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大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(7) | |
* | HTML版:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判━高裁判決全文(2/3)←クリック |
* | 大江・岩波沖縄戦━裁判年表(左右でなく、東西の視点で編集)←クリック |
1 | 紙データをペーパーレス・データ(デジタル)化し始めたのが1986(昭和61)年です。 高裁判決の全文を入手したのがPDF版を印刷した紙データでした。A4サイズで191枚もありました。これでは丹念に検証できません。 そこで、紙データをOCR(文字認識処理ソフト)で、デジタルデータに変換し、PDF版を参照しながら、校正に努めました。改行も、校正しやすいように、PDF版と同じようにしました。 毎日毎日、約8時間、パソコンと取り組んで、約2か月かかりました。OCR(文字認識処理ソフト)によるコンバートが終わってほっとしたのか、健康が自慢の私ですが、過労がたたって、年末・年始には風邪を引いてしまいました。 今回は、134〜184ページを検証しました。クリックしてご利用ください。 |
2 | なぜ、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判にこだわるかといえば、この裁判に大きな意味を感じているからです。 (1)戦前、公正・中立であるべきマスコミが情報を操作して、戦争への道に進んでいった。今はどうか。 (2)戦前、情報を操作するために、自分の都合のいい資料は採用するが、都合の悪い資料を排除するという歴史修正主義的な手法が採用された。今はどうか。 (3)過去を調べ、現状を知り、今後どう対応するかが、歴史に携わる者の使命である。 |
3 | 前回に指摘した私の確認事項を検証する前に、高裁の判断を見てみたいと思います。 原告側は、高裁の判断を不満として最高裁に上告しています。その結果も、いずれ、報告します。 素人の私は、遂条的に点検する方法を採用しています。 |
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* | HTML版:真実性ないし真実正当性について全文(134-142P)←クリック |
1 | 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 本件各記述の真実性ないし真実相当性(原審争点C及びD)の判断の前提となる各文献や証言等の内容及びそれらについての評価等は、当審での当事者双方の事実認定に関する補充主張に基づく検討や新たな証拠等を加えるなどして、以下のとおり原判決の判断を一部改め、補足し、補正するほかは、おおむね原判決が「事実及び理由」の「第4 当裁判所の判断」の5(1)ないし(6)において説示するとおりである。・・なお、当審で新たに提出された宮平秀幸の話(秀幸新証言)及びこれに関連する各証拠については、項を改め6項で別に検討する。 【原判決の引用】 第4・5争点C及びD(真実性及び真実相当性)について (1) 前記で認定した事実、後記記載の文献等の書証に、証拠、皆本証人、知念証人、金城証人並びに控訴人梅澤及び被控訴人大江各本人を総合すれば、後記各文献等を評価する前提として次の事実が認められる。 要約1:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)原判決の判断を一部改め、補足し、補正するほかは、おおむね原判決が説示するとおりである。 (2)事実、文献等の書証に、証拠、証人並びに控訴人及び被控訴人を総合すれば、次の事実が認められる。 |
2 | ア 太平洋戦争当時の沖縄の状況、体制等 (ア) 沖縄全体の状況、体制等 a 昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し、次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。 b 昭和19年3月、南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され、同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始した。 第三二軍の司令官であった牛島満は、沖縄着任の際、沖縄における全軍に対し、訓示として、「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」と発した。軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁じ、沖縄語を使用する者をスパイとみなし処分する旨の命令や、島嶼における作戦では原住民がスパイ行為をするから気を許してはならない旨の訓令などが出された。 また、第三二軍は、昭和19年11月18日、沖縄県民を含めた総力戦体制への移行を急速に推進し、「軍官民共生共死の一体化」を具現するとの方針を発表した。 このように、沖縄において対内防諜に重点が置かれたのは、戦闘準備に多数の住民を動員したため、住民が米軍の捕虜になった場合には、部隊の編成や陣地構成等の軍の機密が漏れるおそれがあることなどのためであったと考 えられる。このため、軍官民共生共死の一体化が一層強調され、住民が米軍に投降したり捕虜になることは絶対的に禁止された。 要約2:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し、次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される。 (2)沖縄においては、戦闘準備に多数の住民を動員したため、軍官民共生共死の一体化が一層強調され、住民が米軍に投降したり捕虜になることは絶対的に禁止された。 感想1:沖縄戦を知る前提に、「軍官民共生共死の一体化」の実態を知る必要があることを理解しました。 |
3 | c 沖縄では、昭和20年1月から3月にかけて、大々的な防衛召集がなされ、防衛隊が組織された。防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて防衛召集された隊員からなる部隊であり、同規則上は17歳から45歳の男子が召集の対象とされ、昭和19年10月以降の防衛召集者は、2万人を超えた。 d また、毎月8日が「大詔奉戴日」と定められ、沖縄においても、住民は、日本軍や村長、助役らから、戦時下の日本国民としてのあるべき心得を教えられていた。 要約3:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)沖縄では、陸軍防衛召集規則に基づいて、昭和19年10月以降の防衛召集者は、2万人を超えた。 (2)沖縄でも、住民は、日本軍や村長、助役らから、戦時下の日本国民としてのあるべき心得を教えられていた。 |
4 | (イ) 慶良間列島の状況、体制等 a 慶良間列島は、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島などの島々の総称である。慶良間列島には、昭和19年9月、陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に控訴人梅澤が隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶留間島に野田隊長が隊長を務める第二戦隊、渡嘉敷島に赤松大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。海上挺進隊は、敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが、船艇を自沈させた後は、島の守備隊となった。 慶良間列島は、集団自決発生当時、「合囲地境」ではなかったものの、事実上そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては、行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ、村の幹部や防衛隊による指示は、軍の命令と捉えられていた。 慶良間列島に配備された陸軍海上挺進戦隊は、敵の上陸船団を背後から奇襲攻撃する特攻部隊であった。米軍に発覚すればこの艇の脆弱さと自衛能カの不足から容易に対応の処置を講じられるものであリ、同戦隊の存在、配置、戦法等全般にわたリ厳重に秘密を守ることが作戦成功の絶対条件であった。また、同戦隊の展開は当然米軍の直近海域に限定されるので、徹底した敵の砲爆撃による制圧に耐えるため、基地の秘匿と掩護は絶対的なものとされていた。 要約4:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)慶良間列島は、「合囲地境」ではないが、そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては、行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ、村の幹部や防衛隊による指示は、軍の命令と捉えられていた。 (2)海上挺進戦隊の戦備・作戦から、秘密を守ることが作戦成功の絶対条件であった。 |
5 | b 座間味村は、座間味島、阿嘉島、慶留間島など複数の島々で構成され、昭和15年の統計によれば、座間味村の人口は約2350人であった。 座間味村では、防衛隊長兼兵事主任の盛秀助役が、伝令役の防衛隊員であり役場職員である宮平恵達を通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は、徴兵事務を扱う專任の役場職員であり、軍の命令を住民に伝達する立場にあった。 昭和19年9月10日、控訴人梅澤を隊長とし、約100隻を保有する海上艇進隊約100名と基地守備隊約800名が進駐してきた。翌11日から陸揚作業が始まり、民家に分宿し、同月22日から陣地構築に取りかかった。 住民は、壕堀作業等に全島を挙げて従事した。そのほか、住民は、初枝が団長を務めた女子青年団などが中心となって、救護、炊事などで日常的に部隊に協力していた。 c 渡嘉敷村は、渡嘉敷島を中心とし、昭和19年当時、人口は約1400人であった。 古波蔵村長、防衛隊長の屋比久孟祥、富山兵事主任、安里巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。 昭和19年9月9日、鈴木少佐を隊長とする第三基地隊約1000人の兵隊が、渡嘉敷村に上陸し、上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も、国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。 同月20日には、赤松大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が、渡嘉敷島に駐屯した。 第三基地隊は、昭和20年2月中旬、特攻基地がおおむね完成に近づいたころ、勤務隊の一部と通信隊の一部とを第三戦隊の配下に残して、沖縄本島に移動した。 要約5:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)防衛隊長兼兵事主任の宮里盛秀助役が、伝令役の防衛隊員であり役場職員である宮平恵達を通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は、徴兵事務を扱う專任の役場職員であり、軍の命令を住民に伝達する。 (2)梅澤裕隊長らは、陣地構築に取りかかり、住民は、壕堀作業等に全島を挙げて従事した。女子青年団長の宮城初枝らは、救護、炊事などで協力していた。 (3)赤松嘉次大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が、渡嘉敷島に駐屯した。古波蔵惟好村長、防衛隊長の屋比久孟祥、富山真順兵事主任、安里喜順巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。 |
6 | イ 集団自決の発生 (ア) 座間味島 座間味島は、昭和20年3月23日、24日、25日も空襲を受けた。同月25日には、米軍の戦艦級大艦隊が海峡に侵入し、艦砲射撃を受けた。 同月25日夜、伝令役の宮平恵達が、住民に対し、忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。 その後、同月26日、多数の住民が、手榴弾を使用するなどして集団で死亡した。 (イ) 渡嘉敷島 第三戦隊は、昭和20年3月25日、特攻船艇への爆雷の取付けやエンジンの始動も完了し、出撃命令を待っていたが、赤松大尉は出撃命令を出さなかった。結局、赤松大尉は、米軍に発見されるのを防止するためとして、特攻船艇をすべて破壊することを命じた。 同月27日午前、米軍の一部が戦車30台で上陸を始め、応戦した日本軍の小部隊はほとんど全滅した。 赤松大尉は、米軍の上陸前、安里巡査に対し、住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう指示し、これを受けて、安里巡査は、防衛隊員とともに、住民に対し、西山陣地の方に集合するよう促した。 渡嘉敷島の住民は、同月28日、防衛隊員などから配布されていた手榴弾を用いるなどして、集団で死亡した。 要約6:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)座間味島は、昭和20年3月23日、24日、25日も空襲を受け、25日には、米軍の戦艦級大艦隊から艦砲射撃を受けた。同夜、伝令役の宮平恵達が、住民に対し、忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。26日、多数の住民が、手榴弾を使用するなどして集団で死亡した。 (2)27日、米軍の上陸前、赤松大尉の命令で安里巡査は、防衛隊員とともに、住民に対し、西山陣地の方に集合するよう促した。28日、防衛隊員などから配布されていた手榴弾を用いるなどして、集団で死亡した。 |
7 | (ウ) 自決者の人数 主な公的資料等では、集団自決の犠牲者致について、次のとおり記録されている。 「鉄の暴風」では、厚生省の調査による座間味島及び渡嘉敷島の自決者の合計人数が約700人であったとされている。 (エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決 座間味島及び渡嘉敷島の集団自決のほか、数十人が昭和20年3月下旬に沖縄本島中部で、数十人が同月下旬に慶留間島で、約10人が同年4月上旬に沖縄本島西側美里で、100人以上が同月下旬に伊江島で、100人以上 が同月下旬に読谷村で、十数人が同年4月下旬に沖縄本島東部の具志川グスクなどで、それぞれ集団自決を行った。 以上のうちの慶良間列島の慶留間島には、第二戦隊が駐留していたが、第二戦隊の野田隊長は、昭和20年2月8日、住民に対し、「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し、同年3月26日、米軍の上陸の際、集団自決が発生した。 以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかった。 要約7:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。 (1)自決者の数については、最大で約700人とされている。 (2)慶留間島に駐留していた第二戦隊の野田隊長は、2月8日、住民に対し、「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し、3月26日、米軍の上陸の際、集団自決が発生した。 (3)集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかった。 感想2:集団自決は、日本軍が駐屯している場所で発生し、それ以外では発生していないという指摘は重要です。 |
8 | ウ 日本軍による住民加害 (ア) 元大本営船舶参謀であった厚生省引揚援護局の厚生事務官馬淵新治の調査によれば、軍の住民に対する加害行為が各地で行われていた。 例えば、馬淵新治は、「将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち入り、必要もないのに軍の作戦遂行上の至上命令である立退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕からの立退きを命じて己の身の安全を図ったもの、ただでさえ貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を徴発と称して掠奪するもの、住民の壕に一身の保身から無断進入した兵士の一団が無心に泣き叫ぶ赤児に対して此のまま放置すれば米軍に発見されるとその母親を強制して殺害させたもの、罪のない住民をあらぬ誤解、又は誤った威信保持等のため『スパイ』視して射殺する等の蛮行を敢えてし、これが精鋭無比の皇軍のなれの果てかと思わせる程の事例」があったとし、また、「敵上陸以後、所謂『スパイ』嫌疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いている」として、軍による住民加害が多数あったとしている。 また、馬淵新治は、住民の死亡の内訳について、「壕提供」については、「既に逃げ道のない住民が住居する自然壕を取り上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当あるのであります」としている。 (イ) 日本軍は、渡嘉敷島において、防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が渡嘉敷島で身寄りのない身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして、これを処刑した。また、赤松大尉は、集団自決で怪我をして米軍に保護され治療を受けた二名の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害した。さらに赤松大尉は、米軍の捕虜となりその後米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住 民男女6名に対し、自決を勧告し、処刑したこともあった。 要約8:大阪高裁の裁判官は、日本軍による住民加害について次のように指摘しています。 (1)非国民、通敵者として厳罰に処するとして、威嚇強制のうえ壕からの立退きを命じて己の身の安全を図った。 (2)貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を徴発と称して掠奪する。 (3)住民の壕に無断進入した兵士が泣き叫ぶ赤児に対して、米軍に発見されるとその母親を強制して殺害させた。 (4)住民の死亡では、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当ある。 (5)子供を気遣い、部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして、国民学校の訓導を処刑した。 (6)赤松大尉は、米軍に治療を受けた2名の少年を米軍に通じたとして殺害した。 (7)赤松大尉は、米軍の捕虜となり、投降勧告にきた伊江島の住民男女6名に対し、処刑した。 感想3:「精鋭無比の皇軍のなれの果てかと思わせる」事例に、ただただあきれ返るばかりです。 |
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1 | (2) 集団自決に関する文献等 各事実に、証拠、証人並びに控訴人を総合すれば、座間味島及び渡嘉敷島における住民の集団自決に関する文献等について、以下の事実が認めることができる。 ア 座間味島について (ア) 梅澤命令説について直接これを記載し、若しくはその存在を推認せしめる文献等としては、以下の事実を認めることができる。 a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社編集 (a) 「鉄の暴風」は、その「まえがき」にあるように、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。「五十年後のあとがき」には、「語ってくれた人数も多いが、話の内容は水々しく、且つほっとであった。戦争体験は、昨日のように生まなましく、別の観念の這入りこむ余地はなかった」と記載されている。 (b) 「鉄の暴風」には、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。・・その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」「日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した」として、控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた旨の記述がある。 (c) 「鉄の暴風」の「沖縄戦日誌」の昭和20年3月28日の箇所に、座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと、厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 要約1:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『鉄の暴風』は、当時の戦争体験をまとめたもので、別の観念の這入りこむ余地はなかった。 (2)『鉄の暴風』には、「日本軍は玉砕を命じたが、自らは全員投降した」とある。 (3)『鉄の暴風』には、「控訴人梅澤が座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」とある。 (4)『鉄の暴風』には、厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。 |
2 | b 「地方自治七周年記念誌」は、戦後における沖縄の政治、経済、教育、文化、社会その他の事情を総合して沖縄の全市町村の概要をまとめた記念誌である。 「地方自治七周年記念誌」には、「戦闘記梅択少佐(隊長)の率いる約千五百名の日本陸軍部隊が駐屯したのが一九四四年九月十日であつた」「二十五日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない」「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑前において玉砕する様にとの事であつた」「米軍の進撃によつてあわてふためいた住民に対し専ら慰撫激励に努めた村長野村正次郎、助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎の三役も妻子と共に自決に参加したのであつた」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前での玉砕を命じた旨の記述がある。 要約2:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『地方自治七周年記念誌』は、戦後における沖縄の全市町村の概要をまとめた記念誌である。 (2)『地方自治七周年記念誌』には、「部隊長よりの命によつて、老人子供は全員村の忠魂碑前において玉砕する様にとの事であつた」とある。 (3)『地方自治七周年記念誌』には、「住民に慰撫激励に努めた村長野村正次郎、助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎の三役も妻子と共に自決に参加した」とある。 (4)『地方自治七周年記念誌』には、「控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前での玉砕を命じた」とある。 |
3 | c 「自叙傳」は、宮里盛秀助役の父親である宮村盛永が著した記録である。 「二十五日」「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった」として、盛秀助役が父親である宮村盛永に玉砕命令の予告をした旨の記述がある。 d 「座間味戦記」は、座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。 「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった」として、控訴人梅澤が住民に対して、若年者は最後まで戦い老人・子供は忠魂碑前で玉砕するよう指示した旨の記述がある。 e 「秘録 沖縄戦史」は、沖縄戦当時警察官、その後琉球政府社会局長・山川泰邦が、自己の体験や、終戦の翌年沖縄警察部が行った戦没警察官の調査の際に収集された数多くの人の体験談や報告、琉球政府社会局長時代の援護業務のために広く集めた沖縄戦の資料などに基づいて執筆したものである。 「夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自決せよ』と」 として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある。 要約3:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『自叙傳』は、宮里盛秀助役の父親である宮村盛永が著した記録である。 (2)『自叙傳』には、「盛秀助役が父親である宮村盛永に玉砕命令の予告をした」とある。 (3)『座間味戦記』は、座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。 (4)『座間味戦記』には、「又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった」とある。 (5)『秘録 沖縄戦史』は、沖縄戦当時警察官・山川泰邦が戦没警察官の調査報告や琉球政府社会局長時代の援護業務のために広く集めた沖縄戦の資料などに基づいて執筆したものです。 (6)『秘録 沖縄戦史』には、「梅沢少佐から老人・子供は、村の忠魂碑前で自決せよとの命令が発せられた」とある。 |
4 | f 「沖縄戦史」は、沖縄タイムス社の編集局長・上地一史が、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したもので、その「まえがき」に
「この記録は、時事通信社代表取締役長谷川才次氏のすすめで、沖縄戦の正しい記録を一冊にまとめるつもりである。したがって、日・米両軍および現地沖縄に保存されている最も確実な資料に基づいて忠実な『沖縄戦史』とするように努力した」
と記載している。 「梅沢少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』 と命令した」「周囲にアメリカ軍の気配を感じ、捕虜になって恥をさらすより、死んで祖国を守ろうと、けなげにも、手榴弾で自決をとげた。二十七日の未明であった。」「村役場の首脳の自決も、二十七日であった。そのほか七十五名の純朴な住民たちが自決した」「その後、日本軍は生き残った住民に対し 『イモや野菜を許可なくして摘むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についてのきびしいおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令だった。このために三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命をつないでいた」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある。 また、「沖縄戦史」には、本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており、昭和20年3月28日の箇所に、座間味村長、助役、収入役、住民175名が控訴人梅澤の命令により集団自決した旨記載されている。 要約4:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『沖縄戦史』は、沖縄タイムス社の編集局長・上地一史が、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したもので、「最も確実な資料に基づいて忠実な『沖縄戦史』とするように努力した」 と記載している。 (2)『沖縄戦史』には、「梅沢少佐は、『老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』 と命令した」とある。 (3)『沖縄戦史』には、「3月28日、座間味村長、助役、収入役ら175名が梅澤の命令により集団自決した」とある。 |
5 | g 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」は、下谷修久が、戦後、座間味島に赴き、刊行した書籍である。 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には、出版当時の座間味村村長である田中登の序文として「戦闘に協力できる村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたのであります」との記述があるほか、座間味村遺族会会長である宮里正太郎の序文として「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」との記述がある。また、本文中の前記「血ぬられた座間味―沖縄緒戦死闘の体験手記」には「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前に集合して玉砕するよう命じたとする記述がある。 h 「秘録 沖縄戦記」は、山川泰邦が、「秘録 沖縄戦史」を再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして改訂したものである。 「秘録 沖縄戦記」には、「艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し、梅択少佐からきびしい命令が伝えられた。それは『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった」として、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じたとする記述がある。 i 「沖縄県史 第8巻」は、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、昭和46年4月28日に刊行されたものである。 「沖縄県史 第8巻」には、「軍自らは、県民が作戦の邪魔になるからということで、疎開を強制したり、あるいは集団自決を強要したり、また無実の県民をスパイ視したり、避難壕の軍へのあけ渡しを要求したものであった」と記述され、座間味島における集団自決について、「梅沢少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した」「 村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名は梅沢少佐の命令を守って自決した」と記述され、控訴人梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある。 要約5:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』は、下谷修久が、戦後、座間味島に赴き、刊行した書籍である。 (2)『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』には、出版当時の座間味村村長・田中登の序文として「作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたのであります」とある。 (3)『秘録 沖縄戦記』は、山川泰邦が、「秘録 沖縄戦史」を再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして改訂したものである。 (4)『秘録 沖縄戦記』には、「梅択少佐から『老人・子供は、村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった」とある。 (5)『沖縄県史 第8巻』は、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、刊行されたものである。 (6)『沖縄県史 第8巻』には、「梅沢少佐は、米軍上陸前に『老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した」とある。 |
6 | j 「沖縄県史 第10巻」(昭和49年)琉球政府編集 (a) 「沖縄県史 第10巻」は、沖縄の公式な歴史書の一部であり、昭和49年3月31日に発行される。 安仁屋政昭は、沖縄県史の資料価値等について「これは、客観性のある、極めて科学性のあるものだと思います。私どもは、行政記録、外交資料、軍事記録、報道記録、第三者の証言などを突き合わせて、そういう証言をつくってきたつもりであります」と語っている。 (b) 「沖縄県史 第10巻」には、「梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑の前に集合、玉砕すべし』」との記述がある。 (c) 「沖縄県史 第10巻」には、大城将保の記載として、初枝らの自決について、「沖縄戦史」及び「秘録 沖縄戦史」に誤記があり、「鉄の暴風」にも控訴人梅澤の死亡についての誤記があると指摘した上で、「本編の証言がそれらを訂正する資料ともなれば幸いである」としている。 要約6:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『沖縄県史 第10巻』は、沖縄の公式な歴史書の一部であある。 (2)『沖縄県史 第10巻』には、「客観性のある、極めて科学性のあるものだ」「本編の証言がそれら(「沖縄戦史」・「秘録 沖縄戦史」・「鉄の暴風」の誤記)を訂正する資料ともなれば幸いである」としている。 |
7 | k 米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵第77師団砲兵隊が慶良間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に保存されていた資料であり、平成18年夏、関東学院大学の林教授によって発見された。林教授によれば、この報告書には、「尋問された民間人たちは、三月二十一日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」、座間味村の状況について、「治療を施された外傷の多くは自傷によるものである。明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導(勧告)されていた。これらの自決の企ての多くが成し遂げられていたことが、後に発見されている」との記述がある。 要約7:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)米軍の『慶良間列島作戦報告書』は、米軍が慶良間列島上陸後に作成したものである。 (2)『慶良間列島作戦報告書』には、「尋問された民間人たちは、日本兵が、慶留間の島民に対して、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」「治療を施された外傷の多くは自傷によるもので、自決するように指導(勧告)されていた」とある。 |
8 | l 体験者らの供述等 (a) 「沖縄県史 第10巻」には、座間味島の住民の体験談が紹介されている。 宮里とめについては、「前に友軍から、もし米兵が上陸してきたら、この剣で敵の首を斬ってから死ぬように、ともらった剣を知り合いの男の人に、敵の首を斬るのは男がしか(ママ)できないから、と上げてしまったのを非常に後悔してなりませんでした」との体験談が掲載されている。 宮平初子については、「中にいる兵隊が、『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされた」との体験談が掲載されている。 宮平カメ及び高良律子は、連名の体験談の中で、「全員忠魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の壕に男の人が呼びにきたため、小学校一年生である私は、ただみんながむこうで死ぬのだというので、六歳の弟を連れて忠魂碑へと歩いていった」と記述している。 (b) 「座間味村史 下巻」や「沖縄の証言」にも、集団自決の体験者の体験談が記載されている。 宮里育江は、「『あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れて行くわけにはいかない』と断られました。そして、『これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい』と、手榴弾を渡されました」との体験談を寄せている。 宮里米子は、「住民は全員忠魂碑前に集まりなさいという連絡がはいりました。忠魂碑前に集まるということは、暗黙のうちに『玉砕』することだと認識していました」とする体験談が記載されている。 宮平ヨシ子は、「激しい艦砲射撃のなかを、伝令がやってきて、忠魂碑前に集まるように言うわけです。とうとう玉砕するのかと思いながら壕を出て行」ったとする体験談が記載されている。 (c) 初枝の手記には、「私たちは斬込み隊長の内藤中尉に呼ばれて『今夜半、斬込み隊は座間味の敵陣地を襲撃する。斬込み隊の生存者は稲崎山に集合することになっているので、お前たちは別働隊として、この弾薬を稲崎山の山頂まで運んでくれ。これで一緒に戦うんだ」と弾薬箱を渡されました。また、木崎軍曹からは『途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ』と手榴弾一個が渡されました」とある。 要約8:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)宮里とめは、「米兵が上陸してきたら、この剣で敵の首を斬ってから死ぬように、ともらった」と証言する。 (2)宮平初子は、「兵隊が『いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされた」と証言する。 (3)宮平カメ・高良律子は、「全員忠魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の壕に男の人が呼びにきた」と証言する。 (4)宮里育江は、「『これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい』と、手榴弾を渡されました」と証言する。 (5)宮里米子は、「忠魂碑前に集まるということは、暗黙のうちに『玉砕』することだと認識していました」と証言する。 (6)宮平ヨシ子は、「伝令がやってきて、忠魂碑前に集まるように言うわけです。とうとう玉砕するのかと思いながら壕を出て行」ったと証言する。 (7)宮城初枝は、「木崎軍曹から『万一の場合、日本女性として立派な死に方をしなさいよ』と手榴弾一個が渡されました」と証言する。 |
9 | m その他 (a) 沖縄タイムスは、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ、座間味村長宮里正太郎は、同月18日付けの回答書で「部隊による『自決命令』は要請された。自決者の援護処理で事件の真相を執筆し、陳情書を作成された故宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長は部隊命令だとはっきり要請され又、当時有力な村会議員であった故中村盛久氏(初代村遺族会長)も厚生省ではっきりと部隊命令による自決と要請された。その他多くの証言者も部隊命令又は、軍命令と言っている」「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基き作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分で勝手に作成できるものではな」いなどとし、添付された県援護課等への回答書には、宮里恵美子ら証言者が15名記載されている。 (b) 「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(昭和53年) は、住民を援護法の適用対象とすることについて、昭和32年までに政府の調査した事項として軍によって自決を強要された慶良間列島のケースを挙げている。 要約9:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)座間味村長宮里正太郎は、「部隊による『自決命令』は要請された」「当時有力な村会議員であった故中村盛久氏(初代村遺族会長)も厚生省ではっきりと部隊命令による自決と要請された」「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない」と回答する。 (2)「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(昭和53年) は、住民を援護法の適用対象とすることについて、昭和32年までに政府の調査した事項として軍によって自決を強要された慶良間列島のケースを挙げている。 |
10 | n その他 (a) 座間味島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな住民の供述や新聞報道等がある。 (b) 盛秀助役の妹である宮平春子は、陳述書に「盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて、父盛永に向って、『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう』と言いました。そして、皆で玉砕しようねということになりました」「座間味島の住民の集団自決は、私の兄の盛秀が命令したものではなく、軍が命令したものであることは間違いありません」「壕にいた日本の兵隊から、『捕まったら強姦され、残酷に殺されるから、自分で死になさい』と言われました。」と記載している。 (c) 上洲幸子は、陳述書の中に、「筒井中尉は、私たちに『アメリカ軍が上陸しているが、もし見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい』と指示しました」と記載している。 (d) 宮里育江は、陳述書の中に、「当時、村の三役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されませんでした。集団自決の貢任は軍にあり、その隊長に責任がなかったとはいえないと思います」と記載している。 「世界 臨時増刊 沖縄戦と『集団自決』」(平成20年1月)には、宮里育江氏(八三歳)は、「米軍上陸の前日、陸軍船舶兵特別幹部侯補生(特幹)から『あなた方は足手まといになる』『いざというときにはこれで自決しなさい』と手榴弾を手渡されていた。爆破のさせ方も教わった」との記載がある。 (e) 垣花武一作成の陳述書には、「村の三役が石川重徳ら村の要職者を密かに集め、米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されていると打ち明けた」との記載がある。 要約10:大阪高裁の裁判官は、座間味島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)宮平春子は、「兄の盛秀が命令したものではなく、軍が命令したものである」と陳述書している。 (2)上洲幸子は、「筒井中尉は、『捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい』と指示した」と陳述している。 (3)宮里育江は、「当時、村の三役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されない」と陳述している。 (4)宮里育江は、「『いざというときには自決しなさい』と手榴弾を手渡され、爆破のさせ方も教わった」と述べている。 (5)垣花武一は、「村の三役がは、米軍上陸時住民を玉砕させるよう軍から命令と打ち明けた」と陳述している。 |
11 | (イ) 梅澤命令説について否定し、又はその存在の推認を妨げる文献等としては、以下があげられる。 a 控訴人梅澤の陳述書には、「夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ、助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。『いよいよ最後の時が来ました。一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい』」。「私は5人に、毅然として答えました。『決して自決するでない。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ次女と悲惨な最後を遂げた由です」との記載があり、控訴人梅澤は、本人尋問において、同趣旨の供述をしている。 また、控訴人梅澤は、沖縄タイムスの牧志伸宏に対し、昭和60年、梅澤命令説を否定して抗議している。 b 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、関係者らが生き残った島民や日本軍関係者に尋ねた結果として、「これまで『駐留していた日本軍の命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道し、初枝らのコメントを掲載した。 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いた中井和久は、初枝に対する電話取材を複数回行い、その際の初枝のためらいや控訴人に対する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている。 そのほか、昭和61年6月6日付けの神戸新聞は、「沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた」として、「沖縄資料編集所紀要」 を取り上げ、控訴人による自決命令がなかった旨の報道をした。 要約11:大阪高裁の裁判官は、梅澤命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)梅澤裕は、「決して自決するでない」「弾薬、爆薬は渡せない」「悲惨な最後を遂げた由です」と陳述している。 (2)控訴人梅澤は、沖縄タイムスの牧志伸宏に対し、昭和60年、梅澤命令説を否定して抗議している。 (3)神戸新聞は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民が集団自決の道を選んだ」と報道した。 (4)神戸新聞は、「沖縄県などが、通史の誤りを認め、控訴人梅澤による自決命令がなかった」と報道した。 |
12 | c 沖縄史料編集所の主任専門員・大城将保は、控訴人に宛てた親書の中で、「沖縄県史 第10巻」は一種の資料集で、記述されている事柄は沖縄県の公式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正することが可能であることを述べた。 大城将保は、「沖縄史料編集所紀要」で「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、梅澤命令説が従来の通説であったが、昭和60年7月30日付けの神戸新聞の報道を契機として、控訴人や初枝に事実関係を確認するなどして史実を検証したと述べ、控訴人の手記である「戦斗記録」を紀要に掲載した。 紀要には、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」との記述がある。 昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、大城将保の談話として「宮城初枝さんらからも何度か、話を聞いているが、『隊長 命令説』はなかったというのが真相のようだ」「梅沢命令説については訂正することになるだろう」との記載がある。 d 宮村幸延は、盛秀助役の弟であり、・・ 「証言」と題する親書を作成し・・ている。「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右当時援護係宮村幸延」との記載がある。 要約12:大阪高裁の裁判官は、梅澤命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)大城将保は、「沖縄県史 第10巻」は資料集で、沖縄県の公式見解ではない、修正することは可能と述べた。 (2)大城将保は、神戸新聞の報道を契機に、梅澤裕の手記「戦斗記録」を「沖縄史料編集所紀要」に掲載した。 (3)『軍命令による集団自決』の通説は、村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』・『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居る。 (4)神戸新聞に、大城将保の談話として「『隊長 命令説』はなかったというのが真相のようだ」「梅沢命令説については訂正することになるだろう」との記載がある。 (5)盛秀助役の弟・宮村幸延は、「遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した」との記載がある。 |
13 | e 「母の遺したもの」 (a) 「母の遺したもの」は、女子青年団員・初枝の娘の宮城証人が初枝からの告白を受け、執筆したものである。 (b) 「母の遺したもの」には、控訴人の集団自決命令について「母は…梅澤氏に面会して、『あなたが命令したのではありません』と告白しました」との記載がある。 (c) また、「母の遺したもの」には、「盛秀が戦隊長を前に発した言葉は、『忠魂稗前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい』ということだった。戦隊長はやおら立ち上がり、『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、申し入れを断った。その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが、『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に違ぶよう命じた。盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない」との記述がある。 (d) 「母の遺したもの」にも、木崎軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており、この点では、「母の遺したもの」にも、座間味島での集団自決に軍が関係したことを窺わせる記述が存することが指摘されなければならない。 (e) 「母の遺したもの」には、援護法の適用に関連して、次のような記載がある。「一九五七年、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母は島の長老から呼び出され、『梅澤戦隊長から自決の命令があったことを証言するように』と言われたそうである」「母はいったん断った。しかし、住民が『玉砕』命令を隊長からの指示と信じていたこともあり、母は断れずに呼び出しに応じた」「役場の職員や島の長老とともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに 『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答えたという」 「座間味村役所…では、厚生省の調査を受けたあと、村長を先頭に『集団自決』の犠牲者にも『援護法』を適用させるよう、琉球政府社会局をとおして、厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出した資料『座間味戦記』が私の手元にあるが、・・私の母の行動と思われる文章が数カ所に見られる。そしてこのなかに、『梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様にとの事であった』というくだりが含まれている」 「その後、『援護法』の適用を申請するため作成された公文書が出されるが、個人的に座間味島の『隊長命令説』を証言として書いたのが、実は私の母だった。原稿をまとめるにあたり、『自決命令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。『集団自決』で傷害を負った人や遺族にはすでに国から年金や支給金が支給されており、証言を覆すことはできなかった。悩みに悩んでの執筆だった。『梅澤部隊長から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった』と記述されている。 「『集団自決』を仕事として書くためにやってきた娘に、自分の発言がもとで『隊長命令』という”ウソ”を書かせてはいけないと思ったのか、慰霊祭が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話し出した。梅澤戦隊長のもとに『玉砕』の弾薬をもらいにいったが帰されたこと、戦後の『援護法』の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして、『梅澤さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい』とも言った」との記載がある。 そのほか、初枝が昭和55年12月に沖縄を訪れた控訴人梅澤に面会して、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではあリません」と告白したことの記載や、娘である宮城証人に対し、手記を記載したノートを託して、機会を見て発表するよう求めたので、晴美自身の取材結果等とともに上記手記を収録した「母の遺したもの」を公にしたとの記載もある。 要約13:大阪高裁の裁判官は、梅澤命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)『母の遺したもの』は、女子青年団員・宮城初枝の娘・晴美が初枝からの告白を受け、執筆したものである。 (2)『母の遺したもの』には、「戦隊長は『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と、申し入れを断った」「盛秀は恵達に向かって、『玉砕』の伝令を命じた様子だった」との記述がある。 (3)『母の遺したもの』には、「木崎軍曹から「日本女性として立派な死に方をしなさい」と手榴弾一個が渡されたとの記述がある。 (4)『母の遺したもの』には、援護法の適用に関連して、「母は島の長老から呼び出され、『梅澤戦隊長から自決の命令があったことを証言するように』と言われた」「国の役人(が)、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』という問いに、母は『はい』と答えた」との記述がある。 (5)『援護法』適用のため、厚生省に陳情運動した時に提出した『座間味戦記』には、「『梅澤部隊長よりの命に依って、老人・子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様にとの事であった』というくだりが」ある。 (6)『母の遺したもの』には、「自分の発言がもとで『隊長命令』という”ウソ”を書かせてはいけないと思ったのか、母は私に、梅澤戦隊長のもとに『玉砕』の弾薬をもらいにいったが帰されたこと、戦後の『援護法』の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして、『梅澤さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい』とも言った」との記載がある。 (7)『母の遺したもの』には、「初枝が沖縄を訪れた梅澤に面会して、『住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではあリません』と告白した」との記載がある。 |
14 | f その他 (a) 控訴人らは、住民の手記には自決命令の主体が記載されていないことをもって梅澤命令説を否定しているところ、座聞味島の住民の供述を掲載する「潮だまりの魚たち」(平成16年)にも、控訴人梅澤が住民に対して自決命令を出したことを明言する供述はない。 (b) 「週刊新潮」(平成18年)の櫻井よしこのコラムには、座間味島の集団自決について、概ね控訴人梅澤の供述に沿う事実経緯が記載され、梅澤命令説を否定する櫻井よしこの見解が記載されているが、記載内容からして、控訴人梅澤に対する取材や神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、控訴人梅澤に対する取材を除き、櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められない。 要約14:大阪高裁の裁判官は、梅澤命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)『潮だまりの魚たち』には、「控訴人梅澤が住民に対して自決命令を出したことを明言する供述はない」 (2)『週刊新潮』の櫻井よしこのコラムには、「生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められない」 感想3:TV・新聞・雑誌で幅広く活躍している櫻井よしこ氏が集団自決問題にも登場します。しかし、裁判所は、梅澤裕氏や神戸新聞の記事の基づく見解を述べただけで、沖縄の生存者からの聞き取りがないと厳しく指摘しています。これって、結論を持っていて、それに沿う言論・政治活動をしているだけのことなのでしょうか。いささかショック! |
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1 | イ 渡嘉敷島について (ア) 赤松命令説について直接、若しくはその存在を推認せしめる文献等としては、以下があげられる。 a 「鉄の暴風」には、「住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた」「『全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである」「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された」「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。 これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍のある身を痛嘆した」として、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対して自決命令を出したとする記述がある。 要約1:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『鉄の暴風』には、「赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』と駐在巡査から伝えられた」「『全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである」との記述がある。 (2)『鉄の暴風』には、「将校会議(で)、赤松大尉は『われわれ軍人は持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した。 これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は、軍籍のある身を痛嘆した」との記述がある。 |
2 | b 「秘録 沖縄戦史」には、「『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令が赤松大尉から駐在巡査安里喜順を通じて発せられた」「西山の軍陣地に辿りついてホッとするいとまもなく赤松大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて、北方の盆地に移動集結した」「『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた」「防衛隊員は二個ずつ手榴弾を持っていたのでそれで死ぬことに決めた」「一個の手榴弾のまわりに二、三十名が丸くなった」として、赤松大尉が住民に対して西山盆地への集合・軍陣地からの立ち去り・集団自決を命じたこと、防衛隊員が所持していた手榴弾を用いた自決が発生したことなどの記述がある。 c 「沖縄戦史」には、「住民にとって、赤松部隊は唯一無二の頼みであった。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、『住民は、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』と命令を与えた」「赤松部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。なかには、カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者をたおした者もいた」として、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある。 d 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」中の「沖縄作戦と座間味の戦い」の章には、「赤松少佐は自決せよと命令した。『さあ、みんな、笑って死のう』という古波蔵村長の言葉が終わると、一発の手榴弾の周囲に集まった。死ねない者はお互いに根棒で殴り合い、カミソリで頭を切り、子を絞め、鍬で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした」として、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある。 e 「秘録 沖縄戦記」には、「赤松隊は『住民は集団自決せよ!』と命令する。一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった。肉片が飛び散り、谷間はたちまち血潮でいろどられた。なかには、クワやこん棒で互いに頭をなぐりつけたり、かみそりで自分ののどをかき切って死んでいく者もあった。村民はこの盆地をいまでも『玉砕場』と呼んでいる」との記述があり、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある。 要約2:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『秘録 沖縄戦史』には、「『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた」「防衛隊員は二個ずつ手榴弾を持っていたのでそれで死ぬことに決めた」との記述がある。 (2)『沖縄戦史』には、「『食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』と命令を与えた」「赤松部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者をたおした者もいた」との記述がある。 (3)『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』には、「赤松少佐は自決せよと命令した」との記述がある。 (4)『秘録 沖縄戦記』には、「赤松隊は『住民は集団自決せよ!』と命令する。一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった」との記述がある。 |
3 | f 「戦闘概要」は、当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。 「戦闘概要」には、「駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた」「赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。米軍は、住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」「手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時、赤松隊長は壕の入口に立ちはだかり軍の壕へは一歩も入ってはいけない、速かに軍陣地近郊を去れと激しく構え、住民をにらみつけた」として、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対して部隊陣地北方の盆地への集合・自決・軍の壕からの立ち去りを命じたとする記述がある。 g 「沖縄県史 第8巻」には、「真暗な山道を豪雨と戦いつつ、老幼婦女子の全員が西山にたどりついた。ところが赤松大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の中を、さらに北方盆地に移動集結した。攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」として、赤松大尉が住民に対して集団自決を命じたとする記述がある。 h 「沖縄県史 第10巻」 (a) 「沖縄県史 第10巻」には、「赤松隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりの安里喜順巡査を通じて命令した。安里巡査は、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた」「西山陣地に村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた」「陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾を配り出した。自決をしようというのである」「死ねない者たちは、鍬や棒でお互い同士なぐり合い、殺し合っていた。男たちは、妻子や親を殺し、親戚の者にも手をつけていた。そのために、男手のある家族の被害は一番大きい。身内の者を片づけると、自分自身は立木に首を吊った」との記述がある。 (b) 「沖縄県史 第10巻」には、渡嘉敷村長・米田惟好の証言として、「防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。『貴方(安里喜順巡査)も一緒に… この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません』といっていた」と記載している。 要約3:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)『戦闘概要』は、当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力、渡嘉敷村遺族会が編集した。 (2)『戦闘概要』には、「手榴弾不発で死をまぬかれた者」に、「赤松隊長は壕の入口に立ちはだかりは一歩も入ってはいけない、速かに軍陣地近郊を去れ」との記述がある。 (3)『沖縄県史 第8巻』には、「真暗な山道を豪雨と戦いつつ、西山にたどりついた老幼婦女子の全員」に、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」との記述がある。 (4)『沖縄県史 第10巻』には、「安里巡査は、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた」「西山陣地に村民はたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた」「男たちは、妻子や親を殺し、親戚の者にも手をつけていた」「男手のある家族の被害は一番大きい」との記述がある。 (5)『沖縄県史 第10巻』には、「安里喜順巡査は、『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません』といっていた」と記載している。 |
4 | i 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」 (a) 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」には、「集団自決が起こる大体数日前ですね、兵器係から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持って来て、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。一人に二箇ずつ、それはなぜ二箇かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じた時には、一箇は敵に投げ込んで、あと一箇で死になさいと」「( 証人自身は、直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい、直接聞きました」との記述がある。 (b) 安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」には、金城証人の「阿波連の住民の幾人かが身の危険を感じてその現場を離れようとすると、駐在が刀を振り回して自決場へ再び追い込まれるという現象も起こった。これは日本軍に仕組まれた計画の実践に他ならなかった」「極めて重大な問題は、手榴弾が予め手渡されたということは、軍によって『集団自決』への道が事前に備えられていたと言うことができるのである」といった記載がある。 j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」 安仁屋政昭は、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。 『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には、「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております」 「曽野綾子さんなどは、『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵事主任が証言をしております」「兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね」との記述がある。 要約4:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)「金城重明証言」には、「兵器係から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持って来て、手榴弾をもうすでに手渡していた」との記述がある。 (2)「金城重明証言」には、「自決場へ追い込まれ、手榴弾が予め手渡されたということは、軍によって『集団自決』への道が事前に備えられていた」といった記載がある。 (3)「安仁屋政昭証言」には、「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていた。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております」との記述がある。 (4)「安仁屋政昭証言」には、「曽野綾子さんなどは、『ある神話の背景』でこれを否定している」。しかし、「兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです」との記述がある。 |
5 | k 「渡嘉敷村史」 (a) 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村史編集委員会の編集により、渡嘉敷村役場が発行したものである。 「渡嘉敷村史」には、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ(ママ)二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地 近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」「渡嘉敷島においては、赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」として、赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある。 (b) 昭和63年6月16日の朝日新聞夕刊によれば、富山真順は、朝日新聞の取材に対して同趣旨の供述をし、そうした供述をしたことに関して「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」と語ったとされる。 l その他 (a) 沖縄戦の研究者である石原昌家は、日本軍が、軍官民共生共死の一体化の方針のもとで住民をスパイ視して直接殺害したほか、集団自決を強制した旨の見解を主張している。 (b) 渡嘉敷島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな住民の供述や新聞報道等がある。 要約5:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島の集団自決に関する文献等について次のように指摘しています。 (1)渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。 (2)朝日新聞の取材に対して、真順氏は、「あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。あらためて証言しておこうと思った」と語った。 (3)石原昌家は、日本軍が、軍官民共生共死の一体化の方針のもとで住民をスパイ視して直接殺害したほか、集団自決を強制した旨の見解を主張している。 |
6 | (イ) 赤松命令説について否定し、その存在の推認を妨げる文献等としては、以下に記載するものがあげられる。 a 赤松大尉の手記等 赤松大尉は、「潮」(昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年)、昭和43年4月8日付けの琉球新報の取材に応じた記録が残っている。赤松大尉は、「潮」(昭和46年)に寄せた手記において、自決命令は出していない、特攻する覚悟であったため住民の処置は頭になかった、部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山のほうに移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいいであろうと示唆した、これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれないなどと供述し、赤松命令説を否定している。 b 「沖縄方面陸軍作戦」は、慶良間列島における日本軍の作戦及び戦闘の状況をまとめた防衛庁の資料である。 「沖縄方面陸軍作戦」には、慶良間列島の集団自決について、「当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的理由であろう」として、住民が軍の命令によってではなく自発的に自決に至ったとするような記述がある。 要約6:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)赤松嘉次大尉は、雑誌『潮』で、「部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山のほうに移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいいであろうと示唆した、これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない」と供述している。 (2)『沖縄方面陸軍作戦』は、慶良間列島における日本軍の作戦・戦闘の状況をまとめた防衛庁の資料である。 (3)『沖縄方面陸軍作戦』には、「当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的理由であろう」という記述がある。 |
7 | c 「陣中日誌」は、第三戦隊の隊員であった谷本小次郎によって編集されたものである。 印刷された「陣中日誌」には、「D小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅のごとく陣地後方において自訣し始めたる模様」とある次の行に注として「 注 自訣は翌日判明したるものである」との記述がある。 次の行に「三月二十九日曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に洒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景であった」との記述があり、軍の命令を示す記載はない。 d 「ある神話の背景」は、曽野綾子が住民や赤松大尉、第三戦隊元隊員らに取材して執筆したものである。 「ある神話の背景」には、軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であるところ、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述がある。 「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものであるとの記述がある。 「ある神話の背景」は、前記3つの資料は、米軍上陸日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず、同月26日と間違って記載していると指摘している。 曽野綾子は、その後、「正論」(平成15年)、「沈船検死」(平成18年)、「Voice」(平成19年)、平成19年10月23日付け産経新聞、「WILL」(平成20年1月号)においても、「ある神話の背景」に示した見解を維持している。 要約7:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)『陣中日誌』には、「自訣は翌日判明したるものである」との記述がある。 (2)『ある神話の背景』は、曽野綾子が住民や赤松大尉、第三戦隊元隊員らに取材して執筆したものである。 (3)『ある神話の背景』には、「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に対する取材に基づいて書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述がある。 (3)『ある神話の背景』には、前記3つの資料は、米軍上陸日が27日なのに、26日と記載していると指摘している。 (4)曽野綾子氏は、「正論」・「Voice」・産経新聞・「WILL」で同じ見解を維持している。 感想4:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると、「正論(産経新聞)・Voice・諸君!・WiLLは、松下政経塾に近い右派・保守的な記事が多い」とありました。曽野綾子氏のような超著名人の言論が雑誌「世界」(岩波書店)や朝日新聞・毎日新聞に紹介されないのか、不思議な感じです。 |
8 | e 「花綵の海辺から」は、戦史研究家である大江志乃夫が執筆したものである。 「花綵の海辺から」には、「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」として、赤松命令説を否定する記述がある。 f 「沖縄県警察史 第2巻」 (a) 「沖縄県警察史 第2巻」は、沖縄県警本部が発行した沖縄県の警察に関する資料である。 「沖縄県警察史第2巻」には、安里巡査の供述として、「私は赤松隊長にあった。『このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか』と相談した。すると赤松隊長は、『私たちも今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた」「私は住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた」「当時の教育は、『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので、言っても聞かなかった。住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いし、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていた。その手榴弾を使って玉砕した」との記述がある。 (b) 安里巡査は、沖縄タイムスに赤松大尉の直筆の手紙を紹介し、コメントした特(ママ)嵩力に宛てた昭和58年6月8日付けの手紙でも、集団自決が軍命でも赤松大尉の命令でもないと記載するなどしている。 要約8:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)『花綵の海辺から』は、戦史研究家である大江志乃夫が執筆したものである。 (2)『花綵の海辺から』には、「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」との記述がある。 (3)『沖縄県警察史 第2巻』は、沖縄県警本部が発行した沖縄県の警察に関する資料である。 (4)『沖縄県警察史 第2巻』には、「当時の教育は、『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので、言っても聞かなかった」との記述がある。 |
9 | g 「沖縄戦ショウダウン」は、沖縄の地元紙である琉球新報に連載されていた上原正稔のコラムである。 「沖縄戦ショウダウン」には、金城武徳や大城良平、安里巡査が、赤松大尉について、立派な人だった、食料の半分を住民に分けてくれた、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことを記載し、援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載している。 要約9:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)『沖縄戦ショウダウン』は、沖縄の地元紙である琉球新報に連載されていた上原正稔のコラムである。 (2)『沖縄戦ショウダウン』には、金城武徳や大城良平、安里巡査が、赤松大尉について、立派な人だった、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことを記載している。 (3)『沖縄戦ショウダウン』には、援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載している。 |
10 | h 知念証人及び皆本証人の各証言 (a) 知念証人は、第三戦隊の小隊長として赤松大尉とともに渡嘉敷島を守備していた者である。 知念証人は、陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり」と記載した上で、証人尋問において、「沖縄県史 第10巻」の体験談に赤松大尉の自決命令はない旨記載したことについて、正しい供述である旨証言し、「自決命令はいただいておりません」などと証言している。 知念証人は、琉球新報のコラムにおいても赤松大尉が自決命令を出していない旨途べている。 (b) 皆本証人は、第三戦隊の中隊長として赤松大尉とともに渡嘉敷島を守備していた者である。 皆本証人は、集団自決の起こった日の自らの行動について、午前1時ころに主力部隊と合流した、同日午前3時ころに赤松大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかった、翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けた、赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが、同年8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも、赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないなどと証言している。 要約10:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)第三戦隊の小隊長(副官)・知念朝睦証人は、「自決命令はいただいておりません」と証言している。 (2)第三戦隊の中隊長・皆本義博証人は、「翌29日部下から集団自決が起きたとの報告を受けた」と証言している。 |
11 | i 照屋昇雄の供述 照屋昇雄は、琉球政府社会局援護課の職員であった者である。 産経新聞の平成18年8月27日の夕刊は、照屋昇雄が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をした者であるとした上で、同人が渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとの記事を掲載した。 照屋昇雄は、「正論」(平成18年11月号) に掲載された「日本文化チャンネル桜」の取材班の取材に対しても、同趣旨の供述をしている。 要約11:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)琉球政府社会局援護課の職員・照屋昇雄は、産経新聞で、聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語った。 (2)照屋昇雄は、産経新聞で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語った。 |
12 | j 徳平秀雄らの供述 (a) 徳平秀雄は、渡嘉敷島の郵便局長であった者である。 徳平秀雄は、「沖縄県史 第10巻」に「村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました」と記載した。 (b) 元第三戦隊第一中隊付防衛隊の大城良平は、「沖縄県史 第10巻」に「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状態にきていたのです。ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきだということです。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあります。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いたといいます。その時、村の指導者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやってと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります」と記載した。 要約12:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)郵便局長・徳平秀雄は、「敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました」と記載した。 (2)第三戦隊第一中隊付防衛隊の大城良平は、「当時の教育がそこにあてはまった。敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきだということです。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあります。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いたといいます」と記載した。 |
13 | k その他 (a) 以上の文献等のほか、赤松大尉が集団自決に対する関与について「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」とする手紙を紹介する報道や、この報道を受けて、安里巡査が、昭和58年当時衆議院外務委員会調査室に勤務していた徳嵩力に宛てて、渡嘉敷島の集団自決は軍の命令、赤松大尉の命令のいずれによるものでもなかった旨記載した手紙、その手紙に対する徳嵩力の返事など、赤松命令説に消極的な報道、手紙等がある。 (b) また、本件訴訟を契機とした供述や新聞報道等もある。 例えば、金城武徳は、 「正論」(平成18年11月号) に掲載された現地取材において、渡嘉敷島の集団自決は軍の自決命令によるものではない旨供述している。 要約13:大阪高裁の裁判官は、赤松命令説の否定又は存在の推認を妨げる文献等を次のように指摘しています。 (1)安里喜順巡査は、衆議院外務委員会調査室に勤務していた徳嵩力に宛てて出した、「集団自決は軍の命令、赤松大尉の命令のいずれによるものでもなかった」という手紙があります。 (2)金城武徳は、 「正論」(平成18年11月号)で、集団自決は軍の自決命令によるものではないと供述している。 |