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エピソード

304_07

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(5)
HTML版:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判━高裁判決全文(1/3)←クリック
大江・岩波沖縄戦━裁判年表(左右でなく、東西の視点で編集)←クリック
 紙データをペーパーレス・データ(デジタル)化し始めたのが1986(昭和61)年です。
 高裁判決の全文を入手したのがPDF版を印刷した紙データでした。A4サイズで191枚もありました。これでは丹念に検証できません。
 そこで、紙データをOCR(文字認識処理ソフト)で、デジタルデータに変換し、PDF版を参照しながら、校正に努めました。改行も、校正しやすいように、PDF版と同じようにしました。
 毎日毎日、約8時間、パソコンと取り組んで、約2か月かかりました。OCR(文字認識処理ソフト)によるコンバートが終わってほっとしたのか、健康が自慢の私ですが、過労がたたって、年末・年始には風邪を引いてしまいました。
 今回は、1〜94ページの内、34〜94ページを検証しました。クリックしてご利用ください。
 なぜ、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判にこだわるかといえば、この裁判に大きな意味を感じているからです。
(1)戦前、公正・中立であるべきマスコミが情報を操作して、戦争への道に進んでいった。今はどうか。
(2)戦前、情報を操作するために、自分の都合のいい資料は採用するが、都合の悪い資料を排除するという歴史修正主義的な手法が採用された。今はどうか。
(3)過去を調べ、現状を知り、今後どう対応するかが、歴史に携わる者の使命である。
 前回に指摘した私の確認事項を検証する前に、高裁の判断を見てみたいと思います。
 原告側は、高裁の判断を不満として最高裁に上告しています。その結果も、いずれ、報告します。
 素人の私は、遂条的に点検する方法を採用しています。

HTML版:事案の概要全文(034-058P)←クリック
4 争点C(真実性の有無)について
(1)被控訴人らの主張
ア 背景事情
(ア) 軍は、村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握り、住民に対し、軍への協カを、防衛隊長、村長、助
役、兵事主任などを通じて命令した。このように、軍官民共生共死の一体化による総動員体制が構築されていた。
(イ) 兵事主任や防衛隊長の指示・命令は、軍の指示・命令そのものであった。
(ウ) 住民は、日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主在)らから、あるべき心得を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」と指示されていた。
(エ) 軍官民共生共死の一体化の総動員体制を併せ考えると、控訴人梅澤による自決命令及び赤松大尉による自決命令もあったというべきである。
要約1:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)沖縄では、「軍官民共生共死の一体化による総動員体制が構築されていた」と主張します。
イ 座間味島について
(ア) 自決命令を示す文献等
a「鉄の暴風」(乙2)
(a) 「鉄の暴風」は、住民から直接取材し、得られた証言をもとに執筆された。
 「鉄の暴風」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
(b) 控訴人らは、執筆者の牧志伸宏が、神戸新聞において、控訴人梅澤の自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張するが、・・沖縄タイムス社は、現在もなお、控訴人梅澤が自決命令を出したという見解を維持している。
b 「座間味戦記」(乙3)は、座間味村が援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。
 「座間味戦記」には、控訴人が座聞味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
c 「秘録 沖縄戦史」(乙4)は、山川泰邦が、警察や琉球政府社会局の調査資料をもとに執筆したものである。
 「秘録 沖縄戦史」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
d 「沖縄戦史」(乙5)は、沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史が、琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。
 「沖縄戦史」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
要約2:大江氏らは、座間味島の自決命令を示す文献として、「鉄の暴風」・「座間味戦記」らを挙げています。
e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6)は、下谷修久が、座間味島に赴き、住民の供述をまとめたものである。
 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
f 「秘録 沖縄戦記」(乙7)は、「秘録 沖縄戦史」を執筆した山川泰邦が、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。
 「秘録 沖縄戦記」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
g 「沖縄県史 第8巻」(乙8)は、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会により編集された。
 「沖縄県史 第8巻」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
h 「沖縄県史 第10巻」(乙9)は、沖縄の公式な歴史書であり、沖縄県教育委員会の編集により発行された。
 「沖縄県史 第10巻」には、控訴人梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
要約3:大江氏らは、自決命令を示す文献として、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」らを挙げています。
i 米軍の慶良間列島作戦報告書
 上記報告書には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述がある。
 この報告書の記載を控訴人らの主張のとおりに、「民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶良間島の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして自決しなさい、と繰り返し言っていた。」と英訳したとしても、日本軍が慶留聞島の住民に自決を指示していたことに変わりはない。
j 「沖縄県史 第10巻」(乙9)等には、宮里とめ、宮平初子など、座間味島の集団自決が軍の命令で行われたことを示す手記等が記載さんているほか、宮里育江らも、近時、新聞の取材に応じて、同趣旨を語るなどしている。
k 以上のとおり、住民の集団自決は、軍すなわち控訴人梅澤の自決命令によるものであることが明らかである。
要約4:大江氏らは、自決命令を示す文献として、米軍の慶良間列島作戦報告書を挙げています。
(イ) 控訴人ら主張の文献、見解等に対する反論
a 控訴人梅澤の陳述書について
 「母の遺したもの」(甲B5)に紹介されている宮城初枝の手記では、控訴人梅澤は、盛秀助役らの申出を聞いた後、「今晩は一応お帰りください。お帰りください。」と答えただけであったとされており(甲B5)、控訴人梅澤の陳述書で控訴人梅澤が「決して自決するでない。共に頑張りましょう」と述べたとされているのと重大な食い違いを示している。
b 神戸新聞には、初枝の話として、「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」と記
載されているが、初枝は、手記ではそのような事実を語っておらず、娘である証人宮城晴美も初枝からそのような話は聞いていない(甲B5)。
c 大城将保主任専門員の見解について
 控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」が掲載されたのは、梅澤らの談話が神戸新聞に掲載され、控訴人梅澤の異議がある以上、史実を解明する史料とするためであって、「沖縄県史 第10巻」の記述を修正したものではない。
要約5:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)宮城初枝の手記では、控訴人梅澤は、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と答えただけとあるが、梅澤の陳述書には「決して自決するでない。共に頑張りましょう」とあり、重大な食い違いがある。
(2)神戸新聞には、「『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」とあるが、初枝も娘・宮城晴美もそのような話は聞いていない。
(3)「沖縄県史 第10巻」に梅澤の手記・「戦斗記録」が掲載されたのは、史料としてで、記述の修正ではない。
d 宮村幸延の証言について
 宮村幸延は、「証言」(甲B8)を作成し押印した記億はなく、宮村幸延が作成し押印したものではないと述べている。
 宮村幸延は、控訴人梅澤から、昭和62年3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、
家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒否した。同月27日、宮村幸延は泥酔状態となった。宮村幸延の意思に基づくものではないことは明らかである。
 宮村幸延は、座間味島の集団自決があった当時、山口県で軍務についており、集団自決の経緯について証言できる立場になかった。
e 「母の遺したもの」について
 「母の遺したもの」によれば、初枝自身、自分が控訴人梅澤が自決を命じなかったと言ったことで軍の命令がなか
ったとされては困る、住民は軍の命令だったと思っていると述べ、第3次家永教科書訴訟の際の文部省の指示に怒
りをあらわにしていた。
 また、初枝は、「家の光」に投稿し、控訴人梅澤が自決命令を出したことを積極的に述べていた。
f 住民の手記について
 初枝の手記には、軍曹から自決用に手榴弾を渡されていた旨の記載がある。
要約6:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)宮村幸延は、援護法の適用のためという「証言」を作成し押印した記億はないと述べている。
(2)「母の遺したもの」によれば、初枝は「自分が『控訴人梅澤が自決を命じなかった』と言ったことで軍の命令がなかったとされては困る」と述べている。
(3)初枝は、「家の光」で、控訴人梅澤が自決命令を出したことを積極的に述べている。
(ウ) 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応
a 控訴人梅澤から「鉄の暴風」の記述の訂正と謝罪を求められた沖縄タイムス社は、座間味村村長に対し、昭和63年11月3日付けの文書(乙20)により、座間味島の集団自決についての座間味村の公式見解について照会した。
 これに対し、座間味村村長は、控訴人梅澤による自決命令はあった、宮村盛永など多くの証言者が自決命令があったと述べている、集団自決が村の助役の命令で行われた事実はない、宮村幸延は酩酊状態で控訴人梅澤に強要されて「証言」(甲B8)に押印した、援護法の適用のために自決命令を作為した事実はない旨回答をした。この回答には、座間味村の沖縄県援護課宛ての文書(乙21の2)が添付されており、座間味村は、沖縄県援護課に対しても、同趣旨の回答をしていた。
 その後、沖縄タイムス社が、控訴人梅澤に対し、座間味村の上記公式見解を得たことを示したところ、控訴人梅澤は、「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない。」と述べ、沖縄タイムス社に対して「鉄の暴風」の記述の訂正・謝罪要求はしないことを
明言した(乙22)。
 このように、控訴人梅澤は、座間味村の上記公式見解を受け入れたのである。
b 控訴人らは、宮村盛永の「自叙伝」に控訴人梅澤の自決命令の存在をうかがわせる記述は一切ないと主張する。
 しかし、「自叙伝」には、「その時、今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった」との記述がある。
要約7:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)控訴人梅澤から「鉄の暴風」の記述の訂正と謝罪を求められた沖縄タイムス社は、座間味村村長に対し、座間味村の公式見解について照会した。
(2)その結果、「梅澤による自決命令はあった」「援護法の適用のために自決命令を作為した事実はない」旨の回答を得た。
(3)座間味村の公式見解を知った梅澤は「座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません」と述べた。
(エ) 援護法適用のための捏造について
 控訴人らは、集団自決について援護法の適用を受けるため、座間味村が厚生省に陳情し、適用を拒否されたが、隊長命令があったのであればと示唆され、隊長命令があったことにして援護法の適用を受けるに至ったと主張する。
 援護法の公布は昭和27年であるところ、集団自決が日本軍の隊長の命令によることは、援護法の適用が検討される以前である集団自決発生当時から座間味村及び渡嘉敷村当局や住民たちの共通認識となっていたから、控訴人らの前記主張は失当である。
 また、控訴人の命令による集団自決は、当初から「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして、援護法による補償の対象とされていた。
 その他、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙36)、「沖縄作戦講話録」(乙37) からも、集団自決が、当初から「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして援護法による補償の対象とされていたことが分かる。
要約8:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)援護法の公布は昭和27年である。しかし、適用以前から集団自決は住民たちの共通認識となっていた。
(2)集団自決は、当初から「戦闘協力者」に該当するものとして、援護法による補償の対象とされていた。
ウ 渡嘉敷島について
(ア) 自決命令を示す文献等
a 「鉄の暴風」(乙2)
 太田良博は、山城安次郎と宮平栄治以外の直接体験者からも取材しており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。
b 「戦闘概要」(乙10)
(a) 「戦闘概要」は、当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力の下、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。
 「戦闘概要」には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
(b) 「戦闘概要」と「・・戦争の様相」との関係についての控訴人ら主張は根拠のない憶測にすぎない。
c 「秘録 沖縄戦史」(乙4)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
d 「沖縄戦史」(乙5)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
要約9:大江氏らは、渡嘉敷島の自決命令を示す文献として、「鉄の暴風」・「戦闘概要」らを挙げています。
10 e 「沖縄敗戦秘録」(乙6)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
f 「秘録 沖縄戦記」(乙7)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
g 「沖縄県史 第8巻」(乙8)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
h 「沖縄県史第 10巻」には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(乙11)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(乙11)には、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」(乙12)は、渡嘉敷村役場の富山兵事主任の、赤松大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨の供述を記載した新聞記事である。それには、「一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」との記述がある。
要約10:大江氏らは、渡嘉敷島の自決命令を示す文献として、「沖縄敗戦秘録」らを挙げています。
11 l 「渡嘉敷村史」(乙13)
 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村の公式な歴史書として、平成2年3月31日、渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものである。そして、「渡嘉敷村史通史編」には、渡嘉敷村役場の富山兵事主任による供述を主な内容とする次のような記載がある。「三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の<集団死>事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである」「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである」
m 米軍の慶良間列島作戦報告書については、前記載のとおりである。
n 以上の文献等からも、・・軍を統率する最高責任者は赤松大尉であり、陣中日誌(甲B19)から明らかなように、弾薬である手榴弾は、軍の厳重な管理の下に置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松大尉の意思と関係なく、手榴弾を配布し、自決命令を発するなどということはあり得ないし、証人皆本義博も、「軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない」旨証言している。
 赤松大尉が具体的にどのように自決命令を発したかは必ずしも明確でないが、軍は、住民に対し、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときには捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ指示していたから、この点からも、軍の自決命令すなわち赤松大尉の自決命令があったことは明らかである。
要約11:大江氏らは、渡嘉敷島の自決命令を示す文献として、「渡嘉敷村史」らを挙げています。
12 (イ) 控訴人ら主張の文献等に対する反論
a 「ある神話の背景」について
 その著者である曽野綾子は、取材過程において富山兵事主任に会ったことはないと記しているが(乙24)、曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭が指摘しているように、曽野綾子が渡嘉敷島を調査した昭和44年当時、富山
兵事主任は、渡嘉敷島で2回ほど曽野綾子の取材に応じているのであり(乙11)、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てた著作である。
b 「陣中日誌」について
 「陣中日誌」(甲B19)は、昭和45年3月に赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の同年8月に発行されたものであり、・・「陣中日誌」(甲B19)に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。
c 「沖縄戦ショウダウン」について
 米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松大尉は、これを捕らえて処刑し(乙8、乙13)、投降を呼びかけにきた少年2人を処刑し(乙8)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安を、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8)。「沖縄戦ショウダウン」は、赤松大尉を「人間の鑑だ」などと評価している者の供述だけ・・であり、信用性がない。
d 照屋昇雄の供述について
 照屋昇雄は、援護法を適用するために集団自決が軍の命令によるものであるとの虚偽の申請を行ったという趣旨の供述をしている(甲B35)。
 さらに、照屋昇雄は、赤松大尉の同意を得て、赤松大尉が集団自決を命じた文書を当時の厚生省に提出したと供述するが、現在の厚生労働省によれば、そのような文書は保有していないとのことである(乙60及び61)。援護法に基づく給付は現在も継続して行われているから、そのような文書が作成されていたのであれば、それが廃棄されて存在しないということはあり得ない。
 以上のことから、照屋昇雄の供述は信用できない。
要約12:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)「ある神話の背景」の著者である曽野綾子は、富山兵事主任に会ったことはないと記しているが、富山兵事主任は、渡嘉敷島で2回ほど曽野綾子の取材に応じている。
(2)「陣中日誌」は、赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後に発行されたものである。
(3)「沖縄戦ショウダウン」は、赤松大尉を「人間の鑑だ」などと評価している者の供述だけである。
(4)照屋昇雄は、赤松大尉の同意による集団自決を命じた文書を厚生省に提出したと供述するが、現在の厚生労働省によれば、そのような文書は保有していない。
13 (ウ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者について
 控訴人らは、・・命令者・伝達者・受領者が分からない命令はあり得ないから自決命令で集団自決したとすることはできない旨主張する。
 しかし、・・3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(防衛隊員が伝達したことは明らかであるが)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。
(エ)自決命令の言い換えについて
a 控訴人らは、古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、古波蔵村長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。
 しかし、古波蔵村長は、・・防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具体的に供述しており、古波蔵村長が、赤松大尉が自決命令を出したことを明確にしていることは明らかである。
b 控訴人らは、昭和63(*1988)年になって突然、手榴弾の配布を自決命令であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張する。
 「潮」*昭和46(1971)年11月号(甲B21)の記事には「自決のときのことは話したくないンですがね…」とある。
 朝日新聞の記事(乙12)において、「あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」と供述をした理由を明確にしている。
要約13:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)命令の伝達経緯が明確でないからといって、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。
(2)昭和63(*1988)年になって突然、手榴弾の配布を自決命令であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張するが、それより17年前の「潮」*昭和46(1971)年11月号には「自決のときのことは話したくないンですがね」とある。
14 (オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について
 控訴人らは、恩賜の時計など赤松大尉の記念品が渡嘉敷村の資料館に飾られることもあり得ない旨主張する。
 資料館に時計が飾ってあるとしても、赤松大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけではない。
(カ) 自決命令を記載していた文献の絶版等について
 「沖縄問題20年」が出庫終了となったのは、「ある神話の背景」により赤松大尉の自決命令が虚偽であることが露見したからではない。「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」を併せて「沖縄戦後史」を出版し・・出庫終了となった。
(キ) 控訴人らは、安里巡査の説明(甲B16)と星雅彦記者の記事(甲B17)に基づいて主張しているが、両者の説明はいずれも信用性がない。
 星雅彦自身認めるとおり、星雅彦の記事は、星の想像に基づいたものにすぎない。
 安里巡査については、集団自決の現場へ住民を集結させながら、状況を赤松大尉に報告するため自決はできないとして、自らは、集団自決の現場から少し離れたところから見ていたとされる人物であり(乙9)、その責任を逃れる
ため、集団自決は軍や赤松大尉の命令によるものではなかったとしなければならない立場にある人物であるから、
信用性がない。
(ク)証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について
a 皆本証人は、・・常時赤松大尉の傍らにいたのではないことを認めており、赤松大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。
b 証人知念朝睦は、赤松大尉自身が認めている住民に対する西山への避難命令について、知らなかったと証言しており・・赤松大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にない。
要約14:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張します。
(1)資料館に時計が飾ってあるとしても、赤松大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけではない。
(2)「ある神話の背景」により絶版になったのではなく、「沖縄戦後史」として出版した結果である。
(3)自決から逃避した安里巡査の証言は、責任を逃れるためである。
(4)常時赤松大尉の傍らにいなかった皆本証人は、自決命令がなかったと証言できる立場にない。
(6)避難命令について知らなかったと証言する知念朝睦は、自決命令がなかったと証言できる立場にない。

HTML版:事案の概要全文(058-086P)←クリック
(2) 控訴人らの主張
ア 真実性の対象となる命令
 被控訴人大江の論評の前提となった事実は、・・「無慈悲直接隊長命令説」であり、これと異なる命令について立証しても、真実性の立証とはならない。
 被控訴人らは、「手榴弾交付命令説」、「政治体制命令説」、「広義の命令説」を展開する。
 しかし、手榴弾交付命令説は、・・これを立証しても、無慈悲直接隊長命令説の立証にはならない。
 また、政治体制命令説は、・・旧ソ連や北朝鮮でも聞かない。
 広義の命令説は、・・無慈悲直接隊長命令説の範囲を都合良く拡大解釈するものである。
 被控訴人らは、背景事情を軍の自決命令と結びつけているが、それは、極めて粗雑な議論である。
要約1:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)被控訴人大江の論評の前提となった事実は、「無慈悲直接隊長命令説」であり、これと異なる命令について立証しても、真実性の立証とはならない。
イ 援護法適用のための捏造
(ア)a 座間味島の集団自決が控訴人梅澤の自決命令によるものであるとされたのは、援護法の適用のためである。
 「母の遺したもの」(甲B5)には、「援護法は、軍人・軍属を対象に昭和27年に施行され・・た。つまり、一般住民の死者たちに対して、単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが、『日本軍との雇用関係』にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなければならなかった」「その結論を得るまでの作業として、まず厚生省による沖縄での調査がはじまったのが昭和32牢3月末で、座間味村では、4月に実施された。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の
1つ1つに、『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答えたという。」「座間味村役所では、厚生省の調査を受けた後、村長を先頭に、集団自決の犠牲者にも援護法を適用させるよう、琉球社会局を通して、厚生省に陳情運動を展開した」「陳情の成果なのか、昭和34年、戦闘参加者への援護法の適用とともに、慶良間諸島の6歳未満を含む集団自決の負傷者や遺族に、障害年金、遺族給年金が支給されるようになった」との記述がある。
要約2:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「母の遺したもの」には、陳情の結果、戦闘参加者への援護法の適用とともに、集団自決の負傷者や遺族に年金が支給されるようになった」との記述がある。
b 渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の自決命令によるものであるとされたのも、援護法の適用のためである。
 琉球政府社会局援護課の元職員である照屋昇雄は、平成18年8月27日付け産経新聞において、渡嘉敷島の集団自決について、援護法の適用のために軍による命令ということにしたものであり、軍命令とする住民は1人もいなかったと述べた。
 援護法では一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動したことにして準軍属扱いとすることを企図し、照屋昇雄らが、赤松大尉が自決命令を出したとする書類を作成し、厚生省に提出した。これにより、集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が、年金や弔慰金を受け取れるようになった。
c その他にも、控訴人の陳述書(甲B1)や本田靖晴の「第一戦隊長の証言」(甲B26)など、援護法適用のために、座間味島の集団自決を控訴人梅澤の命令によるものであることにしたこと及び渡嘉敷島の集団自決を赤松大尉の命令によるものであることにしたことを示す関係者の証言、文献等がある。
要約3:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)照屋昇雄は、産経新聞において、集団自決について、援護法の適用のために軍による命令ということにしたものであり、軍命令とする住民は1人もいなかったと述べた。
(2)本田靖晴の「第一戦隊長の証言」など、援護法適用のために、集団自決を梅澤・赤松の命令によるものであることにしたことを示す関係者の証言、文献等がある。
(イ)a 被控訴人らは、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、粗雑な推論をして事実を歪曲する。
 昭和27年4月援護法の公布。援護法の目的は、軍人軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
 昭和27年8月政府(は)、援護法の沖縄への適用を考えていたため、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した。
 昭和28年3月南西諸島にも援護法の適用が認められ、宮村幸延が座間味村の援護係に着任する。
 昭和30年3月総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する。
 昭和31年3月男子生徒は全員軍人。女子戦没学徒は軍属として死亡処理され、援護法の適用開始。
 昭和31年3月厚生省の援護課事務官が、戦争体験の実情調査に訪れ・・、初枝に対する事情聴取も行われた。  昭和31年ころまでに、照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施し、控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が公認されることとなった。
 昭和32年7月厚生省が、一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、・・一般住民も兵士同
様「準軍属」扱いされることになる。
b 「沖縄作戦講話録」(乙37) は、「渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)」としており、「鉄の暴風」の記載(座間味島52名)や「住民処理の状況」(乙36)の記載(座間味村155名、渡嘉敷村103名)と大きく異なっている。・・控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が虚偽であることを示している。
c 被控訴人らは、「鉄の暴風」が出版された昭和25年には援護法摘要の問題は発生していないと主張する。
 しかし、「ある神話の背景」(甲B18)にあるように、「鉄の暴風」出版前に、・・島に残っていた者はその責任を追及されることになり、責任を回避するために集団自決が軍の命令によるものだとせざるを得ず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる。
要約4:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)援護法の目的は、軍人軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
(2)照屋昇雄が聞き取りを実施し、控訴人梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が公認されることとなった。
(3)厚生省が「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、一般住民も兵士同様「準軍属」扱いされることになる。
(4)「鉄の暴風」が出版された年には援護法摘要の問題は発生していないというが、「ある神話の背景」には、責任を回避するために集団自決が軍の命令によるものだとせざるを得ず、それが風説として流布したものであるとしている。
ウ 座間味島について
(ア) 集団自決は盛秀助役の命令で行われたこと
 「母の遺したもの」(甲B5)及び初枝の手記(甲B32)によれば、住民に対し、忠魂碑前に集合し玉砕するよう命令したのは、盛秀助役であつた。
 「母の遺したもの」には、概要、「そこで、盛秀が戦隊長を前に発した言葉は、『若者たちは軍に協カさせ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい』ということだった。・・じっと目を閉じて座っていた戦隊長はやおら立ち上がり、『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と、 五人を追い返すように声を荒げて言い、申し入れを断った。・・その帰り道、 盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かっ
て『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかった
が『玉砕』の伝令を命じた様子だった。・・盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に
相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない」との記述がある。
 座間味村の助役であった盛秀助役が、・・軍の命令ととれるような形で、住民に指示したというのが実態であった。
要約5:梅澤裕氏らは、「母の遺したもの」により、被控訴人に対して次のように主張しています。
(1)「忠魂碑前に集合し玉砕するよう命令したのは、盛秀助役であつた」。
(2)「戦隊長は『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と申し入れを断った」。
(3)「その帰り道、 盛秀は突然、部下・恵達に『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように』と言った」。
(4)以上から、盛秀助役が軍の命令ととれるような形で、住民に指示したというのが実態であった。
(イ) 被控訴人ら主張の文献に対する反論
a 「鉄の暴風」について
(a) 「鉄の暴風」の初版には、「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」との記述があり(甲B6)、・・風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。
 また、沖縄タイムス社の牧志伸宏は、昭和61年6月6日付けの神戸新聞(甲B10)の取材に対し、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経過があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされた梅沢さんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の執筆者らと十分に協議、誠意を持って梅沢さんの理解が得られるようにしたい」と、経過と内容の杜撰さを認めている。
(b) 神戸新聞の中井和久記者は、沖縄タイムス社に対する電話取材を確かに行い、記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B34)。
 新聞記者の職業倫理からすれば、中井記者が牧志伸宏のコメントを捏造するはずがない。沖縄タイムス社は神戸新聞の記事に対して、抗議もしていない。
b 「座間味戦記」について
 座間味村当局が琉球政府及び日本国政府に提出した「座間味戦記」は、援護法の遺族補償を受けるために、集団自決が控訴人梅澤の命令によるものであるという事実の意図的改変を行ったものである。
要約6:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)沖縄タイムス社の牧志伸宏は、神戸新聞の取材に、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経過があり、梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ」と、経過と内容の杜撰さを認めている。
(2)沖縄タイムス社は神戸新聞の記事に対して、抗議もしていない。
(3)「座間味戦記」は援護法の補償を受けるため、集団自決は梅澤の命令によると意図的改変を行ったのである。
c「秘録 沖縄戦史」等について
(a) 大城将保の指摘(甲B14)を踏まえて検討すれば、「老人子供は忠魂碑前で自決せよ」という内容を持つ梅澤命令説は、昭和32年ころの「座間味戦記」に初めて現れ、それが引用されて昭和43年、公開の文献である「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」に載ったことになる。
 また、梅澤命令説を一般に広めることになった「秘録 沖縄戦史」は、大城将保も指摘するとおり(甲B14)、座間味戦記の引用であり、「秘録 沖縄戦史」の中身は、同じ山川泰邦が昭和44年に著した「秘録 沖縄戦記」の元版(乙7)でも大きな変更のないまま維持されている。
 さらに、昭和34年ころに著された「沖縄戦史」の記述は、「秘録 沖縄戦史」とほぼ同様であり、「沖縄県史 第8巻」の内容も「秘録 沖縄戦史」の要約といってもよいものであり、大城将保自身が記載した「沖縄県史 第10巻」は、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6)所収の初枝の「血ぬられた座間味島」を参考に書かれたものである(甲B14)。
 すなわち、以上の諸文献は、「座間味戦記」を淵源としている。
(b) したがつて、「秘録 沖縄戦史」、「沖縄戦史」、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」、「秘録 沖縄戦記」、「沖縄県史 第8巻」、「沖縄県史 第10巻」の各書籍は、「鉄の暴風」や「座間味戦記」などの虚偽の記述に基づいて書かれたものであり、独自の資料的価値はなく、もしくは、援護法の適用を受けるための口裏合わせによって生まれたも
のである。
d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について
 沖縄タイムスに掲載されている英文は、その一部だけが掲載されているだけで、・・一体どのような文脈の中で書
かれた文書なのかは不明である。さらに、これを訳した林教授は「tell 人 to 〜」を殊更に「命令した」と誤訳し、
「Japanese Soldier」という主語は、特定されない一般的な「日本の兵隊達」を意味するだけなのに、わざわざ軍命令が存在したと同じ意味であると解説している。しかし、英文は、「日本人の収容所には、おおよそ100人の民間人が含まれていた。二つの収容所が設置され、一つは男性用と女性・子供用である。尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。」と訳すべきである。
要約7:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「沖縄県史 第10巻」などの各書籍は、「鉄の暴風」や「座間味戦記」などの虚偽の記述に基づいて書かれたものであり、援護法の適用を受けるための口裏合わせによって生まれたものである。
(2)「慶良間列島作戦報告書」について、林教授は誤訳し、軍命令が存在したと同じ意味であると解説している。
(ウ) 自決命令を否定する文献、見解等
a 控訴人梅澤の陳述書等
 控訴人梅澤の陳述書には、「問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑 近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日聞にわたり、先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です。」との記載があり(甲B1・2)、本人尋問においても、同趣旨の供述をしている。
 なお、被控訴人らは、控訴人梅澤の陳述書と初枝の手記との記述の相違を指摘する。しかし、控訴人梅澤が、盛秀助役らからの住民の自決目的の弾薬・爆薬の求めの申出を断ったという出来事の核心部分については、両記述ともに一致しており、些末な点の相違を問題とすべきではない。
要約8:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)梅澤の陳述書には、「私は『決して自決するでない。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない』と。5人は帰って行きました。助役の宮里盛秀さんが率先自決し、次々と悲惨な最後を遂げた由です」との記載がある。
(2)被控訴人らは、梅澤の陳述書と初枝の手記との相違を指摘するが、自決目的の弾薬・爆薬の求めの申出を断ったという出来事の核心部分については、両記述ともに一致している。些末な点の相違を問題とすべきではない。
b 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との大見出し、「日本軍の命令はなかった 関係者の証言」との小見出しの下、「助役とともに自決の前夜梅沢少佐を訪れた初枝」「軍とともに生き延びた上津幸子」「梅沢少佐の部下だった関根清」らの控訴人梅澤による自決命令はなかったとする供述を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。
 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いた中井和久は、初枝に対する電話取材を複数回行い、その際の初枝のためらいや控訴人梅澤に対する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている(甲B34)。
 神戸新聞が、控訴人梅澤だけの言い分をもとに、初枝のコメントを捏造して掲載する理由など考えられない。
要約9:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)神戸新聞は「米軍上陸後、絶望した島民が追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道した。
(2)神戸新聞が控訴人梅澤だけの言い分をもとに、初枝のコメントを捏造して掲載する理由など考えられない。
10 c 大城将保の見解
(a) 大城将保は、控訴人梅澤に宛てた親書の中で、「沖縄県史 第10巻」が通史的な戦史や戦記とは異なり、一種の資料集であり、記述されている事柄は沖縄県の公式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正することが可能であることを述べている。
 大城将保は、昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」に「座間味島集団自決に関する隊長手記」(甲B14)を発表し、その中で、昭和60年7月30日付け神戸新聞(甲B9)が、控訴人梅澤が自決命令を出したとする見解に疑問を呈したことを契機として、控訴人梅澤や初枝に事実関係を確認するなどして、史実を検証し、控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」(甲B14)を掲載した上、次のように記述して、「沖縄県史 第10巻」を実質的に修正した。すなわち、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」と記述した。
(b) 大城将保が「沖縄県史 第10巻」を実質的に修正したと控訴人らが主張する上記引用部分は、その直前までの迫真の体験供述と異なり、客観的な内容、書きぶりに変わっており、控訴人梅澤ではなく大城将保が書いたことは明らかである。
 また、神戸新聞の中井和久記者は、大城将保に対する電話取材を行い、記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B34)。
要約10:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「沖縄県史」の編集者・大城将保は、「初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」と記述した。
(2)神戸新聞の中井和久記者は、大城将保に対する電話取材を行い、コメントを確かにもらったと述べてべている。
11 d 宮村幸延の「証言」
(a) 座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延は、控訴人梅澤に対し、昭和62年3月28日、「証言」と題する親書(甲B8)を手交した。この親書には、「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります」と記載されている。
(b) 被控訴人らが主張する「証言」の作成経緯は全く理由がない。
 控訴人梅澤は、合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日、集団自決に関する座間味村の見解を尋ねるべく、村長の田中登に会ったが、補償問題を担当していた宮村幸延に聞くように言われたため、1人で宮村幸延を訪ねた。控訴人梅澤と宮村幸延は、面識があったため、再会を懐かしんだ。
 控訴人梅澤が訪問した理由を話すと、宮村幸延は、突然謝罪し、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を語ったのである。
 「証言」(甲B8)は、このような経緯で宮村幸延が述べたことを文書にしてほしい旨、控訴人梅澤が依頼し、宮村幸延自身が一言一言慎重に言葉を選んで作成したものである。決して、控訴人梅澤が原稿を書き、宮村幸延に押印だけさせたものでもないし、泥酔状態の宮村幸延に無理矢理書かせたものでもない。控訴人梅澤が原稿を書いたのであれば、末尾宛名の「裕」の字を間違えるはずがないし、宮村幸延が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じるはずである。
 また、宮村盛永の息子である宮村幸延は、集団自決当時、山口県にいたとしても、その後、村に帰ってから、集団自決の真相を知ったことは明らかであり、「証言」を作成する立場になかったとの被控訴人ら指摘も当たらない。
 また、神戸新聞の中井和久記者は、宮村幸延に対する電話取材を確かに行い、記事記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34)。神戸新聞が、記事中で「Aさん」とされている宮村幸延のコメントを捏造する理由はない。宮村幸延から神戸新聞に対し抗議があったこともない。
要約11:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)宮村幸延は、梅澤に対して、手交した親書には、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります」と記載されている。
(2)被控訴人らが主張するように、「泥酔状態の宮村幸延に無理矢理書かせたもの」でもない。
(3)宮村幸延は、自決当時、山口県にいても、「証言」を作成する立場にないとの被控訴人ら指摘も当たらない。
(4)神戸新聞の中井記者は、宮村幸延に対する電話取材を行い、コメントも確かにもらったと述べている。
12 e 「母の遺したもの」(甲B5)
 初枝の娘である宮城証人は、「母の遺したもの」を著わした。
 「母の遺したもの」には、初枝が、集団自決についての厚生省の調査の際、役人の質問に対して、「はい、いいえ」で答え、座間味島の集団自決が控訴人梅澤の命令によるものであるかとの問いに対しては、援護法の適用のために肯定したこと、初枝が、宮城証人に対し、昭和52年3月26日、座間味島の集団自決が控訴人梅澤の命令によるものではなかった旨の告白をしたこと、初枝が、集団自決の真相を公表するには盛秀助役の名をあげなければならず、盛秀助役の遺族に迷惑がかかってしまうとの苦悩を抱えていたこと、初枝と控訴人梅澤が昭和55年12月に面会し、援護法適用のために集団自決を控訴人梅澤の命令によるものだったことにした旨の会話をしたことなどが記載されている。
 また、被控訴人らは、初枝の農家向けの月刊誌である「家の光」への投稿で、初枝が、控訴人梅澤の自決命令について積極的に述べていたと主張するが、「母の遺したもの」によれば、初枝が、「家の光」への投稿の際、真実でない控訴人梅澤の自決命令について記述すべきか悩んでいたことが分かるのであり、「家の光」の投稿にある控訴人梅澤の自決命令についての記述には証拠価値はない。
要約12:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「母の遺したもの」には、援護法適用のために集団自決を梅澤の命令によるとした旨の会話が記載されている。
(2)被控訴人のいう「家の光」の投稿にある控訴人梅澤の自決命令についての記述には証拠価値はない。
13 f 住民の手記
(a) 「沖縄県史 第10巻」(乙9)(の)中村仁勇らの手記を読めば、被控訴人らの歴史認識が誤っていることが分かる。
(b) 初枝の手記にある木崎軍曹らの手榴弾交付についての記載は、上意下達の命令ではなく、いよいよ米軍に殺されそうになったらどう行動すべきかという極限の場面の備えについて、個人的に教示された程度のものにすぎず、控訴人梅澤による自決命令の根拠にはならない。
要約13:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「沖縄県史 第10巻」の中村仁勇らの手記を読めば、被控訴人らの歴史認識が誤っていることが分かる。
(2)木崎軍曹らの手榴弾交付については、個人的に教示されたもので、梅澤による自決命令の根拠にはならない。
14 (エ) 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応について
a
(a) 被控訴人らは、座間味村に対する照会に対し、宮村盛永など多くの証言者から、自決命令があった旨の回答があった旨主張する。
 しかし、・・昭和63年当時も、援護法による遺族給付を継続し、過去の受給についても違法と評価されることを避けるため、控訴人梅澤が自決命令を出したという事実を維持する必要があったから、座間味村が公式見解として控訴人梅澤による自決命令があったという真実に反する回答をしたのも当然である。
(b) 控訴人梅澤は、沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日、控訴人梅澤が自決命令を出したとする記事の訂正と謝罪を要求した(甲B27)。これに対し、沖縄タイムス社の牧志伸宏は、「事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答をした。
 その後、沖縄タイムス社は、態度を一変させ、座間味村が集団自決は軍命令によるものであるとしていると主張した上、控訴人梅澤に対し、以後沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしないことを内容とする書面(甲B29)を示し、押印するよう求めてきた。
 これに対し、控訴人梅澤が強く非難したところ、沖縄タイムス社は、結局、控訴人梅澤が自決命令を出したのではないことを認め、謝罪したが、謝罪文の提出については即答を避けた。
b 被控訴人らは、宮村盛永の「自叙伝」に控訴人梅澤の自決命令があったことを示す記述があると主張する。
 しかし、宮村盛永の「自叙伝」には、控訴人梅澤の自決命令は記載されておらず、逆に、宮村盛永が一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程が生々しく記載されている。
 この文章から明らかなように、玉砕する方がましではないかと言い出したのは宮村盛永であり、相談した家族は皆賛成している。つまり、玉砕が、軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっきり表れている。
c また、被控訴人らは、控訴人梅澤が沖縄タイムス社が示した座間味村の公式見解を受け入れたと主張するが、控訴人梅澤は、沖縄タイムス社が座間味村の公式見解を盾に手応えのない返答を延々と繰り返したため、やむなく矛を収める趣旨で彼告ら引用の発言をしたにすぎない。
要約14:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)被控訴人らは、座間味村から自決命令の回答があったと主張するが、援護法による遺族給付を継続し、過去の受給についても違法と評価されることを避けるため、真実に反する回答をしたのも当然である。
(2)梅澤は、記事の訂正と謝罪を要求したが、沖縄タイムス社の牧志伸宏は、「事の是非を究明し」と回答をした。その後、沖縄タイムス社は「集団自決は軍命令によるものである」と主張ので、梅澤が強く非難したところ、沖縄タイムス社は、「梅澤が自決命令を出したのではない」と認め、謝罪したが、謝罪文の提出については即答を避けた。
(3)被控訴人らは、宮村盛永の「自叙伝」に梅澤の自決命令があったと主張するが、「自叙伝」には軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっきり表れている。
(4)被控訴人らは、梅澤が座間味村の公式見解を受け入れたと主張するが、梅澤は、手応えのない返答を延々と繰り返したため、やむなく矛を収める趣旨で彼告ら引用の発言をしたにすぎない。
15 エ 渡嘉敷島について
(ア) 集団自決の経緯
 安里巡査の「沖縄県警察史  第二巻」における記述は、概ね以下のようなものであったことが分かる。
a 安里巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協カしてきた住民が、これからどうすべきか相談するため、安里巡査は、同月27日朝から赤松大尉を捜し回った。
b 安里巡査は、同月27日午後、・・赤松大尉に会った。・・赤松大尉は、安里巡査に対し、「島の周囲は敵に包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難した方がよい」と言った。そこで、安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。
c 渡嘉敷村の約3分の2の住民が、大雨の中を恩納川に沿って北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは、1時間遅れて西山に到着した。同月28日午前7時ころ、防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び、住民は命令どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。
d 具体的にどうするかという段階になって、全員が死ぬには手榴弾が足りなかったため、防衛隊の1人が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょう」と申し出、防衛隊3人が出かけた。
 それから1時間後に、・・古波蔵村長が全員の中央に立って、「敵に取り囲まれて逃げられないから、玉砕しなければならない。
 手榴弾の炸裂音が起こった。
e 米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して「女、子どもは足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい。」と叫んだ。そこで防衛隊長である屋比久孟祥と富山兵事主任が、日本軍陣地に駆け込み、住民を撃ち殺すために機関銃を貸してほしいと願い出たが、そのような武器は持ち合わせていないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで接近していたが、将校は、泣き叫ぶ住民に対し、抜刀して立ち去るよう威嚇した。
 住民は、恩納川の谷間へと散っていった。
f 西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連の人たちは、300人の集団が去った後、殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂音を聞きながら、なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺した。
 手榴弾で死にそこなった住民は、農具を凶器にして殺し合った。
 こうして集団自決があったのは、昭和20年3月28日の午後1時ころであった。
要約15:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)赤松大尉が「住民は一か所に避難した方がよい」と言ったので、安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。
(2)無傷でいた阿波連の人たちは、なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺した。
16 (イ) 手榴弾の交付について
a 富山兵事主任の手記や家永第3次教科書訴訟第1審における曽野綾子の証言からすれば、富山兵事主任は、曽野綾子の調査当時、17歳未満の少年らに非常招集をかけて手榴弾を配った事実については全く表明していなかった。このことは、そうした事実がなかったことを示している。
 操作方法の指導がなく、ひいては手榴弾の交付による自決命令がなかったからである。
b また、「渡嘉敷村史 資料編」(甲B39)によれば、小峰園枝は、「・・義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」と供述しており(甲B39)、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていたとはいえない。
要約16:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)富山兵事主任は、曽野綾子の調査当時、手榴弾を配ったこと表明していない。そうした事実がなかった。
(2)小峰園枝の義兄が手榴弾を2個持ってきた」と供述している。手榴弾は軍の厳重な管理下にはなかった。
17 (ウ) 文献に対する反論
a 渡嘉敷島における住民の集団自決が赤松大尉の命令によるとの記述は、「鉄の暴風」(乙2)、「戦闘概要」(乙10)、「戦争の様相」(乙3)に記載され、その後に出版された「秘録 沖縄戦史」(乙4)、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘
録」(乙6)、「沖縄県史 第8巻」(乙8)の記載は、「鉄の暴風」等を下敷きにして記載された。
b 「鉄の暴風」について
 「鉄の暴風」の記述は、控訴人梅澤を不明死扱いにした初版の記述(甲B6)や、沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)から、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。
 また、渡嘉敷島の集団自決の真相について調査した曽野綾子の「ある神話の背景」(甲B18)によれば、「鉄の暴
風」の執筆者である太田良博は、自らは渡嘉敷島に行かず、座間味村の助役であった山城安次郎と戦後南方から復員した宮平栄治を取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。
 さらに、「鉄の暴風」には、その記途に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は、米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが、防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば、3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され、その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても、米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。
 米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全くなく、事実調査の杜撰さと併せて、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」が一様に信用できないことを示している。
 また、「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの、知念証人は、西山A高地に地下壕がなかったことや、同日に将校会議など開かれていないことを明確に証言しているのであって(知念証人調書6頁)、この点でも「鉄の暴風」は信用性に乏しい。
c 「戦闘概要」について
 「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載されていたのが、「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたことは明らかである。
d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について
 「慶良間列島作戦報告書」についての反論は、座間味島に関する主張と同旨である。
要約17:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「秘録沖縄戦史」、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」、「沖縄県史第8巻」らは、「鉄の暴風」を下敷きしている。
(2)「鉄の暴風」の執筆者・太田良博は、体験していない山城安次郎と宮平栄治を取材しただけで信頼性に乏しい。
(3)「鉄の暴風」には、米軍の上陸が3月27日なのに3月26日とする。戦史としての信頼性は全くない。
18 (エ) 自決命令を否定する文献、見解等
a 赤松大尉の手記
(a) 「『部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない」
(b) 赤松大尉は、・・現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。
b 「ある神話の背景」(甲B18)
 「ある神話の背景」によれば、「鉄の暴風」の記述は、・・著者の偏見と風聞に基づいて書かれたものであり、それが他の文献等に引用されることによって、赤松大尉の自決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち、軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であり、これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概要」には「鉄の暴風」と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られる。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが、「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものである(甲B18)。そして、これらの3つの資料は、米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず、同月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18)。
 「ある神話の背景」によれば、上記神話が生まれた背景は、次のとおりである。すなわち、生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるという立場上、事件について説明責任を免れない古波蔵村長が、遺族からの怨嗟の目から逃れ、責め苦を少しでも軽くするために、元村長としての責任を負担するよりも、集団自決を命じた下手人として赤松大尉を選び、非難を向けた。このことは、古波蔵村長の、赤松大尉や安里巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や、事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫性のない説明などからも窺われる。
 大城将保は、昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24)において、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の”神話”に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした」「今のところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない」と評価している。
要約18:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)曽野綾子の「ある神話の背景」によれば、集団自決の音頭をとった古波蔵村長が、遺族からの怨嗟の目から逃れるために、下手人として赤松大尉を選び、非難を向けた。古波蔵村長の一貫性のない説明などからも窺われる。
(2)大城将保は、「今のところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない」と評価している。
19 c 「陣中日誌」(甲B19)
 赤松隊が作成した陣中日誌によれば、・・「悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣したるもの約二百名」(甲B19)とあるように、赤松隊が集団自決があったことを知ったのも、昭和20年3月29日になってからであった。
d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)
 上原正稔は、集団自決を目撃した米軍兵士グレン・シアレスの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲B44)。上原正稔は、その取材過程において、赤松大尉が自決命令を出しておらず、金城武徳、大城良平、安里巡査、知念証人らの供述または証言から、赤松大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。上原正稔は、取材の結果、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認した。
e 知念証人及び皆本証人の各証言
(a) 知念証人は、赤松大尉の側近として常に赤松大尉の側にいた者であるところ、赤松大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。
(b) 皆本証人は、・・陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ず、同月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けたとする金城証人の証言は虚偽である。
 そして、皆本証人は、・・8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも、赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないことを証言している。
f 照屋昇雄の供述
 照屋昇雄は、・・赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作」り、その書類を当時の厚生省に提出した旨供述している(甲B35)。
g 徳平秀雄の供述
 郵便局長であった徳平秀雄の供述によれば、村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況が明らかとなっており、軍や赤松大尉の命令など全く語られていない。
要約19:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)赤松隊・陣中日誌によれば、赤松隊が集団自決があったのも、昭和20年3月29日になってからであった。
(2)「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した上原正稔は、取材過程で、「援護法適用ため、身の証を立てることは住民に迷惑をかけると一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認した。
(3)側近として常に赤松大尉の側にいた知念証人は、反対尋問も踏まえて完全に否定した。
(4)照屋昇雄は、赤松大尉に同意を得て、「援護法適用のため、軍命令ということにし」、書類を厚生省に提出する。
(5)郵便局長・徳平秀雄は、村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり、手榴弾が配布されたと供述している。
20 (オ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者が不在であること
 赤松大尉は、自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。・・命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ない。
 副官であった知念証人は自決命令が出た事実を否定する(乙9)。
 古波蔵村長によれば、伝達者は、安里巡査であった(甲B18)。安里巡査は赤松大尉から自決命令が出たことを認めておらず(甲B16)、安里巡査が自決命令を伝達していないことは明らかである。
 さらに、古波蔵村長、富山兵事主任、防衛隊長のうち、誰が自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。
要約20:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ない。
21 (カ) 自決命令の言い換え
a 住民が軍の陣地に押しかけたとしたら、住民の安全のために退去を求めるのは当然のことである。
 したがって、古波蔵村長のいう「軍の陣地からの退去要求」を自決命令とするのは無理な論理である。
 むしろ、安里巡査の説明(甲B16)によれば、住民が軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後であり、古波蔵村長は、その際の退去要求を「死ねというのと同じ」と言っていることになる。よって、集団自決が始まるまで赤松大尉が自決命令を出していなかったことは明らかである。
b 富山兵事主任は、昭和63年になって、兵器軍曹が17歳未満の少年と役場職員に対し、手榴弾を、1発は攻撃
用、もう1発は捕虜になるおそれのあるときの自決用として、2個ずつ配布した旨供述する。
 ・・仮に事実だとしても、当時の日本国民の多くは、捕虜になるなら自決する覚悟を持っていたのであるから、捕虜になるおそれのあるときの自決用として手榴弾を配布したことから赤松大尉が自決命令を出したことにはならない。
 そもそも、富山兵事主任は、これまで集団自決について語りながら、昭和63年になって突然、手榴弾の配布を自決命令と語り始めたのであり、信用性がない。
要約21:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)安里巡査は、住民が軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後という。古波蔵村長は、その際の退去要求を「死ねというのと同じ」と理解している。集団自決が始まるまで赤松は自決命令を出していないことになる。
22 (キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計
 第三戦隊は、自決に失敗し負傷した住民のために、衛生兵を派遣した。赤松大尉が自決命令を出したとすれば、このようなことはあり得ない。
 また、渡嘉敷村資料館には、赤松大尉の恩賜の時計や第三戦隊の軍医の遺品が、記念品として飾られている。これも、赤松大尉が自決命令を出していたとすればあり得ないことである。
(ク) 自決命令を記載していた文献の絶版等
 赤松大尉の自決命令を記述し、昭和40年6月に被控訴人岩波書店から出版された「沖縄問題20年」は、その後出版されなくなった。これは、「ある神話の背景」により、赤松大尉の自決命令が虚偽であることが露見したからである。
 また、「太平洋戦争」は、その後、赤松大尉の自決命令の記述は削除されたままであった。これは、「太平洋戦争」の著者である家永三郎と被控訴人岩波書店が、赤松大尉の自決命令を虚偽であると認識していた証左である。
 「秘録 沖縄戦記」は、自決命令のいずれも、削除されている。史実の検証に耐えられなくなったということである。
要約22:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)渡嘉敷村資料館には、赤松大尉の恩賜の時計や第三戦隊の軍医の遺品が、記念品として飾られている。
(2)「沖縄問題20年」が絶版となったのは、「ある神話の背景」で赤松の自決命令の虚偽が露見したからである。
(3)「太平洋戦争」の自決命令は削除されたまま。家永三郎と岩波書店が、自決命令を虚偽と認識していた証左だ。

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5 争点D(真実相当性の有無)について
(1) 被控訴人らの主張
ア 控訴人梅澤が住民に対して「自決せよ」との命令を出したことを内容とする文献が多数存在しているところ、座間味島における控訴人梅澤の自決命令に言及するものは「太平洋戦争」である。
 そして、「太平洋戦争 第二版」が出版された昭和61年の時点において、控訴人梅澤により自決命令が出されたとの事実は「歴史的事実」として承認されており、文部科学省は、座間味島や渡嘉敷島などの集団自決が日本軍隊長の自決命令によるものであることは、これまでの通説だったとし(乙95及び96)、軍の強制によるものであるとの教科書の記述の削除を求める検定意見も事実上撤回しているのであって、控訴人梅澤による自決命令があったとの事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があったことは明らかである。
 また、赤松大尉が住民に対して、・・真実相当性については、控訴人梅澤による自決命令と同様である。
イ 神戸新聞に・・自決命令を否定する記事が掲載されたことによって、自決命令の虚偽性が明らかになったとはいえず、また、「母の遺したもの」によって、その虚偽性が広く知られるようになったともいえない。
ウ 「ある神話の背景」の出版によって、赤松大尉の自決命令を真実と信じる根拠が失われたということもない。
 昭和48年以降今日まで、赤松大尉の自決命令について記載した「鉄の暴風」や「沖縄県史 第8巻」は訂正されていないし、昭和63年6月16日付け朝日新聞(乙12)には、渡嘉敷村の富山兵事主任の供述が掲載されて赤松大尉の自決命令が肯定され、平成2年3月31日に出版された「渡嘉敷村史」(乙13)においても、赤松大尉による自決命令があったことが明記され、これらの記載は現在まで訂正されていない。
要約1:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張しています。
(1)文部科学省は、集団自決が日本軍隊長の自決命令によるものであることは、これまでの通説だったとし、軍の強制によるものであるとの教科書の記述の削除を求める検定意見も事実上撤回している。控訴人梅澤による自決命令があったとの事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があったことは明らかである。
(2)神戸新聞の記事や「母の遺したもの」によって、その虚偽性が広く知られるようになったともいえない。
(3)「ある神話の背景」の出版によって、赤松大尉の自決命令を真実と信じる根拠が失われたということもない。
(4)「鉄の暴風」・「沖縄県史 第8巻」・「渡嘉敷村史」においても、自決命令は現在まで訂正されていない。
(2) 控訴人らの主張
ア 「太平洋戦争」について
 控訴人梅澤が自決命令を出したとする梅澤命令説は、神戸新聞(甲B9)に、初枝の「梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」との供述が掲載された時点で、その根拠は失われた。
 その後、神戸新聞(甲B11)に宮村幸延の「証言」(甲B8)とインタビュー記事が掲載されたことによって、梅澤命令説の虚偽が明らかとなり、これを真実と誤信する相当性は完全に失われることとなった。
 そして、宮城証人の「母の遺したもの」が出版され、梅澤命令説が虚偽であることが広く知られるようになった。
 したがって、「太平洋戦争」については、出版された平成14年当初から不法行為が成立する。
イ 「沖縄ノート」について
 昭和48年5月に「ある神話の背景」が出版され、「鉄の暴風」の不確実性が明らかにされ、「沖縄県史第10巻」(昭和49年発行 乙9)から隊長命令説が削除された段階で、赤松命令説を真実と誤信する根拠は完全に失われた。
 「沖縄県史第10巻」が発行された昭和49年3月31日の後である昭和49年7月以降に出版された第5刷以後の頒布につき、不法行為責任が生じる。
要約2:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)「太平洋戦争」では、神戸新聞に宮村幸延の「証言」記事が掲載され、梅澤命令説の虚偽が明らかである。これにより真実と誤信する相当性は完全に失われ、平成14年当初から不法行為が成立する。
(2)「沖縄ノート」では、「沖縄県史第10巻」から隊長命令説が削除された段階で、赤松命令説を真実と誤信する根拠は完全に失われ、第5刷以後の頒布につき、不法行為責任が生じる。
6 争点E(公正な評論性の有無)について
(1) 控訴人らの主張
 沖縄ノートの各記述は、赤松大尉に対する過剰かつ執拗な人格非難をするものである。
 例えば、沖縄ノートの各記述には、「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」 「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたところであろう。人間としてそれをつぐなうことは、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」 「一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」 「しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。」 「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」との表現があるが、これは、曽野綾子が「人間の立場を超えたりンチ」と評するように、人身攻撃に及ぶもので、適正な言論として保護されるべき公正な論評の域を完全に逸脱するものである。
要約3:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)沖縄ノートの各記述には、「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」
「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」 「かれは屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に・・」 「かれは、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」との表現がある。
(2)曽野綾子が「人間の立場を超えたりンチ」と評するように、公正な論評の域を完全に逸脱するものである。
(2) 被控訴人らの主張
 沖縄ノートの各記述には、いずれも赤松大尉を特定する記載はなく、赤松大尉に対する人身攻撃たり得ない。
 本件記述(2)は、集団自決に表れている沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生という命題が、核戦賂体制の下での今日の沖縄に生き続けており、集団自決の責任者の行動が、いま本土の日本人がそのまま反復していることであるから、咎めは我々自身に向かってくると問いかけるものであり、集団自決の責任者個人を非難しているものではない。
 本件記述(4)は、「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていた集団自決の責任者の内面を著者の想像力によって描き出すとともに、これは日本人全体の意識構造にほかならないのではないかと論評したものである。
 本件記述(5)は、アイヒマンが「或る昂揚感」とともにドイツ青年の間にある罪責感を取り除くために応分の義務を果たしたいと語ったように、渡嘉敷島の旧守備隊長が、日本青年の心から罪責感の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと語る光景を想像し、しかし実は日本青年が心に罪責の重荷を背負っていないことについてにがい思いを抱くと述べ、日本青年一般のあり様について論評したものである。
 本件記述(5)は、ドイツ青年と日本青年の罪責感を対比することが主眼であって、控訴人らが主張するように、赤松大尉を、「『屠殺者』やホロコーストの責任者として処刑された『アイヒマン』になぞらえられるような悪の権化」であると人格非難するものではない。
要約4:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張しています。
(1)沖縄ノートの記述は、沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生という命題が、核戦賂体制の下での今日の沖縄に生き続けており、咎めは我々自身に向かってくると問いかけるものであり、集団自決の責任者個人を非難しているものではない。
(2)沖縄ノートの記述は、ドイツ青年と日本青年の罪責感を対比しており、控訴人らがいう赤松大尉を「『屠殺者』やホロコーストの責任者として処刑された『アイヒマン』になぞらえて、人格非難するものではない。
7 争点F(控訴人赤松につき、敬愛追慕の情の侵害があったか)について
(1) 控訴人らの主張
ア(ア) 一般的に死者の名誉が毀損されれば、それにより遺族は死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害され、不法行為が成立すると解すべきである。
 不法行為の成立を否定する被控訴人らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性又は事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うのである。
(イ) 敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と此べて、要件を厳格にしたりする判断はなされていない。
(エ) 被控訴人らは、百人斬り訴訟判決・・を挙げて、歴史的事実であることに基づく要件の厳格化を主張するが、沖縄ノートは、赤松大尉の生前に出版されたものであり、「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。
イ 控訴人赤松は、・・赤松大尉を、幼き頃から強く尊敬していたところ、沖縄ノートの各記述は、敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不可能なまでに侵害した。
要約5:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)赤松大尉の生前に出版の沖縄ノートは、「探求・表現の自由への配慮が優位」という価値判断の余地はない。
(2)沖縄ノートの各記述は、敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不可能なまでに侵害した。
(2) 被控訴人らの主張
ア(ア) 死者に対する敬愛追慕の情といった主観的感惰を害したからといって、それだけで違法性を有し不法行為を構成するとはいえない。
(イ) 不法行為の成立は、死者の名誉を毀損するものであり、摘示した事実が虚偽であって、かつその事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合に限られる。
(ウ) 前記・・判決、この控訴審判決である前記東京高裁平成18年5月24日判決も、以上の趣旨を判示している。
(エ) 提訴時には60年経過している。したがって、赤松大尉による自決命令は歴史的事実となっている。
イ(ア) 控訴人らは、大阪地裁等の判決を挙げて、虚偽性の面で立証責任の転換や要件の厳格化はない旨主張する。しかし、・・真実性の立証責任の転換に言及するものではない。
(イ) ある事実が歴史的事案となるか否かは、表現行為が表現の対象者の生前になされたかどうかではなく、当該事実が発生してから事実摘示までの期間が重要である。
要約6:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張しています。
(1)提訴時には60年経過している。したがって、赤松大尉による自決命令は歴史的事実となっている。
(2)ある事実が歴史的事案となるか否かは、当該事実が発生してから事実摘示までの期間が重要である。
8 争点G(損害の回復方法及び損害額)について
(1) 控訴人らの主張
ア(ア) 本件各書籍は、控訴人梅澤の社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損し、もって控訴人梅澤の人格権を侵害し、筆舌に尽くし難い精神的苦痛を与えた。
 「沖縄ノート」は、赤松大尉の社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損してその人格権を侵害した上、控訴人赤松が実兄である赤松大尉に対して抱いていた人間らしい敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不能なまでに侵害した。
 そして、文部科学省が教科書検定意見で軍の命令や強制を認めない立場を堅持することが示され、梅澤命令説及び赤松命令説に真実性が認められないとした原判決が言い渡された後も、被控訴人岩波書店は「太平洋戦争」の、被控訴人らは「沖縄ノート」の、各出版、販売を継続し、特に「沖縄ノート」については平成20年4月24日に第58刷、同年5月7日には第59刷と増刷を重ねており、さらに控訴人らの人格権や人格的利益を侵害して、控訴人らに対し精神的苦痛を与えた。
(イ) 控訴人らの名誉回復と精神的苦痛を慰謝するためには、被控訴人岩波書店は、本件各記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、控訴人らに慰謝料の支払いをする必要があり、被控訴人大江は、沖縄ノートの各記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、控訴人らに慰謝料の支払いをする必要がある。
(ウ) 被控訴人岩波書店が 控訴人梅澤に 支払うべき慰謝料は2000万円(本件各書籍の原審口頭弁論集結時までの発行分1000万円、原判決言渡後の発行分1000万円)、控訴人赤松に支払うべき慰謝料は1000万円(「沖縄ノート」の原審口頭弁論集結時までの発行分500万円、原判決言渡後の発行分500万円)、被控訴人大江が支払うべき慰謝料は、各控訴人に対してそれぞれ1000万円(「沖縄ノート」の原審口頭弁論集結時までの発行分500万円、原判決言渡後の発行分500万円)である。
イ 人格権に基づく本件各書籍の出版、販売、頒布の差止めがなされる必要がある。
要約7:控訴人梅澤裕氏らは、次のように主張しています。
(1)文部科学省が教科書検定意見で軍の命令や強制を認めない立場が示され、梅澤命令説及び赤松命令説に真実性が認められないと、原判決が言い渡された後も、出版・販売を継続し、控訴人らに対し精神的苦痛を与えた。
(2)被控訴人岩波書店・大江は、訂正・謝罪広告を掲載し、控訴人らに慰謝料の支払いをする必要がある。
(3)人格権に基づく本件各書籍の出版、販売、頒布の差止めがなされる必要がある。
(2) 被控訴人らの主張
ア 否認し、争う。
イ 公共の利害に関する事項については、表現内容が真実でないことが明白であるか、または専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合に限り、例外的に認められるものである(最高裁判決)。また、同判決は、死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由に出版を差し止めることはできないと解される。
要約8:被控訴人大江健三郎氏らは、次のように主張しています。
(1)精神的苦痛については否認し、訂正・謝罪広告を掲載・慰謝料の支払いにつていは争う。
(2)最高裁判決は、死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由に出版差止めはできないと解される。
歴史の裁判に立ち会うことの困難さ
 大阪地裁で敗訴した原告(梅澤裕氏ら)が大阪高裁に控訴しました。その結果、大阪地裁の原告が控訴人、大阪地裁の被告(大江健三郎氏・岩波書店)が被控訴人として、相争うことになりました。
 授業の『政治・経済』で、三審制度を説明したことがあります。一審から二審に訴える(上訴する)ことを控訴と言います。二審から三審に訴える(上訴する)ことを上告と言います。
 二審の控訴審で上訴した側を控訴人、上訴された側を被控訴人といいます。
 一審と二審は、事実関係を認定します。
 三審は、判決の妥当性を認定します。
  一審 二審 三 審
簡易裁判所 地裁 高裁  
  控訴 上告 最高裁
控訴 上告     
一 審   二審   三審  
 今回は、控訴審の内の上訴された側(被控訴人)の主張から始まります。
 それに対して、上訴した側(控訴人)が反論します。それを控訴人が再反論すます。
 当事者には申し訳ないですが、「事実は小説より奇なり」というように、ハラハラ・ドキドキしながら、解説(要約)を書いています。
 産経新聞曽野綾子氏が上訴した側(控訴人)として、重要な役割を果たしています。大阪高裁の判決が判断が待たれるところです。歴史の専門家の問答を法律の専門家がどう扱うのかという興味です。
 私も愛読している神戸新聞も上訴した側(控訴人)として、重要な役割を果たしています。
 しかし、現在はどういう立場なのでしょうか。
 社説では、「集団自決判決/「関与」認定の意味は重い」とあります。
 特集記事では、「沖縄戦集団自決訴訟/軍の深いかかわり認定」とあります。
 神戸新聞は、現在では、当時の立場から脱却していると言えます。
2008年3月29日付けの神戸新聞の社説←クリック
2008年4月13日付けの神戸新聞の特集記事←クリック

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