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元禄15(1702)年12月14日(第222号)

忠臣蔵新聞

再び忠臣蔵ブーム!?(4)
「ビートたけしの!悪役のススメ!!」

12月25日(土)午後7:00ー8:54
文人の吉良上野介、武人として華々しい最後
但し、史料(11)の内、武人扱いは上杉家(2)のみ

悪役をすすめるビートたけしさん 吉良上野介は名君だった!?
12月14日(東京本社発)
11月17日の段階で、放送延期をキャッチした人
11月22日の段階で、12月25日を予想した人
11月28日の段階で、12月25日(土)とキャッチした人
ビートたけしさん、東京芸大教授就任で収録遅れ?
 11月14日にアップした私のホームページには、11月20日(土)にテレビ朝日系で「ビートたけしの悪役のススメ!!」放送予定と書きました。結局、放送が延期され、12月25日(土)に放送されました(但し、ビートたけし扮する上野介ではありませんでした。お詫びします)。
 その間、色々な情報を入手できました。それを、今回、整理してみました。すごいことが分かる時代ですね。
(1) 「放映延期【テレビ・ラジオ】ドスペ! ビートたけしの悪役のススメ!!」11月20日に、放映される予定だった『ビートたけしの悪役のススメ!!』(『悪役列伝』から改題、テレビ朝日系)のデータが、同月17日発売のテレビ番組表雑誌に掲載されていませんでした。おそらく、収録が遅れたために延期された模様です。(2004/11/17)
(2)あさって発売の月間テレビ番組表雑誌『TVnavi』(12月分)によると、この番組、12月25日が未定になってるから、ここで放映される可能性はある。(2004/11/22)
(3)マセキオフィシャルの出川哲朗スケジュールより。 今月の出演 【TV】 12/25(土) 19:00~20:54 ANB 『ビートたけしの!悪役のススメ!!』(2004/11/28)
11月14日段階で、私は次のように番組を予想しました
 (1)吉良自筆の詩と子供への手紙からは、上野介の人柄や子への思いやりが浮んできます。将軍と天皇のパイプ役が、鬼のような形相の人物では務まるはずもありません。吉良町の華蔵寺にある木像をみても上品ですし、茶器などもみても文化的教養の高さがわかります。
 (2)討入り情報は幕府に漏洩していたことは事実です。
 (3)内蔵助が言うように、討入るも必死、引き上げるも必死ですが、討入り後の世論の中には、内蔵助らの再就職運動であったという説もあります。
 (4)幕府の医者栗崎道有は、刃傷事件で上野介の傷の手当てをしました。討ち入り事件では上野介の息子義周の傷の手当てもしています。道有は、上野介と同じ万昌院という寺に葬られています。このことから、当代一の名医と上野介の人間関係が想像されます。
 (5)吉良上野介の最後は、間十次郎が鎗で突き、武林唯七が切って、コトきれたことになっています。文人らしい最後でした。しかし、28ヶ所の傷を採用すると、武士として激しく戦った、英雄的な死の場面が想像されます。
吉良上野介が娘に贈った手紙 表に出てきた岳 真也氏
番組の内容を検証(T)
(1)上野介は家族思いの優しい人
(2)幕府は、上野介に庶民の不満を転化した
(1)については、ほぼ予想通りでした。
(2)については、幕府に漏洩していたという消極的なとらえ方でなく、庶民の幕府・将軍・吉良への不満を吉良上野介のみに押し付けようとしたという解釈です。大体、同じ解釈です。
 私のホームページでは、出来すぎた史料ではありますが、江戸にはそういった雰囲気があったことも事実です。
忠臣蔵新聞194号)←ここをクリック
 吉良の本所移転を聞いた江戸の庶民は、「浅野の家臣に吉良を討てといってるようなものだ」と評しています。
忠臣蔵新聞111号)←ここをクリック
番組の内容を検証(U)
(3)赤穂浪士の討入りは、就職運動だった
(*)古来からある説で、これは、TV化されず
(3)についての私の返事です。
 ご指摘のように、佐藤直方と太宰春台が、命を免れ、仕官をたくらんでいるという説を唱えています。それが@です。
@『赤穂義人纂書』の佐藤直方「四十六人之筆記」によると、「…泉岳寺於いて自殺セバ、義理ニ当ラズトイヘドモ其志隣レムベシ、…仙石氏ノ面前ニ於モ上ヲ重ズルノ意ヲ第一ト述ルコト是人ノ恋賞ヲ待テ死ヲ遁レ禄ヲ得ルノ謀ニ非ズヤ」とあります(要点は「泉岳寺において自殺しておれば、その志は同情できる。しかし、仙石氏に自訴して、お上の命令を待った。これは憐みをもって、死を免れ、仕官の魂胆があるからだ」です)。 
 多勢の上杉家の追っ手と死を賭して戦う覚悟をしています。 また、討ち入る時の覚悟は必死で、引き上げた後も必死のと説いています。それがAです。
A『浅野赤穂分家済美録』の「人々心覚(全16条のうち2条を抜粋)には、有名な史料があります。 
一 屋鋪より追手駈出候而追かけ候者在之候ハヽ惣人数 慎(ママ)りふみ留勝負可致事
一 勿論之事なから討入候覚悟惣様必死之心底決定之事候、…然共退去候而も必死之面々ニ候得は討入候所丈夫之覚 悟専要ニ候」(要点は「上杉屋敷より追っ手が追いかけて来たならば、全員そこに踏みとどまり勝負する」「討ち入る時の覚悟は全員必ず最後は死ぬんだと気持ちが大切である。…引き上
げた後も必死であるので、討ち入る時の覚悟が大切である」です)。
 内蔵助にとっては、如何に死ぬかが、大切でした。自害すれば幕府は傷つきません。自訴すれば、庶民に支持された討入りをどう裁くか、将軍綱吉や老中柳沢吉保の度量を測ることが出来ます。
(3)は、古来からある説で、TV化されませんでした。
番組の内容を検証(V)
(4)幕府の名医である御典医と、上野介は大の親友
(*)新説だが、これも、ボツ
(4)については、スタッフとかなりメールのやり取りをしました。
@「栗崎道有は吉良上野介の検死をしていなかったのでしょうか?」A「切断された首と胴体の縫合を行ったという記録が[栗崎道有日記]のなかにあるのでしょうか?」という質問がありました。
@『米沢塩井家文書』には、「左兵衛様…栗崎道有老御療治に御座候」という記録がありますが、栗崎道有が吉良上野介の検死をしたという史料はありません。
A幕府の目付の証言には、「吉良上野介切り首は 芝せんがく寺へ寄せ手の者持参 内匠頭はか所へ置 四十六人拝礼」(幕府の検使役人が吉良邸に行った時は、胴体は残っていましたが、首は内蔵助らが泉岳寺の内匠頭の墓前に供え、礼拝しています)。
 祖田浩一著『なぞ解き忠臣蔵』には、栗崎道有は、上野介の息子義周を治療しており、吉良家の菩提寺である万昌院に墓があるという状況証拠から、「首と胴体を栗崎道祐が縫いつけて、12月18日に埋葬された」という推測記事があります。
(4)は、新説ですが、TV化されませんでした。
番組の内容を検証(W)
(5-1)岳氏は「大石内蔵助に”吉良上野介が刃向かい申し候”」とTVで公開
(*)上杉家の一級史料の中に確かに存在
(5)については、まったく予想通りでした。スタッフからのメールには、「”上州様の傷は二十八カ所”とある上杉方の記録とはどこからの出典になるので しょうか?」とありました。誰の情報かなと興味を覚えていました。
 ドラマでなく、史実に基づいた番組の場合、他方のみを利する情報を流す学者・研究者は、普通は、画面に出てこないものです。学問的な批判に耐えられないからです。しかし、今回は、岳真也氏でした。自分の発言に責任を持つということは、勇気のいることです。
 岳氏は、上杉家の文書によると「大石内蔵助は”吉良上野介が刃向かい申し候”と言った」と断言しています。
 早速、岳氏に「この史料の出典は何ですか」とメールをしました。『福沢諭吉』を執筆中という多忙にもかかわらず、出典は『本所敵討』という返事を頂きました。
@『忠臣蔵』(赤穂市発行)の『本所敵討』という史料がありました。「大石内蔵助口上之趣」と題して、「上野介殿寝間見申候ヘハ小袖はかり有之居不申付、方々尋候処ニ、灰部屋ニ居被申候、白小袖を着候者上野介殿ニ可有之と存鑓にて突申候、上野介殿脇差を抜刃向被申候付、脇ニ居候者弐人ことの外働申を、是も討留侯、夫より上野介殿首討取て候、右弐人之目明之者ニ見せ申処ニ無紛上野介首ニ候由申、又内匠守(頭)刀付候跡も有之候事」とありました。
 この史料について、いつもお世話になっている方にメールしました。「原史料は米沢市に在る上杉家の『編年文書』の一部分です」という返事を頂きました。一級史料のなかに、武人としての吉良上野介の姿が描かれています。
番組の内容を検証(X)
(5-2)疑問の残る、武人吉良上野介の最後-上杉家の一級史料に28ヶ所の傷
(*)知識人・教養人・文化人上野介は、文人だ!
 そのほか、TVで紹介された史料は、
A『江赤見聞記』にあり、原文は「上野介殿むくろに、両手のうち三ヶ所、左の股に一ヶ所、膝頭に二ヶ所、こぶらに一ヶ所疵つき候、脇指しに血つきこぼれ、柄口に切り込みの由、刀は二尺三寸、無銘、拵え麁相に見え申し候…」です。
です。
 しかし、これを以って、武人として、華々しく抵抗したとは読み取れません。敵の槍や刀を必死で、振り払ううちに、傷つき、脇指しも自分の血がつくこともあります。
@を補強する、華々しく抵抗した史料として、
B『米沢塩井家覚書』には「元より上州様目懸け申したる事故、前後左右より取り込み申し、ためし討申し候、御疵二十八ケ所ニ候…」があります。これも上杉関係の史料です。
番組の内容を検証(Y)
(5-3)文人として、二箇所の傷で、格好悪く、落命
(*)皆の前に引きずり出された時は、死んでいた
 私が「悪役のススメ」スタッフにメールした返事は以下の史料です。
C『大熊弥一右衛門見聞書』(夜番の記録-大河原文書)には、「上野介様に而は三尺手拭帯に而刀を持ち、方々逃あるき台所に而御首を被討取、御胸とをりハ一太刀つゝ切付候」(手ぬぐいに刀を包んで、あちこち逃げ歩いて台所で首を討たれました)。上杉家の最も信頼できる史料では、二ヶ所切られたとあります。
D討入り当事者である磯貝十郎左衛門と冨森助衛門の証言によると、「残りの者を間十次郎一鎗突き申候所脇差抜あわせ申候を 武林唯七一刀に切りとめ申候 此の死人 年頃上野介殿にてもこれ有る可きか」(要点は「間十次郎が槍で突き、脇差を抜こうとしたところを武林唯七が一刀でしとめました」とありますから、二ヶ所の傷が正しいのではないでしょうか。脇差の血もこの時に着いたのではないでしょうか)
 吉良上野介は、天皇と将軍を結ぶパイプ役です。知識も教養もある文人なのです。無様に死んでいいのです。
 しかし、岳氏の意見が通り、TVでは、武人上野介の華々しい最後となりました。
参考史料を検証(Z)
(1)傷は二ヶ所で落命
(2)引きずり出された時は死んでいた
E『上野介邸手負口上書』には「両手之内掌一ヶ所宛」とあります。
F『介石記』には「両手のうち二ヶ所」とあります。
G『赤穂鐘秀記』には「両手のうち二ヶ所」とあります。
H『野本忠左衛門書状(吉良方の記録)』には「御手疵数ヶ所」とあります。
I『寺坂私記』には「即ち間十次郎一鑓突き申し候ヘハ、脇指を抜き候を、武林唯七一刀に切り留め申し候。此の死人、年ごろ上野介殿にて」とあります。
J『波賀朝栄聞書』には「間重次郎鑓突け申し候。尤も武林唯七其の外居合せ候者とも切り申し候て、死体引き出し見候…」とあります。
上記史料の@ABCDHJは第一級史料
上杉家史料の@Bのみが華々しく活躍
上杉家・吉良家史料のCHは二ヶ所から数ヶ所の傷
その他の史料もADJは二ヶ所

悪役を進めるビートたけしさんの、格好いいおはなし
 東京芸大の教授に就任したビートたけしさんは、珍しく高尚な話をしました。鷹を育てた家族は、鳩を捕まえてやっとひとり立ちできたねと喜ぶ。鳩を育てた家族は、飛び立ってよかったねと喜んでいたら、鷹に食われて、悲しみました。同じ場面でも、立場が違うと、受け取り方が違うという「為になるお話」でした。
 悪役を進めるビートたけしさんが、「吉良上野介は悪役ではなかった!?」では、「オチ」にも「シャレ」にもなりません?

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『赤穂義人纂書』(日本シェル出版)
飯尾精著『忠臣蔵の真相』(新人物往来社)
『ビートたけしの悪役のススメ』(テレビ朝日のTV画面より)

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