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エピソード

304_11

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(9)
HTML版:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判━高裁判決全文(3/3)←クりック
大江・岩波沖縄戦━裁判年表(左右でなく、東西の視点で編集)←クりック
 紙データをペーパーレス・データ(デジタル)化し始めたのが1986(昭和61)年です。
 高裁判決の全文を入手したのがPDF版を印刷した紙データでした。A4サイズで191枚もありました。これでは丹念に検証できません。
 そこで、紙データをOCR(文字認識処理ソフト)で、デジタルデータに変換し、PDF版を参照しながら、校正に努めました。改行も、校正しやすいように、PDF版と同じようにしました。
 毎日毎日、約8時間、パソコンと取り組んで、約2か月かかりました。OCR(文字認識処理ソフト)によるコンバートが終わってほっとしたのか、健康が自慢の私ですが、過労がたたって、年末・年始には風邪を引いてしまいました。
 今回は、226〜239ページを検証しました。クりックしてご利用ください。
 なぜ、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判にこだわるかといえば、この裁判に大きな意味を感じているからです。
(1)戦前、公正・中立であるべきマスコミが情報を操作して、戦争への道に進んでいった。今はどうか。
(2)戦前、情報を操作するために、自分の都合のいい資料は採用するが、都合の悪い資料を排除するという歴史修正主義的な手法が採用された。今はどうか。
(3)過去を調べ、現状を知り、今後どう対応するかが、歴史に携わる者の使命である。
 前回に指摘した私の確認事項を検証する前に、高裁の判断を見てみたいと思います。
 原告側は、高裁の判断を不満として最高裁に上告しています。その結果も、いずれ、報告します。
 素人の私は、遂条的に点検する方法を採用しています。

HTML版:知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について全文(226-233P)←クりック
(5) 知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について
ア 知念証人の証言について
(ア) 赤松大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよう指示したことを、その手記に記載している。
 一方、知念証人は、陳述書に「私は、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり・・・」「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした」と記載している。この食い違いは、西山陣地への集結の持つ意味の重さに照らしても、知念証人の証言の信用性に疑問が生じさせるもので、知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難であるということになる。
(イ) 知念証人は、「軍として手榴弾を防衛隊員の人に配っていたと、そういうことは御存じですか」という質問に対し、「知りません」と答え、さらに「それは全く知らないということですか」という質問に対しては「はい。ぶら下げているのは見たのは見たんですが、配ったことについては全然わかりません」と答えた。
 第三戦隊が住民に対して自決用等として手榴弾を配布したことは、各諸文献及びそれらに記載された住民の体験談から明らかに認められるものであり、補給路の断たれた第三戦隊にとって貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない。

要約1:大阪高裁の裁判官は、知念証人の証言について次のように指摘しています。
(1)赤松嘉次大尉の手記には「住民に対して西山陣地へ集結するよう指示した」と記載している。
(2)知念朝睦証人の陳述書「私は、副官として常に赤松隊長の傍に」いたが「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした」という食い違いは、知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせる。
(3)手榴弾を配布したことは、文献や体験談から明らかに認められる。しかし、貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官・知念証人が知らないというのは、極めて不合理である。
(ウ) 知念証人は、原告ら代理人に対しては「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」の記載内容は事前に確認して間違いがないと証言していたにもかかわらず、「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」に「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました」との記載があり、米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、被控訴人ら代理人に問われると、「正直言ってそれはわかりません」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっとわかりません」と答えた。
 また、伊江島の女性等を処刑したことについても、「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」に「伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕らえられて処刑されました」などと記載があるにもかかわらず、「それは私、正直言って存じませんね、この処刑という。処刑ということについては私は存じません」と証言した後、控訴人ら代理人の問いに対しては、「伊江島のこの処刑については、私は全然如らないんです」「(知らないとはと聞かれて)それで、3名やっぱり処刑されて、それでも生き返りというとおかしいんですが、埋めたところから逃げていなくなったと。それをうちの将校が、知念おまえが逃がしたんだろうと、だから探してこいという命令を受けました。私はそのときはむかっとしたんですが、上官ですから。5人ぐらい兵隊を連れて捜しに行きましたら、もう伊江島の人は、本当にもう、何といいますか、呼吸も困難な状態にあったんです。それで話を聞いたら、もう軍刀よりはピストルでやってくれと、ピストルでもう殺してくれという話がありましたので、私がピストルで撃ちました」などと証言し、控訴人ら代理人の質問に は迎合的で、被控訴人ら代理人の質間には拒否的で、一貫性のない証言をしている。
(エ) 以上指摘した点を考えると、知念証人の証言は措信しがたく、知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。

要約2:大阪高裁の裁判官は、知念証人の証言について次のように指摘しています。
(1)知念朝睦証人は、原告(赤松嘉次大尉ら)の代理人には、少年2名の処刑について、「副官の証言」の記載内容は事前に確認して間違いがないと証言している。
(2)知念朝睦証人は、被控訴人(大江健三郎氏ら)の代理人には、少年2名の処刑について、「今初めて聞くんです」と答えた。
(3)知念朝睦証人は、控訴人(赤松嘉次大尉ら)の代理人には、「副官の証言」に「伊江島の女性を私が処刑しました」という記載があるにもかかわらず、「全然如らないんです」と証言しています。
(4)控訴人ら代理人の質問には迎合的で、被控訴人ら代理人の質間には拒否的で、一貫性のない証言をしている。知念証人の証言は措信しがたく、赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。
解説1:この裁判によく出てくる言葉に「措信」(そしん)というのがあります。「信を措く」の「措く」(おく)とは、「手+音符昔」で、手の上に重ねておく、つまり信用がおけるという意味です。
 「措信し難い」とはその反対で、「信用がおけない」という意味です。「知念証人の証言は、信用がおけない」と言うこと、つまり、裁判所から信用がおけないと断定されたということです。
イ 皆本証人の証言について
(ア) 皆本証人は、赤松大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した昭和20年3月27日には、主力部隊と合流していないとのことであるから、同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。皆本証人の証言等によれば、同月28日、第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり、赤松大尉の側に常にいたわけでないことが認められ。
(イ) 皆本証人は、手榴弾に関し、陳述書に「手榴弾は軍が管理していましたが、一部を『防衛隊』の隊員に配布していました」「『防衛隊』とは、防衛召集により部隊に編入された成人男子のことで、沖縄では昭和19年7月に編成されました。普段は家族と一緒に暮らしているのですが、いざという時には敵と戦わなければならず、軍人としての扱いを受けていました。そのために、軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。あくまで戦闘に備えて交付していたのです」「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは、以上の理由によるもので、普段から防衛隊員が手榴弾を保持していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません」と記載している。
 ところが、被控訴人ら代理人の手榴弾の交付時期に関する質問に対しては、「私は当事者ではありませんから、何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません」と答えている。そうすると、皆本証人の証言は、手榴弾を交付した目的等を明示する陳述書の内容と齟齬し、手榴弾に関する皆本証人の陳述書の記載及びその証書には疑問を禁じ得ない。
(ウ) 以上、皆本証人は、昭和20年3月27日及び同月28日の赤松大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく、また、その陳述書に記載された手榴弾に関する記述は、皆本証人自身の証言と齟齬し、信用できない。

要約3:大阪高裁の裁判官は、皆本義博証人の証言について次のように指摘しています。
(1)皆本義博証人は、「3月27日も3月28日も、赤松大尉の言動を把握できる立場になかった」。
(2)皆本証人は「防衛隊員は軍人としての扱いを受け、軍は(戦闘に備えて)手榴弾を公布していた」と記載する。
(3)皆本証人の陳述書に記載された手榴弾に関する記述は、皆本証人自身の証言と齟齬し、信用できない。
ウ 控訴人梅澤の供述等について
(ア) 控訴人梅澤作成の陳述書の信用性に問題のあることは、既に指摘したとおりである。また、決して自決してはならないと命じたとか、「証言」の作成経緯等に関する、戦斗記録、陳述書や本人尋問の結果が採用できないことも、控訴理由に応じて既に詳述したとおりである。
(イ) 控訴人梅澤は、その本人尋問において、第一戦隊では手榴弾を防衛隊員に配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する一方、木崎軍曹が初枝に手榴弾を交付したことについて、木崎軍曹が初枝の身の上を心配して行ったのではないかと供述する。
 食糧や武器の補給が困難な状況に、手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。皆本証人は、手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している。
 そうした状況で、第一戦隊長である控訴人梅澤の了解なしに木崎軍曹が初枝の身の上を心配して手榴弾を交付したというのは、不自然である。しかも、宮里育江、宮原初子、宮川スミ子も、初枝と同様に自決用に手榴弾を渡されたと体験談や陳述書等に記載しており、貧しい装備の戦隊長である控訴人梅澤が、手榴弾を自決のために住民に相当数交付するという事実を知らなかったというのは、先に記載した事実に照らして考えると、・・・不自然であるというべきである。
(ウ) 以上の次第で、控訴人梅澤作成の陳述書及び控訴人梅澤本人尋問の結果は、これまで指摘した点では採用できないというほかない。

要約4:大阪高裁の裁判官は、控訴人梅澤裕の供述等について次のように指摘しています。
(1)控訴人梅澤裕の「決して自決してはならないと命じた」などは、陳述書や本人尋問の結果から採用できない。
(2)控訴人梅澤は、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する。しかし、木崎軍曹が初枝に手榴弾を交付したことについて、木崎軍曹が初枝の身の上を心配して行ったのではないかと供述する。
(3)極めて貴重な手榴弾について、皆本証人は、「戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかった」と証言している。
(4)宮里育江、宮原初子、宮川スミ子も、初枝と同様に自決用に手榴弾を渡されたとしており、貧しい装備の戦隊長である控訴人梅澤が、手榴弾を自決のために住民に相当数交付するという事実を知らなかったというのは、不自然である。
(5)控訴人梅澤作成の陳述書及び本人尋問の結果は、控訴人梅澤裕の供述等については、採用できない。
エ 赤松大尉の手記等について
(ア) 赤松大尉は、「潮」(昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年)、昭和43年4月8日付けの琉球新報で取材に応じた記録が残っている。
(イ) 赤松大尉は、「潮」の「私は自決を命令していない」と題する手記(以下「赤松手記」)の中で、部落の係員に「『部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した」とする一方、住民が集結していたことすら知らないと記載している。
 他方、「週刊新潮」の取材に対しては、赤松大尉は、「 二十八日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んで来た時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来てた。そして村長が来て”機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい”というんです。もちろん断りました」「八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣声が敵に聞えて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで防衛隊に命じて泣声を静めさせようとしました」と語っている。
 この両者を比べれば、住民が結集していたことを認識していたか否かという事実に関し、大きな違いを示しており、同じ赤松大尉の認識としては、極めて不合理であるというほかない(ちなみに、住民を、軍の陣地近くに集結させたか否かは、自決に関する軍の関与の上では大きな意味を持つ事柄である。なお、防衛隊が赤松大尉の命令によって行動したという点は、陣中日誌にも同旨[戦隊長防召兵を以って之を鎮めしむ] の記載がある。

要約5:大阪高裁の裁判官は、赤松嘉次太尉の手記等について次のように指摘しています。
(1)赤松嘉次太尉は、雑誌『潮』には、「『住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した」とするが、住民が集結していたことすら知らないと記載している。
(2)赤松嘉次太尉は、『週刊新潮』には、「その泣声が800離れた敵に聞えて、集中砲火も浴びる。それで防衛隊に命じて泣声を静めさせようとしました」と語っている。
(3)雑誌『潮』と『週刊新潮』には、大きな違いがあり、同じ赤松大尉の認識としては、極めて不合理である。陣中日誌には[戦隊長防召兵を以って之を鎮めしむ] の記載がある。
(ウ) 米軍の捕虜となっていた2人の少年の処刑に関して、赤松手記では、「二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されていなくとも、いったん米軍の掩虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからな
いから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調べに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと、『ここで自決するか。阿波連に帰るかどちらかにしろ』といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない」と記載している。
 この赤松手記の記載の前段では、二人の少年が「どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできない」と言っているのに、後段になると、ここで自決する選択肢のほか、「阿波連に帰るか」ということも提案しているのであって、その判断は矛盾している。
 一方、「週刊新潮」の取材に対しては、赤松大尉は、「あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼らが歩哨線で捕まった時、私か出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで、『あんたらは米軍の捕虜になったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい』といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです」と答えている。これを赤松手記と比較すると、少年達が投降勧告に来たかどうかの認識に差異があるし、死亡に至る経緯にもニュアンスに差異がある。
 そして、赤松手記等は、「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」にある「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ていました。少年たちは赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました」との記載とも齟齬する。
(エ) 以上、赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできないというべきである。

要約6:大阪高裁の裁判官は、赤松嘉次太尉の手記等について次のように指摘しています。
(1)赤松手記の前段では、2人の少年が「どんな謀略的任務をもらっているかわからない。部落民といっしょにはできない」と言っている。後段では、自決するか、「阿波連に帰るか」ということも提案している。その判断は矛盾する。
(2)『週刊新潮』では、「『米軍の捕虜になったんだ。捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい』といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです」とある。赤松手記と比較すると、差異がある。
(3)赤松手記等は、「副官の証言」の「赤松隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました」との記載とも齟齬する。
(4)赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできない。
HTML版:沖縄戦に関する文部科学省の立場等全文(234-239P)←クりック
(6) 沖縄戦に関する文部科学省の立場等
ア(ア) 家永三郎は、昭和55年度教科書検定において検定済みであった高校日本史用教科書「新日本史」に、沖縄戦に関して、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた」と記述していたが、この記述を、昭和58年度改訂検定の際、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死をとげたが、そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなか
った」と改めるための改訂検定申請をした。
 これに対し、当時の文部大臣は、沖縄戦における沖縄県民の犠性については、沖縄戦の記述の一環として、県民が犠牲になったことの全貌が客観的に理解できるようにするため、もっとも多くの犠牲者を生じさせた集団自決のことを書き加える必要があるとした上で、そのような記述がない家永三郎の前記申請に係る記述は「全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと」という検定基準に抵触するとの検定意見を付した。
 家永三郎は、文部省の修正の求めに応じ、最終的に、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が、砲爆撃にたおれたり、集団自決に追いやられたりするなど、非業の死をとげたが、なかには日本軍の
ために殺された人びとも少なくなかった」との記述に修正した。
要約1:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)家永三郎は、昭和55年度教科書検定教科書で、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた」と記述していた。
(2)家永三郎は、昭和58年度改訂検定の際、「そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった」と改訂検定申請をした。
(3)当時の文部大臣は、「特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと」という検定基準に抵触するとの検定意見を付した。
(4)家永三郎は、最終的に、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が砲爆撃にたおれたり、集団自決に追いやられたりするなど非業の死をとげたが、なかには日本軍のために殺された人びとも少なくなかった」との記述に修正した。
(イ) その後、家永三郎は、国に対し、昭和59年、教科書の記述の修正を強制されたことを理由として、損害賠償を求める訴訟を提起した。この訴訟は最高裁まで争われ、その最高裁判決(平成9年8月29日)は、沖縄戦について、原審(東京高裁平成5年10月20日)の認定した事実として、昭和58年度改訂検定「当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍よりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく、その数については諸説あって必ずしも定説があるとはいえないが、多数の県民が戦闘に巻き込まれて死亡したほか、県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解 であり、また、集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」と指摘し、「右事実に照らすと、本件検定当時の学界においては、地上戦が行われた沖縄では他の日本本土における戦争被害とは異なった態様の住民の被害があったが、その中には交戦に巻き込まれたことによる直接的な被害のほかに、日本軍によつて多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であったということができる。」「本件検定当時の学界の一般的な見解も日本軍による住民殺害と集団自決とは異なる特徴的事象としてとらえていたことは明らかである。」と判示した。

要約2:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)最高裁は、家永訴訟に関して、沖縄戦については、「沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍よりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され、攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく」と判断しています。
(2)最高裁は、家永訴訟に関して、沖縄戦については、「県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解であり」と判断しています。
(3)最高裁は、家永訴訟に関して、沖縄戦については、「集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」と指摘しています。
(4)最高裁は、家永訴訟に関して、沖縄戦については、「地上戦が行われた沖縄では他の日本本土における戦争被害とは異なった態様の住民の被害があったが、その中には交戦に巻き込まれたことによる直接的な被害のほかに、日本軍によつて多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であったということができる」と指摘しています。
解説2:1997(平成9)年、最高裁は、沖縄の集団自決に関して、次のような判断をしています。黄色文字が変遷のあった部分です。
(1)日本軍の命令により、あるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がない。
(2)県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられた沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解である。
(3)戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった。
(4)日本軍によつて多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であった。
参考資料(家永裁判)←クリック
イ(ア) 文部科学省は、平成19年3月30日、平成18年度教科書検定において、7冊の申請教科書に対し、沖縄戦の集団自決に関する記述について、日本軍による自決命令や強要が通説となっているが、近年の状況を踏まえると命令があったか明らかではない旨の検定意見を付した。その結果、例えば、「山川出版社日本史A」の「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」との記載が「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、その中には日本軍によって壕を追い出されたり、自決した住民もいた」と改められた。
 なお、壕からの住民追出し、住民に対する手榴弾の配布、スパイ容疑での住民殺害などに対する軍の関与については、検定意見は付されなかった。
(イ) 銭谷眞美文部科学省初等中等教育局長は、平成19年4月11日、衆議院文部科学委員会において、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来の通説であった、前記検定意見は、この通説について当時の関係者から色々な供述、意見が出ていることを踏まえて、軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないとの趣旨で付したものであり、日本軍の関与を否定するものではない旨の発言をした。
 また、伊吹文明文部科学大臣は、同日、前記委員会において、前記検定意見について、日本軍の強制があった部分もあるかもしれない、当然あったかもしれない、なかったとは言っていない、日本軍の強制がなかったという記述をするよう要求するものではない旨発言した。

要約3:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)文部科学省は、平成18年度教科書検定において、集団自決に関する記述について、日本軍による自決命令や強要が通説となっているが、近年の状況を踏まえると命令があったか明らかではない旨の検定意見を付した。
(2)「山川出版社日本史A」の「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」との記載が「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、その中には日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれ(し)た住民もいた」と改められた。黄色文字が削除された部分です。
(3)壕からの住民追出し、住民に対する手榴弾の配布、スパイ容疑での住民殺害などに対する軍の関与については、検定意見は付されなかった。
(4)銭谷眞美文科省初等中等教育局長は、衆院文部科学委員会で、集団自決について、軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないとの趣旨で付したものであり、日本軍の関与を否定するものではない旨の発言をした。
(5)伊吹文明文科相は、衆院文部科学委員会で、日本軍の強制が当然あったかもしれない、なかったとは言っていない、日本軍の強制がなかったという記述をするよう要求するものではない旨発言した。
(ウ) 布村幸彦文部科学省大臣官房審議官は、同月24日の決算行政監視委員会第一分科会において、集団自決について、従来、 日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言した。
(エ) 銭谷初等中等教育局長は、翌25日の教育再生特別委員会においても、同様の発言をした。
(オ) 平成18年度教科書検定については、座間味村議会、渡嘉敷村議会、沖縄県議会などが、文科省に対し、検定意見の撤回を求める意見書を提出し、このことが報道されたこともあり、集団自決に関する論争が起こった。
 これに対し、布村審議官は、同年6月13日、軍の関与、責任は確かにある、部隊長による直接の命令があったかどうかは断定できないとの意見で審議会の委員の意見が一致した、検定意見の撤回は困難である旨述べた。

要約4:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)布村幸彦文科省審議官・銭谷初等中等教育局長は、集団自決について、従来、 日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言した。
(2)教科書検定については、座間味村議会、渡嘉敷村議会、沖縄県議会などが、文科省に対し、検定意見の撤回を求める意見書を提出したが、布村審議官は、「軍の関与は確かにある。部隊長による直接の命令があったかどうかは断定できないとの意見で審議会の委員の意見が一致した、検定意見の撤回は困難である」と述べた。
ウ(ア) 平成18年度教科書検定を受けた高等学校日本史教科書について、平成19年11月に教科書の沖縄戦の記載について訂正申請がなされた。これを受けて、文科相は、教科用図書検定調査審議会に対し専門的、学術的な見地からの調査審議を依頼した。そこで、同審議会の日本史小委員会は9名の専門家から意見聴取を行うなどして審議した結果、次のような趣旨の「日本史小委員会としての基本的とらえ方」が公表された。すなわち、集団自決は、太平洋戦争末期の沖縄において、住民が戦闘に巻き込まれるという異常な状況の中で起こったものであり、その背景には、当時の教育・訓練や感情の植え付けなど複雑なものがある、また、集団自決が起こった状況を作り出した原因にも様々なものがあると考えられる、18年度検定で許容された記述に示される、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなど、軍の関与はその主要なものととらえることができる、一方、それぞれの集団自決が、住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない、他方で、住民の側から見れば、当時の様々な背景・要因によって自決せざるを得ないよ うな状況に追い込まれたとも考えられる、集団自決については、沖縄における戦時体制、さらに戦争末期の極限的な状況の中で、複合的な背景・要因によって住民が集団自決に追い込まれていった、ととらえる視点に基づいていることが、生徒の沖縄戦に関する理解を深めることに資するものとなると考える、という趣旨のものである。

要約5:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)文科相は、教科用図書検定調査審議会に対し専門的、学術的な見地からの調査審議を依頼した。
(2)同審議会の日本史小委員会は「基本的とらえ方」を公表した。
@「集団自決は、太平洋戦争末期の沖縄において、住民が戦闘に巻き込まれるという異常な状況の中で起こった」
A「その背景には、当時の教育・訓練や感情の植え付けなど複雑なものがある」
B「集団自決が起こった状況を作り出した原因にも、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなど、軍の関与はその主要なものととらえることができる」
C「それぞれの集団自決が、住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない」
D「住民の側から見れば、当時の様々な背景・要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる」
E「集団自決については、沖縄における戦時体制、さらに戦争末期の極限的な状況の中で、複合的な背景・要因によって住民が集団自決に追い込まれていった、ととらえる視点に基づいていることが、生徒の沖縄戦に関する理解を深めることに資するものとなると考える」
(イ) そして、最終的に承認が適当とされた教科書の記載訂正文は、次のようなものである。
○ 「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、そのなかには日本軍によって壕を追い出されたり、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった
○ 「このなかには、スパイ容疑や作戦の妨げになるなどの理由で、日本軍によって殺された人もいた。日本軍は住民の投降を許さず、さらに戦時体制下の日本軍による住民への教育・指導や訓練の影響などによって、『集団自決』に追い込まれた人もいた
○ 「日本軍が多くの県民を防衛隊などに動員したうえに、生活の場が戦場となったため、県民の犠牲は大きく、戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨をきわめた。(側注)最近では、集団自決について、日本軍によってひきおこされた「強制集団死」とする見方が出されている」
○ 「そのなかには、日本軍によって『集団自決』AにおいこまれたりB、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。(側注)Aこれを「強制集団死」とよぶことがある。B敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針、一般の住民に対しても教育・指導されていた。(囲み)沖縄渡嘉敷島「集団自決」・・日本軍はすでに三月二十日ころには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の補虜になる危倹性が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。・・いよいよ二十八日の運命の日がやってきました。およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。玉砕(自決)のためです。死を目前にしながら、母親たちは子どもたちに迫っている悲劇的死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、共に死を遂げることの意味がわかるはずもありまぜん。・・私たち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを生んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号 泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました」
○ 「また、軍・官・民一体の戦時体制のなかで、捕虜になることは恥であり、米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育や宣伝を受けてきた住民のなかには、日本軍の関与のもと、配付された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた
○ 「戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追いこまれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨を極めた。(脚注)・・また最近では集団自決について、日本軍によってひきおこされた『強制集団死』とする見方が出されている
○ 「また日本軍により、戦闘の妨げになるなどの理由Cで県民が集団自決に追いやられたり、幼児を殺されたり、スパイ容疑をかけられるなどして殺害されたりする事件が多発した。(注)C住民は米軍への恐怖心をあおられたり、捕虜となることを許されなかったり、軍とともに戦い軍とともに死ぬ(『共生共死』)ことを求められたりもした
○ 「(囲み)・・、日本軍は、県民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したりした。また、日本軍は、住民にたいして米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自害と殺しあいに追い込まれた。これらの犠牲者はあわせて800人以上にのぼった」

要約6:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)最終的に承認が適当とされた教科書の記載訂正文として、8つの教科書の内容を紹介しています。
(ウ) 以上のような日本史小委員会の基本的とらえ方及び承認された教科書の記述は、もとより今後とも学問と言論の場で論議され、再批判されてゆくものであるとしても、その公開された調査審議の過程に照らせば、それまでの集団自決についての研究成果を反映したもので、歴史学者らの大方の見方あるいは最大公約数的な認識に副ったものと解される」

要約7:大阪高裁の裁判官は、沖縄戦に関する文部科学省の立場等について次のように指摘しています。
(1)日本史小委員会の基本的とらえ方・教科書の記述は、今後とも学問と言論の場で論議され、再批判されてゆくものである。
(2)集団自決についての研究成果は、歴史学者らの見方あるいは最大公約数的な認識に副ったものである。
解説3:学問や研究は、政治的な論議の対象ではなく、言論の場で論議され、批判・再批判されるというのが、民主主義の基本です。
 集団自決については、上記の8つの教科書の内容が歴史学者の最大公約数的と主張しています。
 いよいよ残り1回となりました。
 次々回には、産経新聞、正論、Will、週刊新潮、櫻井よし子氏、渡部昇一氏、藤岡信勝氏らの論調と大阪高裁の判決文とを照合しながら、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判を検証していきたいと思っています。

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