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エピソード

304_13

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(最終回)
 「 民主主義の原則は議論だというが、議論の前提認識がデマだらけなのだから、しょせんこの国は民主主義によって危機を迎えることになるのは間違いない」という記事があります。
 これは誰の言葉だと思いますか。これは小林よしのり氏の言葉です(『わしズム』2007年11月30日発行)。
 この雑誌の中で、小林氏は集団自決について、次のような前提認識を披露しています。
(1)「軍の命令があったということであれば、年金支給は可能」という厚生省の助言を聞いた当時の渡嘉敷村長が、島の守備隊長だった赤松嘉次氏に相談し、「嘘の自決命令書」を作成して提出したことからこの問題は始まった
(2)赤松氏も梅澤氏も明らかな「報道被害」である。そもそも集団自決の「軍命」説は、沖縄タイムス編『鉄の暴風』から始まっている。これが様々な著書に引用され大江健三郎の『沖縄ノート』などで広く流布された
(3)手相弾を配ったのは防衛隊であり、防衛隊は現地召集だから住民である。防衛隊には手相弾二個ずつが与えられており、艦砲射撃や米軍の上陸で死を覚悟した家族にこの手相弾を与えたのだろう
 だが生き残りの証言によれば、集団自決の際に、そもそも住民たちが手相弾の操作方法を知らず、ほとんど使われなかったようで、実際使用したのはカマ、クワ、ナタやロープなどであったらしい
(4)米軍の辱めを受いなら家族と一緒に死ぬ方がましだという私心と、それが後顧の憂いなく兵隊さんに戦ってもらうためになる、国のためだという公心、が交差した一点で、彼らの死の決意は結晶化したのだ
*解説1:普通、伝聞や自信がない場合の表現に、「だろう」とか「らしい」という推定の助動詞を使います。逆に、証拠や自信がある場合の表現に、「なり」「たり」(「始まった」とか「流布された」・「結晶したのだ」)という断定の助動詞を使います。
 前提の認識に「だろう」・「らしい」という推定の助動詞を使い、結論に「始まった」・「流布された」・「結晶したのだ」という断定の助動詞を使っています。そして、この国は民主主義によって危機を迎えると主張する小林氏は、自己矛盾に気が付いていません。
 私は、エピソード日本史━大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(304-05)←クリックで以下の事を指摘しています。
 弁護人として、渡部昇一氏・梅澤裕氏・藤岡信勝氏・飯嶋七生氏の記事を読んで、なるほどと思う部分と、あらためて確認したい部分があります。
@援護法の適用を受けるため、沖縄の人のことを考えて、偽軍命令を出した→軍命令前に援護法適用はないか?
A宮里盛秀氏が梅澤元少佐に与えたという証文はあるのでしょうか?
B厚生省に提出した偽造の公式書類等があるのでしょうか?
C忠魂碑の集合時間などがまちまちですが、どうしてでしょうか?
D梅澤氏の命令なく、村長の一存で自決ができるのでしょうか?
E援護法適用のため偽軍命令を出した梅澤氏は命の恩人です。どうして、沖縄の人は「沖縄ノート」を批判しないのでしょうか?。これが私の素朴な感想です。
 大江健三郎・岩波書店沖縄裁判の高裁判決を検証して、上記の@からEを解読する予定でしたが、多くの人が指摘するように、援護法の適用を受けるために「嘘の自決命令」を出したということの事実を調べることが最も大切であることと気がつきました。@ABEの解明につながります。
 小林よしのり氏は、援護法の適用を受けるために「嘘の自決命令」を出したと断定しますが、その前提となる認識がデマでなく、その根拠する提示していません。
 以下、援護法の適用を受けるために「嘘の自決命令」を出したという人を紹介します。
援護法の適用を受けるために「嘘の自決命令」を出したという人々
(1)小林よしのり氏:
 「軍の命令があったということであれば、年金支給は可能」という厚生省の助言を聞いた当時の渡嘉敷村長が、島の守備隊長だった赤松嘉次氏に相談し、「嘘の自決命令書」を作成して提出したことからこの問題は始まった。
(2)杏林大学客員教授・田久保忠衛氏:
 『沖縄ノート』で大江氏が赤松隊長をこの上なく侮蔑した。それが、「岩波・大江裁判」の原点です。しかし、渡嘉敷島の赤松隊長は「集団自決」の「命令」を出していない。それはその後、出てきた証言や証拠から明らかなことです。大江氏もその他の人も、まともに反論できない。…「謝罪したい」と複数の人が名乗り出ています。赤松隊長や梅澤氏は、村民のためを思って自分たちが命令したということにしたのです。
(3)ジャーナリスト:櫻井よしこ氏:
 「集団自決」も同じで、赤松氏も梅澤氏も「命令」をしていない以上、他に軍が命令したことを示す明確なケースを示さない限り、「集団自決」の「軍命令」説は崩れているのです。しかし、こうしたことを直視せず、雰囲気で「軍命令があった」と言い張る人たちがいる。
(4)上智大学名誉教授・渡部昇一氏:
 では、「集団自決」に「軍命令があった」とするでっち上げが、なぜ出てきたのか。そこには「遺族年金」というものが絡んできます。
 梅澤裕少佐は、「戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用できるようにするために、島の長老達から『軍命令だった』と証言するように頼まれ、それに従った」と証言しています。
 また、座間味島の宮城初枝氏(当時青年団長)は「1945年3月25日に村の有力者5人と隊長にあった際に、隊長は『自決命令』を発していない」と手記に遺しており、娘の宮城晴美氏が2000年に『母の遺したもの』としてその手記を出版しています。
 その中で、「厚生省の職員が年金受給者を調査するため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、(本当は命令はなかったが)命令があったと証言した」と告白しています。
 そして座間味島の宮村幸延氏は、当時の助役・兵事係であった兄・宮里盛秀氏が、「隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたものであった」という証文を梅澤裕少佐に与えたと言っています。
 渡嘉敷島では遺族の援護業務を担当していた照屋昇雄氏が、遺族年金を受給するために赤松大尉が自決を命令したことにして自ら公式書類等を偽造したと認めています。
 つまり、単に自殺したというだけでは「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が民間人を適用外としていることから年金がもらえないため、「軍命令」があったということにしたのです。そうすれば「軍協力者」ということで年金がもらえるからです。
 梅澤少佐や赤松大尉は戦後の村の困窮を見かねて、「命令書を作成してきなさい。そうすればサインをしてあげます」と「軍命令」の書類を作成したというわけです。
 そしてすでに、右のようにその書類の作成を頼みに行った人たちが、良心の呵責に耐えかねて、あれは自分たちが頼んで梅澤少佐や赤松大尉が親切でサインしてくれたものだということを証言しています。ですから、この問題はここで終わりになるはずなのです。
(5)梅澤裕氏の「梅澤元少佐独占手記」:
 「私はこれまで梅澤さんに申し訳ないと思っていたけど、これでやっと話が出来る」と言って、最初に語ったのが「梅澤さんのおかげで補償金が出ました」という言葉でした。「その補償金が出てみんな生き返ったんだ、ありがとうございました」と言って、頭を下げたのを今でもよく覚えています。
 援護の件で、厚生省に行って話をしても法律がないから自決した老幼婦女子に補償金は出ない、諦めてくれと言われる。しかし、村では田中村長からこつぴどく言われる。復員して帰ってきた村人からは、お前の兄が自決をさせたと責められる。
 3回目に行った時にやっと、厚生省の課長が頭を下げて、隊長が命令したということにでもして申請をしたらあるいは・・・という話だった。それを村に帰って報告したら「それだ!」となって、それから1カ月かかって色々なことをしました、と。
 私が宮村氏に「いくらぐらい貰っているのか」と聞いたら、「毎年、3億円ほど出た」、今でも貰い続けていると。それで村が生き返って、それで梅澤さんにみんな感謝しておりますよという。
(6)自由主義史観研究会・機関誌『歴史と教育』の編集長・飯島七生氏:
 昭和31年末、彼女は役場から呼び出され、「村の方針」であるとして、自決は隊長命令だったと、自らの体験とは正反対の証言を要求された。これは、遺族年金など補償を受けるには、敵軍上陸の恐怖やパニックによる自決ではなく、軍命があった場合のみ対象になるとされていたからである。
 初枝氏は、一度は断ったものの、「島の人を見殺しにするのか」と説得され、やむなく偽証に応じた。
((1)以外の記事は『WiLL』(緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号)より)。
(7)拓殖大学教授・藤岡信勝氏:
 戦争末期の昭和20年3月、米軍が沖縄の慶良間列島に攻め込んできたとき、座間味島と渡嘉敷島では数百人の追いつめられた住民が家族どうしで殺し合うなどして集団自決する痛ましい出来事があった。ところが、戦後、それは日本軍の将校の命令により強制されたものであるとされるようになった。
 しかし、「沖縄集団自決軍命令説」は次第にその虚構性が明らかになってきた。梅沢裕少佐を隊長とする部隊が配置された座間味島では、村の重役の指示に従って「住民は隊長命令で自決した」と嘘の証言をしていた女子青年団長が良心の呵責に耐えかね、事実は梅沢隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが追い返されていたと告白した。
 嘘の証言をさせられたのは、遺族が援護法によって年金を受け取るためには軍の命令があったことにする必要があるからだった。実際に集団自決の命令を下したのは、村の助役だった。
 軍命令説の虚構はここ数年でさらに決定的になった。渡嘉敷島の隊長・赤松嘉次大尉は、住民の自決を知って「何と早まったことをしてくれたんだ」と嘆き悔やんだ。ここでも命令したのは村長だった。しかし、赤松氏は戦後、後任の村長に懇願されて、自決命令を出したとするニセの証明書を厚生省に提出していたことが、平成17年5月、自由主義史観研究会の現地調査でわかった(2007年6月21日付産経新聞・正論)。
(8)元琉球政府の照屋昇雄氏:
 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという(2007年8月27日付産経新聞)。

被告ら訴訟代理人が出した被告準備書面の要旨
 以下は、被告ら訴訟代理人が出した被告準備書面の要旨です(2007年5月25日)。
1 産経新聞記載の照屋証言は信用できない
  2006年(平成18年)8月27日付産経新聞(甲B35)に掲載された記事によれば、照屋昇雄氏は、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため渡嘉敷島で聴き取りを実施していたが、調査の際、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」が、その中に集団自決が軍の命令だと証言した住民は「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」、「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」、「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言っ てくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」、「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。」「私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに、『この話は墓場までも持って行こう』と誓った」などと証言したとされている(甲B35。以下「照屋証言」)。
2 照屋氏の人事記録
 まず、産経新聞記事(甲B35)によれば、照屋氏は、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、渡嘉敷島で聞き取り調査を行ったとされている。
  しかし、照屋氏が、社会局の援護課に在籍していたのは1958年(昭和33年)10月のことであり(乙59)、当時は庶務課に在籍していたとされていることから、照屋氏が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていたとする照屋証言は、上記の琉球政府の人事記録に反する。
 琉球政府が作成したと考えられる1957年(昭和32年)5月の「戦斗参加者概況表」(乙39の5)に援護法の適用対象として「集団自決」が記載されていること、及び、1957年(昭和32年)7月に日本政府厚生省によって沖縄戦の戦闘参加者処理要綱が正式に決定され、同要綱の中で集団自決が戦闘参加者の20の区分の一つとされていることからも明らかなように、渡嘉敷島における集団自決に援護法の適用が決定されたのは、遅くとも1957年(昭和32年)7月であり、1958年(昭和33年)10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかった照屋氏が、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課の職員として渡嘉敷島において住民から聞き取り調査を行い、援護法適用のために自決命令があったことにしたということは考えられない。
3 渡嘉敷島の集団自決は当初より赤松隊長の命令によるものとして援護法による補償の対象とされていた
 照屋証言は、渡嘉敷島において、集団自決の犠牲者が援護法の適用を受けることが困難であったことから、その適用を受けるために、赤松隊長の同意を得て、赤松隊長が自決を命じた文書を作成し、当時の厚生省に提出したとしている。
 しかし、2007年(平成19年)1月15日付沖縄タイムス記事によれば、1957年に援護法の申請が開始された当初から、集団自決の犠牲者に対して補償が認定されており、渡嘉敷村役場の援護担当として援護申請の申立書を作成した小嶺幸信氏は、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない」と証言している(乙47の2)。
 したがって、集団自決の犠牲者に対して援護法の適用が難しかったという事実はなく、援護法の適用の困難を克服するために、集団自決が赤松隊長の命令によって行われたとする話を作り出したとする照屋証言は信用できない。
4 命令文書の不存在
 さらに、照屋証言は、赤松隊長の同意を得て、赤松隊長が自決を命じた文書を作成し、当時の厚生省に提出したとしている。
 しかし、厚生省から事務を引き継いだ厚生労働省に対して、照屋氏らが作成したとする、赤松隊長が自決を命令したとする書類について情報公開請求を行ったところ(乙60「行政文書開示請求書」)、厚生労働省は、「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした」と回答した(乙61「行政文書不開示決定通知書」)。
 援護法に基づく給付は現在も継続して行われているのであるから、援護法を集団自決に適用するために赤松隊長が自決を命令したとする書類が作成されていたのであれば、援護法適用の根拠となる命令文書が廃棄されて存在しないということはあり得ない。
 したがって、照屋証言が真実であれば存在するはずの命令文書はそもそも作成されておらず、援護法適用のために、赤松隊長の同意を得て、玉井村長らと「住民に注ぐ」「死して国のためにご奉公せよ」などと書かれた虚偽の自決命令文書が作成されたとする照屋証言は信用できない。
 照屋証言は、援護法の適用を受けるために玉井村長が赤松隊長に会いに行ったところ、赤松隊長が「『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれた」とする。しかし、赤松隊長の手記(甲2)には、援護法適用のために隊長命令があったことにしたことも、そのために玉井村長が赤松隊長を訪ねたことも、隊長命令があったとする命令書を作成するように言ったことも、全く書かれていない。照屋証言は、赤松隊長の手記とも符合せず、信用できない。

援護法の適用問題に関する大阪高裁のエピソード日本史詳細←クリック
援護法の適用問題について大阪高裁判決文の要約(詳細は上記の日本史詳細をクリックしてください)
要約1:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。
(2)援護法が、遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布された。
(3)日本政府は、昭和28年3月26日、現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。
(4)琉球政府に、昭和28年4月1日、社会局に援護課が設置された。
*解説1:昭和27年4月30日、援護法は遺族を援護することを目的で公布された。
 昭和28年3月26日、援護法は現住者に適用されると公表された。
要約2:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)沖縄戦は、前線なき戦闘のため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。
(2)厚生事務官馬淵新治「戦斗協力者と軍に無関係な住民との区別をどうするか、誠に至難な問題である」
(3)調査により、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱(20種類)を決定した。
(4)その結果、一般県民の戦没者約9万4000人のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。
(5)集団自決については、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された者もあった。
*解説2:昭和32年7月、調査結果、厚生省は、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱(20種類)を決定した。@集団自決については、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された者もあった
要約3:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)元琉球政府社会局援護課職員・金城見好「慶良間の住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」
(2)援護法公布以前の「鉄の暴風」(昭和25年)に、控訴人が住民に自決命令を出した旨の記述がある。
(3)米軍の「慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)「米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたと語っている」
(4)梅澤・赤松命令説は、援護法の適用が意識される以前から 具体的な内容をともなって存在していた。
(5)戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたので、後日にあえて握造する必要ない。
*解説3:A住民は準軍属扱いなので軍命令を握造する必要ないB梅澤・赤松命令説は、援護法の適用が意識される以前から存在していた
要約4:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)産経新聞日本文化チャンネル桜正論によると、照屋昇雄氏の話の要点は次のようなものである。
(2)照屋昇雄「聞き取り調査をした100名以上の内集団自決が軍の命令だという住民は1人もいなかった」
(3)照屋昇雄「援穫法の規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文がある」
(4)照屋昇雄「厚生省の課長から、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて」
(5)「お前らが書ければ(赤松隊長が)サインして判子押しましょうということになった」
*解説4:産経新聞日本文化チャンネル桜正論は、「援穫法には隊長命で死んだ場合は報奨金がでるという条文がある」「厚生省の課長は赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っている」という照屋昇雄氏の証言を紹介しています。
要約5:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)赤松大尉の了解を得て、偽の軍命令の文書を作成・押印は、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。
(2)『潮』手記「赤松大尉自身は軍命令を出した覚えないので、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれない」
(3)照屋昇雄の証言通りだとすると、(赤松大尉)の娘である佐藤加代子の苦悩はあり得ない。
(4)佐藤加代子の陳述書(平成19年10月6日)・赤松の陳述書(平成19年9月29日)には、産経新聞の記事(平成18年8月)や「正論」掲載(平成18年11月号)の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告は荒唐無稽なあり得ない話として黙殺されている。
*解説5:大阪高裁の裁判官は、佐藤加代子氏(赤松大尉の娘)などの陳述書から、産経新聞日本文化チャンネル桜正論が紹介する照屋昇雄氏の証言を「荒唐無稽なあり得ない話」と黙殺されていると断定します。
要約6:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)曽野綾子は軍命令説と年金を認識してるが、「ある神話の背景」(昭和45年)には、軍命令捏造説はない。赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。
(2)戦後間もない頃から赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、馬渕新治の調査でも確認されている。照屋昇雄と村長及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており黙っているという点なども、不自然である。
(3)産経新聞に掲載された軍命捏造の書類については、厚生省は「係る文書はこれを保有していない」
(4)正論のいう廃棄等の可能性・本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたという法令上の根拠、裏付けも全くない。
*解説6:C産経新聞掲載の軍命捏造の書類については、厚生省は「係る文書はこれを保有していない」
 D正論のいう廃棄等の可能性・本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたという法令上の根拠ない
要約7:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない(参考資料参照)
(2)軍命令の内容、戦後10年以上後に捏造した命令書が厚生省内で通用した経緯など、あいまいな点が多い。
(3)裏付け調査や吟味もせず、新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して、問題が極めて多い。
(4)援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く信用できない。
(5)これに追随し、喧伝するにすぎない産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない。
参考資料:照屋昇雄氏の証言「昭和30(1955)年12月25日、援護法適用のため、軍命捏造の書類を作成した」
 平成17(2005)年8月5日、梅澤裕氏らが大江健三郎氏と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴しました。
 平成18(2006)年8月27日、産経新聞朝刊と「日本文化チャンネル桜」は、「照屋昇雄は、赤松大尉に軍命令を依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成し、サインと押印を得て、厚生省に提出」と報じました。
 平成19(2007)年12月21日、原告・被告の双方が最終弁論し、結審しました。
*解説7:大阪高裁の裁判官は、「照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない」「照屋昇雄の話は全く信用できない」「これに追随し、喧伝するにすぎない産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」取材班の報告も採用できない」としています。
 つまり、E反対尋問を経ておらず、しかも全く信用も出来ない話を喧伝する産経新聞の記事も採用できない厳しく断罪しています。
要約8:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮里盛秀助役の弟・宮村幸延の作成した証言(昭和62年3月28日)には「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した」とあります。
(2)控訴人梅澤は、酩酊している宮村幸延に下書きを見せて、証言を書かせたことが認められる。
(3)被控訴人は、飲酒酩酊上の「証言」と主張するが、筆跡はしっかりしており、被控訴人の主張は採用できない。
(4)梅澤の陳述書には、「幸延氏は、一言々々慎重に『証言』を」書いたとあるが、下書き文書の存在と矛盾する。
(5)証言作成とその2年後の沖縄タイムスとの証言は全く異なっており、梅澤の陳述書の記載に疑問を抱かせる。
要約9:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮村幸延のところに残されていた文書は、控訴人梅澤の自筆と認められ、梅澤の陳述書は到底採用できない。
(2)宮村幸延は、初枝からの話で、梅澤が自決命令を出してはいないこと、梅澤の家庭崩壊等に深く同情していた。
(3)梅澤の求めに応じてもので、「証言」の内容は、遺族補償のために捏造されたものとは評価できない。
(4)宮村幸延は、集団自決発生時、座間味島にいないので、梅澤命令がなかったなどと語れる立場になかった。
(5)座間味村長宮里正太郎「遺族補償請求申請は一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い。
(6)村長田中登「家族だけに見せるもので公表しない事を堅く約束・・仕方なく応じ、なんの証拠にもならない」
(7)村長田中登「助役の命令では住民は動かなかった。軍命だと聴いて自決に動いた」
(8)宮村幸延は、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。
10 要約10:大阪高裁の裁判官は、援護法の適用問題について次のように指摘しています。
(1)宮城初枝の娘・宮城晴美の『母の遺したもの』を検討すると、自決命令の内容は既に存在し、それを前提に「はい、いいえ」で質疑応答され、本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。
(2)宮城晴美の陳述書に「『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたが、それ以上に自分(宮城初枝)からは説明しなかった」とある。
(3)分類の自決命令いう重大な事柄が、行政庁内で捏造されたとは考えにくい。照屋昇雄の赤松大尉への命令捏造依頼説は、成功したとはいえない。
(4)自決命令の有無が援護法の適用に関係しているものの、命令説が捏造されたとまで認めることはできない。
私のコメント
 以下は、大阪高裁の判決文から、援護法と自決命令の重要な部分を抜き出したものです。
@集団自決については、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された者もあった
A住民は準軍属扱いなので軍命令を握造する必要ない
B梅澤・赤松命令説は、援護法の適用が意識される以前から存在していた
C産経新聞掲載の軍命捏造の書類については、厚生省は「係る文書はこれを保有していない」
D正論のいう廃棄等の可能性・本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたという法令上の根拠ない
E反対尋問を経ておらず、しかも全く信用も出来ない話を喧伝する産経新聞の記事も採用できない
 最高裁の判決が出ていない段階で、コメントを発することは問題があるかもしれません。
 上記内容に関して、別名内容の判決が出れば、その時はその時でコメントを出します。
 現時点で解明されている事実と、それについてのコメントということで了承をお願いします。
 まず、歴史的事実を編年的に調べました。
 1955(昭和30)年12月25日、照屋昇雄氏は「援護法適用のため、軍命捏造の書類を作成した」(産経新聞2006年8月27日付け)
 2005(平成17)年4月、自由主義史観研究会(代表藤岡信勝氏)が「敗戦60年、『沖縄戦集団自決事件』の真実を明らかにする『沖縄プロジェクト』」への参加を呼びかけます(機関誌『歴史と教育』)。
 5月1日、新しい歴史教科書をつくる会(藤岡信勝氏ら)が「日本軍を貶める3点セットとして南京虐殺説、従軍慰安婦強制連行説、沖縄集団自決軍命令説を挙げて、この3つを運動対象と考えている」と主張しています(機関誌『史』5月号)
 6月4日、自由主義史観研究会(代表藤岡信勝氏)が「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」緊急集会を東京の文京区民センターで開催しました(藤岡氏が講演、梅澤裕氏がビデオ証言)。
 8月5日、梅澤裕氏らが大江健三郎氏と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴しました。
 10月月28日、第1回口頭弁論が行われました。
 2006(平成18)年6月9日、第4回口頭弁論が行われました。
 8月27日、産経新聞朝刊と「日本文化チャンネル桜」は、「照屋昇雄は、赤松大尉に軍命令を依頼し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成し、サインと押印を得て、厚生省に提出」と報じました。
 9月1日、第5回口頭弁論が行われ、争点がほぼ出尽くしました。
*解説8:照屋昇雄氏の産経新聞への証言は、第4回口頭弁論と第5回口頭弁論の間です。大阪高裁判決では「照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない」とされています。この間の事情を指摘したとこが分かります。
 2007(平成19)年3月30日、第8回口頭弁論が行われました。
 3月30日、文科省が高校歴史教科書の検定において、日本軍の強制記述を削除する検定意見を付けました。この時、文科省は、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判を「沖縄集団自決冤罪訴訟」という名称で公表しました(このことから、文科省は、「つくる会」と同根ではないかとの疑念が生じました)。
 4月11日、沖縄出身の赤嶺政賢議員(日本共産党)は、衆義院文部科学委員会で、文科省公表の検定結果(「日本軍によって集団自決に追い込まれた住民もあった」の記述を「自決した住民もいた」に変更されました)の根拠をただしました。それに対して、銭谷真美文科省初等中等教育局長は、「最近の著書」とともに、沖縄県座間味島の元守備隊長らが『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏と岩波書店を相手におこなっている訴訟をあげました。
 さらに、赤嶺議員は、訴訟は継続中であり、原告の証言さえおこなわれておらず、原告がこれを「冤罪訴訟」と宣伝し、文科省まで同じ表現で紹介していることを指摘し、「重大問題だ」と強調しました。
 伊吹文明文科相は、「(冤罪の表現は)極めて不適切」であり、検定結果には「日本軍の強制がなかったとは言っていない」と主張し、問題視しない考えを示しました。
 7月27日、第10回口頭弁論で証人尋問が行われ、皆本義博氏・知念朝睦氏が原告側、宮城晴美氏が被告側証人として出廷しました。
 9月29日、沖縄で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれました(朝日などは11万人集会、産経は4万人集会と報道しました)
教科書検定意見撤回を求める県民大会についての報道と福田首相の見解←クリック
 10月2日、渡海紀三朗文科相が訂正申請の受け入れを表明しました。
 11月9日、第11回口頭弁論で当事者尋問が行われ、梅沢裕氏・赤松秀一氏が原告当事者、大江健三郎氏が被告当事者として出廷しました。
 11月9日、教科書会社6社が計8冊で軍強制を盛り込む記述訂正を申請しました。
 12月21日、第12回口頭弁論が行われました。原告・被告の双方が最終弁論し、結審しました。
 12月25日、検定審が6社8冊の訂正申請を認めました。
 2008(平成20)年3月28日、大阪地裁は、「原告の請求棄却」という判決を言い渡しました。
 4月2日、原告側、判決を不服として大阪高等裁判所に控訴しました。
 6月25日、大阪高裁で、第1回口頭弁論が行われました。
 9月9日、大阪高裁で、第2回口頭弁論が行われ、結審しました。
 10月31日、大阪高裁は、「地裁判決支持・原告の請求棄却」という判決を言い渡しました。
 11月11日、原告側、判決を不服として最高裁に上告しました。
藤岡信勝氏らの意図 / 産経新聞などマスコミへのお願い
 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判を、大きな視点で編年的に見ると、実証主義者でリベラリストの私にはとても理解できない世界にぶちあたります。
 緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号(「Will」)には、「控訴人らは、梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であった」という論陣(田久保忠衛氏、櫻井よしこ氏、渡部昇一氏、曽野綾子氏ら)ばかりです。
 「Will」の出筆者と産経新聞・雑誌「正論」の出筆者はダブります。あるいは、「正論」の記事をそのまま転用しています。
 『日本文化チャンネル桜』の出演者を調べてみました。井尻千男氏、西尾幹二氏、金美齢氏、遠藤浩一氏、小堀桂一郎氏、渡部昇一氏、高森明勅氏、潮匡人氏、花岡信昭氏、西村眞悟氏 、田久保忠衛氏です。産経新聞や雑誌
「正論」、新しい歴史教科書を作る会などでお馴染の名前でした(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
 実証的な発言をすれば、私も文句をいいません。
 裁判所から「訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていない」と厳しく批判されている証言を大々的に喧伝する産経新聞がいます。
 「反対尋問を経ていない」証拠は証拠と認められないという常識から逸脱して、それを事実として、「梅澤・赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であった」と主張する学者や研究者やジャーナリストがいます。
 新しい歴史教科書をつくる会や自由主義史観研究会の藤岡信勝氏は、「岩波書店は”戦後レジーム”の言論部分を担ってきた中核に位置する言論機関である。この裁判は、その岩波の権威に壊滅的な打撃を与える可能性を含んだ案件である」と主張します(「Will」)。
 学問や研究でなく、政治運動になっています。
 そういえば、次のような事実もあります。
 上智大学名誉教授・渡部昇一氏(審査委員長)は、アパの懸賞論文にお応募した田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長・空将)の「日本は侵略国家であったか」を最優秀賞としました(TVタックルで田母神氏は「あれはエッセイですよ」と発言しています)。
 社説などはどのような扱いをしているか、検証しました。
(1)読売新聞社説(2008年11月2日)「空幕長更迭 立場忘れた軽率な論文発表」
(2)朝日新聞社説(2008年11月2日)「空幕長更迭―ぞっとする自衛官の暴走」
(3)神戸新聞社説(2008年11月2日)「空幕長更迭/あまりに偏った歴史観だ」
(4)産経新聞主張(2008年11月2日)「空自トップ更迭 歴史観封じてはならない」
(5)日本経済新聞社説(2008年11月3日)「田母神空幕長の解任は当然」
(6)毎日新聞社説(2008年11月7日)「前空幕長問題 政府の責任を明らかにせよ」
(7)産経新聞(2008年11月11日)【田母神氏招致・詳報】(2)「村山談話の見解と私の論文は別物」
(8)山陽新聞(2008年11月11日)「田母神論文を1ページ広告で掲載 産経新聞」
(9)産経新聞(2008年11月15日)【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂「村山談話の検証が不可欠だ≪論文内容は問題でない≫」
(10)読売新聞(2008年11月20日)「田母神氏が科目創設、統幕学校「歴史観」講師を公表…防衛省」
 その内容は以下の通りです。
 田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長(60)(3日付で定年退職)が、昭和戦争などに関して投稿した懸賞論文の内容を巡って更迭された問題で、防衛省は19日、前空幕長が統合幕僚学校長時に創設した科目「歴史観・国家観」の講師陣を公表した。
 うち2人は「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の福地惇(ふくちあつし)・大正大教授、同会理事の高森明勅(あきのり)・国学院大講師(当時)で、今年まで6年間にわたり同科目の講師を務めていたという。福地教授は「蒋介石と日本の衝突の背後には米英、ソ連、コミンテルンが存在」などと教え、前空幕長の論文と似たテーマとなっている。
*解説9:こうしてみると、産経新聞の論調が他の新聞社の論調と全く異なることが分かります。
(1)2009年9月2日付け共同通信は次のような記事を掲載しました。
 「ツイッター」に「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」・「産経新聞が初めて下野」と投稿、批判を受けて謝罪していたことが分かった。同社広報部は「不偏不党を社是としており、今後もこの一貫した方針に変わりはありません」とコメントしている。
(2)産経新聞は、その「ツイッター」で次のように書き込みしています。
 保守系の「正論路線」を基調とする新聞です。発言は、社会部として是々非々の立場でのぞみたいという意思表示のつもりでした。
 保守の正論路線があってもいい。しかし、「不偏不党は言うは易しく行うは難し」です。せめて事実に基づいた客観的な「是々非々の立場」は貫いてほしいと思います。「家族を守り、地域を守り、国を守る」ことを標榜する保守が家族を壊し、地域を壊し、国を壊すことだけは止めて欲しいと思います。
2009年9月2日の共同通信は、「産経記者が不適切書き込み 衆院選めぐりネット投稿で」と題して、次のように記事を掲載しました。
 産経新聞社会部の選挙班の記者が衆院選の結果について、インターネット上に短文を掲載するサービス「ツイッター」に
「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」・「産経新聞が初めて下野」と投稿、批判を受けて謝罪していたことが2日、分かった。<BR>
 同社広報部によると、選挙班は専用サイトを公示日の8月18日に開設。問題の短文は民主党圧勝が判明した同30日夜以降に記者が投稿した。翌日に同班としてサイト上で「軽率な発言だったと反省しています」と謝罪し「自民党政権に対してもそうであったように、是々非々の立場でのぞみたいという意思表示のつもりでした」と釈明した。<BR>
 同社広報部は「不偏不党を社是としており、今後もこの一貫した方針に変わりはありません」とコメントしている
 「新しい歴史教科書をつくる会」と通じて、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判と、田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長・空将)の「日本は侵略国家であったか」が結びつきました。
 「新しい歴史教科書をつくる会」(つくり会)と通じて、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(考える会)の安倍晋三元首相、中川昭一元財務相、中山成彬元国交相が結びつきました。
 政治運動である限り、学問や研究の視点から、個人がいくら切り込んでも無力だということが分かりました。
 事実に基づいた保守の論陣を期待すると同時に、第一ボタンを懸け違うと、言論弾圧、その後の戦争へ進んだという戦前の教訓から、大きな流れになる前に、情報を発信し続ける個人の役割も有力だということも分かりました。
つくる会」と「考える会」についての詳細←クリック
 今回が大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(最終回)です。最高裁の判決で、再度挑戦します。
 このシリーズで、日本の保守のひ弱さが検証されました。
 産経新聞の論客の1人である八木秀次氏(高崎経済大学教授)は、「中西輝政さん(京都大学教授)が月刊誌で背
筋の寒くなるような指摘をしています。共産党が候補者のいない選挙区では民主党に投票するということです。次の総選挙で確実に民主党が政権を獲る」と発言しています(『わしズム』2007年11月30日発行)。
 実際、2009年9月16日に民主党が政権を獲りました。さぞ、中西教授や八木教授は背筋が寒くなって、ブルブル震えていることでしょう。これが保守なのでしょうか。
 しかし、中曽根康弘元首相は、民主党政権が誕生した後のインタービューで「民主党は保守党ですよ」と答え、冷静に分析しています(朝日新聞)。
 二大政党制支持者の私には、つらい結果でした。産経新聞など保守を標榜するマスコミは、「反共」とか「日教組打倒」というだけの似非保守や史・資料を恣意的に使って事実を歪曲する歴史修正主義的保守や目的のためには手段を選ばない安直な保守を擁護することを止めて、頑固で、信念を持った、武術に優れた心身ともに頑健な真の保守を育成して欲しいものです。元東大総長・林健太郎氏のような敵からも尊敬される人物を育てて欲しいものです。

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