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エピソード

304_10

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(8)
HTML版:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判━高裁判決全文(2/3)←クリック
大江・岩波沖縄戦━裁判年表(左右でなく、東西の視点で編集)←クリック
 紙データをペーパーレス・データ(デジタル)化し始めたのが1986(昭和61)年です。
 高裁判決の全文を入手したのがPDF版を印刷した紙データでした。A4サイズで191枚もありました。これでは丹念に検証できません。
 そこで、紙データをOCR(文字認識処理ソフト)で、デジタルデータに変換し、PDF版を参照しながら、校正に努めました。改行も、校正しやすいように、PDF版と同じようにしました。
 毎日毎日、約8時間、パソコンと取り組んで、約2か月かかりました。OCR(文字認識処理ソフト)によるコンバートが終わってほっとしたのか、健康が自慢の私ですが、過労がたたって、年末・年始には風邪を引いてしまいました。
 今回は、184〜226ページを検証しました。クリックしてご利用ください。
 なぜ、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判にこだわるかといえば、この裁判に大きな意味を感じているからです。
(1)戦前、公正・中立であるべきマスコミが情報を操作して、戦争への道に進んでいった。今はどうか。
(2)戦前、情報を操作するために、自分の都合のいい資料は採用するが、都合の悪い資料を排除するという歴史修正主義的な手法が採用された。今はどうか。
(3)過去を調べ、現状を知り、今後どう対応するかが、歴史に携わる者の使命である。
 前回に指摘した私の確認事項を検証する前に、高裁の判断を見てみたいと思います。
 原告側は、高裁の判断を不満として最高裁に上告しています。その結果も、いずれ、報告します。
 素人の私は、遂条的に点検する方法を採用しています。

HTML版:援護法の適用問題について全文(184-142P)←クリック
(3)援護法の適用問題について
ア 控訴人らは、梅澤命令説及び赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、信用性等を争う諸文献等が存する。
イ 援護法が、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布されたことは、当裁判所に顕著である。
(ア) 略
(イ) 日本政府は、昭和28年3月26日、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。
 他方、琉球政府においては、同年4月1日、社会局に援護課が設置され、援護事務を取り扱うこととされた。

要約1:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。
(2)援護法が、遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布された。
(3)日本政府は、昭和28年3月26日、現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。
(4)琉球政府に、昭和28年4月1日、社会局に援護課が設置された。
(ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが、駐屯当初、日本軍は、公共施設や民家を宿舎として使用し、軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも、住民は、陣地構築や炊事・救護等で、軍に協力する立場にあった。また、沖縄戦は、島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。
 昭和30年3月に終戦後援護業務のため沖縄に出張滞在した厚生事務官馬淵新治(元大本営船舶参謀)は、報告書において「戦斗協力者と有給軍属、戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を、如何なる一線で劃するか、誠に至難な問題が介在している」として、調査のため厚生省から担当事務官3名が長期に現地に派遣される段階になったとしている。
  昭和31年3月、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省引揚援護局援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。
 以上の実態調査や要望を踏まえて、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば、戦闘参加者の対象者は、@義勇隊、A直接戦闘、B弾薬・食糧・患者等の輸送、C陣地構築、D炊事・救護等の雑役、E食糧供出、F四散部隊への協力、G壕の提供、H職域(県庁職員・報道関係者)、I区村長としての協力、J海上脱出者の刳舟輸送、K特殊技術者(鍛冶工・大工等)、L馬糧蒐集、M飛行場破壊、N集団自決、O道案内、P遊撃戦協力、Qスパイ嫌疑による斬殺、R漁撈勤務、S勤労奉仕作業の20種類に区分され、その内容が詳細かつ網羅的に定義され、軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果、約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。このうち、区分N「集団自決」の概況は、「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に讐備隊長は日頃の計画に基いて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗 出来る処までは対抗し癒々と言う時には
いさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。集団自決の地域 座間味島、渡嘉敷島、伊江島」とされている。
 集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては、隊長の命令によるものか否かは、重要な考慮要素とされたものの、要件ではなく、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。

要約2:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)沖縄戦は、前線なき戦闘のため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。
(2)厚生事務官馬淵新治「戦斗協力者と軍に無関係な住民との区別をどうするか、誠に至難な問題である」
(3)調査により、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱(20種類)を決定した。
(4)その結果、一般県民の戦没者約9万4000人のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。
(5)N集団自決については、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された者もあった。
(エ) 元琉球政府の社会局援護課職員・金城見好は、平成19年1月15日朝刊・沖縄タイムスの取材に対し、「慶良間諸島は、沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」と説明した。
ウ 前記認定事実によれば、昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であること、集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32年であること、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、また、援護法が公布された昭和27年4月30日より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風」に、控訴人梅澤及び赤松大尉が住民に自決命令を出した旨の記述があり、その内容も具体的に記載されていること、昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書」には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述が認められる。
 これらの事実に照らすと、梅澤命令説及び赤松命令説は、沖縄において援護法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していたことが認められるから、援護法適用のために捏造されたものであるとする主張は 採用できない 。また、前記のとおり、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められるなど、日本軍がその作戦に様々な形で住民を協力させ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果を招いていることは沖縄戦全体の特徴として厚生省の現地調査の結果でも知られており、上記のとおり戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて握造する必要があったとはにわかに考え難い。

要約3:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)元琉球政府社会局援護課職員・金城見好「慶良間の住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」
(2)援護法公布以前の「鉄の暴風」(昭和25年)に、控訴人が住民に自決命令を出した旨の記述がある。
(3)米軍の「慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)「米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたと語っている」
(4)梅澤・赤松命令説は、援護法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していた。
(5)戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたので、後日にあえて握造する必要ない。
感想1:緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号(「Will」)には、「控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であった」という論陣(田久保忠衛氏、櫻井よしこ氏、渡部昇一氏、曽野綾子氏ら)ばかりで、要約3:のような論陣はありませんでした。やはり、メディアは両方の主張を伝えてほしいと思います。世論を一定の方向に誘導する戦前のメディアもこうであったのかと、推測してしまいます。
エ(ア) 琉球政府社会局援護課勤務・照屋昇雄は、渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる。証拠によれば、照屋昇雄は、昭和29年10月19日琉球政府の社会局援護課の援護事務の囑託職員となり、昭和33年10月には社会局援護課に在籍していたことが認められる。
(イ) 産経新聞朝刊(平成18年8月27日)及び「日本文化チャンネル桜」社長水島総ほか2名の取材班による現地詳細報告「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」(正論平成18年11月号所収)によると、照屋昇雄の話の要点は次のようなものである。
@ 照屋昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で100名から200名の聞き取り調査をした。
A その100名以上の人のなかに集団自決が軍の命令だという住民は、1人もいなかった。
B 集団自決に援穫法の適用が出来ないか東京の審査委員会で(南方同胞)援護会などが掛け合ったがだめだった。規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文があるが、誰かわからないが当時の隊長さんたちに自決命令を出したと言ってくれとお願いしたが応じてもらえなかった。そして、(1955年だったかなあ)、12月頃、最後の東京の会議があり、自分は参加していないが渡嘉敷島の玉井喜八村長さんが参加したらしい、その時に厚生省の課長さんから、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて、村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って、隊長命令を書くと言うことになっているそうですがと話したら、お前らが書ければサインして判子押しましょうということになった、25日に村長が帰ってきたので、翌月の15日か16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで、2人で夜通しで作った。
C 作ったのは命令ではなく、渡嘉敷住民に告ぐと書いてあった、赤松隊長の身になって書いた、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前に来ている、国のため降伏せず、1人でもアメりカ人をやっつけてというような内容だったはず、住民も死して国のためにご奉公せよとかたくさん書いて、自決せよとかそんな命令じゃあない、教育じみているのが命令書となっている。15日の閣議に出さなければ間に合わないということで、村長さんが赤松隊長のサインと判子をもらって間に合わすように持っていった。

要約4:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)産経新聞日本文化チャンネル桜正論によると、照屋昇雄氏の話の要点は次のようなものである。
(2)照屋昇雄「聞き取り調査をした100名以上の内集団自決が軍の命令だという住民は1人もいなかった」
(3)照屋昇雄「援穫法の規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文がある」
(4)照屋昇雄「厚生省の課長から、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて」
(5)「お前らが書ければ(赤松隊長が)サインして判子押しましょうということになった」
感想2:『日本文化チャンネル桜』の公式ホームページによると、”日本文化チャンネル桜は、日本の伝統文化の復興と保持を目指し 日本人本来の「心」を取り戻すべく設立された日本最初の歴史文化衛星放送局です”とあります。出演者をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみました。私が知っている方々です。井尻千男氏、西尾幹二氏、金美齢氏、遠藤浩一氏、小堀桂一郎氏、渡部昇一氏、高森明勅氏、潮匡人氏、花岡信昭氏、西村眞悟氏(弁護士法違反容疑で逮捕された事によって打ち切りとなった) 、田久保忠衛氏です。ほとんどが産経新聞や正論、新しい歴史教科書を作る会などでお馴染の名前でした。
(ウ) 赤松大尉に軍命令を出したことにすることを依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成してそれにサインと押印を得て、厚生省に提出したなどと云うことは、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。赤松大尉の潮掲載の手記は、赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、マスコミ等で極悪無残な鬼隊長などと非難され、その原因を自らに問い、考えた結果、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれないと考えるというのである。
 (赤松大尉)の娘である佐藤加代子の陳述書では、大学1年生の時に「鉄の暴風」の父親に関する実名の記事を読み、息が止まるほどのショックを受けたこと、もっと父に集団自決のことを含む戦争体険についてきちんときちんと聞いておけばよかったと後悔もしていること、父は希代の悪人とされながらも耐えていたのだと思うが、本当は真実はこうだったともっともっと世間に対して弁明したかったのだと思うし、曽野綾子のきちんとした取材で父が知る限りのことを話せたこと、マスコミヘの厳しい批判などが、12頁にわたり心情のままに自然に語られている。
 仮に照屋昇雄の述べるようなことがあったとすれば、そのことは家族に話されていないはずはないし、手記や陳述書に記載されたような形での赤松大尉を含めた家族の中での大きな苦悩はあり得ないことである。
 佐藤加代子の陳述書の日付は平成19年10月6日であり、平成18年8月の産経新聞の記事や同年11月号「正論」掲載の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告は佐藤加代子や控訴人赤松の知るところであろうが、それに沿った事実は、上記陳述書や控訴人赤松の陳述書(平成19年9月29日)や本人尋問にも全く出てこない。照屋昇雄の話は、身近にいた者たちとしてみれば、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙殺されているものと理解される。

要約5:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)赤松大尉の了解を得て、偽の軍命令の文書を作成・押印は、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。
(2)『潮』手記「赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれない」
(3)照屋昇雄の証言通りだとすると、(赤松大尉)の娘である佐藤加代子の苦悩はあり得ない。
(4)佐藤加代子の陳述書(平成19年10月6日)・赤松の陳述書(平成19年9月29日)には、産経新聞の記事(平成18年8月)や「正論」掲載(平成18年11月号)の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告は荒唐無稽なあり得ない話として黙殺されている。
感想3産経新聞正論は、日本を代表するマスメディアである。そのマスメディアの取材・記事を、大阪高裁の裁判官は、「身近な者から、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙殺されている」と批判しています。どうして黙殺されるような荒唐無稽な主張をするのでしょうか。
(エ) 照屋昇雄の話が本当なら、曽野綾子は、「ある神話の背景」のための赤松大尉への取材を昭和45年に極めて丁寧に行っておりながら、赤松大尉が秘密を守ったがために、神話の背景の最も根本的なところを誤ってしまったということになるが、いかにも不自然である。ちなみに、曾野綾子は、軍命令説と年金を得ることとの関係にもほかの箇所では触れているのであるから、問題自体を認識していなかった訳ではなく、赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。
(オ) 戦後間もない頃から渡嘉敷島に赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、「鉄の暴風」にも伝聞であるにせよその具体的内容が記録され、馬渕新治の調査でも確認されている。それなのに、軍命令とする住民は1人もいなかったという点や、逆に、照屋昇雄と村長及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然である。
( カ ) 被控訴人ら代理人である近藤卓司弁護士は、平成18年12月27日、厚生労働大臣に対し、前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日、「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした」との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。・・なお、控訴人らは、当審で、書類の保存期間満了による廃棄等の可能性や、沖縄本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたなどと主張し、正論20年6月号の論考を提出するが、所管庁への調査嘱託や引渡しの法令上の根拠、事務取扱規程等の裏付けも全くない話であり、採用できない。

要約6:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)曽野綾子は軍命令説と年金を認識してるが、「ある神話の背景」(昭和45年)には、軍命令捏造説はない。赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。
(2)戦後間もない頃から赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、馬渕新治の調査でも確認されている。照屋昇雄と村長及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然である。
(3)産経新聞に掲載された軍命捏造の書類については、厚生省は「係る文書はこれを保有していない」
(4)正論のいう廃棄等の可能性・本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたという法令上の根拠、裏付けも全くない。
(キ) 照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていないこと、内容的にも、その年代や、伝聞なのか実体験なのか、捏造したという軍命令の内容や、戦後10年以上後に捏造したような命令書が厚生省内で通用した経緯など、あいまいな点が多く、他方、赤松大尉の家族や関係者に対する裏付け調査や信用性に関する裏付け吟味もないままに新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して、その後の裏付け調査がされた形跡もないことなど、問題が極めて多いものといわざるを得ない。
(ク) 以上の次第で、援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できず、これに追随し、喧伝するにすぎない前掲の産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない。

要約7:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない(参考資料参照)
(2)軍命令の内容、戦後10年以上後に捏造した命令書が厚生省内で通用した経緯など、あいまいな点が多い。
(3)裏付け調査や吟味もせず、新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して、問題が極めて多い。
(4)援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できない。
(5)これに追随し、喧伝するにすぎない産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない。
参考資料:照屋昇雄氏の証言「昭和30(1955)年12月25日、援護法適用のため、軍命捏造の書類を作成した」
 平成17(2005)年8月5日、梅澤裕氏らが大江健三郎氏と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴しました。
 平成18(2006)年8月27日、産経新聞朝刊と「日本文化チャンネル桜」は、「照屋昇雄は、赤松大尉に軍命令を依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成し、サインと押印を得て、厚生省に提出」と報じました。
 平成19(2007)年12月21日、原告・被告の双方が最終弁論し、結審しました。
感想4:最近、『週刊新潮』が朝日新聞阪神支局襲撃事件「実行犯」を名乗る人物の告白手記を掲載し、それが「誤報」だったことが判明しました。これに対し、産経新聞(2009年4月16日)はジャーナリストの青沼陽一郎さんのコメントを紹介しました。そこには、「裏付け取材が十分だったのか。証言者の出自や、客観的事実との整合性を、もう少し時間をかけて確認すべきだった。急ぎすぎたのだと思う」とありました。これは、そのまま、大江・岩波沖縄戦における産経新聞の記事にもあてはまるのではないでしょうか。

オ(ア) 盛秀助役の弟・宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書には、「証言 座間味村遺族会長 宮村幸延 昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右当時援護係 宮村幸延 (印) 梅沢裕殿 昭和六二年三月二八日 」との記載がある。
(イ) 翌(昭和62年3月28日)朝、朝から飲酒していた宮村幸延を控訴人梅澤が訪れ、自らが作成したと記載された文書を示したこと、宮村幸延は、これを真似て親書(「証言」と略称)を作成したことが認められる。
(ウ) 被控訴人らは、「証言」は宮村幸延が飲酒酩酊させられたうえで書かされたものと主張する。しかし、「証言」の筆跡は比較的しっかりしており、被控訴人らの主張は採用できない。
 他方、控訴人梅澤の陳述書には、幸延氏を1人で訪れ、訪問の理由をお話しすると、「幸延氏は突然私に謝罪したうえで、集団自決者の遺族や孤児に援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかったと語って下さいました」「私は、隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いします」「幸延氏は、私の目の前で、一言々々慎重に『証言』をお書きになりました」、その後、杯を酌み交わし、義兄弟を約したと記載されている。しかし、そのような作成状況であれば、文書が存すること自体 不自然あり得ないことで、措信し難い。
 控訴人梅澤が沖縄タイムスの新川明に昭和63年12月22日に語った内容とも異なり、措信し難い。すなわち、控訴人梅澤は、新川明に対しては、「彼(宮村幸延)が私に謝りながら書いたんですよ。『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』と言うから、『そうか』と、『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』と私は2、3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は『あ、分かった分かった、もういい。あとは私が書く』と言って、全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。『これはしかし梅澤さん、公表せんでほしい』と言った。『公表せんと約束してくれと』と。私はそれについては『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚、知人には見せると。しかし公表ということについては、一遍私も考えてみよう』と。公表しないなんて私は言っておりませんよ」と語っており、この 証言作成後2年足らずの時点で新川明に語った作成状況と控訴人梅澤の陳述書の内容は全く異なっており、控訴人梅澤の陳述書の記載に疑問を抱かせる。

要約8:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮里盛秀助役の弟・宮村幸延の作成した証言(昭和62年3月28日)には「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した」とあります。
(2)控訴人梅澤は、酩酊している宮村幸延に下書きを見せて、証言を書かせたことが認められる。
(3)被控訴人は、飲酒酩酊上の「証言」と主張するが、筆跡はしっかりしており、被控訴人の主張は採用できない。
(4)梅澤の陳述書には、「幸延氏は、一言々々慎重に『証言』を」書いたとあるが、下書き文書の存在と矛盾する。
(5)証言作成とその2年後の沖縄タイムスとの証言は全く異なっており、梅澤の陳述書の記載に疑問を抱かせる。
(エ) 宮村幸延のところに残されていた文書は、控訴人梅澤の自筆と認められるところ(控訴人梅澤も本人尋問で認めている)、その内容は、押印すればいいだけの完成された文書である。控訴人梅澤の陳述書やこれに副った本人尋問の結果は到底採用できない。
(オ) それではなぜ宮村幸延は「証言」の作成に応じたのか、また、作成経緯はともかく「証言」の肉容自体は事実に合っているのかが次に問題となる。
 その当時の事情として、宮村幸延は、既に初枝から、昭和20年3月25日の本部壕で控訴人梅澤は兵事主任であった助役らが自決用の弾薬の提供を求めたのに断ったという話を聞いており、控訴人梅澤が直接自決命令を出してはいないと理解していたこと、初枝と同様に控訴人梅澤がマスコミの標的となり家庭崩壊等極めて苦しい立場におかれていると聞いて深く同情していたであろうことなどが推認できる。
 そうだとすると、「証言」は、控訴人梅澤が家族に見せて納得させるだけのものであることを前提に、アルコールの影響も考えられる状況のもとに、控訴人梅澤の求めに応じて交付されたものにすぎないと考えるのが相当である。そして、「証言」の内容は、初枝の話を前提としたものにすぎず、梅澤命令それ自体が遺族補償のために捏造されたものであることを証するようなものとは評価できないというべきである。
 現に、控訴人梅澤も沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり、宮村幸延は、座間味島で集団自決が発生した際には、座間味島にいなかったのであって、梅澤命令が実際にはなかったなどと語れる立場になかったことは明らかである。
 沖縄タイムスが、昭和63年11月3日、座間味村に対し、集団自決についての認識を問うたところ、座間味村長宮里正太郎は、「宮村幸延氏は、当時はひどく酩酊の時で梅澤氏が原稿を書いて来ていろいろ説得され又、強要されたので仕方なく自筆で捺印した様である。しかし、これは決して公表しないこと堅く約束したので書いたもの」「遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」いとも記載している。
 また、同文書に添えられた田中村長の県援護課等への回答には、宮村幸延の証言として「その日は投宿中の旧日本兵二人と朝六時頃から酒を飲んでいた、午前10時頃に問題の梅沢氏が入り込んできて”家族だけに見せるもので絶対に公表しない事を堅く約束するとの事で仕方なく応じ、これはなんの証拠にもならないことを申し添えたと本人は証言」とされている。
 さらに、参考資料として、「村長田中登は、助役の命令では住民は動かなかったと思う、軍命だと聴いて自決に動いたと皆が話している」と当時の実惰を記載している。宮村幸延は、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。

要約9:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮村幸延のところに残されていた文書は、控訴人梅澤の自筆と認められ、梅澤の陳述書は到底採用できない。
(2)宮村幸延は、初枝からの話で、梅澤が自決命令を出してはいないこと、梅澤の家庭崩壊等に深く同情していた。
(3)梅澤の求めに応じてもので、「証言」の内容は、遺族補償のために捏造されたものとは評価できない。
(4)宮村幸延は、集団自決発生時、座間味島にいないので、梅澤命令がなかったなどと語れる立場になかった。
(5)座間味村長宮里正太郎「遺族補償請求申請は一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い。
(6)村長田中登「家族だけに見せるもので公表しない事を堅く約束・・仕方なく応じ、なんの証拠にもならない」
(7)村長田中登「助役の命令では住民は動かなかった。軍命だと聴いて自決に動いた」
(8)宮村幸延は、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。
10 (カ) 控訴人梅澤の陳述書も措信し難い。
カ (ア) 略
(イ) 「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、自決命令の具体的な内容自体はそれまでに既に存在し、他の者も供述していたのであり、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、初枝自身の見聞きした本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。
 この点、宮城証人は、その陳述書に「隊長命令については、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたと書きましたが、それ以上に自分からは説明しなかったとのことです」と、「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している。
(ウ) そして、これまでに判示してきた援護法の適用についての事実からすれば、「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとまでは認めることはできない。
キ 他方、控訴人梅澤に対して、村当局から、援護法適用のため自決命令を出したことにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、控訴人梅澤もその様な依頼を受けたことを述べていない。先に見た分類Nの自決命令などという重大な事柄が、行政庁内で軽々しく捏造されたなどとは考えにくい。照屋昇雄の赤松大尉への命令捏造依頼説は、成功したとはいえない。
ク 以上を総合すると、住民が集団自決について援護法が適用されるよう強く求め、自決命令の有無がそれに関係していたことは認められるものの、そのために梅澤命令説及び赤松命令説が捏造されたとまで認めることはできない。

要約10:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮城初枝の娘・宮城晴美の『母の遺したもの』を検討すると、自決命令の内容は既に存在し、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。
(2)宮城晴美の陳述書に「『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたが、それ以上に自分(宮城初枝)からは説明しなかった」とある。
(3)分類Nの自決命令いう重大な事柄が、行政庁内で捏造されたとは考えにくい。照屋昇雄の赤松大尉への命令捏造依頼説は、成功したとはいえない。
(4)自決命令の有無が援護法の適用に関係しているものの、命令説が捏造されたとまで認めることはできない。
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(4) 集団自決に関する文献等の評価について
 (2)で指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の諸文献、証言等が存するところ、控訴、被控訴人らにおいては、その信用性等を争う諸文献等が存するので、真実性及び真実相当性の判断に先立ち、次に、そうした諸文献等の信用性等について判断する。
ア 鉄の暴風について
(ア) 「鉄の暴風」は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものである。
 牧港篤三が記載した「五十年後のあとがき」によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる。
 同じく「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、「鉄の暴風」が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。
(イ) 控訴人らは、「鉄の暴風」の初版には、「隊長梅澤のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」との記述があり、「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し、確かににそのような記述があることが認められる。
 しかしながら、戦後の混乱の中、体験者らの供述をもとに執筆されたという性質上、住民ではない控訴人梅澤のその後などについては不正確になったとしてもやむを得ない面があり、そのことから、直ちに「鉄の暴風」全般の信用性を否定することは相当でないものと思われる。

要約1:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)控訴、被控訴人らは、その信用性等を争う諸文献等が存するので、信用性等について判断する。
(2)「鉄の暴風」(昭和25年)は、集団自決の記憶に基づく取材であり、沖縄戦の全容の概略を伝えたとある。
(3)控訴人らは、「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張するが、そのことから、直ちに「鉄の暴風」全般の信用性を否定することは相当でないものと思われる。
(ウ) 控訴人らは、「鉄の暴風」について、米軍の渡嘉敷島への上陸を昭和20年3月26日午前6時ころとするが、「沖縄方面陸軍作戦」によれば正しくは同月27日午前9時8分から43分であって、米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載されていると旨批判するところ、この点でも、正確性を欠く部分があるといわなければならない。
 もっとも、こうした誤記の存在が「鉄の暴風」それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。
 すなわち、少なくともその内容は編集者が創造し、脚色するようなものとは考えられず、そのような話が仮に伝聞であったにしても当時住民からなされたこと自体は明らかであると考えられ、その資料的価値は否定し難い。
(エ) もっとも、曽野綾子が著した「ある神話の背景」では、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判がなされている。
 この点、「鉄の暴風」の執筆者の1人である太田良博は、沖縄タイムスに複数回連載した「沖縄戦に神話はない−「ある神話の背景」反論」の中で、山城安次郎と宮平栄治からは渡嘉敷島の集団自決について取材したのではなく、沖縄タイムスが集団自決について調査する契機となった情報提供者にすぎないと反論し、集団自決の証言者として取材した対象は古波蔵村長など直接体験者であったとしている。「ある神話の背景」には、宮平栄治が太田良博から取材を受けた記憶はない旨述べたことが記述されているが、これは、前記の太田良博の反論と整合する側面を有している。
 そして、先に指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判は、採用できない 。
(オ) 以上のとおりであるから、「鉄の暴風」には、初版における控訴人梅澤の不審死の記載、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定できないものと認めるのが相当である。

要約2:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、「鉄の暴風」は、米軍の上陸を3月26日午前6時とするが、正しくは27日午前9時8分から43分であと批判するが、その内容は脚色とは考えられず、資料的価値は否定し得ないものと思われる。
(2)曽野綾子の「ある神話の背景」は、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づくものである旨の批判している。「鉄の暴風」の執筆者・太田良博は、「宮平栄治は情報提供者」と反論し、宮平栄治は「太田良博から取材を受けた記憶はない」旨述べている。曽野綾子の批判は、採用できない 。
(3)以上ことから、「鉄の暴風」は、戦記として、資料価値を否定できないものと認めるのが相当である。
(カ) 控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し、控訴人梅澤の陳述書にも、昭和63年11月1日に新川明と面接した際のことについて、「私の方から提出した宮村幸延氏の『証言』を前に、明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には、応対した同社の新川明氏が、謝罪の内容をどのように書いたら良いですかと済まなそうに尋ねて来たため、私が積年の苦しい思いを振り返りながら、また、自分自身の気持ちを確かめながら、自分の望む謝罪文を口述し、それ新川明氏が書き取ったのです」、「その後、昭和63年12月22日、私の上記要求に対する回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社において新川氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様、岩崎氏に立ち会って貰いました。そうしたところ、沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている』と主張して私の言い分を頑として受け入れませんでした」と記載している。
 先に認定したとおり、沖縄タイムスは、控訴人梅澤と面談した直後である昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ、座間味村長宮里正太郎は、同月18日付けの回答書で回答しているのであり、こうした回答を待つことなく、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書を示されただけで、困惑して謝罪したというのは、不自然の感を否定できない。仮に、控訴人梅澤が陳述書で記載するとおり、昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば、同年12月22日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判するのが合理的であろうが、会談の記録を録音し、それを反訳した記録には、そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて、証拠によれば、控訴人梅澤は、「日本軍がやらんでもええ戦をして、領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは、これは歴史の汚点ですわ」「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが 、村長さん、宮村幸延さん、立派なひとですよ。それから初枝さん、私を救出してくれたわけですよ。結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない以上です」と述べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが、それは、控訴人梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば、控訴人梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。
 この点についての控訴人らの主張を踏まえても、「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定することはできない。

要約3:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、神戸新聞で、沖縄タイムスの牧志伸宏が自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張している。
(2)梅澤の陳述書には、「昭和63年11月1日、沖縄タイムスのの新川明が謝罪の内容をどのように書いたら良いですか尋ねて来た。昭和63年12月22日、態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている』と主張して私の言い分を受け入れませんでした」とある。
(3)沖縄タイムスは、昭和63年11月3日、座間味村における集団自決について問うたところ、11月18日、座間味村長宮里正太郎は、「一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではない」と回答している。
(4)控訴人梅澤の陳述書のとおり、昭和63年11月1日に新川明が謝罪したというのであれば、同年12月22日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判するのが合理的であろうが、そうした状況の録音がない。
(5)控訴人梅澤は、「もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない以上です」と述べているが、梅澤がいうようなやりとりが昭和63年11月1日にあったとすれば、梅澤の名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。

イ 母の遺したものについて
(ア) 「母の遺したもの」には、「血ぬられた座間味島」(初枝の手記)が収録されているところ、そこには、「助役は隊長に、『もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』と申し出ました」「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、私たちの申し出を断ったのです。
 私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました」「ところが途中、助役は宮平惠達さんに、『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」「後は聞き取れませんが、伝令を命じたのです」との記述がある。
 また、控訴人梅澤に送ったノートの写しには「沈痛な面持ちで」と「今晩は一応・・」との間の右行外に「承諾なされず」と初枝の字で書き加えられている。やり取りをしていたノートの内容について、控訴人梅澤が初枝に対して自分の記憶と違うなどと手紙で伝えたような形跡が全くない。

要約4:大阪高裁の裁判官は、母の遺したものについて次のように指摘しています。
(1)「血ぬられた座間味島」(初枝の手記)には「助役は『老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』と申し出ました」とある。
(2)「血ぬられた座間味島」(初枝の手記)には「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、私たちの申し出を断ったのです」とある。
(3)「血ぬられた座間味島」(初枝の手記)には「ところが途中、助役は宮平惠達さんに、『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」「後は聞き取れませんが、伝令を命じたのです」とある。
(4)控訴人梅澤に送ったノートの写しには「沈痛な面持ちで」と「今晩は一応・・」との間の右行外に「承諾なされず」と初枝の字で書き加えられている。
(5)やり取りのノートには、梅澤が初枝に対して自分の記憶と違うなどと手紙で伝えたような形跡が全くない。
(イ) 控訴人梅澤は、その陳述書において、「助役の盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平惠達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です『一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい』その言葉を聞き、私は愕然としました」「私は『決して自決するでない。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役の盛秀さんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です」と記載している。
 宮城証人は、この点について、「武器提供は断ったとは言っていましたけれども、そういう最後まで生き残ってというふうなことは、もし梅澤さんがおっしゃっていれば母はちゃんとノートに書いたと思います」と証言している。確かに、控訴人梅澤が決して自決するでないなどと述べたのであれば、それは、それまで住民に求められてきた覚悟とは正反対の指示であり、初枝がそれを曲げて記憶し、記録するなどとは考えられない。控訴人梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分については、信用し難い。

要約5:大阪高裁の裁判官は、母の遺したものについて次のように指摘しています。
(1)梅澤の陳述書には「私は『決して自決するでない』『弾薬、爆薬は渡せない』と。次々と悲惨な最後を遂げた由です」とある。
(2)宮城初枝の娘・宮城晴美の証言には「最後まで生き残ってというふうなことは、もし梅澤さんがおっしゃっていれば母はちゃんとノートに書いたと思います」とある。
(3)控訴人梅澤の供述等は、初枝の記憶を越える部分については、信用し難い。
(イ―2) 控訴人梅澤の同主張や供述等が到底採用できないことは、以下のような事実からも明らかである。
 「母の遺したもの」には、昭和55年12月16日の那覇のホテルでの控訴人梅澤と初枝との面談の様子を次のように記述している。「以下は、母から聞いた話である」「母が梅澤氏に、『どうしても話したいことがあります』と言うと、驚いたように『どういうことですか』と、返してきた。母は、『夜、5人で隊長の元へ伺いましたが、私はその中の1人です』というと、そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度、『住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にはそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません』と言うと、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず『ありがとう』『ありがとう』と涙声で言いつづけ、やがて嗚咽した」
 軍官民共生共死の覚悟のもとで戦える者は軍とともに戦うという態勢にあったのであるから、控訴人梅澤も「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」とだけ言ってひとまず住民を帰したものの、軍の従来の大方針を変更したというようなことではなく、控訴人梅澤にとって非常時の混乱の中で格別記憶に残るような出来事ではなかった。
 昭和55年の初枝との再会後戦跡を案内されているときにも、部下の戦死には涙しても住民の自決にはあまリ関心を示さなかったということからも裏付けられる。控訴人梅澤からは、昭和55年以前に控訴人梅澤が本部壕の出来事について記憶していたことを裏付ける記録・日記・戦友会誌の記事・戦友たちとの会話の類の提出は一切ない。
(イ―3) 控訴人梅澤は、本部壕で「自決するでない」などとは命じておらず、要請には応じなかったものの、玉砕方針自体を否定することもなく、ただ、「今晩は一応お婦り下さい」として帰しただけであったと認めるほかはない。
 部隊長から、決して自決するではないなどとそれまでの玉砕方針とは正反対の指示がなされたのであれば、その命令に反して、そのまま集団自決が実行されたというのは不自然であり、村の幹部らが従来の方針に従い日本軍の意を体して信念に従って集団自決を実行したものと考えるほうがはるかに自然である。
(ウ) 略
(エ) 「母の遺したもの」の記述から、・・梅澤命令説を否定できるものではないというべきである。
 「母の遺したもの」には、初枝が木崎軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい・・」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており、軍が自決を方針としていたことを裏付けるものとして、梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。
 控訴人らは、これを「軍の善き関与」であるなどとも主張するが、採用できない。

要約6:大阪高裁の裁判官は、母の遺したものについて次のように指摘しています。
(1)『母の遺したもの』には、「昭和55年12月16日、那覇のホテルで、控訴人梅澤と初枝との面談し、母が『隊長の元へ伺った1人です』いっても、すぐには理解できない様子」で、「母が『(玉砕)命令したのは梅澤さんではありません』と言うと、『ありがとう』『ありがとう』と涙声で言いつづけ、やがて嗚咽した」とある。
(2)軍官民共生共死の下では、梅澤が「今晩は一応お帰り下さい」と言って帰したものの、軍の従来の大方針を変更したわけでもなく、控訴人梅澤にとって非常時の混乱の中で格別記憶に残るような出来事ではなかった。
(3)控訴人梅澤からは、昭和55年以前に本部壕の出来事について記憶していたことを証明する提出は一切ない。
(4)部隊長から、玉砕方針と正反対の指示があれば、命令に反し、集団自決が実行されたというのは不自然である。
(5)初枝が木崎軍曹から手榴弾一個が渡されたことは、梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。

ウ ある神話の背景及びその指摘に係る文献について
(ア)a 「ある神話の背景」は、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」の3つの資料は米軍の上陸日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず同月26日と誤って記載していると指摘し、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述、「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものであるとの記述がある。
 控訴人らは、この記載を踏まえて、「戦闘概要」という私的文書で記載されていた「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文が公的な文献である「戦争の様相」においては削除されていると主張する。
b 「鉄の暴風」がそうした誤記をしていること、それをどう評価すべきかについては、先に判示したとおりであり、「鉄の暴風」が直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものであると認め難いのも、先に判示したとおりである。

要約7:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)曽野綾子氏の『ある神話の背景』には、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」の3つの資料は米軍上陸日を間違って記載している。直接の体験者ではない取材記事が「鉄の暴風」で、「鉄の暴風」を基にしたのが「戦闘概要」で、「鉄の暴風」「戦闘概要」を「戦争の様相」であるとの記述がある。
(2)「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令がないのは、自決命令がないことが確認できたからとの記述がある。
c 「戦闘概要」は、昭和28年3月28日、太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力のもと、渡嘉敷村遺族会が編集したもので、「戦争の様相」は「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」に収められた文書で、援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。
 そこで、「戦闘概要」と「戦争の様相」を比較すると、両者においては、単に記述されている事柄が共通しているだけでなく、その表現が全く同じであるか酷似している点が多数見られるなど、昭和20年3月27日から集団自決に至るまでの経緯の記述が酷似していることが認められるから、両者は、いずれか一方が他方を参考にして作成されたものであることが窺われる。
 伊敷清太郎によれば、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語、表現等)を直したと思われる箇所が見受けられることなどから、「戦争の様相」を補充したものが「戦闘概要」であると考えられると分析されている。
 この伊敷清太郎の分析は 、「ある神話の背景」の論拠にも疑問を呈しており、その考察はよリ説得的であると評価できる。したがって、「ある神話の背景」の「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序についての記述は採用できず、これに基づく控訴人らの主張も採用できない。

要約8:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)「戦闘概要」と「戦争の様相」を比較すると、いずれか一方が他方を参考にして作成されたものである。
(2)伊敷清太郎によれば、「戦争の様相」を補充したものが「戦闘概要」であると分析する。
(3)伊敷の分析により、「ある神話の背景」の「戦闘概要」と「戦争の様相」についての記述は採用できない。
感想1曽野綾子氏の『ある神話の背景』の主張を大阪高裁の裁判官は却下しています。最高裁でどうなるか分かりませんが、有名だからと言って、その人の主張を私たちは簡単に信じてしまいます。その人がどういう立場の人なのかを吟味して、その発言を聞く必要があるという教訓を得ました。
(イ)  嶋津与志(本名大城将保)は、「青い海『慶良間諸島の惨劇−集団自決事件の意味するもの』」(昭和53年)において「従来の記録が、事実関係のうえで多くの誤りを含んでいることは曽野綾子氏の『ある神話の背景』で指摘されたところである」と、「沖縄戦を考える」(昭和58年)において「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の"神話"に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした」「今のところ曽野・・説をくつがえすだけの反証は出ていない」と、それぞれ評価している。
(ウ) 略
(エ) 略
(オ) 大城将保は「ある神話の背景」を評価している。しかしながら、大城将保は、全体として集団自決に対する軍の関与自体は肯定する見解を主張している。
(カ) 以上によれば、「ある神話の背景」は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、赤松命令説を確かに認める証拠がないとしている点で赤松命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、赤松命令があり得ないことを論証するものとまではいえない。

要約9:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)大城将保は、曽野綾子氏の『ある神話の背景』を「曽野説を覆すだけの反証は出ていない」と評価している。
(2)大城将保は、全体として集団自決に対する軍の関与自体は肯定する見解を主張している。
(3)「ある神話の背景」は、命令説を否定する根拠となるが、命令がないことを論証するものとまではいえない。
10 エ 慶良間列島作戦報告書について
 米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵第77師団砲兵隊が慶良間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に保存されていた資料であって、その資料価値は高いものと思われる。
 林教授は、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」とその一部を訳している。
 控訴人は、「尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた」と訳すべきである旨主張する。
 しかし、仮に控訴人らの主張するように訳したとしても、日本軍の兵士達が慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するように促していたことに変わりなく、その訳の差異が本訴請求の当否を左右するものとは理解されない。

オ 沖縄史料編集所紀要等について
(ア) 大城将保が昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」に「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、梅澤命令説が従来の通説であったが、昭和60年7月30日付けの神戸新聞の報道を契機として、控訴人梅澤や初枝に事実関係を確認するなどして史実を検証したと述べ、控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」を紀要に掲載し、また、紀要には、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」との記述がある。
(イ) 初枝の記憶するところは「母の遺したもの」の記述やノートの記載のとおりで、これを超えて、控訴人梅澤が「決して自決するでない」とかと言ったなどということを、初枝が大城将保に言明した証拠はない。なお、神戸新聞の初枝のコメント中の控訴人梅澤の言葉も、初枝が述べるはずもない内容であり、これに関する記者の釈明は採用できない。
(ウ) 結局、「沖縄史料編集所紀要」は、文献的価値としては、控訴人梅澤の手記を掲載したこと、それには初枝の従前の話と一致する限度で裏付けがあるとされたことに意義を見出し得るにすぎないと認められる。
(エ) ところで、これに関違して、昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、大城将保の談話として「宮城初枝さんらからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」「梅沢命令説については訂正することになるだろう」との記載がある。
 これについては、大城将保自身が、「私は神戸新聞の記者から電話一本もらったことはない。おそらく梅沢氏の言い分と私の解説文の一部をまぜあわせて創作したのであろうが、誰がみても事実と矛盾する内容で、明白なねつ造記事である」などとしている が、取材の経緯はともかく、本部壕で控訴人梅澤が直接命令したことは無かったという限りでの大城将保の認識を示すものでしかない。

要約10:大阪高裁の裁判官は、集団自決に関する文献等の評価について次のように指摘しています。
(1)米軍の「慶良間列島作戦報告書」について、控訴人の主張ように訳しても、日本軍が慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するように促していたことに変わりない。
(2)大城将保は、神戸新聞(昭和60年7月30日)の報道を契機として、「『集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居る」との記述がある。
(3)初枝が大城将保に、控訴人梅澤が「決して自決するでない」と言明した証拠はない。
(4)神戸新聞の梅澤の言葉も、初枝が述べるはずもない内容であり、これに関する記者の釈明は採用できない。
(5)神戸新聞(昭和61年6月6日)に大城将保の談話として「『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」との記載があるが、大城将保自身が「明白なねつ造記事である」などとしている。
11 カ 徳平秀雄らの体験談
(ア) 「沖縄県史 10巻」に記載された徳平秀雄の集団自決に関する体験談中、事実を述べる部分で主なものとしては、徳平秀雄も参加の上、村長・校長・防衛隊員ら渡嘉敷村の有力者が何らかの協議をしたこと、防衛隊員が住民に手榴弾を配布したこと、住民が手榴弾を用いるなどして自決したことなどであり、これらの事実は、赤松命令説を覆すものではない。
 そのほか、徳平秀雄の体験談の記載は、村の有力者の協議内容や村長の発言が明らかでないなど、あいまいな部分があり、また、「防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません」「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう状態に持っていったとは考えられませんでした」などの部分は、徳平秀雄の推測を述べたものである 。
(イ) 「沖縄県史 10巻」に記載された大城良平の体験談も、赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている。

要約11:大阪高裁の裁判官は、徳平秀雄らの体験談について次のように指摘しています。
(1)徳平秀雄の集団自決に関する体験談は、赤松命令説を覆すものではない。
(2)徳平秀雄の集団自決に関する体験談は、徳平秀雄の推測を述べたものである。
(3)大城良平の体験談も、具体性はなく、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている。
12 キ 「秘録 沖縄戦記」
 「秘録 沖縄戦記」は、平成18年に復刻版が出版されており、復刻版では、赤松大尉が自決命令を出したとする記述が削除されている。山川泰邦の長男・山川一郎の復刻版はしがきには、「集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい」との記載がなされている。
 「秘録 沖縄戦史」及び「秘録 沖縄戦記」の作者山川泰邦が赤松命令説についての見解を改めていたというものではなく、赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、遺族・山川一郎が慎重な態度をとったものと認められ・・る。

要約12:大阪高裁の裁判官は、「秘録 沖縄戦記」について次のように指摘しています。
(1)「秘録 沖縄戦記」(平成18年復刻版)では、赤松大尉が自決命令を出したとする記述が削除されている。
(2)赤松命令説に反対する見解の存在を考慮して、遺族・山川一郎が慎重な態度をとったものである。
13 ク その余の文献の評価
(ア) 櫻井よしこは、週刊新潮のコラムにおいて、座間味島の集団自決について概ね控訴人梅澤の供述に沿う事実経過を記載しているが、その記載内容から控訴人梅澤に対する取材や神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、控訴人梅澤に対する取材を除き、櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから、控訴人梅澤の供述等が措信し難い以上、その資料的価値は乏しいというほかない。
(イ) 陣中日誌の「編集のことば」によれば、昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中隊陣中日誌をもとに、発行したものである。赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが昭和45年3月である。「陣中日誌」は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、書証として提出されておらず、転載の正確性を確認できない。
(ウ) 戦史研究家である大江志乃夫が執筆した「花綵の海辺から」には、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう」との記載がある。
 その「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は、大城良平の証言をあげる以外明確にされていない。大城良平から聞かされたという遺族年金の支給という実益問題にも疑問がある。大江志乃夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は、本訴において資料価値は低いものというほかはない。
(エ) 上原正稔が平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダウン」には、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。
 しかしながら、赤松大尉は、米軍の庇護から戻った2少年、伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく、各処刑したことに関与し、住民に対する加害行為を行っているのであって、こうした人物を立派な人だった、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。そして、赤松大尉は、昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの、反対派の行動もあって、沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって、このことに照らしても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって、その記載は一面的であるというほかない。

要約13:大阪高裁の裁判官は、その余の文献の評価について次のように指摘しています。
(1)櫻井よしこ週刊新潮のコラムついて、控訴人梅澤の供述に沿う事実経過を記載しているが、梅澤の取材と神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから、控訴人梅澤の供述等が措信し難い以上、その資料的価値は乏しいというほかない。
(2)「陣中日誌」は、赤松大尉への抗議行動後に発行、書証として提出されず、転載の正確性を確認できない。
(3)大江志乃夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという判断は、資料価値は低い。
(4)上原正稔の「沖縄戦ショウダウン」には、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないという記載がある。
(5)赤松大尉は、米軍の庇護から戻った2少年、伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく処刑したことに関与している。沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったことに照らしても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって、その記載は一面的であるというほかない。
感想2:報道は、事実に基づく(事実を曲げない)ということが大前提です。そのためには、取材が不可欠です。だから、報道を受ける我々との間に信頼関係が成り立つのです。推測や伝聞は、大前提を破っているので、信頼関係を失うのです。
 報道に携わる人をジャーナリストといいます。櫻井よしこ氏の肩書を見ると、ジャーナリストとあります。
 しかし、集団自決に関しては、裁判官から「控訴人の供述に沿うコラムを書いている。しかもその記事は控訴人と控訴人の立場に立つ記事を基にしていて、現地の取材を欠いている。だから記事には資料的価値(事実)は乏しい」と断罪されています。
 「櫻井よしこ氏をもてはやす保守陣営(新聞・雑誌・週刊誌など)よ、もっとしっかりせよ」といいたい。健全なジャーリリズムが育つためには、保守派と進歩派の自由で、事実に基づいた厳しい論争が必要です。

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