闘争がおこりました。
 、旭川地方裁判所は、国による学力調査は違法と認定しました。その結果、学力テストは中止されました。
 2004(平成16)年、中山成彬文部科学大臣は、経済財政諮問会議で、「子供の頃から競い合い、お互いに切磋琢磨するといった意識を涵養する。そのために、全国学力テストを実施する」と発言しました。

 2005(平成17)年、小泉純一郎内閣は、「児童生徒の学力状況の把握・分析、これに基づく指導方法の改善・向上を図るため、全国的な学力調査の実施など適切な方策について、速やかに検討を進め、実施する」ことを閣議決定しました。
 2007(平成19)年4月24日、 安倍晋三内閣は、全国の小学6年生・中学3年生に全員調査を実施しました。これを全国学力調査といいます。
 2008(平成20)年4月22日、福田康夫内閣は、第二回全国学力調査を実施しました。
 エピソード日本史の労働組合法と日教組(267-04)でも取り上げました←リンク
 ここでは、労働組合のない企業、あっても御用組合の企業などの問題点を指摘しています。
 日教組の労働組合法で認められた労働組合ということを書いています。
 一部の記者が2007年に実施された全国学力調査の結果を分析して、「全国学力テストの成績は日教組の組織率と関係がある」という記事(雑誌『正論』)を書いています。その記事のデタラメさを指摘しています。
 エピソード日本史の勤評闘争と学力テスト(279-04)でも取り上げました←リンク
 ここでは、全国学力テストの競争主義の弊害と、競争主義を利用した勤務評定の実態を指摘しています。
 エピソード日本史の成果主義教育の結末は?(302-06)でも取り上げました←リンク
 ここでは、教育における成果主義の荒廃を指摘しています。
 ここでは、第二回全国学力調査について検証します。
 2008年4月22日、全国学力調査が実施されました。文科省によると、その総予算額は62億344万円が計上されています。
 2008年8月29日、全国学力調査の結果が発表されました。
 朝日新聞(8月29日付け)によると、「文科省は昨年の調査結果を公表した際、”都道府県の平均正答率に大きな開きはなく、簡単に入れ替わる”と説明していたが、今年も同じような地域差が表れた。
 平均正答率に差が生じる原因について、文科省は”高い県は漢字の書き取りなど基礎的な学力がついているうえ、ねばり強く問題に取り組む学習習慣も身についている。朝食をとっている子どもが多く、学校も宿題を積極的に出すなど、全体を通じて、地道な取り組みが成果を上げている”と分析。低い県は”高い県と裏腹の状況”としている」と紹介しています。
    第一回全国学力調査 第二回学力調査
道府県 組織率 小学校順位 中学校順位 小学校順位 中学校順位
北海道 50%超 46位 44位 46位 44位
岩手県 40%超 10位 39位 10位 43位
秋田県 50%超 1位 3位 1位 2位
神奈川県 60%超 27位 34位 22位 30位
新潟県 70%近 17位 22位 20位 26位
山梨県 80%超 29位 20位 31位 19位
静岡県 60%超 14位 7位 18位 6位
愛知県 約60% 22位 9位 28位 10位
三重県 約80% 42位 29位 43位 33位
大阪府 30%弱 45位 45位 41位 45位
兵庫県 60%近 23位 27位 17位 21位
岡山県 約60% 39位 38位 40位 41位
高知県 約10% 35位 46位 37位 46位
福岡県 約30% 38位 40位 39位 37位
大分県 約65% 44位 32位 37位 37位
宮崎県 約10% 25位 26位 14位 10位
沖縄県 約35% 47位 47位 47位 47位
 以下は、第一回の全国学力調査の結果を踏まえた産経新聞の記事です。
(1)ユニークの記事が多い産経新聞で、政治部外務省兼遊軍を担当する阿比留瑠比氏は、自身のブログに「全国学力テスト結果と日教組組織率に関連はあるのかないのか」(2007年10月25日)と題して、「結論から言えば、成績と日教組の組織率とが関係するかどうかは”どちらとも言えない”」と書いています。
*解説1:阿比留瑠比氏は、成績と日教組の組織率とが関係するかどうかは「どちらとも言えない」と妥当な結論を出しています。
(2)産経新聞の記者で、「正論」(産経新聞発行)編集部の安藤慶太氏は、「正論1月号」(2008年)で、「子供の学力を蝕む元凶は教組支配である」と題して、次のような記事を書いています。
 日教組の組織率との相関関係はあるか。秋田県などは組織加盟率では数字が高いので、組合加盟率が高いからと言って学力が低くなるとは必ずしもいえないようだ。「日教組王国でも、秋田の場合は、ただの互助組合。組合加盟率とのきれいな整合性がないのはこのためで、こうした都道府県はほかにもある」(文科省関係者)という。
 低学力の双璧は「組合天国」として、北海道(小46位、中44位)と沖縄(小中共に47位)が指摘される。勤務評定を行っていなかったのは、この2県と福岡県であるが、福岡も小学校38位、中学校40位と小中ともに奮わなかった。
 このほか、三重や兵庫などもいずれも日教組が元気な地域だ。兵庫は小学校で23位、中学が27位で、三重は小学校42位で中学は29位だった。
*解説2:同じ産経の記者でも安藤慶太氏は、文部省関係者というディープ・スロートをお持ちなのか、組織率の高い秋田県が学力調査でも上位である整合性を披露しています。兵庫県などは日教組が元気な地域だが、学力調査では中間に位置しています。しかし、その総合性の情報を文部省関係者からもらえなかったのでしょうか。
 以下は、第二回の全国学力調査の結果を踏まえた産経新聞の主張(社説)です。
 「全国学力テスト 成績上位の教育力に学べ」と題して、次の様に主張します(2008年9月1日)
 小学6年と中学3年対象の全国学力テストの結果が公表された。成績の良い秋田県などをみると、学校の指導の工夫のほか、家庭での学習が学力向上に影響している。成績の差を素直に見て、熱心な地域や学校の取り組みに学んでほしい。…
 学力テストでは生活習慣を含めたアンケートも行われ、成績との相関が分析された。
 都道府県別で上位の秋田、福井などをみると、学校では子供の考えを述べさせるなど指導の工夫のほか、宿題を出し家庭での学習もしっかり行われている。
 生活習慣では朝食を毎日食べる、ゲームをする時間が短いなども成績上位の県や学校に共通しているという。学力向上には学校、教師の指導力とともに家庭学習を含めた地道な取り組みも必要だ。国語力向上を例にしても子供のころからの読書の習慣などが欠かせない。塾通いだけでは身に付かないものだろう。
*解説3:主張の前半は、誰も異論はないでしょう。こんなことは学力調査をする前から分っていることなので、60億円も出してする必要があるのでしょうか。
 全国規模で自身の成績の位置が分かる学力テスト結果は貴重な情報だ。
 成績の悪い沖縄では学力向上に取り組んでいる、大阪府の橋下徹知事は「このザマは何なんだ」と強い調子で教育委員会にハッパをかけた。学力テストで競い合うことの良さが徐々に認識され始めているといえ、競争の効用を見直すべきだ。
*解説4:学力とは何かを論議せず、実生活が伴わないペーパーテストで、小中学生に自分の位置を知らしめる乱暴な議論に発展しています。そして、競争の効用、成果主義の導入を主張します。まさに、全国学力調査を競争の人参に利用して、ムチで叱咤激励しているのです。
 2008年9月24日、麻生太郎氏が弟92代総理大臣に就任しました。
 塩谷立官房副長官(58歳)が文部科学大臣、中山成彬元文部科学相(65歳)が国土交通大臣に就任しました。
 9月25日、就任2日目で、中山成彬国交相は、次のような問題発言を連発しました。
(1)住民の根強い反対もあり整備が遅れる成田空港の考え方を問われて、「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、(反対住民らは)公のため自分を犠牲にする精神がなかった。自分さえよければいいという風潮の中で、空港が拡張できなかったのは大変残念」と述べました。→中山大臣は、堂本暁子・千葉県知事と地元の小泉一成・成田市長や相川勝重・芝山町長に「私の責任でご迷惑をかけた」と謝罪しました。
(2)訪日観光客を増やすには閉鎖的な国民性の克服が必要ではないかと問われて、「日本はずいぶん内向きな、単一民族といいますね、あんまり世界と(交流が)ないので内向きになりがち」と述べました。→中山大臣は、北海道ウタリ協会の加藤忠理事長に頭を下げて謝罪しました。
(3)何を思ったか、国交相という自分の立場を弁えず、突如、文科省の分野の大分県教委の汚職事件にふれて、「大分県教委の体たらくなんて日教組(が原因)ですよ。日教組の子供なんて成績が悪くても先生になるのですよ。だから大分県の学力は低いんだよ。私は(文科相時代に)なぜ全国学力テストを提唱したかと言えば、日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから。現にそうだよ。調べてごらん。だから学力テストを実施する役目は終わったと思う」と主張しまた。→日教組批判については「所管外」としてコメントを避けました。
 9月27日、中山国交相は、自民党宮崎県連の会合で発言しました。その内容は次の通りです。
 日教組の問題については言いたいことがある。日本では様々な犯罪が起こっている。もうけるためならうそを言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうか。かつての日本人はどこに行ってしまったのか。これは教育に問題があった。特に日教組。全員ではないが、過激な一部が考えられないような行動を取っている。
 教育基本法改正の時も、毎日、何百人という先生が国会議事堂を取り巻いていた。「改悪反対、改悪反対」。いったい先生方、子供たちをどうしたいのか、との思いを強くした。国旗・国歌についても教えない。何より問題なのは、道徳教育に反対していることだ。何とか日教組を解体しなきゃいかん。
 日教組は民主党の最大の支持母体。社保庁(の労働組合)もそうだ。民主党が「政権よこせ」と言っているが、日教組や社保庁という働かなくても給料がもらえる官公労の職員に支援してもらっている民主党が、政権を取ったらどうなるのか。
 私はこれから日教組を解体する。(元首相の)小泉さん流に言えば「日教組をぶっ壊せ」。この運動の先頭に立つ。
 小沢民主党も解体しなければいけない。
 9月27日、中山国交相は、さらに、その後記者団に次の様に発言しました。
 日本の教育のがんが日教組。日教組をぶっ壊すために私は火の玉になる。
 (日教組の強いところは学力が低いとの発言は)撤回してない。調べてもらえば分かる。調べてもらいたい。日教組には先鋭な過激な人たちがいる。この人たちが日本の教育をぶっ壊している。
 私の失言というのか、舌っ足らずというのか、言葉はやっぱり大事だから、言葉狩りに遭わないように、十分気をつけないといけない。十分真意が伝わらなかった面があったことについて、申し訳なかった。その点については謝罪した。
 (辞任は)国会審議などに影響があるとなれば、何も地位にきゅうきゅうとしているわけではない。教育改革と、国交相だから地方の格差とか必要な道路を造るとか、そういうことはやりたいな、との思いはある。辞めないんだと言ってしがみついているわけじゃないが、推移を見守りたい。
10 (1)データをたどってみると、成績トップの秋田の日教組の小中学校組織率が5割超で全国平均(34.1%)を大きく超えるなど、全体的な相関関係はうかがえない。現場の先生も「短絡的」とあきれ顔だ。
 文科省の担当者の一人は「組合がどうのという目的はないし、役目が終わったということもありません」と話した。(朝日新聞9月27日付け)。
(2)公明党の斉藤環境相は、閣議後の記者会見で、「とんでもない発言だ」と批判しています。自民党の笹川総務会長も役員連絡会で、「閣僚の発言は取り消せばいいというわけではない」と語りました(読売新聞9月27日付け)。
(3)宮崎県の緒嶋雅晃県連会長は、中山氏の面前で、「ゴネ得」発言などに触れながら「話題になるのは悪いことではないが、内容が問題だ。選挙の足を引っ張るような発言は慎んでもらいたい」と詰め寄った。
 神妙な面持ちで聞いていた中山氏は、直後にマイクを渡されると「不愉快な思いをさせ、心から謝罪を申し上げたい」と低姿勢であいさつ。だが、唐突に「日教組については私も言いたいことがある」と切り出して熱弁を振るい、「日教組をぶっ壊す運動の先頭に立つ」と述べた(産経新聞9月27日付け)。
11 (4)中山国交相の失言が深刻なのは、発言がいずれも過去の経緯や事実関係を踏まえていない点。成田問題で政府は95年1月、亀井静香運輸相(当時)が閣議で了解を得た上で、建設反対派の農家に謝罪文を提出した。「単一民族」問題も、国会が今年6月にアイヌ民族の「先住民族」認定を求める決議を採択したばかり。教育問題は、斉藤鉄夫環境相から「日教組の組織率と学力試験に相関関係はない。科学データに基づかない発言は大きな誤解を生む」と批判された(読売新聞9月27日付け)。
(5)中山氏は日教組に矛先を向け「日教組の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」ときめつける。さらに「全国学力テストを提唱したのは日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから。現にそう。だから学力テスト実施の役目は終わったと思う」と言う。
 中山氏は小泉純一郎内閣で文部科学相を務め、学力テスト実施を唱えた。学力向上の指導が目的だったはずだが、日教組と低学力の関係をみたかったという。いったい何を根拠に因果関係を実証したか。「役目は終わり」とは、毎年数十億円もかけるテストを導入しながらあまりに軽々しく、無責任というほかない(毎日新聞9月27日付け)
(6)塩谷立文部科学相は記者会見で、「(日教組は)お互いに努力、協力して教育をより高いレベルに持っていく関係であればよい。これからも連携をとる」と述べ、日教組と連携して教育行政を進める考えを強調した。塩谷文科相は、中山前国交相が文科相だった同時期の文科副大臣。
 塩谷文科相は、中山前国交相の「日教組の強いところは学力が低い」との発言について、「組合の組織率(加入率)の高いところが成績が低いことはない。当を得ていない」と批判した(産経新聞9月30日付け)。
12  麻生太郎首相は、28日に行われたTVのぶら下がり会見で、「発言は甚だ不適切で大変残念。関係しておられた方々に心からおわび申し上げる次第です。必然的に辞めていただきます」と発言しました。
 さらに組閣の「適材適所」について問われると、麻生首相は、「指名した段階では適任だった。少なくともこの種の発言は普通、官僚の経験がある人はしないはず」と答え、任命責任については「あったと思います」と明言しました。
 さらに、麻生首相は、29日の所信表明演説に先立ち、中山成彬前国土交通相の一連の発言についても「閣僚として誠に不適切」と述べ、「関係者、国民に深くおわび申し上げる」と陳謝した(朝日新聞9月29日付け)。
13  ここで麻生首相が指摘するような中山氏はどんな官僚を経験したのでしょうか。
1943(昭和18)年、中山成彬氏は、宮崎県に生まれました。私の1年後ですから、同じ世代です。
1962(昭和37)年、鹿児島の私立ラ・サール高校を卒業 し、東大法学部に入学しました。
1966(昭和41)年、22歳で、東大法学部卒業し、大蔵省に入省しました。後に夫人となる中山恭子氏が同期入省組です。
1971(昭和46)年、27歳で、東京都荏原税務署長となりました。
1982(昭和57)年、38歳で、大蔵省大臣官房企画官となりました。
*解説5:華々しい学歴と、官僚を経験しています。
14 1983(昭和58)年、39歳で、第37回衆議院選挙に初出馬しましたが、小差(551票)で落選しました。
1986(昭和61)年、42歳で、第38回衆議院選挙に初当選し、雪辱を果たしました。
1993(平成5)年、49歳で、 第40回衆議院選挙で落選しました。
1996(平成8)年、52歳で、第41回衆議院選挙で当選し、雪辱を果たしました。
2004(平成16)年、60歳で、第2次小泉改造内閣の時に文部科学大臣に就任しました。
2005(平成17)年、61歳で、第44回衆議院選挙で当選し、当選回数を6回としました。
2007(平成19)年、63歳で、宮崎県知事選で、持永哲志自・公推薦候補に対抗して、川村秀三郎候補(前林野庁長官)を擁立しました。この保守分裂選挙の結果、そのまんま東氏が知事に当選しました。
2008(平成20)年、64歳で、麻生内閣の時に国土交通大臣に就任しました。
*解説6:自民党宮崎県連は、中山氏の裏切り行為に対して、次期衆院選には公募性を発表しました。さらに、知事選に敗れた川村秀三郎氏は、中山氏と決別し、民主党・社民党の推薦を取り付けて中山氏と同じ選挙区から出馬を表明しています。
 大阪府の橋下徹知事は、中山氏の日教組に対する発言で、「言いたい事の本質は分かる。僕も大阪の教育に思うことはいっぱいある」としつつも、発言の本質を「選挙の洗礼を受けようと思っているのでは。極めて戦略的な発言だと思う」と本質を突いた発言をしました。
 つまり、確信犯としての日教組攻撃は、政権交代が現実味を帯びている段階で、日教組などに支援を受ける民主党を攻撃する材料と考え、民主党・社民党の推薦を受けた川村秀三郎氏への攻撃だったと推測もされます。
 しかし、その材料が時代錯誤(anachronism)で、大臣辞職どころか国会議員の引退の原因となりました。
 NIE(教育に新聞を)ということで、各新聞社の記事を引用させて頂きました。
中山成彬氏の本音とは
 中山氏は、橋本徹大阪府知事に理解を示しています。
(1)上杉隆氏は、中山氏の「日本は単一民族」という認識を指摘して、2008年6月6日に衆参両院本会議おいて全会一致で可決された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」2008年7月4日に洞爺湖サミット(国内外延べ約1500人参加)が採択した政府への提言(先住民族の「自己決定権」「自然資源利用権」)を踏まえ、国会議員の資格がない。国会議員を辞任すべきだと糾弾しています。
(2)記者会見で、「”子ども、子ども”というが、子どもたちにたった5日で大臣をやめてしまう騒動をどう説明したらいいのか」と問われて、「中山大臣は、自分の職を賭してまで子供を大事にしたと言ってほしい」と答えました。
 さらに、「一連の大臣の行動の、どこが子供を大事にしているのか」と問われて、中山氏は「親の子殺し、子の親殺し、あるいは汚染米の販売、もうかりさえすれば毒の入った米でも売るという、そういう日本でいいのか。私はそこを憂えている」と答えました。
(3)目は心の鏡。釈明会見の時の国交相の目には、謝罪と程遠い「おごり」の色すら見えた。そしてふと目に留まった手は、ズボンのポケットへ無造作に。手もまた口ほどにものを言う(神戸新聞「正平調」9月30日付け)。
(4)記者会見で、中山氏は「民主党が政権を取れば、日教組、自治労の支援を受けているので、日本が大阪府みたいになる」と分析し、さらに「橋下徹知事は職員組合の支援を受けず、広く府民の支持を受けているから、命懸けの改革ができる」と理解を示しました。
(5)辞任後の記者会見で、中山氏は「最低限、人に迷惑をかけないで生きていこうという7教育をしてもらいたい」と強調しました。
*解説7:上杉氏は中山成彬氏を国会議員の資格がないと指摘します。なるほど、職を賭して子どもを大事にするために日教組を攻撃すれば、「親の子殺し・子の親殺し、汚染米の販売」が撲滅するというお目出度い意見を開陳します。記者会見の様子を見ると、ズボンに片手を突っ込んで応対しています。これが人や組織を批判する態度でしょうか。
 さらに、「最低限、人に迷惑をかけない」という教育観を強調しながら、現実には、船出早々の麻生内閣に多大の迷惑をかけていることには思いが至らないようです。
 宮崎県知事選で、持永哲志自・公推薦候補に対立候補を擁立していながら、官公労に支援を受けた民主党政権は大阪府のようになると主張しています。政治はマキャベリズムとはよくいったものですが、絶好の見本です。
 確信犯としての日教組攻撃も、義憤と思いきや、私憤だったことが明らかになりました。
 中山氏は、なぜ、このような強気の発言をしたのでしょうか。検証しました。
 9月27日、中山国交相は、自民党宮崎県連の会合で、失言3連発を騒がれながら、日教組関しては、「私はこれから日教組を解体する。(元首相の)小泉さん流に言えば「日教組をぶっ壊せ」。この運動の先頭に立つ。小沢民主党も解体しなければいけない」と過激な発言をしました。
 その発言にも関わらず、中山氏は、次期衆院選の宮崎県連公認候補を選ぶ選考委員会で、「投票総数の3分の2以上」の規定を満たし、宮崎1区の公認申請が決まりました(毎日新聞9月28日)。
 9月27日、中山国交相は、公認推薦を受け、記者団に、より過激な発言しました。
 日本の教育のがんが日教組。日教組をぶっ壊すために私は火の玉になる。
 (日教組の強いところは学力が低いとの発言は)撤回してない。調べてもらえば分かる。調べてもらいたい。
 (辞任は)国会審議などに影響があるとなれば、何も地位にきゅうきゅうとしているわけではない。
*解説8:緒嶋雅晃・同県連会長は「中山さんは昔から言いたいことは言う人。(日教組発言は)持論で、10回会合に出れば10回言われることだ」と述べています。中山氏は、このような根拠のない発言をしても、宮崎県連は推薦するだろうという驕りがあったことが分ります。
 名指しされた日教組や民主党が反論するのは当然ですが、中山氏と同じ自民党の反応を調べました。
(1)選挙への悪影響だけを残された他県の自民党幹部は「何でこんな人を選んだのか」と、今さらながら嘆いた。
(2)広田弘毅以来の首相誕生に沸く党福岡県連。ある幹部は「せっかく麻生さんで選挙に臨む状況ができたのに、水をさす行為。たまらんよ」と、やり切れない様子。
(3)雪辱を期す山口県連の河野博行会長は「どういうつもりで発言したのか、真意をはかりかねる。首相の任命責任も問われるかもしれない。選挙への影響が心配だ」と戸惑った(毎日新聞9月28日)。
 9月28日、中山氏は、大臣を辞任した理由を、「たくさんの人々が困っている姿を目の当たりにしてきたので、補正予算などの審議をスムーズにしていただくため、身を引く決意をした」と述べました。
*解説9:中山氏の発言が持論であっとしても、任命してもらった麻生政権の船出に送るプレゼントとしては冗談が過ぎます。しかも、選挙直前という時期だけに、同僚議員から嘆き、戸惑い、やり切れなさが伝わってきます。
 結局、28日に大臣を辞任します。
 9月28日、中山国交相は、辞任会見で次の様に述べました。
《辞任の理由》
 私がいることで、臨時国会の審議に支障があるとすれば、本意ではない。補正予算など経済危機に対応する法案をスムーズに審議して頂くために、自ら身を引くことを決断した。地方の方々など、困っている人がいるのに審議が滞るのは耐えられない。
《政権への影響など》
 そこが一番の心配。(影響があれば)万死に値する。(自身の選挙にも)様々な影響があると思うが、必死に命がけで訴えて勝ち上がっていきたい(朝日新聞9月29日付け)。
【議員辞職】
 考えてない。選挙に影響はあると思うが有権者に命懸けで訴え、もう一回勝ち上がりたい(共同通信9月29日付)。
*解説10:この段階では、中山氏は、国交相は辞任したが、国会議員の辞任を否定しており、次の総選挙でも立候補して、当選することを誓っています。
 9月29日、中山氏は、TBSのテレビ番組・「みのもんた朝ズバッ!」に生出演しました。
 みのもんた氏が事実関係を確認します。
(1)「成田空港建設への成田闘争について『ごね得というか戦後教育が悪かった』」という発言
 亀井静香(運輸相)が反対派農民への手紙で、国の「一方的な空港づくり」だったと謝罪
 「長期間、農民の方々及び関係者に対し苦しみを与え続けてしまったところであり、深く反省するとともに誠に申し訳なく思っている」
 みのもんた氏が「大臣発言を知らなかったのではないか」と問う場面があります。それに対して、自分の家も農家だったが、国のためにということで、親は、「進んで土地を提供した」という体験があったとその発言の理由を述べました。
*解説11:ここで簡単に成田闘争の歴史を振り返ってみましょう。
 1966(昭和41)年、佐藤栄作首相は、新東京国際空港を千葉県成田市三里塚に建設することを閣議決定しました。地元の農民らは、「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成しました。
 1967(昭和42)年、学生運動が反対運動と共闘を行い、激しい抵抗運動をおこしました。激しい抵抗運動を巡って、反対同盟も熱田派と小川派に分裂しました。
 1994(平成6)年、反対同盟の熱田派は、空港問題シンポジウムと円卓会議の調停案を受け入れました。
 1995(平成7)年、反対同盟の小川派の代表である小川喜平氏は、村山富市(当時の首相)と亀井静香(当時の運輸相)に「非を認めてほしい」などと、過去の空港建設のやり方について国の謝罪を求める手紙を郵送しました。
 村山首相は、亀山運輸相の「謝罪書簡」を閣議了解し、小川氏に手渡しました。その結果。小川派は、「空港に反対する理由はなくなった」として用地売却契約を結び、空港内から移転しました。
 この時の状況を、亀井氏は次の様に語っています。
 あの時は円卓会議の終盤を迎え、「対決から話し合いで問題を解決しよう」という雰囲気が高まっていた。そこに小川さんから、国の謝罪を求める手紙がきた。国も政策を間違えることもある。「謝罪すべきは素直に認めるべきだ」という考えからすぐに手紙を書いた。
 この間、先祖代々の土地を奪われ、反対派農民にも多数の犠牲者が出ました。こうした痛みを経て、成田空港は国際空港として利用されているのです。こうした歴史を知っていれば、国交大臣の中山氏は、「ごね得」とは絶対に言わないでしょう。
 国会議員の全会一致で決定されたアイヌ民族を先住民族とする国会決議を知らなかったのではないかと問われます。それを「言葉足らずというか、不的確だった」と陳謝していましたが、最後には、「言葉狩りしていると政治が活性化しない」と強弁を繰り返した(産経2008.9.29)。
 選挙について、中山氏は「私は次の選挙は本当に危ないと思っております。しかし、政治生命をかけてでも、私は皆さん方に訴えていかなければいけないと、そういう責任があるのだ、そういう思いでございます」と発言しています(TVより掘り起こし)。
 この段階でも、中山氏は出馬には意欲的だっとことが分ります。 
 9月29日、地元に宮崎日日新聞(09月30日)は、「中山氏公認変更せず 自民県連、選考通り申請」と題して、次のような記事を載せています。
 中山成彬前国交相=衆院宮崎1区=の辞任を受け、自民党県連(緒嶋雅晃会長)は、中山氏の次期衆院選の公認申請を決めた候補者選考委員会の選考結果の取り扱いについて協議。規約に基づいた決定などを理由に、公認申請は変更しないことを確認した。
 協議には複数の自民県議が出席した。緒嶋会長らによると、「ルール(規約)にのっとって決まった」「大臣を辞めても現職議員であることに変わりはない」といった意見が大勢を占め、公認申請を決めた選考委員による投票を再度実施する必要はないとの認識でまとまった。
 10月3日、「次の総選挙でも政治生命をかけて戦う」と言っていた中山氏が今度は立候補しなことを表明しました。立候補の意志(9月27日)と引退の意思(3日)との間に何があったのでしょうか。
(1)自民党の中山成彬前国交相(65)=宮崎1区、町村派=が、次期衆院選に立候補せず今期限りで引退する意向を森喜朗元首相らに伝えた。複数の町村派関係者が明らかにした(産経2008.10.3)
(2)中山氏は、所属する町村派の最高顧問、森喜朗元首相に不出馬を伝達。同日夜には町村信孝前官房長官に電話で「失言問題が国会で取り上げられれば、補正予算案審議の停滞を招き、首相に迷惑がかかると思った」と引退の理由を説明した(毎日新聞10月3日)。
(3)中山成彬前国土交通相が、引退の意向を固めたことに関し、自民党内は冷ややかで、突き放したような発言が相次いだ。問題発言の連発で辞任し、麻生内閣に打撃を与えただけに、党選対関係者は「迷惑を掛けた党へのけじめだろう」と語ったが、党4役の1人は「やけっぱちだろう」と吐き捨てるように語った。
 中山氏が事務総長を務める町村派の幹部は「発言で地元(宮崎)でも反発があったようだ」と説明した(時事通信2008/10/03)。
(4)中山氏は麻生内閣での国交相就任直後に「(成田空港反対運動は)ごね得というか、戦後教育が悪かった」などと発言。政権に打撃を与えた責任をとって就任5日目の先月28日に国交相を辞任したが、次期衆院選を控え、党内や地元支持者から批判の声が相次いでいた。
 宮崎県の自民党県連幹部は「選挙への影響は甚大だろう」と天を仰ぐ(日本経済新聞10月3日)。
(5)自身が事務総長を務める自民党町村派の幹部にも同様の意向を伝達。あらためて地元関係者に文書を配布し、「次の総選挙では自民党は苦戦が予想され、このままでは民主党政権誕生が必至だ。政治生命を捨て、本当に民主政権でよいか訴える役に徹しようと決心した」とする一方、「政治にかける情熱はいささかも変わっていない。いったん身を引いて、これから国や宮崎のため何ができるか考えていきたい」と記し、政治活動を続ける考えも示した(西日本新聞10月04日)。
10 *解説12:多くの新聞は、中山氏の立候補意志に水を差したのは、自民党の同僚議員の不評であり、地元宮崎県の反発を伝えています。
 TBS毎日テレビは、TBSのテレビ番組・「みのもんた朝ズバッ!」に生出演(9月29日)した中山氏の発言を聞いた森元総理から激怒されたことが引退の原因と報道していました。
 「大言壮語(命懸けでとか政治生命をかけて)する人は、裏がある(清潔な人はいない)」というが、大臣を辞めず、国権の最高の見せ場である予算委員会で堂々と持論を展開して欲しかったと思います。日教組に支持された民主党を叩く絶好の機会だったはずです。
 以前、「国のために尽くす」とか「国歌・国旗を愛する心を持つ」と主張していた人が、リクルート事件に遭遇すると、途端に「妻が、妻が」と醜態を晒した文部省(当時)の事務次官とダブって写ります。
 また、国のためにと言って尖閣列島に上陸し、愛国心を強調する一方で、弁護士資格をまた貸ししてセコク金儲けをして有罪になった国会議員ともダブります。
11 *解説13:弱い者が団結(日教組の設立)して、自分たちの生活を守り、自分たちの意見(教え子を再び戦争に送るな)と主張し、それを実現するために政治団体(民主党・社民党)に反映することは憲法が保障しています。日教組は法律が保障した労働団体です。
 様々な要求を主張する政治団体があります(「新しい歴史教科書を作る会」やり、作る会の国会議員の会である「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(教科書議連)などです)。その要求を実現しようとする政治家(中山成彬氏はは文科相就任まで教科書議連の座長))がいます。その政治家がその要求を代弁するのも憲法が保障しています。元国交相の中山成彬氏の発言も保障されています。
 共に憲法に保障された発言・行動です。議論する場合、合法的で、事実に即した議論が大切です。
 私たちは、その議論を聞いた時、どういう立場での発言かを見極める必要があります。
(1)私も、教え子を戦場に送る動きには反対したり、戦前の道徳教育の導入にも反対しました。
(2)採用されたり、解雇されたり、人事権を持たない者は、団結して身を守ることを主張します。
(3)私の大学時代の友人に社長の御曹司がいました。「組合の奴らには困ったもんだ。勝手なことばっかり言う」という発言を聞いたことがあります。
(4)以前、企業では、解雇(首切り)や組合弾圧など労務対策で手柄をたて、重役になるケースがありました。こういう人は、その立場で発言します。
 私たちには、その発言の背景、発言者の立場を冷静に分析し、どう判断するか、どう行動するかの力量が求められています。
追記:ここまでの記事は、2008年10月4日に記録したものです。
 それから、色々な展開がありました。追加します。
 10月3日、自民党筋によると中山氏の失言をめぐり、自民党宮崎県連など地元関係者が強く反発。「このままでは衆院選を戦うことができない」との声が相次いでいたという。中山氏もこうした事態を憂慮し、自らが引退することで衆院選への悪影響を最小限にとどめようと判断したとみられる(産経新聞)。
解説1:中山成彬前国土交通相は、自分の信念に政治生命をかけると豪語していましたが、選挙に影響が出ると、潔く立候補を辞退しました。
 その後、中山氏は、自身の国交相辞任から東国原氏の国政転身まで「自民党が(衆院選で)勝つため」に仕組んだ「自作自演のシナリオ」と表現。東国原氏に「とにかく出て、全国の(自民党)候補者のもとに行ってほしい」と要望し、小泉劇場ならぬ「東国原劇場になることを願っている」と語った(朝日新聞)。
解説2:潔くと思っていたら、宮崎1区から東国原英夫・宮崎県知事に立候補してもらい、自分の保身のために、自分の影響力を保持しようとしていたことが判明しました。
 10月6日、東国原英夫・宮崎県知事は、次期衆院選について、立候補を見送る意向を明らかにした。転身に反対する声が支持者の中で多いのを考慮したとみられる(朝日新聞)。
 10月8日、中山成彬前国土交通相は、目の前の東国原英夫・宮崎県知事に「どうしても(衆院選に)出てもらわないと困る」と呼びかける一幕があった。東国原氏も「あの場で言われても困惑する。考慮に値しない」と報道陣に苦り切った表情を見せた(朝日新聞)。
 10月16日、次期衆院選への不出馬を表明した自民党の中山成彬前国交相が、一転して立候補する意向を固めたことが明らかになった(産経新聞)。
 10月17日、不出馬表明の撤回を検討していた中山成彬前国土交通相は、後援会から出馬要請があり、党本部で「再出馬表明」する意向だったが、県連の反発などから立候補を断念したとみられる。東国原知事は「意思が二転三転され、県民の不信感や不満感を増長させた。困惑させる発言、言動は慎んでもらいたい」と中山氏を厳しく批判(西日本新聞)。
解説3:しかし、東国原英夫・宮崎県知事が立候補を辞退すると、自分の影響力が保持できないことが分り、後援会からの要請として潔い立候補辞退をかなぐり捨てました。
 10月18日、県連関係者によると、党支部、後援会の関心はすでに公募へ向いており、「中山氏に出馬を求める気はない」という。
 緒嶋雅晃会長は「行動の意味がわからない。あまりに理解できない行動を取ると、政治家としての品格を問われるのでは」と、疲れ切った表情だった(読売新聞)。
解説4:中山成彬前国土交通相は、後援会長からも「政治家としての品格が問われる」とまで言われました。
 このような品格のない私利私欲の人から、天下国家の話を拝聴できる機会を得ました。反面教師としてお礼申し上げます。
追記:2008年12月11日の朝日新聞です。
 日教組批判の議連発足
 自民党有志による「日教組問題究明議連」(会長・森山真弓元文相・79人)が10日、発足した。衆院選をにらみ、民主党の支持団体の日教組を批判することで、同党を牽制(けんせい)する狙いがある。顧問には、日教組批判などが問題視され国交相を辞任した中山成彬氏が就任した。
解説5:「民主党の支持団体の日教組を批判することで、同党を牽制する狙い」とは、まさに至言です。戦前、自分に批判・敵対する組織や人間に「アカ」というレッテルをはって言論を弾圧し、その後、自由主義者から一般人が弾圧したた歴史が日本にはあります。今、保守の言論人には、日教組や朝日新聞に的を絞って誹謗・中傷しています。
 教え子を戦場に送るなをスローガンとする日教組、憲法9条を維持する朝日新聞がこけて、喜ぶのはどういう勢力でしょうか。言論を冷静に、しかも、厳しく見守る必要を痛感しています。

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