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元禄15(1702)年12月14日(第221号)

忠臣蔵新聞

再び忠臣蔵ブーム!?(3)
その秘密を要約(2)

地元赤穂の人が内蔵助を支持
山鹿素行と同じ空気を吸っていた内蔵助、源五ら

大石邸から山鹿素行屋敷までの距離 大高源五木像(大石神社蔵)
12月14日(東京本社発)
忠臣蔵人気の秘密にせまる
過去の忠臣蔵新聞より要約(2)
 あちこちで、忠臣蔵の講演を依頼されます。私のテーマは、「情報化時代と忠臣蔵ー人気の秘密にせまるー」です。情報化時代については、私の「体験的パソコン論」(←ここをクリック)をご覧下さい。
 ここでは、「忠臣蔵ー人気の秘密にせまるー」を取り上げます。これは、私の忠臣蔵新聞(←ここをクリック)
人気を支えた秘密(2)ー地元赤穂が支援した!!
内蔵助は小2〜高3まで、山鹿素行と同じ赤穂の空気を吸っていた
(1)大石内蔵助と山鹿素行
 1652(承応元)年、山鹿素行は、1000石で赤穂藩(江戸)に仕え、文武を教授しました。当時の藩主は浅野長直でした。
 1659(万治2)年1月、大石内蔵助良雄は、播州赤穂城内で生まれました。幼名を松之丞といいます。
 1660(万治3)年、素行は、仕官を辞任しました。仕官した期間は、9年と10ヶ月に及びました。
 1666(寛文6)年10月、山鹿素行(45歳)は、『聖教要録』により幕府の勘気を被り、赤穂に流されました。素行は、赤穂城二の丸の大石頼母助良重(内蔵助の大叔父)邸の隣屋敷に迎えられました。内蔵助の家と、大叔父の家とは僅か50メートルの距離です。内蔵助は、その時7歳でした。今なら小学2年生です。
 1675(延宝3)年1月、浅野采女正長友(33歳。内匠頭の父)は、江戸で亡くなりました。
  3月、浅野内匠頭(9歳。長友の長男)は、赤穂藩主(表高5万3500)を継ぎました。
  7月、素行は、『中朝事実』により幕府の許しを得て、江戸に帰りました。赤穂滞在の期間は、9年と9ヶ月に及びました。内蔵助は、その時17歳です。今なら高校3年生です(忠臣蔵新聞18号←ここをクリック)。
山鹿素行の教え、赤穂生まれ・赤穂育ちの大高源五らが継承
(2)山鹿素行の教え
 1.仇討ちは、父の場合に適用されるのが普通でした(忠臣蔵新聞157号←ここをクリック)。
  素行は、主君のための仇討ちを提唱しているのです(「君の儺を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」)。
  これは、将軍徳川綱吉が改正した武家諸法度の精神に叶う考えでした。旧法度は、「文武弓馬の道、専ら相嗜むべきこと(文武重視)」です→新法度は、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべきこと(忠孝・礼儀重視)です(忠臣蔵新聞158号←ここをクリック)
 2.大高源五は、赤穂に生まれ、赤穂に育った侍ですが、「仇である吉良上野介をのうのうとさせておくのは、武士の道に反する」(「かたきを、安穏にさしおき申すべき様、武士の道にあらぬ事にて候」)と書いています。
 3.早水藤左衛門は、「父が主君の仇討ちを義と考えているように、私も義を全うしたい」(「父の存念に従い義を全うせん」)と言っています。
地元赤穂の人が、内蔵助の行動を支持・支援
(3)赤穂の人が、内蔵助を支持
 1.浅野内匠頭が切腹し、赤穂城が没収されると聞いて、「地元赤穂の人は、大変喜んで、餅などをついてにぎわった」といいます。かなり厳しい取立てをしていたのでしょう。
 2。ところが、大石内蔵助が、藩札を6分(60%)で換金するといったので、「赤穂藩には、このようなことをする人もいるんだ」(「この城中にかやうのはからひする人もありしや」)と言って、内蔵助らの行動を支援したといいます(忠臣蔵新聞89号←ここをクリック)

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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