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エピソード

304_12

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判(10)
HTML版:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判━高裁判決全文(3/3)←クリック
大江・岩波沖縄戦━裁判年表(左右でなく、東西の視点で編集)←クリック
 紙データをペーパーレス・データ(デジタル)化し始めたのが1986(昭和61)年です。
 高裁判決の全文を入手したのがPDF版を印刷した紙データでした。A4サイズで191枚もありました。これでは丹念に検証できません。
 そこで、紙データをOCR(文字認識処理ソフト)で、デジタルデータに変換し、PDF版を参照しながら、校正に努めました。改行も、校正しやすいように、PDF版と同じようにしました。
 毎日毎日、約8時間、パソコンと取り組んで、約2か月かかりました。OCR(文字認識処理ソフト)によるコンバートが終わってほっとしたのか、健康が自慢の私ですが、過労がたたって、年末・年始には風邪を引いてしまいました。
 今回は、240〜281ページを検証しました。クリックしてご利用ください。
 なぜ、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判にこだわるかといえば、この裁判に大きな意味を感じているからです。
(1)戦前、公正・中立であるべきマスコミが情報を操作して、戦争への道に進んでいった。今はどうか。
(2)戦前、情報を操作するために、自分の都合のいい資料は採用するが、都合の悪い資料を排除するという歴史修正主義的な手法が採用された。今はどうか。
(3)過去を調べ、現状を知り、今後どう対応するかが、歴史に携わる者の使命である。
 前回に指摘した私の確認事項を検証する前に、高裁の判断を見てみたいと思います。
 原告側は、高裁の判断を不満として最高裁に上告しています。その結果も、いずれ、報告します。
 素人の私は、遂条的に点検する方法を採用しています。

HTML版:宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について全文(240-251P)←クリック
6 宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について
 原審の口頭弁論集結後、控訴人梅澤の伝令要員を務めていたという宮平秀幸の新しい供述が明らかになったとして新聞報道や雑誌への記事掲載がなされ、当審においても関連証拠が多数提出されて、それらに基づく事実主張がなされている(控訴人ら訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった)。
(1) 当初の秀幸新証言の概要は次のとおりである。
@秀幸は第一戦隊(梅澤部隊)の本部付きの伝令員であった。だから、一切は、全部分かっている。
A村三役が「いよいよ明日は米軍の上陸だと思うので、住民はこのまま生き残ってしまったら鬼畜米英に女も男も殺される、同じ死ぬくらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい、それでお願いに来ました」と言うのに対して、梅澤隊長は、「何をおっしゃいますか。戦うための武器弾薬もないのに、あなた方に自決させるようなそういうものはありません。絶対にありません」と答えた。
B逆に梅澤隊長は、目を皿にして、軍刀を持って立って、「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。私たちは国
土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たのではない。あなた方は、畏
れ多くも天皇陛下の赤子である。あんた方が武器弾薬、毒薬を下さいと言っても、それは絶対に渡せない。そうした命令は絶対にないから解散させろ」と命令した。
C自分はその場にいて、隊長とは2メートルくらいしか離れていないところで隊長の話を聞いた。
Dそれで、村の者たちは渋々帰っていき、自分もそれについて行ったところ、三役は忠魂碑の前の階段に立ち、野村村長が、「自決するために集まってもらったが、日本軍の隊長からは『自決してはいけない。させない』、しかも『民間人に渡す武器弾薬、毒薬、何もない』と強く叱咤されて、どうすることもできないから、ただいまから解散する」と解散を命じた。
Eその後、家族を引き連れて避難し、整備中隊の壕に行き、自決させてもらおうと来たと言ったところ、内藤中隊長らからも『だれがそんな自決命令を出したんだ。軍からは自決命令、玉砕命令は全然出していないよ。早く避難しな
さいよ」と言われ、食料を持てるだけ持たされて追い出された。

要約1:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)原審の口頭弁論集結後、宮平秀幸の新しい供述を新聞や雑誌に掲載されたが、証人申請はされず。
(2)秀幸は第一戦隊(梅澤部隊)の本部付きの伝令員であった。だから、一切は、全部分かっている。
(3)村三役のお願いに対して、梅澤隊長は、「戦うための武器弾薬もないのに、自決させるようなものは絶対にありません」と答えた。
(4)逆に梅澤隊長は、「あなた方は、畏れ多くも天皇陛下の赤子である。解散させろ」と命令した。
(5)自分はその場にいて、隊長とは2メートルくらいしか離れていないところで隊長の話を聞いた。
(6)野村村長が「日本軍の隊長からは『自決させない』と強く叱咤され・・ただいまから解散する」と解散を命じた。

解説1:新聞や雑誌に掲載された宮平秀幸氏の新しい供述は、被控訴人側から反対尋問を受けない証言だったということでしょうか。素人の私が考えても、何の価値もありませんね。
(2) しかし、上記秀幸新証言は、同人自身の過去に話していたことと明らかに矛盾している。また、秀幸はさらに3通の陳述書を作成し『証言』しているが、証言自体にも矛盾や不自然な変遷がある。
ア 秀幸は、平成4年制作のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」で自分の戦争体験を詳細に語っている。そこでは、3月23日の晩から家族7人で自分たちの壕に入って24、25日を過ごし、25日の午後8時半か9時頃になり、玉砕命令が出ているから忠魂碑前で自決するので集まるようにと伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中攻撃を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、整備中隊の壕の前等を経由して、夜明けに自分たちの壕にたどり着いたと話している。3月25日夜に宮里助役らが梅澤隊長を訪れた際に、本部付き伝令として隊長の傍らにいたということや@、梅澤隊長が自決するなと命じたとかAB、野村村長が忠魂碑前でそれを伝えて解散を命じたDなどということは全く出ていない。
イ このことについて、拓殖大学藤岡信勝教授は意見書で、秀幸は平成4年の記録社によりなされた上記ビデオ撮影に先立ち平成3年6月大阪の読売テレビの取材を受け、箝口令が敷かれていた村長の解散命令のことをうっかり話してしまい、そのことについて取材の数日後に田中登元村長から厳しく叱責された、そのこともあり平成4年の記録社のビデオ撮影も村当局の厳しい監視下に行われ、村長の妻が秀幸に真実を語らせないように秀幸の母貞子に圧力をかけ貞子と秀幸の妻がつきっきりで撮影されたため、秀幸は真実を語ることが出来なかったものであると詳細に解説し、秀幸も、上記ビデオとの矛盾を指摘された後の陳述書で同様に弁解する。しかし、田中登元村長は既に平成2年12月11日に病気療養中の県立那覇病院で死亡しているのであって、上記藤岡教授の解説や秀幸の弁解は明らかに事実に反する。また、記録社の撮影状況に関する電話回答もこれを否定しているし、宮城晴美の陳述書によると、貞子は遅くとも平成3年からは病気療養のため本島に住んでいて酸素ボンベが手離せず、秀幸のビデオ撮影に立ち合うはずもないとされている。

要約2:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)秀幸は、平成4年制作のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」で、3月23日の晩から家族7人で自分たちの壕に入って24、25日を過ごし、25日の午後8時半か9時頃になり、玉砕命令が出たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中攻撃を浴び、各自の壕で自決せよということになり、夜明けに自分たちの壕にたどり着いたと話している。
(2)ビデオには、当初の証言にある3月25日夜に宮里助役らが梅澤隊長を訪れた際に隊長の傍らにいた@、梅澤隊長が自決するなと命じたAB、野村村長が忠魂碑前でそれを伝えて解散を命じたDなどは全く出ていない。
(3)藤岡信勝教授は意見書で、秀幸は平成3年6月大阪の読売テレビの取材を受け、村長の解散命令のことをうっかり話してしまい、田中登元村長から厳しく叱責され、平成4年の記録社のビデオ撮影も村当局の厳しい監視下に行われ、秀幸の母貞子と秀幸の妻がつきっきりで撮影されたため、秀幸は真実を語ることが出来なかったと詳細に解説する。
(4)田中登元村長は既に平成2年12月11日に死亡しており、藤岡信勝教授の解説は明らかに事実に反する。
(5)記録社の撮影状況に関する電話回答もこれを否定している。
(6)宮城晴美の陳述書は、「貞子は平成3年から病気療養で、秀幸のビデオ撮影に立ち合うはずもない」とある。
ウ 「小説新潮昭和62年12月号」所載の本田靖春著ノンフィクション「座間味島一九四五」には、秀幸は3月25日の夜、家族7名で宮平家の壕にいたところ、「午後10時集団自決するので忠魂碑の前に集合」との命令が伝えられ、牛前0時7名が正装して忠魂碑前に行ったが皆の集合は遅れていた、だれかが爆雷を貰いに行ったという話がその場に流れていたが、待てど暮らせど現物は届かない、そこへ艦砲射撃が始まり、四散して山に逃げ込んだ、その夜から島内各所で集団自決が次々に起きたと、話している。秀幸が梅澤部隊長の傍らに居て、自決してはいけないとの命令を聞いたとか@〜C、村長がそれを住民に伝え解散を命じたDなどの話とは全く異なっており、秀幸はこれらを聞いていないことになっている。
 本田靖春は、上記ノンフィクション記事に宮城初枝の手記を引用しており、その次の号の「第一戦隊長の証言」には3月25日の梅澤隊長と助役らとのやりとりについて初枝や控訴人梅澤の話を掲載しているのであるから、秀幸からの取材のなかでも初枝が聞いた当日の本部壕でのやりとりが話題になっていても不思議ではないのであるが、それにもかかわらず、秀幸は本部壕のその場にいたなどとは全く述べておらず、忠魂碑前で爆雷が届くのを待っていたというのである。なお、藤岡教授は、本田の記事は、取材時間が少なく「宮平語」に通じてもいない本田の錯誤であり、場面の再構成があるなどと解説するが、本部壕にいたなどと述べていないという事実自体は否定しようがないというべきである。

要約3:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)本田靖春著「座間味島一九四五」には、秀幸は3月25日の夜、家族7名で宮平家の壕にいた、牛前0時7名が正装して忠魂碑前に行った、待てど暮らせど爆雷は届かない、その夜から島内で集団自決が次々に起きたとある。
(2)この証言は、当初の秀幸の証言である梅澤部隊長の傍らに居て自決してはいけないとの命令を聞いたとか@〜C、村長がそれを住民に伝え解散を命じたDなどの話とは全く異なっており、@〜Dを聞いていないことになる。
(3)本田靖春の記事には、3月25日の梅澤隊長と助役らとのやりとりについて初枝や控訴人梅澤の話を掲載しているが、秀幸は本部壕のその場にいたとは述べておらず、忠魂碑前で爆雷が届くのを待っていたというのである。
(4)藤岡信勝教授は、本田の記事は、取材時間が少なく「宮平語」に通じてもいない本田の錯誤であり、場面の再構成があるなどと解説するが、本部壕にいたなどと述べていないという事実自体は否定しようがないというべきである。
エ 今回の秀幸新証言自体にも不自然な変遷が見られる。秀幸新証言は当初は梅澤隊長の自決してはならないという命令を隊長付き伝令としてその2メートルの傍らで聞き、助役と会話もしたかのようなものであったが、初江や控訴人梅澤は秀幸がその場にいたことを否定していることなどを指摘されると、25日は夕刻まで整備中隊の壕で仮眠を取っていたが、家族のもとに帰るように言われ、途中、艦砲射撃が始まり本部壕の脇に転がり込むようにたどり着いたところ、壕の入り口から人の声が聞こえた、何事かと壕の入り口に何枚もかけられた毛布の陰に身を潜めた、毛布が死角になって私の姿は梅澤隊長からも盛秀助役からも見えなかった、しかし、梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていなかったという補足の説明がなされている。いかにも不自然な変遷であり、辻棲合わせといわざるを得ない。
 秀幸新証言では、同人は、姉である初枝に対して、梅澤さんが自決命令を出していないことを生きているうちにはっきり言わないと後で悔いを残すよと亡くなるまで言い続け、危篤状態の時にまで押しかけたかのように述べている。しかし、先に認定したとおり、初枝は既に昭和55年の時点で控訴人梅澤と会って自分の記憶している壕での様子をそのままに話しており、ノートも送り、昭和57年にも手紙で詫びを述べているのである。したがって、秀幸が初枝に晦いを残すよと言って告白を促すようなことはあり得ないことである。

要約4:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)今回の秀幸新証言自体にも不自然な変遷が見られる。
(2)秀幸新証言は当初は自決してはならないという命令を2メートルの傍らで聞き、初江や控訴人梅澤は秀幸がその場にいたことを否定している指摘されると、25日は夕刻まで整備中隊の壕で仮眠を取っていたが、艦砲射撃が始まり本部壕の脇に転がり込むようにたどり着いた、毛布が死角になって私の姿は梅澤隊長からも見えなかった、しかし、2メートル程度しか離れていなかったと補足の説明する。不自然な変遷であり、辻棲合わせといわざるを得ない。
(3)秀幸新証言では、姉である初枝に対して、梅澤さんが自決命令を出していないことを生きているうちにはっきり言わないと後で悔いを残すよと亡くなるまで言い続けと述べている。
(4)しかし、初枝は既に昭和55年の時点で控訴人梅澤に壕での様子を話しており、昭和57年にも手紙で詫びいる。したがって、秀幸が初枝に晦いを残すよと言って告白を促すようなことはあり得ない。
(3) 秀幸新証言は、他の多くの手記などが述べるところとも明らかに矛盾する。
ア 秀幸の母宮平貞子の「座間味村史下巻」(平成元年発行)登載の詳細な手記(談)によると、25日夜は家族で自分の壕に隠れており、夜になって艦砲射撃が激しくなるなか、家族で壕を出て逃げ回り、26日夜明けに自分の壕に戻った、この間3男(つまり秀幸。当時15歳)は、租父母の手を引くようにして歩いた、途中、整備中隊の壕に行ったら、「こっちは兵隊のいる場所だからあなた方は上の方に逃げなさい。もし玉砕の必要があったら自分たちが殺してあげるから、決して早まったことをしてはいけないよ」とすごい口調で言われた、貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていないと述べている。
 整備中隊の壕に行ったことは秀幸の話と一致しているが、当夜は家族で終始行動を共にしていたことを詳細に述べており、それによると、秀幸が本部壕に行ったり、忠魂碑前に行くことなどあり得ないことである。この貞子手記は、今回の秀幸新証言がなされる遥か前に記録されたもので、貞子が虚偽を述べる理由はない。

要約5:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)秀幸の母宮平貞子の手記によると、25日夜は家族で自分の壕に隠れ、夜になって壕を出て逃げ回り、26日夜明けに自分の壕に戻った、この間3男・秀幸(当時15歳)は、租父母の手を引くようにして歩いた、途中、整備中隊の壕に行ったら、「こっちは兵隊のいる場所だからあなた方は上の方に逃げなさい」とすごい口調で言われた、貞子たちの壕は奥まっていたため、指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていないとある。
(2)整備中隊の壕に行ったことは秀幸の話と一致しているが、秀幸が本部壕に行ったり、忠魂碑前に行くことなどあり得ない。
(3)貞子手記は、今回の秀幸新証言がなされる遥か前に記録されたもので、貞子が虚偽を述べる理由はない。
イ 「母の遺したもの」に記録された宮平春子(宮里盛秀の妹)の話によると、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に
忠魂碑にむかったが、数メートル前に照明弾が落下し、進むことが出来ずに、来た道を引き返すことにしたところ、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向かってきたので、ここで全員が忠魂碑に行くのをやめ、そ
れまで村長や収入役らとその家族が避難していた農業組合の壕へ向かったと述べている。すなわち、これによると、村長は忠魂碑前に行っていないことになるのであり、秀幸の述べる忠魂碑前での村長の解散命令Dなどあり得ない
ことになる。宮平春子が虚偽を述べる理由もない。

要約6:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)「母の遺したもの」に記録された宮平春子(宮里盛秀の妹)の話によると、宮里盛秀助役の一家は、忠魂碑にむかったが、数メートル前に照明弾が落下し、進むことが出来ずに、来た道を引き返すことにしたところ、村長と収入役の家族と合流し、忠魂碑に行くのをやめ、村長や収入役らが避難していた農業組合の壕へ向かったと述べている。
(2)これによると、村長は忠魂碑前に行っておらず、秀幸の述べる忠魂碑前での村長の解散命令Dはあり得ない。
(3)宮平春子が虚偽を述べる理由もない。
ウ 宮城晴美は昭和60年頃から4年余り、座間味村役場の委託を受けて「座間味村史」全3巻の編集執筆に携わ
り、昭和63年1月頃から高齢者の聞き取り調査を行った。そして、そのころ秀幸から立ち話で昭和20年3月25日の夜忠魂碑前で村長から隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した旨の話を聞き、事実だとしたら
村史からは絶対はずせない話であると考え、母初枝に確かめたが、そんな話は聞いたことがないということであり、貞子にも確かめるように言われて数回にわたって貞子から聞き取りをしたのがアの手記である、重要なことなのでそれまで聞き取りをした人やそれから聞き取りをした人にも忠魂碑前のことを確かめたが、誰一人として、秀幸の言うようなことを述べる人はいなかったというのである。
 現に、忠魂碑前に老人子どもを連れて行った成人女子が戦後多くの証言をしているが(「母の遺したもの」、「座間味村史下巻」、「沖縄県史10巻」など)、誰も忠魂碑前に村長が来たことや解散命令を出したことDを述べているものはいない(この点についても藤岡教授は、箝口令があり、老人の多くは調査の頃までには死亡してしまい、子供はものごころがついていなかった可能性があるなどと解説するが、採用できない)。

要約7:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)宮城晴美は「座間味村史」全3巻の編集執筆に携わり、秀幸から立ち話で昭和20年3月25日の夜忠魂碑前で村長から隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した旨の話を聞き、母初枝に確かめたが、そんな話は聞いたことがないということであり、数回にわたって貞子から聞き取りをした。これが「座間味村史下巻」(秀幸の母宮平貞子の手記(談)である
(2)宮城晴美は、忠魂碑前のことを確かめたが、誰一人として、秀幸の言うようなことを述べる人はいなかったという。
(3)藤岡信勝教授は、箝口令があり、老人の多くは調査の頃までには死亡してしまい、子供はものごころがついていなかった可能性があるなどと解説するが、採用できない。
エ 初江の話は既に認定したとおりである。3月25日本部壕に行った人のなかに村長は含まれておらず、秀幸がその場にいたとはされておらず、梅澤隊長の対応も秀幸が述べるものとは全く異なっている。
 助役の申し出の後「重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのようにして、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたきりでした。・・やがて沈黙は破れました。隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と私たちの申し出を断ったのです」という記述は、遅くとも昭和52、3年以前に書かれたものと考えられ、秀幸の言うようなことがあったのなら、初枝が手記にそれを書き残さない理由はないし、娘の宮城晴美に話さない理由はない。
 初枝が昭和55年に梅澤隊長と面会し、その日の壕での出来事を話しあい、その後控訴人梅澤と文通した後にも、初枝の話に変わりはなく、一貫している。控訴人梅澤が初枝に対しその当時異論を述べた形跡もない。
オ 控訴人梅澤も、秀幸新証言の後にも、秀幸がその場にいたことは認めず、村長が来たとも認めていない。

要約8:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)初江の話では、25日本部壕に行った人の中に村長は含まれず、秀幸がその場にいたことも否定されています。
(2)初枝の手記「重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください』と私たちの申し出を断ったのです」(昭和52、3年以前に書かれた)。
(3)秀幸の言うようなことがあったのなら、初枝が書かない理由はないし、娘の宮城晴美に話さない理由はない。
(4)初枝の話に変わりはなく、一貫している。控訴人梅澤が初枝に対しその当時異論を述べた形跡もない。
(5)控訴人梅澤も、秀幸新証言の後にも、秀幸がその場にいたことは認めず、村長が来たとも認めていない。
(4) 秀幸新証言は、自らが述べてきたこととも矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している。
 甲B111(鴨野守 「住民よ、自決するな」と隊長は厳命した 諸君!2008年4月号所収)、甲B112(産経新聞同年2月23日付「新証言」に関する記事)、甲B110(藤岡信勝 集団自決「解散命令」の深層 正論同年4月号所収)、甲B148(藤岡信勝・鴨野守 沖縄タイムズの「不都合な真実」 WILL同年8月号所収)等はいずれも今回の秀幸新証言を無批判に採用し高く評価するものであって、同新証言と独立した証拠価値を持つものではない。
 また、藤岡教授は、平成20年7月28日付意見書、同年8月28日付意見書2で、上記秀幸新証言の矛眉や辻棲合わせ等について種々解説を加えて秀幸新証言の信憑性を強調し、秀幸の驚異的な記憶力や標準人を遙かに超える映像的な記億力についてもエピソードなどを紹介しているが、一方に偏するもので採用できない。
 反対に、宮城晴美は、叔父秀幸について「・・。何よりも、秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めて
いられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と述べている。秀幸や藤岡教授はこれに反論しているが、そのような秀幸の性格は、秀幸のこれまでのマスコミ等との被取材歴や、長時聞に及ぶDVD映像での話しぶりやその話の内容自体からも十分見て取れるところである。

要約9:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)秀幸新証言は、自らが述べてきたこととも矛盾し、不自然な変遷があり、内容的にも多くの証拠と齟齬している。
(2)鴨野守「住民よ、自決するな」と隊長は厳命した(諸君!2008年4月号所収)、産経新聞同年2月23日付「新証言」に関する記事、藤岡信勝 集団自決「解散命令」の深層(正論同年4月号所収)、藤岡信勝・鴨野守 沖縄タイムズの「不都合な真実」(WILL同年8月号所収)等は秀幸新証言を無批判に評価し、証拠価値を持つものではない。
(3)藤岡信勝教授は、解説を加えて秀幸新証言の信憑性を強調しているが、一方に偏するもので採用できない。
(4)秀幸のマスコミ等との被取材歴や話の内容自体からも、秀幸のマスコミ好きは十分見て取れる。

解説2:
(1)大阪高裁の裁判官は、雑誌『諸君!』(文芸春秋)、産経新聞、雑誌『正論』(産経新聞)、雑誌『WILL』(ワック)などの記事を「無批判に評価し、証拠価値を持つものではない」と断罪している。名指しされた編集者は、宮平秀幸の新しい供述について、私たちにきちんと反論する義務があります。
(2)藤岡信勝教授も、一方に偏する形で、秀幸新証言の信憑性を強調していると断罪しています。
10 (5) 秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない。

要約10:大阪高裁の裁判官は、宮平秀幸の新しい供述及び関連証拠について次のように指摘しています。
(1)秀幸新証言は明らかに虚言であると断じざるを得ず、上記関連証拠を含め到底採用できない。

解説3:大阪高裁の裁判官は、雑誌『諸君!』(文芸春秋)、産経新聞、雑誌『正論』(産経新聞)、雑誌『WILL』(ワック)などが「無批判に評価し」た秀幸新証言を「明らかに虚言である」と断じています。
HTML版:真実性ないし真実相当性について(その2)全文(252-264P)←クリック
7 真実性ないし真実相当性について(その2)
(1) 控訴人らは、真実性の証明の対象は、「沖縄ノート」の記述でいえば「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という論評を示すことのできる中身を持った命令(「無慈悲直接隊長命令説」)でなければならず、手榴弾の交付や軍官民共生共死の一体化の強制的雰囲気や日本軍の指示・強制などの背景事情を広義の自決命令に結びつけたとしても、それは本件各記述の真実性の証明とはならないと主張する。しかし、それは、論評の中身とその前提とされた事実とを混同するものであってにわかに採用できない。
 その記述自体からは、控訴人らが主張するように、部隊が生き延びるために住民の犠牲を強制する非情かつ無慈悲な部隊長の自決命令が直接なされたことを摘示するものと読みとることも可能であり、昭和45年ころの一般の読者の普通の読み方もそのようなものが多く、グラフ誌や週刊誌などが悲惨な集団自決を興味本位に取り上げ、その責任を非情無慈悲で異常な個人の命令に帰し、その個人を人非人・人面獣心・極悪無惨な鬼隊長などと非難攻撃するという風潮が一般であったものと考えられる。本件各記述の真実性の証明の対象は、その出版当時のそのような一般の読者の読み方に従って、やはり、控訴人らのいう無慈悲隊長直接命令の有無とするのが結論的には相当である。真実相当性の証明の対象も同様である。

要約1:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、真実性の証明の対象は、「無慈悲直接隊長命令説」でなければならないと主張が、それは、論評の中身とその前提とされた事実とを混同するものであってにわかに採用できない。
(2)その記述からは、無慈悲な部隊長の自決命令が直接なされたと読みとれるし、昭和45年ころ、その個人を極悪無惨な鬼隊長などと非難攻撃するという風潮が一般であった。
(3)各記述の真実性の証明の対象は、当時の一般の読者の読み方に従って、無慈悲隊長直接命令の有無とするのが結論的には相当である。真実相当性の証明の対象も同様である。

解説4:控訴人らの主張を「論評の中身とその前提とされた事実とを混同する」と断定しています。
(2) 当裁判所は、日本軍が集団自決に深く関わり住民を集団自決に追い込んだものであってそれを総体としての日本軍の命令と評価する見解(評価としての日本軍の命令)もあり得るものと考えるが、それは組織としての日本軍の責任をいうものであり、それがそのまま個人としての責任や具体的行動を意味するものではない。また、実際に行われたそれぞれの集団自決には複数の要因が複合して寄与していることを直視すべきものであって、一律に軍命令などと単純化して語られるべきものではないと考えられる。
 しかし、集団自決に日本軍が深く関与しそれによって住民が集団自決に追い込まれたという要素は否定しがたいところである。しかしそうではあっても、ここで真実性又は真実相当性の証明の対象とされているのは、「評価たる軍命令」ではなく、非道無慈悲な隊長の「直接命令」であり、「評価たる軍命令」が認められたからといって直ちに「直接命令」が肯定されるものではない。
 手榴弾が使われたことや、日本軍のいるところでしか集団自決が生じていないことや、日本軍が防諜に意を用い住民に捕虜になることを許さなかったことなどは、「評価たる軍命令」の論証につながるものではあっても、直ちに具体的な「直接命令」の十分な証明となるものではない。この趣旨での控訴人らの主張は理由がある。
 ただし、「直接命令」の不存在が「評価たる軍命令」の不存在を意味するとか、「評価たる軍命令」が「直接命令」の論点すり替えだなどというとすれば賛成しがたい。
 そして、以上のような観点からすると、本件証拠上具体的な各「直接命令」を証するに足る的確な証拠はないとするのが素直である。
 反対に、本件証拠上各「直接命令」は無かったと断定できるかといえば、それもできないのである。敵が上陸した場合は玉砕する、捕虜になることは許さないということが日本軍の大きな方針であったとすれば、それに従って部隊長として自決の指示をするのはむしろ避けられないのであって、軍隊組織であればそれは命令を意味するといえる。
 現に、梅澤隊長の場合も、村の指導者らが揃ってかねて言われてきた軍官民共生共死の玉砕の方針に文字通りに従って「軍の足手まといにならぬよう」集団自決を申し出てきたときには、個人としての逡巡をみせてはいるが、結局、その場を引き下がらせただけで、軍の玉砕(自決)の方針を撤回してはいないのである。
 そこで、助役らは、日本軍ひいては梅澤隊長の意を体して自決を敢行したともいうことができるのである(村長以下村の指導者らはこのとき全員が自決している)。
 また赤松大尉の場合も、住民を基地付近の西山に集結させ、そこへ日本軍の指揮下にある防衛隊員らが多数の手榴弾を持ち込んで自決が行われているのであるし、同大尉が捕虜になったりした住民たちへの幾度もの処刑をためらった形跡はなく、かねて米軍上陸の際には住民を玉砕させるという方針を取っていたことは十分考えられ、それを否定するに足る的確な証拠はない。そうだとすれば、その具体的な形はともかく、赤松大尉がこの時の自決を命じていないと断定することもできない。
 そうすると、結局、「直接命令」についても、本件証拠上は、その有無を断定するには至らないというほかはない。し
たがって、挙証責任に従えば、本件各記述については、本件証拠上その真実性の証明は無いということになる。
 ちなみに、先に見た教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会の基本的とらえ方においても、集団自決が起こった状況を作り出した様々な要因のうち軍の関与はその主要なものととらえることかできるが、一方、それぞれ
の集団自決が住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない、他方で、住民の側から見れば当時の様々な背景・要因によって自決せざると得ないような状況に追い込まれたとも考えられるとして、直接命令の有無については現時点では確認に至らないとされている。

要約2:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。
(1)日本軍が集団自決に深く関わり住民を集団自決に追い込んだものであってそれを総体としての日本軍の命令と評価する見解(評価としての日本軍の命令)もあり得る。
(2)しかし、それは組織としての日本軍の責任で、個人としての責任や具体的行動を意味するものではない。集団自決には複数の要因が複合して寄与しており、一律に軍命令などと単純化して語られるべきものではない。
(3)集団自決に日本軍が深く関与しそれによって住民が集団自決に追い込まれたという要素は否定しがたい。「評価たる軍命令」が認められたからといって直ちに「直接命令」が肯定されるものではない。
(4)手榴弾の使用、日本軍のいるところでしか集団自決が生じていないことや、捕虜になることを許さなかったことなどは、「評価たる軍命令」の論証につながるが、直ちに具体的な「直接命令」の十分な証明となるものではない。
(5)「直接命令」の不存在が「評価たる軍命令」の不存在を意味するとか、「評価たる軍命令」が「直接命令」の論点すり替えだなどというとすれば賛成しがたい。
(6)本件証拠上具体的な各「直接命令」を証するに足る的確な証拠はないとするのが素直である。
(7)「玉砕」、「捕虜は許さない」が日本軍の方針であれば、部隊長として自決の指示をするのはむしろ避けられないのであって、軍隊組織であればそれは命令を意味するといえる。
(8)梅澤隊長も、軍官民共生共死の玉砕の方針に従って、その場を引き下がらせただけで、軍の玉砕(自決)の方針を撤回してはいない。村長以下村の指導者らは、梅澤隊長の意を体して、全員が自決している。
(9)防衛隊員らの手榴弾で自決が行われ、赤松大尉が捕虜になった住民たちへの処刑をためらった形跡はない。具体的な形はともかく、赤松大尉がこの時の自決を命じていないと断定することもできない。
(10)「直接命令」について、本件証拠上は、その有無を断定するには至らない。
(11)検定調査審議会日本史小委員会は、軍の関与はその主要なものであるが、直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は現時点では確認できていないとしている。

解説5:
(1)「評価たる軍命令」(日本軍の命令と評価する見解)と「直接命令」との区別を明確にしています。
(2)史料による「直接命令」はないが、状況証拠としての「評価たる軍命令」はあるということでしょうか。
(3)ア (略)
イ 控訴人らは、原判決の説示に対し、補充主張において、「母の遺したもの」、「沖縄県史第10巻」、陳述書、証言などで述べられた、宮城初江、知念朝睦、その他住民らの述べる、エピソードを挙げて、自決命令がなかったことの証拠であると縷々主張する。
 これらの個々の具体的な供述の意義を一律に評価することは相当でないが、それらのエピソードが、「鉄の暴風」以来一面的にいわれてきた無慈悲隊長直接命令にそぐわないもので、その不存在を示唆する面のあることは首肯できなくもない。
 しかし、それらと自決命令の存在自体が相容れないものとまでは解されず、原判決の説示する事実や前掲の数々の史料をも考え合わせると、それらを総合してみても、直接命令が無かったことが断定できるとまでは到底いえない。 また、控訴人らの指摘する古波蔵蓉子、大城良平の体験や金城武徳の話などが、一方的な赤松大悪人説への疑問につながるものとしても、これらにより赤松自決命令が無かったとまでいえるものではない。
 その他、控訴人らの当審における補充主張を検討してみても、以下に原判決を補正する形で示す判断を、変更するには至らない。

要約3:大阪高裁の裁判官は、真実性ないし真実相当性について次のように指摘しています。
(1)控訴人らは、宮城初江らの述べるエピソードを挙げて、自決命令がなかったことの証拠であると縷々主張する。
(2)そのエピソードが無慈悲隊長直接命令にそぐわないもので、その不存在を示唆する面のあることは首肯できる。
(3)原判決の説示する事実や史料を総合してみても、直接命令が無かったと断定でない。
(4)控訴人らの補充主張を検討しても、原判決を補正する形で示す判断を、変更するには至らない。
【原判決の引用】
イ 座間味島における集団自決について
(ア) 座間味島では、昭和20年3月26日、忠魂碑前に集合した多数の住民が集団で死亡したと認められ、その際に、軍事装備である手榴弾が利用されたことは、証拠から認めることができる。
 この集団自決を控訴人梅澤が命じたとの記載のある「鉄の暴風」、「秘録 沖縄戦史」、「沖縄戦史」等には、相当の年月が発生している現在では、その取材源等を確認することは困難で・・・ある。
 しかしながら、沖縄戦の体験者らの体験談等は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、また、多数の体験者らの供述が、昭和20年3月25日の夜に忠魂碑前に集合して玉砕することになったという点で合致しているから、その信用性を相互に補完し合うものといえる。
 また、こうした体験談の多くに共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる(手榴弾の交付に関する控訴人梅澤の供述が措信し難いことは、判示したとおりである)。

要約4:大阪高裁の裁判官は、座間味島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)座間味島では、忠魂碑前に集合した多数の住民が集団で死亡し、軍事装備である手榴弾が利用された。
(2)多数の体験者らの供述が「忠魂碑前に集合して玉砕」点で合致しているから、その信用性を相互に補完し合う。
(3)体験談の共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる。
(4)手榴弾の交付に関する控訴人梅澤の供述が措信し難い。
(イ) 沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたことは、日本軍による住民に対する加害行為に端的に表れている。
 @渡嘉敷島において、防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が渡嘉敷島で身寄りのない身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして、これを処刑したこと
 A赤松大尉が集団自決で怪我をして米軍に保護され治療を受けた二名の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害したこと
 B赤松大尉が米軍の捕虜となりその後米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住民男女6名に対し、自決を勧告し、処刑したことは、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたことに通じる。
 そして、第二戦隊の野田隊長が昭和20年2月8日に慶留間島の住民に対して「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示した行為や米軍の「慶良間列島作戦報告書」の座間味村の状況についての「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導(勧告)されていた」との記述も、慶良間列島に駐留する日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じる。
 「慶良間列島作戦報告書」の訳の問題に関して、控訴人ら主張のように訳しても、以上の判断に差異を来さない。

要約5:大阪高裁の裁判官は、座間味島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)第32軍が防諜に意を用いていたことは、日本軍による住民に対する加害行為に端的に表れている。
(2)大城徳安訓導が身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀したとして処刑した。
(3)米軍に保護され治療を受けた2名の少年が米軍の庇護から戻ったところ、米軍に通じたとして殺害した。
(4)赤松大尉は、米軍の捕虜となりその後投降勧告にきた伊江島の住民男女6名に対し、処刑した。
(5)第2戦隊の野田隊長が住民に対して「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示した。
(6)米軍の「報告書」には、「民間人たちは捕らわれないために自決するように指導(勧告)されていた」とある。

解説6:
(1)歴史修正主義は、自分の都合のいい史料は提示するが、不利な史料は隠匿する手法を採用します。この場合、自分の都合のいい結論しか出ません。
 他方、実証主義は、自分の都合のいい史料も不利な史料もすべて提示する手法を採用します。この場合、客観的な結論に到達します。
(2)私は、産経新聞、雑誌『正論』、雑誌『WILL』などから、集団自決の史料を主に収集して来ました。しかし、残念ながら、この判決記録を読むまで、スパイ容疑で沖縄の民間人が処刑された事実を知りませんでした。
(ウ) 控訴人梅澤が率い、座間味島に駐留した第一戦隊の装備は、「機関短銃九のほか、各人拳銃(弾薬数発)、軍刀、手榴弾を携行」というものであり、慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。
 そして、 控訴人梅澤が本人尋問において村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述し、皆本証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言し、軍の規律、第一戦隊及び第三戦隊に共通する装備の乏しさを考えると、等しく控訴人梅澤にも妥当するものと考えられる。
(エ) こうした事実に加えて、座間味島、渡嘉敷島を始め、慶留間島、沖縄本島中部、沖縄本島西側美里、伊江島、読谷村、沖縄本島東部の具志川グスクなどで集団自決という現象が発生したが、以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかったことを考えると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当であつて、沖縄においては、第三二軍司含部を最高機関とし、座間味島では控訴人梅澤を頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、座間味島における集団自決に控訴人梅澤が関与したことは、あり得ることである。

要約6:大阪高裁の裁判官は、座間味島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)控訴人梅澤の第1戦隊の装備は、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であった。
(2)控訴人梅澤が「村民に渡せる武器、弾薬はなかった」と供述し、皆本証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している。
(3)集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯している。
(4)日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかった。
(5)第32軍司含部を最高機関とし、梅澤を頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、座間味島における集団自決に控訴人梅澤が関与したことはあり得る。
(オ) 「沖縄県史 第10巻」、「座間味村史 下巻」、「沖縄の証言」等に体験談を寄せている宮里とめらの集団自決の体験者の供述等から、控訴人梅澤による自決命令の伝達経路等は判然とせず、控訴人梅澤の言辞を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められない以上、取材源等は明示されていない「鉄の暴風」、「秘録 沖縄戦史」、「沖縄戦史」等から、直ちに「太平洋戦争」にあるような「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」との控訴人梅澤の命令それ自体(「直接命令」)までを認定することには無理がある。
(カ) しかしながら、具体的な形はともかく、控訴人梅澤が座間味島における集団自決に関与したことはあり得ると考えられることに加え、教科用図書検定調査審議会第2部日本史小委員会の検討結果、諸文献の存在、そうした諸文献等についての信用性に関する認定、判断、家永三郎及び被控訴人大江の本件各書籍の取材状況等を踏まえると、控訴人梅澤が座間味島の住民に対し「太平洋戦争」記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については、合理的資料若しくは根拠があると評価できものであって、本件各書籍の各発行時において、家永三郎及び被控訴人らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当である・・・ 。

要約7:大阪高裁の裁判官は、座間味島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)集団自決の体験者の供述から、梅澤による自決命令の伝達経路等は判然とせず、梅澤の言辞を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められない以上、控訴人梅澤の「直接命令」までを認定することには無理がある 。
(2)教科用図書検定調査審議会第2部日本史小委員会の検討結果、控訴人梅澤が自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、合理的資料若しくは根拠があると評価できる。
(3)各書籍の各発行時において、被控訴人大江らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当である 。

ウ 渡嘉敷島における集団自決について
(ア) 渡嘉敷島では、昭和20年3月28日、西山陣地北方の盆地に集合した多数の住民が集団で死亡したと認められ、その際に、軍事装備である手榴弾が利用されたことは、書証から認めることができる。
 集団自決についても、渡嘉敷村長であった米田惟好らの集団自決の体験者の体験談等があり、それらについては控訴人らの指摘するような問題点がないとはいえないものの、その全体的な信用性を疑うまでの理由は無い。
(イ) 赤松大尉率いる第三戦隊の渡嘉敷島の住民らに対する加害行為、第二戦隊の野田隊長の言動、米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができる。
 赤松大尉は、防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導(を)敵と通謀するとして処刑している。これに反し、米軍が上陸した後、手榴弾を持った防衛隊員が西山陣地北方の盆地へ集合している住民のもとへ赴いた行動を赤松大尉が容認したとすれば、赤松大尉が自決命令を発したことが一因ではないかと考えるのは自然である。

要約1:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)多数の住民が集団で死亡した際に、軍事装備である手榴弾が利用されたことは、認めることができる。
(2)集団自決についても、体験談から、問題点がないとはいえないが、全体的な信用性を疑うまでの理由は無い。
(3)住民対する加害行為、野田隊長の言動、米軍の「報告書」は、日本軍の情報が漏れることを懸念したいえる。
(4)大城徳安訓導を処刑している。これに反し、米軍上陸後、手榴弾を持った防衛隊員が住民のもとへ赴いた行動を赤松大尉が容認したとすれば、赤松大尉が自決命令を発したことが一因ではないかと考えるのは自然である。

解説7:裁判官は、「赤松大尉は日本軍の情報が漏れることを懸念して、自決命令を発した」という解釈です。
(ウ) 赤松大尉が率い、渡嘉敷島に駐留した第三戦隊の装備は、「機関短銃五(弾薬六〇○○発)のほか、各人拳銃(弾薬一銃につき四発)、軍刀、手榴弾を携行」であったと認められ、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められることは、同様である。
 そして、第三戦隊に属していた皆本証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言していることは、手榴弾が集団自決に使用されている以上、その具体的な形は別として、赤松大尉が集団自決に関与していることは、あり得ることである。
(エ) 沖縄県で集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかったことを考えると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当であって、渡嘉敷島では赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、その具体的な形は別としても、渡嘉敷島における集団自決に赤松大尉が関与したことは、あり得ることである。

要約2:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)赤松大尉の第3戦隊の装備は、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であった。
(2)第3戦隊の皆本証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している。
(3)集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯している。
(4)日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかった。
(5)第32軍司含部を最高機関とし、赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、座間味島における集団自決に赤松大尉が関与したことはあり得る。
(オ) 赤松大尉の命令を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められないことは、座間味島における集団自決と同様である。
 「沖縄ノート」にあるような「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」との赤松大尉の「直接命令」までを認定することには無理があることも、座間味島と同様である。
(カ) しかしながら、教科用図書検定調査審議会第2部日本史小委員会の検討結果、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対し「沖縄ノート」にあるような内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、合理的資料若しくは根拠があると評価できるから、「沖縄ノート」の各発行時において、被控訴人らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当である。

要約3:大阪高裁の裁判官は、渡嘉敷島における集団自決について次のように指摘しています。
(1)赤松大尉の命令を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められないことは、座間味島と同様である。
(2)「沖縄ノート」にある赤松大尉の「直接命令」までを認定することには無理があることも、座間味島と同様である。
(3)しかし、「沖縄ノート」の各発行時において、被控訴人らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当である。

エ 以上のとおり、控訴人梅澤及び赤松大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対しそれぞれ本件各書籍にあるような内容の具体的な直接の自決命令(「直接命令」)に限れば、これを出したことを真実と断定できないとしても、これらの事実については合理的資料又は根拠があるといえるから、本件各書籍の各発行時・・・において、被控訴人らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認められ、被控訴人らによる控訴人梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損の不法行為は成立しない。

(4) 小括
 以上の次第で、本件各記述については、真実性の証明があるとはいえないが、これを真実と信ずるについて相当な理由があったと認められるから、名誉毀損の不法行為は成立しない。

要約1:大阪高裁の裁判官は、小括として次のように指摘しています。
(1)「直接命令」を出したことを真実と断定できないが、これらの事実については合理的資料・根拠があるので、書籍の各発行時において、被控訴人らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったと認められる。
(2)被控訴人らによる控訴人梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損の不法行為は成立しない。
(3)真実性の証明があるとはいえないが、これを真実と信ずるについて相当な理由があったと認められるから、名誉毀損の不法行為は成立しない。
HTML版:公正な論評性の有無(原審争点E)について全文(264-268P)←クリック
8 公正な論評性の有無(原審争点E)について
 おおむね原判決が「事実及び理由」の「第4 当裁判所の判断」のにおいて説示するとおりである。
【原判決の引用】
第4・6争点E(公正なる論評性の有無)について
(1) 沖縄ノートは、被控訴人大江が、沖縄が本土のために犠性にされ続けてきたことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において、沖縄の民衆の怒りが自分たち本土の日本人に向けられていることを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものである。
 被控訴人大江も、本人尋問において、@日本の近代化から太平洋戦争に至るまで本土の日本人と沖縄の人たちとの間にどのような関係があったかという沖縄と日本本土の歴史、A戦後の沖縄が本土と異なり米軍政下にあり、非常に大きい基地を沖縄で担っているという状態であったことを意識していたかという反省、B沖縄と日本本土との間のひずみを軸に、日本人は現在のままでいいか、日本人がアジア、世界に対して普遍的な国民であることを示すためにはどうすればよいかを自分に問いかけ、考えることが沖縄ノートの主題である旨供述している。
 また、赤松大尉のことを沖縄ノートで取り上げたことについて、被控訴人大江が本人尋問で「本土からの沖縄への差別と、沖縄側から言えば沖縄の犠牲ということをよく認識していないと。しかし、そのことが非常にはっきり、今度のこの渡嘉敷島の元守備隊長の沖縄訪問によって表面化していると、考えた次第でございます」と供述している。

要約1:大阪高裁の裁判官は、公正な論評性の有無について次のように指摘しています。
(1)沖縄ノートは、昭和45年、沖縄の民衆の怒りが自分たち本土の日本人に向けられていることを述べ、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものである。
(2)被控訴人大江も、本人尋問において、次のように供述する。
@日本の近代化から太平洋戦争に至るまでの沖縄と日本本土の歴史
A戦後の沖縄が米軍政下にあり、非常に大きい基地を沖縄で担っていることを意識していたかという反省
B日本人がアジア、世界に対して普遍的な国民であることを問いかけ、考えることが沖縄ノートの主題である。
(2)ア 沖縄ノートの各記述を見ると、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」「かれのペテン」「屠殺者」「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」など、かなり厳しい表現が赤松大尉に対して使用されていることが認められる。
イ しかし、論評の公正性、それがいたずらに人を揶揄、愚弄、嘲笑し、ことさらに人身攻撃をするなど論評としての域を超えているものか否かを判断するにあたっては、使用された個々の言棄だけを取り出して論ずるのは相当でない。論者の論理、その使用された文脈のなかにおける用語、表現の必然性・相当性を十分に検討するべきである。
 沖縄ノートの論評は、章あるいはひとつながリの論旨の全体を通してみると、論者の立場からはまさにそこで伝えんとする意見に対して必然性のある言葉と表現及び事柄(素材)が選ばれていれているものと評することができる。
 論旨に沿って相関連し展開する文章の中から、使われた個々の用語を取リ出して並べ、赤松大尉を「アイヒマン」「屠殺看」「罪の巨塊」「ペテン」などとして揶揄、愚弄、嘲笑、悪罵し、いたずらに個人を貶め、人身攻撃をするものというのはあたらない。
 「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても「命令された」集団自決をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」というやや慎重な表現が選ばれたことと、個人名の表示が意識して避けられた理由は、論者の意見からすると沖縄に対しそのような罪責を負った本土の日本人全体の姿が「明瞭にあらわれている」ものとして選ばれ、その男のその昭和45年の沖縄への渡航をこそ論評の対象としているものであることは、論旨全体から明らかである。

要約2:大阪高裁の裁判官は、公正な論評性の有無について次のように指摘しています。
(1)沖縄ノートの各記述を見ると、「あまりにも巨きい罪の巨塊」「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」など、かなり厳しい表現が赤松大尉に対して使用されている。
(2)論評の公正性、論者の論理、使用された文脈の中の用語、表現の必然性・相当性を検討するべきである。
(3)沖縄ノートの論評は、論旨の全体を通してみると、必然性のある言葉と表現及び事柄(素材)が選ばれている。
(4)論旨に沿って相関連し展開する文章の中から、個々の用語を取リ出して並べ、赤松大尉を「アイヒマン」「屠殺者」「罪の巨塊」などとして揶揄、愚弄、嘲笑、いたずらに個人を貶め、人身攻撃をするものというのはあたらない。
(5)慎重な表現、個人名が意識して避けられた理由は、沖縄に罪責を負った本土の日本人全体の姿が「明瞭にあらわれている」ものとして選ばれ、その男の沖縄への渡航こそ論評の対象であることは、論旨全体から明らかである。
ウ 控訴人赤松は、曽野綾子の読み方にならって「あまりにも巨きい罪の巨塊」とは赤松大尉を表現したものであると主張するが、「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」との部分を前掲の文脈のなかで位置づけるならば、被控訴人大江が、罪の巨塊とは自決者の死体をあらわすものであり、文法的にみても「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできないとするのは、首肯でき、これが赤松大尉を神の立場から断罪し、揶揄、愚弄したものとはいえない。
エ 赤松大尉の実名を伏せたまま、「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのである」「かれら(新世代の日本人)からにせの罪責感を取除く手続のみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか」として、沖縄ノートの主題に沿う形で、論旨及び表現上の必然性をもって使用されている表現と事柄にすぎず、相手への人身攻撃などを意図するものとは認められず、相当性を逸脱するものとまではいえない。

要約3:大阪高裁の裁判官は、公正な論評性の有無について次のように指摘しています。
(1)赤松は、曽野綾子にならって「巨きい罪の巨塊」とは赤松大尉を表現したと主張するが、文脈では、罪の巨塊とは自決者の死体であり、文法的にみても「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできない。
(2)赤松大尉を神の立場から断罪し、揶揄、愚弄したものとはいえない。
(3)「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」として、主題に沿う形で、表現上の必然性をもって使用されている表現すぎず、人身攻撃を意図するものでなく、相当性を逸脱するものでもない。
オ 被控訴人大江は、沖縄ノートに赤松大尉の氏名を明示しなかったことについて、本人尋問において、「私はこの大きい事件は1人の隊長の個人の性格、個人の選択というふうなことで行われたものではなくて、それよりもずっと大きいものであって、すなわち日本人の軍隊、日本の軍隊の行ったこと、そういうものとしてこの事件があると考えておりましたものですから、特に注意深くこの隊長の個人の名前を書くということをいたしませんでした」。
 このことは、被控訴人大江が赤松大尉に対する個人攻撃の意図で沖縄ノートの各記述をしていないことを示すとともに、むしろそうすれば沖縄ノートの主題からずれてしまうと考えていたことを明らかにするものである。
(3) そうすると、沖縄ノートの各記述は、守備隊長ひいては日本軍の行動と沖縄返還問題のその時における行動とを通して著者を含めた日本人全体を批判し、反省を促す構成となっているものと認められ、所々に「ペテン」など、文脈次第では人身攻撃となり得る表現もあるものの、前記の文章全体の趣旨に照らすと、その表現方法が執拗なものとも、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているともいえず、赤松大尉に対する個人攻撃をしたものとは認められない。
 加えて、沖縄ノートは、 集団自決及び評価としての軍の命令をも含んだ沖縄戦という歴史的事実を前提のひとつとして、本土の日本人及び日本と沖縄の関係を論評するものであると認められ、このような事実については、広く論評、表現の対象とされるべきものであることも考慮しなければならない。それらは、言論の場において自由に論じられるべきものである。
(4) 沖縄ノートの各記述は、意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない。したがって、沖縄ノートの各記述中、意見ないし論評にわたる部分の名誉毀損を理由とする損害賠償請求も、また理由がない。

要約4:大阪高裁の裁判官は、公正な論評性の有無について次のように指摘しています。
(1)大江は、赤松大尉の氏名を明示しなかったことについて、「この大きい事件は隊長の個人の性格で行われたものではなくて、日本の軍隊の行ったことと考えていたので、個人の名前を書きませんでした」と述べている。
(2)このことは、被控訴人大江が赤松大尉に対する個人攻撃の意図で沖縄ノートを記述していないことを示す。
(3)守備隊長ひいては日本軍の行動と沖縄返還問題のその時における行動とを通して著者を含めた日本人全体を批判し、反省を促す構成となっているものと認められ、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているともいえず、赤松大尉に対する個人攻撃をしたものとは認められない。
(4)沖縄ノートは、 集団自決及び評価としての軍の命令をも含んだ沖縄戦という歴史的事実を前提に、本土の日本人及び日本と沖縄の関係を論評するものである。それらは、言論の場において自由に論じられるべきものである。
(5)沖縄ノートは、意見ないし論評としての域を逸脱してない。名誉毀損を理由とする損害賠償請求も理由がない。
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9 本件各書籍の出版等の継続について
(1) 出版等の継続と不法行為の成否
 先に名誉毀損の成否の基準等に関して、本件のように高度な公共の利害に関する事実に係り、もっぱら公益を図る目的でなされた記述について、発刊当時はその記述に真実性又は真実相当性が認められ、当該記述を含む書籍の出版は不法行為に当たらないものとして長年にわたって版を重ねてきたところ、新しい資料の出現によりその真実性が覆り、あるいは真実相当性の判断が揺らいだというような場合に、直ちにそれだけで、当該記述を改めない限りその書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当ではない。
 (1)新たな資料等により当該記述の内容が真実でないことが明白になり、(2)当該記述を含む書籍の発行により名誉を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けているなどの事情があり、(3)当該書籍をそのままの形で出版し続けることが出版の自由等との関係などを考え合わせても社会的な許容の限度を超えると判断される場合に限って不法行為の成立が認められると解すべきである。
 そして、「沖縄ノート」は沖縄の核付き返還が社会問題となっていた時代に昭和44年1月から45年4月までの間に執筆された評論を纏めたもので本件記述もその中で沖縄の集団自決に触れたものであり、高度な公共の利害に関する事実に係り、かつ、もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。
 控訴人らは、本件各書籍の出版当時に本件各記述について真実相当性があったこと自体は積極的に争わず、昭和48年の「ある神話の背景」や平成12年の「母の遺したもの」などの出版などにより本件各記述が真実でないことが明らかになったとして、その後の出版等の継続を不法行為に当たると主張するのである。

要約1:大阪高裁の裁判官は、本件各書籍の出版等の継続について次のように指摘しています。
(1)公共の利害に関し、公益を図る目的の場合、発刊当時に真実性又は真実相当性が認められ、長年出版された著作が新資料で真実性が覆ったとしても、出版を継続することが違法になると解することは相当ではない。
(2)新資料により真実でないことが明白なこと、名誉を侵害された者がその後も重大な不利益を受け続けていること、出版の継続が社会的な許容の限度を超えていること、以上の場合に限って不法行為の成立が認められる。
(3)「沖縄ノート」は集団自決に触れたものであり、高度な公共の利害に係り、公益を図る目的で出版された。
(4)控訴人らは、出版当時の真実相当性を争わず、昭和48年の「ある神話の背景」や平成12年の「母の遺したもの」により真実でないことが明らかになったとして、その後の出版等の継続を不法行為に当たると主張する。
(2) 真実でないことが明白になったとの要件について
 控訴人らの言う「直接命令」について、本件証拠上はその有無を断定するには至らないといわざるを得ない。そうだとすると、「直接命令」が真実でないことが明白になったとまではいえないから、既にこの点で、出版等継続の不法行為性は認められないことになる。
 現在の時点において本件各記述の真実性及び真実相当性を問題にするとすれば、戦後60年以上を経て一般の読者の沖縄戦ないしは集団自決についての関心の内容も、前提知識も大きく変化しているのであるから、改めて本件各記述の読まれ方を検討してみる必要がある。
 すなわち、本件各書籍の各著者の意図は、当初から、ある隊長の直接命令を摘示してその個人を告発するところなどにはなく、戦争における人間性の破壊の事実としての日本軍の隊長の命令を記述し(「太平洋戦争」)、沖縄の犠牲の上に立つ本土の日本人の姿を明瞭に表す隊長の沖縄返還問題さなかでの沖縄訪問などを論評すること(「沖縄ノート」)にあることは、その書籍全体の論旨からも明らかである。
 本件各記述の摘示の内容や論評の前提となった事実は、評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえるのである。他方、沖縄戦の研究者はもとより一般読者の理解も、現在においては、多くは、集団自決の問題は特定の隊長のその場における直接命令の有無などにあるのではないという認識にたち、本件各記述から集団自決をある特定の個人の責任のように理解しその個人を非難するのはむしろ誤りであると捉えられてきていると思われる。
 そうだとすると、現時点においては、名誉毀損にかかる真実性や真実相当性の証明の対象は「評価たる軍命令」あるいはその責任者であると解することもできなくはないが、「評価たる軍命令」の有無はまさに評価であるがゆえに、その当否の判断は、本来は歴史学の課題として研究と言論の場においてこそ論じられるべきものである。

要約2:大阪高裁の裁判官は、本件各書籍の出版等の継続について次のように指摘しています。
(1)「直接命令」が真実でないことが明白になったとえないから、出版等継続の不法行為性は認められない。
(2)現在の真実性・真実相当性を問題にすれば、戦後60年を経た読者の集団自決の知識も大きく変化している。
(3)「沖縄ノート」の論旨は、沖縄の犠牲の上に立つ本土の日本人の姿を明瞭に表す隊長の沖縄返還問題さなかでの沖縄訪問などを論評することである。
(4)論評の前提となった事実は、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長である。研究者や読者の理解も、現在、集団自決をある特定の個人の責任と理解しその個人を非難するのは誤りであると捉えている。
(5)「評価たる軍命令」の有無はまさに評価であるがゆえに、その当否の判断は、本来は歴史学の課題として研究と言論の場においてこそ論じられるべきものである。

解説8:緊急増刊『沖縄戦-集団自決』(「Will」8月号)で、藤岡信勝氏は、この裁判を、戦後レジームの中核である「岩波の権威に壊滅的な打撃を与える」と規定し、学問・研究の分野を政治的分野に取り込んだ意図を如実に指摘しています。それに対して、高裁の裁判官は、「本来は歴史学の課題として研究と言論の場においてこそ論じられるべきものである」と指摘しています。
(3) 本件各書籍の出版継続による控訴人らの不利益について
ア 各書籍の出版等の継続によって生ずる控訴人らの不利益の程度について検討する。
 戦後60年以上を経て、集団自決については、総体としての日本軍の集団自決への関与として捉え、その実態を直視するべきであるとの認識が一般化している。教科書検定の日本史小委員会の意見も、そのような認識を前提としているといえる。
 長い時の経過による状況の変化により、控訴人らの社会的な評価としての名誉が侵害される具体的な可能性は、一般的に見ても大幅に低下しているものと認められる。
イ 他方、証拠によれば、控訴人梅澤は、昭和33年ころの週刊紙による個人攻撃等に苦しみ、名誉回復を強く念願するとともに、昭和63年ころまでは「鉄の暴風」や「沖縄県史第10巻」の記述についての訂正等を求める行動をとっていたが、昭和63年に沖縄タイムスに対してもうこの問題は一切やめるなどと宣言して、その後は17年近く、特段の行動をとっていない。被控訴人らに対しては元々何らの抗議や申入れもしていない。
 そして、「沖縄史料編集所紀要」に控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」が収録され、「沖縄県史第10巻」について事実上の訂正がなされたことや、平成12年には「母の遺したもの」が出版され、控訴人梅澤からすれば隊長命令(直接命令)のなかったことが公に明らかになったと考えて、個人の名誉の問題についてはそれなりに納得したものと認められる。控訴人梅澤は、官城晴美に対する昭和55年12月21日付け書簡の中では「村の方々の集団自決は当時の実情の如何を不問私以下軍側の影響力が甚大であり当時軍を代表する者として全く申し訳なき次第であります」と率直に記述しており、評価としての軍命令までを否定する考えはなかったものと推認できる。
 本件各書籍はその後も出版されて版を重ねており、控訴人梅澤が、送られた初枝のノートや沖縄史料編集所紀要あるいは宮村幸延の「証言」等の新しい資料を提示して本件各記述について被控訴人岩波書店に申入れをすること等は、極めて容易であったと考えられるが、控訴人梅澤が当時本件各書籍の記述を問題にした形跡は全くない。
 本件訴訟の提起も、控訴人赤松が提訴の意思を固めるまで消極的であり、「沖縄ノート」も提訴後に読んだというのである。そうすると、遅くとも平成12年ころ以降は、本件各書籍の出版継続や本件各記述は、控訴人梅澤にとって取り立てていうほどの名誉感情の侵害や社会的評価の低下等の具体的な不利益をもたらすようなものではなくなっていたものと推認される。それは、不本意ながらもあきらめていたというよりは、既に新たな史料により汚名が雪がれたというそれなりの納得と時の経過や世間の関心の低下がもたらした、状況の客観的な変化であるというべきである。
 そのような状況の客観的な変化を背景に、本件各記述は、控訴人梅澤本人にとっては、個人の名誉に関するかぎり、もはや放置しておけば足りる程度の違法性しか有しないものと判断されていたものと認められる。

要約3:大阪高裁の裁判官は、本件各書籍の出版等の継続について次のように指摘しています。
(1)戦後60年以上を経て、集団自決については、総体としての日本軍の集団自決への関与として捉えている。
(2)状況の変化により、控訴人らの名誉が侵害される具体的な可能性は、大幅に低下している。
(3)控訴人梅澤は、昭和63年ころまでは訂正等を求める行動をとっていたが、昭和63年に沖縄タイムスに「もうこの問題は一切やめる」と宣言して、その後は17年近く、特段の行動をとっていない。被控訴人らに対しては元々何らの抗議や申入れもしていない。
(4)梅澤は、官城晴美に対する書簡(昭和55年)で「村の方々の集団自決は当時の実情の如何を不問私以下軍側の影響力が甚大であり当時軍を代表する者として全く申し訳なき次第であります」と率直に記述し、評価としての軍命令を否定する考えはなかった。
(5)宮村幸延の「証言」の新しい資料を提示して、被控訴人岩波書店に申入れをすることは、容易であったが、控訴人梅澤が当時本件各書籍の記述を問題にした形跡は全くない。
(6)控訴人赤松が「沖縄ノート」も提訴後に読んだという。平成12年以降は、本件各記述は、控訴人梅澤にとって取り立てていうほどの名誉感情の侵害や社会的評価の低下等の具体的な不利益をもたらすようなものではなかった。
ウ 赤松大尉及びその家族や親族らにとっても、「鉄の暴風」に始まる自決命令の記述や昭和45年ころの週刊紙による個人攻撃などは、多くの苦しみをもたらし、長女佐藤加代子も「鉄の暴風」を読み息が止まるほどのショックを受け、「沖縄ノート」の厳しい論評を怖いと感じ、また、一時は父親を詰問するなどのこともあった。
 しかし、まもなく、昭和48年には「ある神話の背景」が出版され、これが関係者の間で高く評価されたことにより、本人及び家族やその周囲の者も、これによって赤松大尉の名誉は回復されたと安心した。そして、昭和61年に版を改めた「太平洋戦争」の第2版からは、赤松自決命令(直接命令)自体が削除され、日本軍としての責任を問うかたちに修正された。
 「鉄の暴風」や、長女が怖いとまで感じた「沖縄ノート」の各記述はそのままでその後も刷を重ねていたが、赤松大尉やその親族らはそのことには格別関心を抱かず、赤松大尉は昭和55年に死亡し、遺族らもその後も出版社に対する申入れなどは全くしていない。
 赤松大尉も、「潮」昭和46年11月号所収の手記の中では、「『住民を自決から救えなかった手抜かり』は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている」「島の方々に対しては、心から哀悼の意をささげるとともに、私が意識したにせよ、しないにせよ、海上挺進隊隊長としての『存在』じたいが、ひとつの強大な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない、このことを、旧軍人として心から反省するにやぶさかではない」と率直に書いており、凄惨な集団自決を目の当たりにした部隊長として、評価としての軍命令までを否定する考えは無かったものと推認できる。
 控訴人赤松も、「神話の背景」により既に結着はついたことと考えており、その後、周囲からの非難もなく、「沖縄ノート」も赤松大尉に関係する部分のみを拾い読みしただけであった。
 そうすると、昭和48年ころ以降は、赤松大尉にとっても、その死後はその遺族にとっても、本件各記述自体はもはや赤松大尉の社会的評価や敬愛追慕の情を取り立てていうほどに害するものではなく、放置しておけば足りる程度のものになっていたものと推認される。
 それは、控訴人梅澤の場合と同様に、不本意ながらもあきらめていたというよりは、既に新たな史料により事実は明らかになっているというそれなりの納得と旧軍人としての率直な反省及び時の経過や世間の関心の低下がもたらした、客観的な状況の変化等により、本件各記述は、赤松大尉の遺族にとっても、個人の名誉に関する限りでは、もはや取り立てて取り上げるほどの痛痒をもたらさないものになっていたことを意味するといえる。

要約4:大阪高裁の裁判官は、本件各書籍の出版等の継続について次のように指摘しています。
(1)赤松大尉の長女佐藤加代子も「鉄の暴風」を読み息が止まるほどのショックを受け、「沖縄ノート」の厳しい論評を怖いと感じ、また、一時は父親を詰問するなどのこともあった。
(2)「ある神話の背景」(昭和48年)が関係者の間で高く評価され、本人及び家族も、赤松大尉の名誉は回復されたと安心した。「太平洋戦争」(昭和61年)第2版は、赤松自決命令を削除され、日本軍としての責任に修正された。
(3)「鉄の暴風」や「沖縄ノート」も版を重ねたが、赤松大尉は死亡し、遺族らも出版社に申入れを全くしていない。
(4)赤松大尉も、「潮」(昭和46年)で「『住民を自決から救えなかった手抜かり』は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている」「海上挺進隊隊長としての『存在』じたいが、ひとつの強大な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない」と率直に書いており、評価としての軍命令までを否定する考えは無かった。
(5)控訴人赤松も、「神話の背景」で結着と考え、「沖縄ノート」も赤松大尉の部分を拾い読みしただけであった。
(6)昭和48年以降、赤松大尉・遺族にとっても、本件各記述自体はもはや赤松大尉の社会的評価や敬愛追慕の情を取り立てていうほどに害するものではなかった。
(7)状況の変化で、赤松大尉の遺族にとり、個人の名誉に関しては、取り立てて取り上げるほどのこともなかった。
エ 何故に、控訴人らが両名ともに、今、突然本件各記述によってその社会的評価や故人に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されていると感ずるようになり、本件提訴にまで及んだのかが問題となる。
 この点は、いずれも知人から日本史の教科書にまで集団自決が日本軍の命令によると書かれ権威ある書籍にも述べられているなどと教えられたからであるというのであるが、先に具体的に示したような各教科書の記述が、訂正の前後を問わず、控訴人らの名誉や故人への敬愛追慕の情を侵害するものとは到底いえない。
 そこに記述されているのは、個人の特定を伴わない「評価たる軍命令」であり、個人の人格権の保護を根拠に、またその名の下に、これらの記述の変更を意図し集団自決の歴史を正しく伝えんとすることには、やはり無理があるといわざるを得ない。
 たしかに、赤松大尉の遺族にとって、現在でも、沖縄ノートの厳しい論評を読み返すことは、心に苦痛をもたらすことに変わりはないとしても、それは主観的な感情の問題であって、人格権自体の侵害にはあたらない。人がその人格的価値について社会から受ける客観的評価としての名誉は、憲法上保護される重要な人格権であるが、本件各記述を含む本件各書籍の出版の継続によって、控訴人らが、現実に、かかる意味での人格権に関して重大な不利益を受け続けているとは、本件証拠上認められないのである。
オ また、控訴人らは、昭和49年7月の第5刷(『沖縄ノート」)あるいは平成14年の文庫化(「太平洋戦争」)以降の本件各書籍の出版等の継続についても不法行為に当たると主張するのであるが、提訴に至るまで、控訴人らは、被控訴人らに対し本件各記述について何らの苦情の申入れもしていない。本件提訴に当たっても、何らの交渉も試みていない。
 それは、先に見たとおり社会的評価の低下について現実に重大な不利益がなかったということでもあろうが、著者らの立場からすると、当時の通説に基づくものとして初めは真実性が問題とされることもなかった本件各記述について、その内容を新しい資料に基づいて再検討するなどの機会もなかったものといわざるを得ず、控訴人らからはこれに関する故意過失についての具体的な主張もない。
 本件提訴に至るまでの本件各書籍の出版継続については、以上の点からしても、不法行為の成立を認める余地はない。

要約5:大阪高裁の裁判官は、本件各書籍の出版等の継続について次のように指摘しています。
(1)控訴人らが両名ともに、今、突然、本件提訴にまで及んだのかが問題となる。
(2)いずれも知人から日本史の教科書にまで集団自決が日本軍の命令によると書かれているなどと教えられたからであるというが、各教科書の記述が、控訴人らの名誉や故人への敬愛追慕の情を侵害するものとは到底いえない。
(3)個人の人格権の保護を根拠に、記述の変更を意図することには、やはり無理があるといわざるを得ない。
(4)出版の継続によって、控訴人らが、人格権に関して重大な不利益を受け続けているとは認められない。
(5)提訴まで、控訴人らは、被控訴人らに苦情の申入れもせず、本件提訴に当たっても、交渉も試みていない。
(6)著者からすると、真実性が問題とされることもなく、控訴人らからは故意過失についての具体的な主張もない。
(7)以上の点からしても、不法行為の成立を認める余地はない。

解説9:昔、知人のAさんが不動産を購入する時、不動屋さんとトラブルが起きました。つまり不動屋さんがある物件について有利な条件のみ説明し、不利な条件を説明していなかったというので、購入を拒否しました。そこで不動屋さんは、裁判すると訴えたので、知人のAさんが私に相談して来ました。
 明らかに商法に違反にしているので、知人のAさんが「不正とは断固闘う」というので、裁判所で係争することにしました。姫路市にある裁判所の調停委員会から召喚を受けました。相手の訴状には10人以上の弁護士が名を連ねていました。極度に緊張しましたが、絶対勝てる案件でしたので、覚悟して、私が代理人出席しました。1日目は双方の主張を何度か繰り返しましたが、決着しませんでした。2日目は、これが決裂すると、裁判所に訴えるという不動屋さんの主張に対して、「その覚悟です」と反論しました。
 調停時に支払った収入印紙を本裁判にも使うには、何日以内らしい。その期限を過ぎると、不動屋さんは、裁判を諦めたと考えることができると学びました。
 刑事事件ならともかく、民事事件の場合、提訴する前に、お互いの弁護士を通じて、調停を持つ。最後に手段として提訴するというのが裁判の常識のようです。
 高裁の裁判官は、控訴人らに対して、この常識が欠如していると指摘しているのでしょうか。
(4) 小括
 以上によれば、本件各記述が真実でないことが明白になったとも認められず、本件各書籍の出版継続によって、控訴人らが重大な不利益を受け続けているとも認められないのであるから、本件各書籍の出版継続は、不法行為に当たらないというべきである。

10 出版等の差止請求について
 以上のとおり、本件各書籍の出版及びその継続は控訴人らに対する不法行為を構成しないから、控訴人らの出版等の差止請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

要約6:大阪高裁の裁判官は、小活・出版等の差止請求について次のように指摘しています。
(1)各記述が真実でないことが明白になったとも認められず、出版継続によって、控訴人らが重大な不利益を受け続けているとも認められないので、出版継続は、不法行為に当たらない。
(2)出版・継続は不法行為を構成しないから、控訴人らの出版等の差止請求は、判断するまでもなく、理由がない。
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11 結論
 以上の次第で、控訴人らの請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、これらを棄却した原判決は、相当である。また、控訴人らが当審で拡張した請求も、理由がないことが明らかである。
 よって、本件控訴及び控訴人らが当審で拡張した請求をいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。
大阪高等裁判所第4民事部
裁判長裁判官 小田耕治
裁判官 富川照雄
裁判官 山下 寛

要約1:大阪高裁の裁判官は、結論を次のように指摘しています。
(1)控訴人らの請求は、これらを棄却した原判決は相当である。控訴人らが当審で拡張した請求も、理由がない。
(2)本件控訴及び控訴人らが当審で拡張した請求をいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。

解説10:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判としては、合計10回連載しました。
 その内、緊急増刊『沖縄戦-集団自決』(「Will」2008年8月号)から3回、控訴人の立場から藤岡信勝氏らの主張を紹介しました。
 残りの7回は、大阪高等裁判所の裁判記録を要約して来ました。
 裁判所のPDFをテキスト・ホームページ化するのに2か月を要しました。
 12か月をかけて、やっとここに到達しました。
 次回は、藤岡氏らの主張で感じたことと、裁判記録とを突き合わせて、大江健三郎・岩波書店沖縄裁判を検証したいと思います。

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