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元禄14年3月14日発行夕刊(第046号)

忠臣蔵新聞

多門伝八郎さんの目撃証言

「私は乱心していない。私は5万石の城主である」
「お上には何の恨みもない」

刃傷松の廊下(長安雅山画)

『多門伝八郎筆記』を検証(1)
(1)「松の廊下で喧嘩があり、刃傷事件がおこった」
(2)「吉良上野介がケガをされたそうだ」
 元禄14(1701)年3月14日、お目付当番は多門伝八郎…でした。
 午前11時頃、殿中で大騒動があり、お目付部屋に次々と情報が入って来ました。「ただ今、松の廊下で喧嘩があり、刃傷事件がおこったそうだ。相手は分からないが、高家の吉良上野介がケガをされたそうだと言ってきたので、早速、目付部屋にいた私たちが松の廊下に駆けつけましたところ、上野介は同役の品川豊前守伊氏に抱えられて、桜の間近くの板縁で、前後を弁えず高い声で「医者を頼む」と言う舌は震えているように聞こえました。
史料(1)
 元禄十四年三月十四日御目附当番は多門伝八郎…也(中略)
 四ツ半時頃 殿中大騒動いたし御目付部屋江追々為知来ル、只今松之御廊下ニ而喧嘩有之及刃傷候趣、相手は不相知候へ共高家吉良上野介殿手疵を被負候由申来候間、早束(速)同役衆不残松之御廊下江罷越候処、上野介ハ同役品川豊前守伊氏被抱桜之間方近き御板縁にて前後不弁高声ニ而御医師相(願)度と言舌ふるへ候而被申聞候

『多門伝八郎筆記』を検証(2)
(1)「浅野内匠頭が梶川与惣兵衛に組み留められる」
(2)「浅野は、”私は乱心していない”と」
 松の廊下の角より桜の間の方へ逃げて来られということなので、畳一面血がこぼれていました。また、その側には顔色が血走しった浅野内匠頭が無刀にて、梶川与惣兵衛頼照に組み留められ、神妙に面持ちにて、「私は乱心していない。組み留めるのはもっともではござるが、最早、止めてくだされ。このように殺し損ねた上は、ご処分をお願いいたします。なかなか(いかにも)この上は、無理な刃傷はしないので、手を放し、烏帽子を着せ、大紋の衣紋を直し、武家のご法通り、仰せ付けられたい」と申されたが、梶川は手をゆるめませんでした。
史料(2)
 上野介は、松之御廊下角より桜之間之方江逃被参候趣故御畳一面血こほれ居候、又かたハらにハ面色血は(ば)しり浅野内匠頭無刀ニ而梶川与三兵衛(頼照)ニ組留られ神妙体ニ而私義乱心ハ不仕候、御組留之義は御尤ニは御坐候へ共最早御差免可被下候、ケ様打損し候上は御仕置奉願候、中々此上無体之刃傷不仕候間手を御放し烏帽子を御着せ大紋之衣紋を御直し武家之御法通被 仰付度旨被申候得とも、与三兵衛不差免候故、

『多門伝八郎筆記』を検証(3)
(1)「浅野は、”お上に対しましては、何の恨みもない”」
(2)「浅野は、”打ち損じたことは残念”」
 内匠頭はなおも「私は5万石の城主でござる。さりながら、お場所柄を憚らなかったことは重々申し訳なく思ってるが、式服を着ている者を無理に抱き留められては式服が乱れます。お上に対しましては、何の恨みもないので、お手向かいは致しません。打ち損じたことは残念にて、かようの結果になったからには、致し方はありません」とよくよくことを分けて申されましたが、梶川は畳に組み伏せ、ねじつけておりましたのを、私が受け取りました。
史料(3)
 内匠頭拙者義も五万石の城主ニ而御座候、乍去御場所柄不憚之段は重々恐入奉候へ共、官服を着候者無体之御組留ニ而は官服を乱し候、 上江対し奉何之御恨も無之候間御手向は不仕候、打損し候義残念ニ而ケ様ニ相成候上は致方無之と能々事を分ケ被申候へ共、与三兵衛畳江組伏セねぢ付ケ居候ニ付、(多門)伝八郎…ニ而受取(中略)

『多門伝八郎筆記』を検証(4)
(1)大いなるホラ吹きが混じっている
(2)内匠頭さんの尋問、検使役人など史実も描写
(3)批判的に利用すれば、やはり第一級史料
 『多門伝八郎覚書』を信用できないと、ばっさり切り捨てる人がいます。
 私も、『多門伝八郎覚書』の全てを信用しているわけではありません。しかし、目付部屋にいた多門伝八郎さんが「松の廊下で喧嘩による刃傷事件がおこった。相手は分からないが、上野介さんがケガをした」という情報を聞いて、松の廊下に駆けつけました。多門さんは、上野介さんが桜の間近くの板縁で「医者を頼む」と額から血を流しながら、震える声で大声に叫んでいる声を聞いています。
 多門さんは、梶川さんに抱き留められた内匠頭さんが「私は乱心していない。抱き留めるのを止めてくだされ。殺し損ねた上は、覚悟をしている」と言っている声を聞いています。
 その後、多門さんは、梶川さんは畳にねじ伏せている内匠頭さんを受け取っています。
 記者(私)は、刃傷事件以後の老中とのやり取りや田村邸でのやり取りには、大いにホラ吹きが混じっていると感じています。
 しかし、浅野さんを実際尋問していますし、田村邸に検使にもなっていますし、刃傷事件直後の描写は『梶川氏日記』とほぼ同じであり、大目付の庄田安利さんの罷免を書いているなど、史実を描写していると考えています。
 『多門伝八郎覚書』は、批判的に利用すれば、やはり第一級史料となります。

最近、井沢元彦氏が「新説(?)」を発表
「松の廊下で事件が起こったことは100%ない」
多くの読者から問合せが殺到
本社記者が「柳の間」説を検証
 最近、井沢元彦氏は、帯には”忠臣蔵はデタラメだらけだ”と銘打って、『逆説の日本史14』(小学館)の「文治政治と忠臣蔵の謎」を発行しました。
 それを読んだ読者の方から、「刃傷事件が松の廊下であったというのはデタラメなのか」とか「本当は柳の間であったのではないか」というような問合せが殺到しています。
 そこで、忠臣蔵新聞社としては、その真偽を検証することにしました。
 井沢氏が新説を出したのではないということが分りました。
 井沢氏は、近世史が専門の大石慎三郎氏が『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書)で書いた刃傷事件の部分(参考資料(1))から『易水連袂録』の部分をカットして引用(の部分)していました。
 大石氏の書籍は1995年発行です。「柳の間」説は、その後『易水連袂録』や『楽只堂年録』などを引用して、後追い記事もありましたが、最近の書籍のほとんどは「松の廊下」説です。
 井沢氏は、大石氏の「柳の間」説を週刊誌に紹介し、復活させた(?)のが2005年です。

近世史の専門家大石慎三郎氏
使っている史料は『易水連袂録』・『常憲院殿御実紀』・『梶川氏日記』
(1)松の廊下で事件が起こったことは100%ない
(2)白書院の廊下か柳の間なのか
松の廊下付近の図(A1)(『将軍と側用人の政治』(59P)より)

参考資料(1)
 以下が大石氏の文章です。
 「この事件に関する資料を集めた一番古い記録である『易水連袂録』によると、表にある「柳の間」から、通称「松の廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至るあたりで事件が起きたとされている。
 事件当日、吉良と立ち話をしていて、斬りつけた浅野を押さえつけた人物である梶川与惣兵衛の日記を見ても、はっきりとしたことはわからない。ただ彼は、打ち合わせをするために、吉良が白書院あたりから出てくるだろうと見当をつけて待っている。吉良の控の間、その仕事からして黒書院か白書院あたりに居たはずで、実際、白書院の方から出てきている。
 しかし、その場合も、松の廊下を通ることはあり得ない。松の廊下とは、将軍や御三家、朝廷からの勅使といった特別に地位のある人が通る通路だからである。だから、おそらく白書院の方から来て、大廊下(その中の西向かいの部分には松の絵がある)を経て、柳の間の廊下の辺りで二人が立ち話をしている時に、事件が起きたのではないかと思われる。
 幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない。いずれにせよ、芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」(『将軍と側用人の政治』69〜70P)。

大石氏説と『易水連袂録』を検証
(1)「内匠頭さんは、柳の間で、上野介さんと激しく口論」
(2)「正装した上野介さんは、約50メートルある廊下を逃げる?」
(3)「周囲の人は、スローモーションのカケッコを見てただけ?」
(4)「抱きとめた梶川さんはどこにいた?」
(1)史料(史料(4))は、『易水連袂録』の一節です。『波賀清太夫覚書』に「易水書物作者御旗本にこれ有る由」とあり、「易水書物」が「連袂録」であれば、旗本の著作物となります。元禄16(1703)年3月に自序を認めていますので、重要な書物です。
 ただ、この作者が、どの場で刃傷事件を見ていたかが不明で、梶川さん、栗崎さん、多門さんと比較して、私は、この史料の扱いに苦慮しています。
(2)まず大石氏が使用している『易水連袂録』(以下易水)を検討します。
 易水では、浅野さんと吉良さんは、柳の間で口論しています。その後、上野介さんは、約50メートルの廊下を小走りで逃げて行き、「送者之間」の入り口辺で事件が起きたとなっています。
 大石氏は、50メートルの廊下を「大廊下」、「送者之間」を「医師溜」としています。
*疑問1:大石氏が提示した絵図で確認しました。勅答用の装束を着た上野介さんが、柳の間から大広間の北の廊下を通り、大廊下を通り、白書院の南の廊下を通り、医師溜まで逃げています。内匠頭さんがそれを追っかけています。そんな不自然なことがあるのでしょうか。
*疑問2:大石氏は、将軍や勅使などの通る通路が松の廊下なので、「松の廊下を通ることはあり得ない」とされています。大石氏の図(A1)でも、大廊下とは「松の廊下」となっていますが、カッとなって、通ることのない「松の廊下」を通ってしまったということでしょうか。
*疑問3:よくお世話になる百楽天さんは、「柳之間を殿中席とする大名は80人近くいました。参勤交代で帰国中の者や役についている者もいたけれど、坊主などを含めれば30人くらいの人は柳之間にいたはずです」。ということは、この人々は、動画のようなスローモーションのカケッコをただ見ていただけなのでしょうか。
*疑問4:上野介さんと挨拶した梶川与惣兵衛さんは、2人を追走して抱きとめたのでしょうか。或いは、2人が来る地点を予想して、逆走して、待ち構えていたのでしょうか。
 井沢氏が易水を無視したのは、正しい判断だったかもしれません。

 史料(史料(4))の口語訳は、以下の通りです。
 「内匠頭さんはいかなる意趣があったのか、殿中をも憚らず、柳の間にて、上野介さんと何やら言葉荒々しく聞こえてきましたが、頓て(にわかにて)、上野介さんは柳の間を立ち、24〜25間ある廊下を小走りに逃げて行きました。
 「送者之間」へ取り付いた所にある仕切りの大杉戸を押し開き、やっと中に入らんとした所を、内匠頭さんが続いて追い詰め、後より上野介を”逃がさん”とと短刀を抜いて打ちかければ、上野介さんはその日の勅答用の装束で、烏帽子を着ていたので、小髷を後に掛け切り付け、上野介さんが振り向く所をまた一太刀切り付けると、烏帽子があって切れませんでした。…少し離れた側にいた梶川与惣兵衛さんというものが飛んできて、内匠頭さんを後より抱きすくめ…」
史料(4)
 内匠頭イカナル意趣ノ有ケルニヤ、殿中ヲモ憚ス、彼ノ柳ノ間ニテ上野介ト何ヤラコトハアラアラシク聞エシカ、頓テ上野介柳ノ間ヲ立、同二十四五間有廊下ツヽキ小走リニ逃行、
 送者之間エ取付所ニ〆隔ノ大杉戸ヲ押ヒラキ、既ニ内ニ入ントセシ所ヲ、内匠頭續テ追詰、ウシロヨリ上野逃サシト短刀ヲ拔討ニウチカケシカハ、上野其日装束ニテ、烏帽子ヲ著シ申サレシ故、小髷ヲ後ロ掛切付、振向所ヲ亦一太刀切申サレシカ…遥力側ニ居ケル梶川輿惣兵衛頼知(照下同ジ)ト云者飛来リテ、内匠頭ヲ後ヨリ懐スクメ…
『易水連袂録』の原文と口語訳は史料忠臣蔵をご覧下さい

大石氏説と『常憲院殿御実紀』を検証
(1)「白書院の廊下が大廊下か、柳の間廊下か、読みとれない」と判断留保
(2)「いずれにせよ、松の廊下でないことは、100%確実」と断定
(3)記者(私)は、そのギャップの大きさにビックリ!!
(1)大石氏は、「幕府の正式な見解では、事件が起きたのは白書院の廊下となっている。それが廊下の上の方、つまり大廊下に属する部分なのか、それとも医師溜くらいの下の方、つまり柳の間廊下なのか、そこからは読みとれない」(全文は参考資料(1)を参照)と書いて、判断を留保しています。
(2)大石氏は、「幕府の正式は見解」と紹介して、具体的な史料名は明示していません。文章から判断して『常憲院殿御実紀』のことでしょう。そこには、「梶川与惣兵衛さんは、白木書院の廊下で、吉良上野介さんと立ちながら物語している」とあります(史料(5)の口語訳)。この史料からは、「白(白木)書院は大廊下である」としか読み取れません。
(3)しかし、大石氏は、『易水連袂録』の不自然さを無視し、『常憲院殿御実紀』の大廊下説も無視し、「いずれにせよ、芝居で演じられるように松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」と断言するのです。
(4)「白書院の廊下」を「大廊下に属する部分なのか」「柳の間廊下なのか」「読みとれない」と判断を保留していながら「いずれにせよ、松の廊下でないことは、100%確実」と無責任なことを言われても、困ってしまいます。

 史料(史料(5))の口語訳は、以下の通りです。
 「梶川与惣兵衛さんは、勅使の件で、白木書院の廊下で、高家の吉良上野介さんと立ちながら物語していると、浅野内匠頭さんが後より”宿意(以前からいだいている恨み)あり”と言いながら小さ刀で切り付けました」
史料(5)
 留守居番梶川与惣兵衛頼照は御台所御使奉はり公卿の旅館に赴くにより、その事議するとて白木書院の廊下にて高家吉良上野介義央と立ながら物語せしに、館伴浅野内匠頭長矩義央が後より宿意ありといひながら少さ刀もて切付たり
『常憲院殿御実紀』の原文と口語訳は史料忠臣蔵をご覧下さい

大石氏説と『梶川氏日記』を検証
(1)大石氏「日記を見ても、はっきりとしたことはわからない」
(2)大石氏が見落とした『梶川氏日記』に重要な内容
*1「吉良殿が御白書院の方よりやって来た」
*2「松の廊下の角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合う」
江戸城松の廊下(A2)(東京都立中央図書館)
(中央義士会中島会長「緑字」、百楽天さん「白地に黒字」、●●が所定の場所、記者(私)「赤字」)
(1)大石氏が使用した3つめの史料(『梶川氏日記』)を検討します。
 大石氏は「梶川与惣兵衛の日記を見ても、はっきりとしたことはわからない。…(吉良は)実際、白書院の方から出てきている」と書いています。
(2)しかし、『梶川氏日記』の原文を見ると、大石氏が見落としたのか、無視したのか、重要な内容が欠落しています。その史料には、「其後御白書院の方を見候ヘハ吉良殿御白書院の方より来り被申候」(その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られた)とあります。さらに、「角柱より六七間もあるへき所にて双方より出合、互に立居候」(角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで)とあります。
(3)つまり、大石氏が見落とした史料には「角柱より14メートル離れたところで、白書院から出てきた吉良さんと出会った」と書いてあるのです。
(4)この史料の重要なポイントは絵図(A2)の角柱()の位置です。(「百楽天」さんがこだわったポイントです)。
(5)以上の事から、「白書院の廊下」は「大廊下に属する部分なのか」ではなくて、「大廊下に属する」とすべきではないでしょうか。

 史料(史料(6))の口語訳は、以下の通りです。
 「さて大廊下の御椽の方、角柱の辺りより見ると、大広間に近い方の御障子際に浅野内匠頭長矩さんと伊達左京亮村豊さんが居られ、それより御白書院(桜間)の杉戸の手前に2〜3間おいて高家衆が大勢居られるように見えたので、私は、後ろの方に来た坊主に”吉良上野介殿を呼んでくれ”と申しました…」
 「その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿の所へ呼び遣わし、吉良殿に”その件について申す伝えるように”と話すと、吉良さんは”承知した”とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が”今日、御使の時間が早くなりました”と一言二言言ったところ」
 「誰かが、吉良殿の後ろより「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付けました」
史料(6)
 「さて大廊下御椽の方角柱の辺より見やり候へは、大広間の方御障子際に内匠・左京(伊予吉田藩主伊達村豊)両人被居夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て高家衆大勢被居候体見へ候間、右の坊主に吉良を呼被呉候様申候」(略)
 「其後御白書院の方を見候ヘハ吉良殿御白書院の方より来り被申候故又坊主ニ呼ニ遣し吉良殿へ其段申候ヘハ、承知の由にて此方へ被参候間拙者大広間の方へ出候て角柱より六七間もあるへき所にて双方より出合、互に立居候て今日御使の刻限早く相成候義を一言二言申候処」
 「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候」
『梶川氏日記』の原文と口語訳は史料忠臣蔵をご覧下さい
最新版「忠臣蔵新聞-ドキュメント刃傷松の廊下」をご覧下さい

(1)情報(史料)が一部に独占されていた時代
*1「この史料が目に入らないか!!」
*2「恐れ入り入谷(いりや)の鬼子母神」
(2)今やネット時代、情報(史料)が自由に入手できる時代
*1「この史料が目に入らないか!!」
*2「何とおっしゃるウサギさん」
 昔のように、情報(史料)が権力者や学者に独占されていた時に、「史料が目に入らないか!!」と一括されると、反論する情報(史料)持たない私たち庶民は「恐れ入り入谷(いりや)の鬼子母神」てな具合だったでしょう。
 今はネット社会です。「何とおっしゃるウサギさん」ですよ。
出典
「多門伝八郎覚書」・「常憲院殿御実紀」(赤穂市発行『忠臣蔵第三巻』)
『忠臣蔵とその時代』(講談社)
長安雅山画『刃傷松の廊下』(赤穂市立歴史博物館)
「易水連袂録」(『赤穂義士史料下』)
凡例
文字−原史料を抹消している箇所

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