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ごあいさつ
2月14日号-第五十一回は小学館
井沢元彦著『文治政治と忠臣蔵の謎』(8)

 井沢元彦氏は私には貴重な存在です。
 褒めているのではありません。忠臣蔵を研究して新しい学説を主張するには、膨大な第一次史料を読破しなくてはなりません。読破しても先人が唱えている説が殆どです。 こんな地味なことを厭って、簡単に目立つ方法があります。以前、ここで取り上げた岳真也氏の『吉良上野介を弁護する』であったり、井沢元彦氏の手法です。
 先ず、人気があって、定説になっている問題を、否定的・批判的に取り上げて、著作物として販売します。当然、人気があるということは、関心がある人が多いということですから、このグループもその本を買います。人気があれば、アンチ派もいます。アンチ派も当然購入します。これが井沢元彦氏の狙いです。出版社は、売れればいいので、当然、仕事を依頼します。
 逆説の日本史で、デビューした頃は、多くのTVメディアにも井沢氏は売れっ子でした。天下のNHKにも出演して、得意げに語る井沢氏を見たものです。
 しかし、所詮、動機が不純です。メッキが直ぐ剥げます。今は、TVで井沢氏を見ることはありません。出版社も小学館以外ほとんど引き受けていません。
 そういえば、小林よしのり氏の出版元も小学館です。
 歴史を自分の都合よいように解釈するこの2人には、歴史修正主義という共通点があります。
 歴史修正主義のグループである「新しい歴史教科書を作る会」の会員名簿には、この2人も名を連ねていました。
 「作る会」はフジサンケイグループの扶桑社から絶縁されました。小学館がその後を引き受けるのでしょうか。 
歴史修正主義と私の立場
 自分の結論に合わせて、多くの史料から、自分の結論にとって都合のいい部分の史料をつまみ食いし、都合の悪い部分の史料を排除し、自分の結論に誘導する手法があります。この立場を歴史修正主義といい、この立場の人を歴史修正主義者といいます。いずれ都合の悪い史料が提示されるため、この結論は破綻します。
 歴史実証主義の立場である私は、歴史修正主義の手法とはきちんと対応する立場です。

井沢元彦氏の手法に付き合って8回目
忠臣蔵錯覚に洗脳されない新鮮な話は、いつ聞けるのですか?
厳密に見たという史料はいつ出されるのですか?
 今回で、いよいよ8回目です。
 期待したとおりと言うか、予期どおりというか、本当に長いこと付き合って、「雑文」に「駄文」でした。
 しかし、このアンチ派結集大合唱団を利用して、さまざまな口害が予想されます。
 ここでは、過去の積み残した分をまとめて、反論しておきます。

井沢氏の論旨を再度検証
(1)「バカ殿」に義理を立て、討ち入りする理由はない
(2)大石は、西郷隆盛のように「かつぎ出された」
(3)史料の提示なく、「将軍徳川綱吉が乱心を正気にした」と断定
(4)「大石内蔵助はここに怒ったのだ」と結論
 井沢氏は、次のような説を主張します(84〜85P)。
 「君は一代、御家は末代」という考え方…で言えば、浅野は、いや浅野長矩は「悪いヤツ」なのである。なぜなら上下が一つとなって守ってきた赤穂藩浅野家を自分の凶行によってつぶした、からである。そんな「バカ殿」に義理を立てる必要はない。すなわち討ち入りする理由はないのである。
 にもかかわらず、大石は討ち入りを決行し吉良の首を取った。
 …邪志をつらぬくわけには行かないと、大石は悩んでいた。そのためにまったく見込みのない長矩の弟大学長広による御家再興の嘆願をくり返し、祇園で遊んだのもどうしていいか悩んでいたからだ。しかし、ついに大学長広が広島の本家(広島藩浅野家)にお預けと最終決定し、御家再興のために動くという口実も奪われ、仕方なしに、西南戦争の時の西郷隆盛のように「かつぎ出された」!。
 …私も正直、ここは随分悩んだ。
 …この点が私にはなかなかわからなかった。
 しかし、赤穂事件の研究を始めてしばらく後、私はそれまで誰も気が付いていないことを発見した。
 その発見した新説が、書評忠臣蔵第49号で紹介しています
 簡単にいうと、史料を1行も提示せず、次のような新説を発表しました。卑怯な内匠頭像を描くのに63Pを使い、内匠頭を乱心者に仕立てるのに36P使ったのと比べると、雲泥の差です。
(1)「将軍徳川綱吉が乱心を正気にしてしまった」
(2)「大石内蔵助はここに怒ったのだ」


浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(1)
目付への嘆願書を検証します
(1)内蔵助は、喧嘩両成敗と理解しています
(2)内蔵助は、喧嘩両成敗を要求しています
 大石内蔵助ら浅野内匠頭の家臣たちは、何を考え、どういう思いで、討ち入りを決行し、主君に殉じたのかを、史料を使って、検証したいと思います。
 刃傷事件後の3月29日に、大石内蔵助が江戸幕府の受城目付である荒木十左衛門と榊原采女に出した嘆願書です。
 これを見れば、大石内蔵助は、「上野介が殺害されたので、内匠頭が切腹した、つまり喧嘩両成敗と思っていた」ことがわかります。
 内蔵助は、「上野介を処分してくれとお願いはしていない」としながらも、「浅野家臣が納得いくような筋立て」を嘆願しています。これは、喧嘩両成敗を要求していることがわかります。
詳しくは、私の忠臣蔵新聞094号をご覧下さい。

 史料(1)の口語訳です。
 「相手の上野介様がお亡くなりになったので、内匠頭が切腹を仰せ付けられたと思っていたところ、次いで来たお沙汰(さばき)を見た所、上野介様がお亡くなりになっていないということがわかりました。
 浅野家の家臣どもは、無骨(無作法)な者でもで、一筋に主人一人を考え、幕府の法式(きまり)を知りません。相手方の上野介様が恙ない(無事である)ということを知り、その上で城地離散することを嘆いております。
 上野介様へお仕置(処分)をお願いしているのではありません。
 ご両所様お二人の働きで、家中の者が納得ゆくように「筋」をお立て下さればありがたく思います。
 赤穂に来られてから、書状を差し出しては、城のお受け取りに支障がおこると思いましたので…」
史料(1)
 相手上野介様御卒去之上内匠切腹被 仰付儀と奉存罷有候処、追而御沙汰承候処上野介様御卒去無之段承知仕候、家中之侍共は無骨之者共一筋ニ主人壱人を存知御法式之儀不存相手方無恙段承之城地離散仕候儀を歎申候、上野介様へ御仕置奉願と申儀ニ而は無御座候、御両所様之以御働家中納得可仕筋御立被下候は難有可奉存候、当表御上着之上言上仕候而は城御請取被成候滞ニも罷成候処(「赤穂城引渡御用状」)

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(2)
幕府の判決書(「徳川幕府御日記」)を検証します
(1)幕府は「内匠頭の宿意により刃傷に及んだ、よって切腹」と判決
(2)幕府の判決は、「乱心」でなく「宿意」を採用
(3)内蔵助は「上野介存命」を入手(この頃、判決書も入手か?)
 3月14日の幕府の判決書には、はっきりと、「自分の宿意(以前からいだいている恨み)で、上野介に対し刃傷に及んだので、切腹を命ずる」とあります。
 3月26日、大石内蔵助は、吉良上野介が存命である情報を入手しました。この頃、幕府の判決書の内容、特に主君の上野介に対する「宿意」も伝えられた可能性があります。

 史料(2)の口語訳です。
 「さっき、場所柄も弁えず、自分の宿意(以前からいだいている恨み)を以って、吉良上野介へ刃傷に及んだことは不届きにつき、田村右京太夫へその身を預け、切腹を仰せ付ける」
史料(2)
 先刻御場所柄も不弁自分宿意ヲ以吉良上野介江及刃傷候段不届ニ付田村左京太夫(建顕)(ママ)江御預其身は切腹被 仰付(「徳川幕府御日記」)

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(3)
幕府目付に対して内蔵助の三度嘆願を検証します
(1)幕府は「内匠頭の宿意により刃傷に及んだ、よって切腹」と判決
(2)幕府の判決は、「乱心」でなく「宿意」を採用
(3)内蔵助は「上野介存命」を入手(この頃、判決書も入手か?)
 4月18日、受城目付に対して、大石内蔵助は、浅野家の再興を三度も嘆願しました。
 三度目の嘆願に、受城後の代官役の石原新左衛門は「内蔵助の考えや家臣の心情はよく分る」と発言し、受城目付の2人は「委細承知した。江戸に帰ったら、お上に言上しましょう」と約束しました。
 この三度嘆願を以って、内蔵助には浅野家再興の望みはあっても、仇討ちの野心はなかったと言う説もあります。
 私は、内蔵助は、多くの人の前で、三度も、嘆願し、そして「約束」(公約)を得る作戦を取ったと考えています。
詳しくは、私の忠臣蔵新聞104号をご覧下さい。

 史料(3)の口語訳です。
 「”主君内匠頭が、この度、不調法をして法に従って処分されたことについては、家臣一同恐縮しております。
 しかしながら、大学の安否(浅野家再興)について赤穂浅野家家臣の者どもは、今なお落ち着かない心情であります”。
 その点申し上げました所。兎角の返事はありませんでした」
 「そこで、又、内蔵助さんは、重ねて時節を計り、”先刻も申し上げました通り、今なお、家中の者どもは安心しておりません。この点をお聞き届け下さい”と申し上げました。すると、お代官にて来られていた石原新左衛門殿がその意見をお取り上げになり、”内蔵助の存念(考え)や家中の心情を考えると余儀無い(やむをえない)と思う”とご挨拶がありました。その時、両目付が申されるには”委細、聞し召し(お聞きになり)届けられ、お上に言上いたしましょう”と仰せ聞かされたそうです。
 その結果、19日、龍野藩主脇坂淡路守さんと足守藩主木下肥後守さんへ、お城を引き渡しました」
史料(3)
一 内匠頭此度不調法仕候ニ付テハ法式ノ通被仰付候段家中ノ者共一同奉畏候
 乍然大学安否ノ処家中ノ者共今以落着不仕心底ニ差含罷在候段申上候処、
 兎角ノ御挨拶不被仰候
 故又重テ時節ヲ相計先刻モ申上候通、今以家中ノ者共安心不仕候、此段被聞召届被下候様申上候処、御代官ニテ御越被成候石原新左衛門殿御取合被仰候ハ、内蔵助存念家中ノ心底無余儀存候由御挨拶ノ節両御目付申被仰候ハ、委細被聞召届候、可及言上旨被仰聞候由(略)
一 同十九日卯下刻城脇坂淡路守(安照)殿、木下肥後守(■定)殿へ引渡ス(「堀部武庸筆記 上」)

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(4)
江戸の強硬派である堀部安兵衛ら3人を説得を検証
(1)安兵衛らは「城を枕にして討ち死に」を主張
(2)内蔵助は「開城後、私にも考えがある」と説得
(3)内蔵助は「仇討ちの野心を持っていた」
 4月15日といえば、三度嘆願より3日前です。江戸の強硬派である堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛の3人が大石内蔵助に面会を求めて、「城を枕にして討ち死にする以外にない」と籠城を説きました。
 それに対して、内蔵助は、「この限りではない。開城後、私にも考えがある」と説得して、強硬派を江戸に帰しています。このことから、内蔵助は、この段階でも、「仇討ちの野心を持っていた」と思っています。
詳しくは、私の忠臣蔵新聞102号をご覧下さい。

 史料(4)の口語訳です。4月15日の記録です。
 「この度は内蔵助に任せてほしい。この限りには限ることではない。以後の含みもある」
史料(4)
 内蔵助ニ任セ候ヘ、是限(切)ニハ不可限以後ノ含モ有之候(「堀部武庸筆記 上」)

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(5)
浅野家再興ならずの報が内蔵助に届くを検証
(1)「浅野家再興ならず」より遥か以前に妻を離別
(2)「浅野家再興ならず」の報と同じ日に同志を江戸に派遣
(3)「浅野家再興ならず」の報の4日後に討ち入りを決定
 大石内蔵助の悲願であった「浅野家再興ならず」の前後に日程を調べてみました。
 討ち入りの年の4月には、妻を離別しています。
 「浅野家再興ならず」の報が届いたその日に、横川勘平を江戸に派遣しています。
 「浅野家再興ならず」の報が届いた4日後に、討ち入りを決定しています。
 以上の事実から、大石内蔵助は、1701年3月29日の目付への嘆願から、ずーっと、仇討ちは念頭にあったことが確認できます。
参考資料
 1702年4月15日、大石内蔵助は、口頭で、妻理玖に離別を申し出ました。
 7月24日、浅野大学を広島に差し置く(浅野家再興ならず)との報が山科の大石内蔵助のもとに届きました。
 同、大石内蔵助は、吉田忠左衛門との連絡をとるため、横川勘平を江戸に派遣しました。
 7月25日、大石内蔵助は、下向同志の受け入れ先を探すために、小野寺十内・小山源五左衛門を江戸に派遣しました。
 7月28日、大石内蔵助は、原惣右衛門・堀部安兵衛ら19人を集め、仇討ちを決定しました。これを円山会議といいます。

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(6)
浅野家家臣である大高源五の暇乞い状を検証
(1)「殿様の憤りを散じ、浅野家の御恥辱を除き去りたい一心」
(2)「命を捨て、家を忘れて、鬱憤を遂げようと考えた」
(3)「命を捨てるほどの憤りを持った仇を見逃しては武士道ではない」
(4)武士の道を立て仇を討つので、天下には恨みはない」
 討ち入りが決定されると、大高源五が江戸に降る前に母親に出した手紙です。9月5日の記録です。普通「暇乞い状」として、偽書が出回るほど有名に史料です。
(1)ここでは、主君を乱心とは見てないことがわかります。
(2)主君には、命を捨て、家を忘れるほどの鬱憤を上野介から与えられたと主張しています。
(3)主君が果たせなかった鬱憤を晴らすことが、家臣としての勤めであり、武士の一分と言っています。
(4)この考えを「邪志」と非難しても、赤穂の浪士たちは、このように考えていたことが分ります。
(5)そして、「邪志」を引き継ぐ赤穂浪士を、江戸の庶民が支持していたことも事実です。
詳しくは、私の忠臣蔵新聞159号をご覧下さい。

 史料(5)の口語訳です。
(1)「一すじに殿様の憤りを散じ、浅野家の御恥辱を除き去りたい一心です。かつは、侍の道をも立て、忠のために命を捨て、先祖の名をも現し(明らかにし)たいからです」

(2)「誠に大切なお命をお捨てになり、忘れ難いお家(浅野家)をも忘れられて、鬱憤を遂げようとお考えになられた相手(吉良上野介さん)を討ち損じ、その上に、あさましい(みじめでなさけない)御生涯(一生)を遂げられたこと、ご運も尽きられたとは言いながら、まったく無念だったと思います。恐れながらも、その時のご心底(心の奥底)を推察いたしますと、骨髄にまで通って、一日、少しの間も、安らかな心になれません」

(3)「しかし、殿様はご乱心でもなく、上野介殿へお意趣(はらすべき恨み)があったとのことで、お切り付けなられたことなので、その人(吉良上野介殿)はまさしく仇(かたき)です。主人が命を捨てられるほどのお憤りを持たれた仇を安穏(平穏無事)に、そのままにしておくことは、昔より中国でも日本でも共に武士の道にないことです」

(4)ただ一すじに殿様のお憤りを晴らしてさしあげるより外の心はございません。一たん(ママ)、以上申し残したごとく、武士の道を立て、主君の仇(あだ)をとって報い申すまでのことで、まったく天下に対しては、お恨み申し上げるものではございません」
史料(5)
(1)との様御いきとをりをさんしたてまつり 御家の御ちしよくをすゝき申たく一筋にて御さ候、かつハ侍の道をもたて忠のため命をすてせんその名をもあらハし申にて御座候

(2)誠ニ大せつなる御身をすてさせられワすれかたき御家をも思召はなたれ候て御うつふんとけられ候ハんと思召つめられ候相手を御うちそんじ、あまつさへあさましき御しやうがいとけられ候たん御うんのつきられ候とハ申なから無念至極、おそれなからその時の御心ていおしはかり奉り候ヘハこつすいニとをり候て一日かたときもやすきこゝろ無御座候

(3)併殿様御らんしん(乱心)とも無御座上野介殿へ御いしゆ(意趣)御さ候由にて御切つけ被成たる事にて候へハ、其人ハまさしくかたきにて候、主人の命をすてられ候程の御いきとをり御座候かたきをあんおんにさしおき可申様むかしよりもろこし・我てう(朝)ともに武士の道にあらぬ事にて候、

(4)たゝ一筋ニ殿様御いきとをりをはらし奉候より外の心無御座候一たん右申残し候ことく武士の道をたて候て御主のあたをむくひ申迄にてまつたく天下へたいしたてまつり御恨申上ルにて無御座候

浅野家臣は、何を考え、討ち入りして主君に殉じたのでしょうか(7)
討ち入り趣意書である『浅野内匠家来口上』を検証
(1)「意趣により、殿中でなければならなかったのか、刃傷に及んだ」
(2)「喧嘩を止める人がおり、主君の無念は、家臣として耐えがたい」
(3)「亡き主君の意趣を継いで、鬱憤を晴らすだけだ」
(4)「邪志」と言われようが、死を覚悟して討ち入る、それが武士道だ
 『浅野内匠家来口上』とは、大石内蔵助ら47人が吉良邸に討ち入った時、屋敷内に打ち立てた「討ち入り趣意書」です。
(1)「意趣(はらすべき恨み)により、殿中でなければならなかったのか、刃傷に及んだ」とあります。
*解説1:井沢氏は、意趣の部分を読み飛ばしたのか、「御座候歟」の「歟」に力点を置いて、「…やはり”遺恨”はあったとしても”イジメ”はなかったのだ」と断定します。
 私は、「何も殿中でなくても、他の場所で恨みを晴らせなかったのか」と読解する方が自然だと思います。
(2)「喧嘩を止める人がおり、討ち果たせなかった主君の無念は、家臣として耐えがたい」と書いています。
(3)「亡き主君の意趣を継いで、鬱憤を晴らすだけだ」と主張しています。
*解説2:「邪志」と言われようが、死を覚悟しての討ち入りをする、それが「武士道」だということです。
詳しくは、私の忠臣蔵新聞191号をご覧下さい。

 史料(6)の口語訳です。
(1)「伝奏ご馳走役の儀について、吉良上野介殿へ意趣を含みおられた所、殿中においてその場で避けがたい儀がございましたのか、刃傷に及びました。
 この喧嘩の時、ご同席していて、これを留める方がいて、上野介殿を討ち取ることができず、内匠頭の死に際の無念の心情は、家来どもとして耐え忍び難いことでございます」

(2)「ただひとへに亡主の意趣を継ぐ志だけでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がござれば、お上に見せて頂くようお願いします。かくのごとくございます。以上」
史料(6)
(1)伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、
 右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候、

(2)偏継亡主之意趣候志迄御座候、私共死後若御見分之御方御座候は奉願御披見如斯御座候、以上
            浅野内匠頭長矩家来
  元禄十五年極月日      大石内蔵助(以下人名略)

忠臣蔵(赤穂事件)を語る井沢氏の手法
(1)無知か悪意か、史料の恣意的な使用方法
(2)忠臣蔵(赤穂事件)を語る重要史料6点の内5点は使用せず
(3)重要史料の1点も、無知な解釈か悪意の利用か
 以上見てきたように、井沢氏は重要史料の6点の内5点を使用していません。知らない場合これを無知といいます。知っていて使わないことを悪意と言います。
 使っている1点(浅野内匠家来口上)も、読解力が不足しているための無知な解釈なのか、知っていて悪意に利用しているのでしょうか。
 学者や研究者を誹謗・中傷していますが、学者や研究者からは相手にされていないことをご存知ないようです。
 井沢氏には、忠臣蔵の基本的知識が欠如していると断言できます。

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