home back

ごあいさつ
2月14日号-第五十二回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(9)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料を読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
歴史修正主義と私の立場
 自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 歴史実証主義の立場である私は、歴史修正主義の手法とはきちんと対応する立場です。

井沢元彦氏の手法に付き合って9回目(最終回)
忠臣蔵錯覚に洗脳されない新鮮な話は、いつ聞けるのですか?
厳密に見たという史料はいつ出されるのですか?
 今回で、いよいよ最終回です。
 期待したとおりと言うか、予期どおりというか、本当に長いこと付き合って、疲れました。
 史料を提示せず、「雑文」や「駄文」で誤魔化す。史料を提示しても、すぐ破綻する珍説・沈説を披露します。
 しかし、このアンチ派結集大合唱団の珍説・沈説を利用して、さまざまな口害が予想されます。
 ここでは、最後の最後に、積み残した「邪志」論・「不意討ち」説・「戒名」に、反論しておきます。

荻生徂徠の「邪志」を検証します
徂徠の主張1「浅野の意志が不義、大石らが主君の邪志を継承」
徂徠の主張2「武士としの切腹は、忠義の否定でないし、世論も納得」
徂徠の主張3「武家諸法度は忠孝が第一、切腹をさせれば、世間への宣伝」
その結果、邪志を継いで、武士として切腹・遺児も軽処分
 史料(1)は、荻生徂徠の意見書です。ここには「浅野内匠頭が吉良上野介を殺そうとしたしたことが不義なのに、大石らが主君の邪志を継いでいる。これが正義か」とあります。
 史料(2)は、荻生徂徠が柳沢吉保に出した意見書です。「武士として切腹させれば、忠義を否定したことにならないし、世論も納得するであろう」とあります。
 史料(3)は、柳沢家に伝わる記録です。荻生徂徠の「武家諸法度で忠孝を第一としており、切腹をさせれば、世間への宣伝にもなる」という意見書を柳沢吉保から進言された将軍は、喜んでそれに従ったとあります。
 史料(4)は、大石ら46人に対する幕府の判決書です。「徒党を組んで…飛び道具なども持参し…非常にけしからんことである。これによって(武士としての)切腹を申し付ける」となっています。
 参考資料(1)で、井沢氏は、「庶民が応援していたという話は、”忠臣蔵錯覚”である」と断定しています。
*解説1:両書(史料2、3)とも、出来過ぎているいるという説もあります。
 しかし、結局は、この説の通り、大石ら46人は武士として切腹させられています。処分の対象となった遺児は20人いましたが、島流しされた者は4人のみでした。犬や蚊を殺して処刑の時代です。「邪志」を継いだことも事実です。しかし、徒党を組んだ大罪人の子供たちに対する処分が非常に甘いということも事実です。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。

 史料(1)の、井沢氏による口語訳(大意)です。
 「浅野長矩は一時の怒りに先祖の恩すら忘れて、吉良義央を殺そうとした。このこと自体不正義であるのに、(大石ら)四十七士は、その主君の「邪志(邪な志)」を継いだ。どうしてこれが正義といえようか」
史料(1)
 長矩一朝之怒忘其祖先雨従事匹夫之勇義央而不能(中略)四十有七人者可能継其君之邪志(『梶川氏筆記』「赤穂義人纂書 赤穂義士史料大成鍋田晶山校注 日本シェル出版刊)  
 「一二三レ」は一、二点のこと、点のことです。

 史料(2)の口語訳です。
 「吉良氏をもって仇として、幕府の許可も得ずに、騒動を企てることは、法において許されないことである。
 今46士の罪を決め、侍の礼をもって切腹させたならば、上杉家の願いも空しくはならず、彼ら赤穂浪士の忠義を軽視しない道理(理屈)となる。これがもっとも公論(一般の人々が支持する公平な意見)と言うべきである」
史料(2)
 吉良氏を以って仇となし、公儀の免許もなきに騒動を企つる事、法に於て許さざる所也、
 今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以って切腹に処せらるるものならば、上杉家の願いも空しからずして、彼等が忠義を軽んぜざるの道理、尤も公論と云うべし(『徂徠擬律書』)

 史料(3)の口語訳です。
 「荻生徂徠が申し上げるには、「忠孝の道が上で、政務に第一とされています。(大石らを)切腹に仰せ付けられれば、浅野内匠頭の宿意(以前からいだいている恨み)も叶い、どれほど世間への示しになるか分りません」と申し上げると、柳沢吉保様はことのほかお喜びになられ、翌朝はいつもより半時(約1時間)早く登城されて、以上のことを申し上げると、将軍綱吉様も非常にお喜びになられ、評議が急に変わって、大石らは切腹を仰せ付けられました」
史料(3)
 惣右衛門荻生牛徂徠)申上げ候には「忠孝の道は上にて御政務の第一と遊ばされ候……切腹に仰せ付けられ候はば、彼の輩の宿意も相い立ち、如何計り世上の示しにも相い成り申す可き儀」と申し上げ候へば、永慶寺(柳沢吉保の法号)様殊の外御満悦遊ばされ、翌朝は例より半時御早や目に御登場これあり候て、右の趣上聞に達せられ候処、常憲院(徳川綱吉の法号)様にも甚しく御感悦遊ぱされ、御評議俄に相い変り、各々右の輩切腹…仰せ付けられ候(『柳沢家秘蔵実記』)

 史料(4)の口語訳です。
 「浅野内匠頭については、勅使ご馳走のご用を仰せ付けられておりながら、大切な時だというのに、殿中を憚らず不届きの行いがあったので、切腹という処分を仰せ付けられた。
 吉良上野介については、お構いなしとの決定が出た所、主人の仇を報ずると申し立て内匠頭の家来46人が徒党を組んで、上野介宅へ押し込み、飛び道具なども持参し、上野介を討ち取るという結果は、公儀を恐れずということであり、非常にけしからんことである。これによって切腹を申し付ける。
 2月4日」
史料(4)
 浅野内匠儀 勅使御馳走之御用被 仰付置、其上時節柄 殿中を不憚不届之仕形ニ付而御仕置被 仰付
 吉良上野義無御構被差置候処、主人之あたを報候と申立内匠家来四十六人致徒党上野宅江押込飛道具杯持参上野を討候始末公儀を不恐候段重々不届ニ候、依之切腹申付もの也
  未二月四日
参考資料(1)
 後世、彼等の「討ち入り」は「義挙」として讃えられたが、そんなことは事前にはわからない。庶民が応援していたという話は、繰り返すまでもないが「忠臣蔵錯覚」である(『文治政治と忠臣蔵の謎』91P)。


井沢元彦氏の持論「吉良邸不意討ち事件」を検証します
(1)「強いと思わされ、一人も斬れず」の清水一学は、吉良の世話をする中小姓では?
(2)「隠居して余生を送るため、本所へ」。では、現役の息子が本所住まいの理由は?
(3)「吉良は防衛体制をとらず」。「用心し、付き人も昼夜来ていた」と史料にあるよ?
(4)「事が終わってみると民衆は熱狂」。それを調べるのが学問では?
 参考資料(2)は、井沢氏の持論「吉良邸不意討ち事件」の概要です。
(1)書評第16回で紹介した井沢元彦著『激論 歴史の嘘と真実』という本があります。直接、井沢氏が発言していませんが、皆川博子氏の次のような発言を紹介しています。
 「驚いたのは吉良上野介の息子、義周のことを書く時にいろいろと当時の資料を調べてみたら…当時の記録で読みますと邸内にいたのは20人ぐらい。しかも、お屋敷の中に詰めていたのはわずか12人」「討ち入りなんて予測もせず静かに暮らしていたんですよ。そこへいきなり武装して、鎖帷子つけて弓矢持ってでしょう。…これを読むと腹が立って、あれは暴力だと思うんです、私は」
*解説2:一級史料では死者16人、負傷者23人、逃亡者4人の計43人、『江赤見聞記』や『吉良本所屋敷検使一件』(幕府目付の記録)などによると、死者は16人、負傷者23人、逃亡者4人の計43人です。

(2)「赤穂側にどれほど強いのかと思わされた”清水一学”など、結局赤穂浪士を一人も斬ることができなかった」
*解説3:清水一学は、吉良領から抜擢した中小姓(中奥小姓)で用人です。中奥は主人の仕事場、小姓は主人の身の回りを世話するお気に入りの侍です。戦うために訓練された人物ではありません。
 赤穂側に強いと思われた史料を示さず、断定されるのは如何なものでしょうか。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。
清水一学の詳細は、忠臣蔵新聞第207号をご覧下さい

(3)「引退した人間は…江戸城に近いところに住む必要はない。…静かなところでゆっくり余生を送れ、という態度を示す。その結果が本所松坂町(である)」
*解説4:この頃の事実関係を整理してみました。
 1701年3月26日、吉良上野介は「願いによりお役目」を返上しています。
 12月12日、上野介は「願いにより隠居」し、家督を義周(17歳)に相続しています。この結果、義周は表高家に列席しています。
 引退したから本所松坂町で静養という理屈なら、現役の義周が本所松坂町に住んでいる理由をどう説明されるのでしょうか。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。

(4)「吉良は何の防衛体制も取っていなかった。だからこそ完全にやられてしまった」と皆川博子氏と同じ解釈をしています。
*解説5:史料(5)を見ると、「内心には内匠さんの家来が鬱憤を晴らしに来るのではないかと…ずーっと用心していました。上杉家よりも付け人が昼夜やって来て、一日中、吉良邸に詰めていました。家来も数人も見えました」とあります。皆川氏と同様に、史料をほとんど見ず、伝聞・憶測で書いていることが分ります。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。

(5)「庶民が応援していたという話は、忠臣蔵錯覚である」が、「事が終わってみると民衆は熱狂した」とあります。
*解説6:ここが一番大切なポイントです。邪志を継いで、徒党を組んで、老人を襲撃した大罪人に「民衆は熱狂した」んですよ。ここに忠臣蔵の最大の人気の秘密があるのです。それをまったく解明もしていません。
 師匠の大石慎三郎先生の「全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる。ところが世間が、なぜだか悪い方に同情を寄せ始めたため…幕府内で侃々諤々の議論となった」と同じ口調になっています。
 生類憐みの令・貨幣改鋳・規則の重視・簡単にする改易などによる不満が江戸中に渦巻いていたのです。それを推進した幕府の3要人です。庶民は将軍や側用人には手を出せない。そこで、庶民は、身近な吉良上野介を攻撃の対象にし、将軍や側用人もトカゲのシッポ切りとして、上野介を冷たく突き放したのです。この構図が読めないようでは、物書きの資格はありません。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。
参考資料(2)
 「時代劇」として「忠臣蔵」を見た時、最も違和感のあるところはどこか?
(2)それは吉良方が厳重な警戒をして上杉家からの「付け人」も大勢いたにもかかわらず、赤穂側にどれほど強いのかと思わされた「清水一学」など、結局赤穂浪士を一人も斬ることができなかった。これを見て皆さん変だと思いませんでしたか?
(3)真相は、まったくの不意討ちだったということだ。…引退した人間は当然「職場」の江戸城に近いところに住む必要はない。幕府も当初は吉良を「被害者」と認定していたわけだから、静かなところでゆっくり余生を送れ、という態度を示す。その結果が「本所松坂町」なのであって、こう考えれば不思議でも何でもない。
(4)吉良邸はあの夜、見回りの人間すらいなかったのである。
 しかし、自分が一方的に殺されかけ、その犯人が処罰された時、その仲間がもう一度自分を殺しに来るとは誰も思わないだろう。だから吉良は何の防衛体制も取っていなかった。だからこそ完全にやられてしまったのである。
(5)しかし、事が終わってみると民衆は熱狂した。
 荻生徂徠など正統派の儒学者は「あれは仇討ではない」と水をさしたが、庶民の熱狂は理屈ではない(『文治政治と忠臣蔵の謎』91〜93P)。

 史料(5)の口語訳です。
 「それより隠居(家督相続)の願いもこれまた早速相すみ、気楽になられました。しかし、内心には内匠さんの家来が鬱憤を晴らしに来るのではないかと、ああこう気味悪がって、ずーっと用心していました。上杉家よりも付け人が昼夜やって来て、一日中、吉良邸に詰めていました。家来も数人も見えました」
史料(5)
 夫より隠居ノ願是又早速相済気楽クニハナラレ、然トモ内心ニハ内匠家来ウッフンノハラサンカトカクニ気味悪敷兼々用心、上杉よりモ附人昼夜罷有身上ヨリハ昼夜相詰ル、家来モ数人相見へ

井沢氏は「吉良側は無防備で、内蔵助らは不意討ち」と強調
(1)内蔵助の喧嘩両成敗の嘆願を幕府に提出→
これを知らなかった上野介はお目出度い人?
(2)赤穂浅野家再興ならず、内蔵助ら多数が上方から姿を消すす→
これを知らなかった上野介はお目出度い人?
(3)「井沢さん、心配いらないよと 上野介いい」→
長屋に120人の助っ人がいました
吉良邸(長屋の●は吉良側の家来の人数を表す。NHKTV画面を参考に作者が作画)
 井沢元彦氏は、あちこちで、吉良側は無防備だったことを強調し、大石内蔵助らの討ち入りを「不意討ち」と嘲笑します。このような作為的な作文は、素人にでも簡単に論破できます。
(1)内蔵助の喧嘩両成敗の嘆願書は幕府に届いており、上野介が注意深い人物なら、情報を得ているはずである。
(2)赤穂浅野家の再興がならず、内蔵助ら多数が上方から姿を消しており、上野介が注意深い人物なら、情報を得ているはずである。
(3)アンチ忠臣蔵派は、内蔵助らの討ち入りを過小評価したいでしょうが、以上の理由から考えて、無防備だったとしたら、上野介は「おめでたい人物」となり、忠臣蔵フアン派を利するという矛盾に陥ります。
(4)無防備だったという心配はいりません。長屋には助っ人など120人がおり、内蔵助らはその封じ込めに腐心しています。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。
吉良側人数の詳細は、忠臣蔵新聞第198号をご覧下さい


浅野内匠頭の戒名をここまで悪意で解釈するか
昔のアンチ派もびっくり仰天、「そこまでするか!!」
 井沢元彦氏は、『文治政治と忠臣蔵の謎』という本の中で、浅野内匠頭の戒名について次の様に(参考資料(3))書いています(135P)。
 悪意に満ちた解釈の見本です。
 『冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士』の冷光を「冷たい光」、吹毛玄利を「抜き身の利剣」と解釈し、「狂気のイメージがやはりある」と感じたとしています。
 これを善意に解釈するとどうなるでしょうか。
 冷光は「月光のように冴え渡る光」として、明晰な頭脳の持ち主と解釈できないでしょうか。
 前少府は「内匠寮の長官である内匠頭の官名」です。
 前朝散大夫は「唐時代の従五位下の呼称」です。
 吹毛玄利の吹毛は「吹いた毛を切るほどの剣」という意味で、玄利は「玄(天)理(道理)」という意味もあります。つまり、吹いた毛を切るほどのほど天の道理をわきまえた」というように解釈できないでしょうか。
 全てを通すと、「明晰な頭脳で、鋭い潔癖感の持ち主」というのが、浅野内匠頭像ではないでしょうか。
参考資料(3)
 浅野長矩本人の戒名がある。
 『冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士』
 まあ「凄まじい」としか言い様のない戒名である。
 まず「冷たい光」なんてのは普通絶対使わない。「前朝散大夫」というのは生前大名であったことを示す肩書きだが、「吹毛玄利」とは一言で言えば「抜き身の利剣」ということだ。つまり日本刀が鞘から抜かれて青白く冷たく光っているというのが、この戒名のイメージである。確かに幕府から切腹を命ぜられた人間だから、あまり「良い戒名」は付けられないのだが(ちなみに大石内蔵助良雄ら切腹した四十六士の戒名には、すべて刑死させられたことを示す「刃」と「叙」の一字が必ず入っている。ちなみに大石は「忠誠院刃空浄叙居士」堀部安兵衛は「刃雲輝叙信士」である)、それにしてもこれは「冷たい」。狂気のイメージがやはりあると言ったら、牽強付会が過ぎると言われてしまうのだろうか。


井沢元彦氏の手法を再度検証します
(1)目立つて、本をたくさん売って儲けるためには、新説が必要
(2)新説には、史料を読解・分析する地道な努力が必要
(3)努力もせず、金儲けがしたい→それが井沢流
(1)目立つて、本をたくさん売って儲けるためには、新説を唱える必要があります。
(2)新説を唱えるには、歴史学者や研究者以上の史料を読み、分析する地道な努力が必要です。
(3)しかし、新説はほとんど出つくしています。
(4)地道な努力もいや、目だって本はたくさん売って、儲けたい。
(5)そのための簡単な方法があります。

努力せず、金儲けが出来る方法を紹介します
(1)アンチ派のデータを徹底的に収集
(2)学者や研究者を徹底的に中傷・誹謗
(3)史料を恣意的に操作して、新説だと大騒ぎ
(4)出版者と組んで、プロレスのヒール役に
(1)アンチ派のデータを徹底的に集めます。
(2)学者や研究者を徹底的に中傷・誹謗します。
(3)新説でもないのに、史料を恣意的に操作して、新説だと大騒ぎします。タッグを組んだ出版社が宣伝します。
(4)つまり悪役(プロレスのヒール)になることで、内容はなくても、話題性を作るのです。それが目的です。
(5)その結果、井沢氏も儲け、出版社も儲けるという仕組みです。

 プロレスのヒール(Heel)とは、プロレス興行上、悪役を振舞うプロレスラーのことです。
 最近では、プロボクシングの亀田3兄弟がいます。とても視聴率を稼ぎ、試合会場も満員になりました。興行としては大成功でした。

井沢的手法は生き延びる!!
 残念ながら、井沢的手法は生き延びます。
 私は、井沢氏より忠臣蔵の史料は読破しています。だから、井沢氏は、「忠臣蔵の史料を恣意的に扱っている」とか「忠臣蔵の基本的知識が欠如している」と指摘ができます。それが井沢氏とは思えない。
 しかし、そのフィクションの結果、本が売れた。だから、史料を恣意的に扱い、基本的知識を欠如させたフィクションの方が金儲けにつながるということを悟り、その手法を駆使しているとしか思えないのです。
 私は、井沢氏の忠臣蔵関係以外の本を買ったこともなければ、買うこともありません。
 しかし、読んだとしても、残念ながら、井沢氏が他の『逆説日本史』で取り扱っている分野に対しては、判断する材料を持ち合わせていません。だから、「なるほどそうか」となると思います。
  多分、井沢氏は、忠臣蔵の手法を他の分野にも応用しているでしょう。ある定説を批判したり、否定的な文章をかき集めて、「デタラメだらけだ」と断定的に主張しているでしょう。
 アンチで、断定的な手法には、我々庶民は弱いです。残念ながら、井沢的手法は生き延びるでしょう!!

home back