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ごあいさつ
第ニ十五回は学陽書房
童門冬二著『忠臣蔵の経営学』(T)

読後感想は「一体何だこりゃ!!」
筋立てもうまい
自分の得意な分野は一気に読ませる筆力
私が知っている史料の部分になると白ける
歴史小説家では尊敬している一人なのに…
 私は以前より、童門冬二氏に注目していた。小説家とか評論家というのは、組織に身をおいていない。だから、自由に物が言える。反面、他人と同じことを言っていたのでは存在理由がない。時として自分が出来ない評論をする。これが今の日本を駄目にしたと、私は思っている。
 その点、童門氏は東京都の職員として30年近く勤務し、広報室長、企画調整室長、政策室長など組織の長を務めている。その体験からくる発言には、他の人にはない「重み」があった。
 著作活動も『伊能忠敬-生涯青春』・『小説中江藤樹上・下』・『西吉野朝太平記』・『小説徳川秀忠』・『名君肥後の銀台細川重賢』・『家康と正信』(以上1999年)……『小説近藤勇』・『土方歳三』(以上2003年)と幅広い活躍をしている。
 そんな童門氏が忠臣蔵に取り組む。期待して読んだ結果が、「一体何だこれは!!」という感想になってしまった。童門氏の名誉のために、ここに2回に分けて報告したいと思う。
お土産の底上げは見るが
本の底上げは初体験
 右上の表紙のタイトルは『忠臣蔵の経営学』であるが、元のタイトルは「赤穂落城 元禄の倒産とその始末」となっている。サブタイトルの倒産や倒産劇は既におなじみであるが、帯の「その時、経営者は?、社員は?忠臣蔵の見方が変わる一冊」というのにひかれて、今回取り上げることにした。
 先ずショックだったのは、右の写真を見ていただきたい。このようなページが随所に出てくる。
 昔谷崎潤一郎氏は「原稿用紙1枚が●万円」という話を聞いたことがある。原稿料を稼ぐには改行につぐ改行をし、空白行を入れれば、原稿用紙はすぐ埋まる。
 童門氏が金儲け主義に堕すはずはない。では出版社が読者の知的レベルに合わせて改行につぐ改行を童門氏に迫ったのか。それを童門氏が受け入れるはずがない。文庫本化するにあたってページ数稼ぎか(252ページ、700円)。
 いずれにしても、「童門冬二氏の見方が変わる(不愉快な)一冊」であることに変わりはない。
「忠臣蔵を書くのは初めてだ」と童門氏
 次に内容を検討したい。
 浅野内匠頭のワイロ説について、当時はワイロ時代である。長崎奉行になるにはワイロが必要だったと長々と、忠臣蔵には無関係だが、童門氏の得意分野を披瀝する。内匠頭は勅使接待を名誉に思っているが、家臣団は金を食うとよく思っていない。しかしワイロはさせない。矛盾していないでしょうか(48・49P) 
 童門氏は「忠臣蔵を書くのは初めてだ」と言い、そのためにわざわざ赤穂まで取材している。そこでとんでもないことを発見する。「赤穂城は浅野家が全部自分の資金で造った」ということを…(52P)。この頃普請を許可された大名で、幕府の援助で城を造った大名はいるんでしょうか。大袈裟に騒ぐ事ではない。
 「城を造ったり、侍が多いのは財があるからだ。その浅野がケチるから、あの事件(いじめによる刃傷事件)になった」とうらやまれていた(55P) 。浅野の家臣は「お城は浅野のもの」という考えを持っていたので、収公を命令すると、無礼を働く事が目に見えていたので、吉良上野介の生存をわざと知らさなかった(60P)。童門氏にとって、「お城は浅野のもの」という説がどうしても欠かせないようだ。
 次に忠臣蔵に関係のない参勤交代の話が長々と続く。童門氏の得意な分野だけに力が入る。2〜3行で済む解説を93〜102ページまで付き合わされる。
 次に綱吉のケインズ経済政策が長々と展開される。綱吉が幕府高官や諸大名の屋敷を訪問するのは好色のためでなく、公共工事のためという新説が披露される(103〜108P)。
 浅野家では、一部国元で採用され、江戸勤務の者のほとんどが内匠頭に対する思慕の念が強い。「カッとして、突然キレたのだろうと、吉良への刃傷の理由を解説する者も多いが、必ずしもそうではないようだ」という(103P)。「…ようだ」という表現は伝聞表現である。やはり史料を探して書いて欲しい。
 それはともかく刃傷事件により、浅野内匠頭は切腹(社長は切腹)、お家(浅野企業)は断絶(倒産)、全藩士(会社員)は失業、江戸屋敷(江戸支店のビル)は没収、赤穂城(本社ビル)も没収ということになった(111P)。
 浅野家の歴史に見る赤穂藩の特性(121〜129P)ではよくしゃべるなーという感じである。結果論をうまくつないで、得意な分野なのだろう、妙に説得力がある。浅野家の祖である長政は豊臣秀吉の五奉行筆頭である。長政は「徳川家康を敵に回すと恐ろしいことになる。豊臣政権に危機が訪れる」と判断し、自分のほうから積極的に家康に接近していったのである。私のこの史料を知らないので、事実かもしれない。しかし、私の知っている史料からすると、家康が長政を口説いたのであって、長政がすりよったという事実はない(忠臣蔵新聞第004号参照←ここをクリック)。
 一国一城令の特例として認められたのが赤穂城であるという。「費用は全て浅野家で負担します」と言ったので、認められたという(123P)。「費用を負担する」と言ったかどうかの史料は知らない。しかし、幕府が城普請に好意的であったことは史料が証明している(忠臣蔵新聞第023号←ここをクリック)。だからといって、鉢植え方式によって大名を統制する幕府が、「浅野の城」という特例を認めることはない。幕府に負担されて普請されたお城があるのか、逆にお聞きしたい。
 私が知らない史料の部分では、童門氏の話は説得力がある。しかし、知っている史料の部分では、白ける。これは一体何を意味しているのだろうか。フィクションだから、氏の卓越した想像力で、点と点を結んで、線にしているのだろうか。

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