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ごあいさつ
第ニ十六回は学陽書房
童門冬二著『忠臣蔵の経営学』(U)

読後感想は「一体何だこりゃ!!」
筋立てもうまい
自分の得意な分野は一気に読ませる筆力
私が知っている資料の部分になると白ける
歴史小説家では尊敬している一人なのに
 私は以前より、童門冬二氏に注目していた。小説家とか評論家というのは、組織に身をおいていない。だから、自由に物が言える。反面、他人と同じことを言っていたのでは存在理由がない。時として自分が出来ない評論をする。これが今の日本を駄目にしたと、私は思っている。
 その点、童門氏は東京都の職員として30年近く勤務し、広報室長、企画調整室長、政策室長など組織の長を務めている。その体験からくる発言には、他の人にはない「重み」があった。
 著作活動も『伊能忠敬-生涯青春』・『小説中江藤樹上・下』・『西吉野朝太平記』・『小説徳川秀忠』・『名君肥後の銀台細川重賢』・『家康と正信』(以上1999年)……『小説近藤勇』・『土方歳三』(以上2003年)と幅広い活躍をしている。
 そんな童門氏が忠臣蔵に取り組む。期待して読んだ結果が、「一体何だこれは!!」という感想になってしまった。童門氏の名誉のために、ここに2回に分けて報告したいと思う。
 赤穂浅野家は代々多くの家臣を採用していた。内匠頭の時代も武林唯七など異色の侍をたくさん採用した。彼らに山鹿素行が反幕府的なことを説く。こうした政策が幕府の癇に触ったと童門氏は書く(136〜137P)。
幕府が目をつけるほど、浅野内匠頭は武士を採用せず
 『播州赤穂の城と町』(雄山閣)の「山鹿素行先生日記」の寛文12(1672)年の条によると、「六月二十六日太守(長友)家産乏しきの事ありて多くの家臣を放つ」とある。多くの家臣を解雇しても元禄6(1693)年で288人になる。事件当時は260〜270人なので、人数はそれほど増えていない。童門氏が指摘するように、幕府ににらまれるほど内匠頭は採用していない。
 同書の「湖山常清公(長直)行実」によると、「公の門下禄を食むの兵士二百十有余輩〔五万石の郡主騎兵を賦すること七十今殆ど官賦に三倍す〕」とあり、他藩より3倍も多かった事は事実である。
下剋上の思想は「君、君たらざれば、臣、臣たらず」
朱子学の思想は「君、君たらずとも、臣、臣たれ」
幕府が流した山鹿素行が赤穂家臣に自説を吹聴
 「朱子学という”マインド・コントロール”(140〜149P)」では誰もがよく知っている文章が長々と続く。童門氏の得意分野なのだろう。史料も何もいらない。多くの概説書だけで、作文の上手な人なら誰でも書ける内容である。
 「失業武士の再就職の条件は何だったのか」では150〜156Pを使って、忠臣蔵とは無関係な、違う時代の話を長々と披露する。ここも、童門氏の得意分野なのだろう。文に勢いがいい。
 大石内蔵助は吉良上野介を討つが、幕府に対する謀反でないことを理論付けする必要があった。それに1年かかった(161P)。ここら辺りは童門氏独特の切込みである。なかなか説得力があって、楽しい。
 大石内蔵助が当初考えていたのは、「弟大学様を主人とする新しい大名家の設置」だった(166P)。浅野本家や三次分家が「自分の領地を分けてやるから、浅野内匠頭の弟大学を主人に、新しい家を興せ」という手を打ったらどうなっただろうか(165P)。内蔵助の「不公平論」も消え、再就職できれば浅野浪人たちも「主人の恨みを晴らそう」などということは考えなかったのではないか(166P)。これも童門氏ならではの発想である。ただ、幕府に逆らって取り潰された家を、幕府が再興を認めるとは思えない。
 堀部らは主君が晴らせなかった恨みを家来の自分たちが果たそうとしているので、浅野家の再興とか自分たちの再就職なんかは最初から考えていない。内蔵助も浅野家再興を願っているが、それと主君の恨みを晴らすということは別問題と考えている。短絡的なな発想といえる。
 結局幕府は赤穂浅野家の再興を認めなかったので、大石内蔵助は逆恨みの討入りを実行することになる。逆恨みという根拠を童門氏は以下のように例える。
 「ある会社の社長に、自分の会社の社長が非道な意地悪をされた。そこで、公式の会議の席で、自分の会社の社長が意地悪をした社長に乱暴をした。暴力行為に及んだので、社長は罰されて会社は潰れた。こっちの社員は、全員、失業した。こっちの社員は、徒党を組んで、相手の会社に殴り込みをかけ、相手の社長を殺した。…こんなバカな論理が通用するわけがない」(169P)
 この例えが基本的に誤っているのは、山本博文東大教授が指摘しているように、「忠臣蔵は江戸時代の話で現代の感覚で判断してはいけない。武士の社会では”武士道”という道徳が何より優先される」。
 2点目は「自分たちの社長は生きている」のに、「相手の社長を殺」すという話である。「こんなバカな設定が通用するわけがない」
 大石内蔵助は「お家の再興と吉良上野介への処分」を求めて、「段階式再建法」を考えた。「籠城して、幕府軍と決戦すべきだ」という作戦が消えた。次に「開城・大手門前での切腹嘆願」という作戦はかなり長く続いた。激論の結果、最後に「籠城も切腹もせずに開城するが、嘆願を続ける」という現実的な作戦が選択された(177P)。童門氏はここでも、浅野家臣の「自分たちの城であるという愛城心」を強調する。 
 しかし、史料(岡山藩の忍びの報告)によると、数人の重臣によって開城は決定され、それに同意したものが29人ということになっている。その背景には浅野本家などからの圧力があったことが分かる。
忠臣蔵新聞第100号参照←ここをクリック)。
 身分制の当時、全員が大広間に集まって議論することは、あり得ない。
 1701年の11月10日に大石内蔵助が江戸に来て会議を開いている。上の間の内蔵助に発言できたのは次の間の200石以上の安兵衛らで、下の間の20石の大高源五は発言すら許されていません。(忠臣蔵新聞第114号忠臣蔵新聞第115号←ここをクリック)
 刃傷事件に対して浅野内匠頭に即日切腹を命じた。ところが、世論は支持しなかった。逆に、「浅野の切腹は不公平だ。…吉良上野介も切腹させるべきだ」と言い始めた。そこで、柳沢吉保は「世論を重んじながら、上さま(綱吉)の勢威が立つようにしよう」と考え、「赤穂浪士に、吉良上野介を討ちやすいようにしてやろう」と「権力者としての配慮」を実行した(186P)。この説は以前から言われていることで、特に新説ではない。
 195〜209ページを使って、ページ稼ぎの側用人政治のことが長々と書かれる。
 他方、この世論を誘導したのは大石内蔵助である。大石は「段階式再建法」を公開し、その結果も報告し、又誰にも分かるようにPRする(情報の公開)。世論は「赤穂浪士よ、早く吉良を討て」という「一気、一気」の合唱に変わっていったのである(222P)。さすが、東京都の広報室長だけあって、PRに関する文章は説得力がある。
 しかし、大石内蔵助がPRする以前から、江戸の世論は赤穂浪士の仇討ちを期待していたのである。その理由は綱吉の独裁政治にある。(1)貨幣改鋳によるインフレ政策(2)憐みの令による非人道主義政策(3)武断政治による恐怖政治の3つが上げられる(忠臣蔵新聞第113号参照←ここをクリック)。
 「吉良邸討入り事件は、倒産した浅野家の家老大石内蔵助と、5代将軍綱吉の側用人だった柳沢吉保との”あ・うんの呼吸”によって実行されたと言ってよい」(191P)。内蔵助は1年かかって、幕府が提唱する朱子学(「君、君たらずとも、臣、臣たれ」)を討入りの理論付けにすることに成功する。つまり討入り口上書に「君夫の仇」という文言を挿入したのである。
 柳沢吉保も「赤穂浪士に吉良を討たせることが、将軍綱吉公の学問的願いを実証することになる」と考えた。二人の路線が、ぴったり一致する(245P)。ここら辺の推理は歴史小説家第一人者としての風格を感じさせる。
 最初は玉石混交の文章なので、2人の小説家によって書かれたのかと思うほどであった。
 私の尊敬する童門氏にお願いします。ページ稼ぎをするような小説は書かないで下さい。司馬遼太郎氏のように一冊の本を書くのに、前作の印税を全てつぎ込んで資料集めをして欲しい。組織に長くいて、しかも組織の長を経験した小説家・評論家は稀である。その立場から、体験したり、出きる発言をして欲しい。日本再生に必要な視点は、「皆は…」でなく「私は…」という立場を語ることなんですから…。

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